第二幕・三十八『君がため -キミガタメ-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――――懐かしい。


 意識が戻ってまず初めに思ったことはそれだった。


 排気の充満した汚れた大気など無くて、どこまでも澄んだ空気が鼻孔を通って肺を満たす。


 柔らかなそよ風がさらさらと草花を揺らす音と、少し低い位置を飛ぶ小鳥のさえずる声。


 そのどれもがついさっきまで肌で感じていたはずなのに、なぜだか途方もなく懐かしく感じた。


 うっすらと瞼を持ち上げると、薄青とした空がミツルを出迎える。


 寝そべるミツルの顔の真横にはウルトラマリンブルーの花。結局この花の名前も聞かずにいた。


 横たわるミツルの真上にそびえ立つ世界樹オルメデスからは、半神リテの姿が見られない。枝葉の間に隠れているのか、それとも呼ばれるまで実体化していないのか。そんなどうでもいい疑問が脳内で浮き彫りになって、ようやく思考が働いてきたのだとミツルはおぼろげに自覚する。


 ――異世界メルヒム。


 この場にいるということは、再転生に成功したと捉えていい。あの時と同じならば身体に損傷も無いはずだ。


 念のため激痛に備えて警戒しながら、ミツルは意を決して慎重に起き上がる。が、やはり身体のどこにも痛みを感じる箇所は無かった。


「……ローリア。シエラ。ペトラ……」


 成功したというのにミツルの表情は暗く、その声もおぼつかない。


 苦渋な顔つきで辺り一帯を見渡してみるが、ミツルが無意識に口ずさんだ少女達はもちろん、セリアの姿もない。いるはずがない。いてはならない。


「絶対、もう一度お前たちに……」


 ――会ってみせる。会って、謝って、詫びとしてどんな願いも聞き入れてやる。


 一人孤独に心で決め、まだ残っている彼女達の感触を確かめるように拳を強く握り締めると、一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


 ―― まだだ。感情を押し殺せ。自分を騙せ。

 過去に来れたということは、アリヤ達と再会できるということ。その嬉しさが舞い戻ってしまえば、感情も必然的に戻ってしまう。戻ってしまうというのはつまり、無のマディラムが使えなくなるということだ。それは避けなければいけない。


「……ああ、そうか。感情が戻っても、無のマディラムは使えるのか」


 感情を抑制しなければと焦っていたミツルはリテの言葉を思い出し一人つぶやく。


 ついさっき言われたことなのに、この短時間での衝撃の濃さにもう忘れていた。その辺やはりミツルは凡人らしい。


 ミツルは深く息を吐いて胸を撫でおろすと、ずっと背負っていた不可視の剣を地面に置く。仰向けに倒れていたために剣に圧迫されたのか、少しばかり背中と腰が痛む。


 前回事故死したときは衝撃で買い物袋を手放し何も持ってくることはできなかったが、今回は肌身離さずしっかりと身につけていたため、なんとか剣を持ってくることができた。


「――リテ、いるか?」


 背中を摩りながら途方もない高さのオルメデスを見上げて名を呼んではみるものの、半神からの返事は一切返ってこない。ここで待ってアリヤと再会し、あわよくばそのままリテにリー・スレイヤード帝国まで転移させてもらおうと思っていたがどうやらそこまで事は上手く運ばないらしい。


 とはいえこの場から離れるわけにもいかない。魚は待たなければ釣れないのだ。そう思ってミツルは早まる鼓動を無理矢理抑えてぐっと耐える。


 なぜだか迫り来る謎の緊張感。

 久しぶりに会えることへの期待きたいか。それとも一度は死んだ人に本当に会えるのかという鬼胎きたいか。


 と、そんなミツルの目端に映る、こちらへ向かって飛んでくるひとつの白い影。


 巨木の前で立つ男に気付いて速度を落とし、頭上で停滞し、ゆっくりとそれは降下してくる。


 ふわりと浮き上がる丈部分に碧い宝玉の施されたスカートとなびく銀色の髪を同時に抑えながら着地した少女。胸元の蒼いネクタイを揺らしながら崩れた体勢を正して、綺麗な双眸をまっすぐミツルに向けてくる。薄い桃色をした潤った健康的な唇を開き、少しの空気を吸い込んでなごやかに語りかけてくる。


「あの、大丈夫ですか?」


 久しく聞いた、透き通るような声。


「どこから来たんですか? えと、言葉はわかる、かな……?」


 ずっと聞きたかった、大切な人の声。


「あ……あ……」


 水を欲しがる魚のようにぱくぱくと口を開閉させ、目の前に立つ白銀の少女をミツルもかっ開いた目でじっくりと見つめ返す。


 ――立っている。喋っている。動いている。呼吸をしている。目がある。――――生きている。


 彼女のすべての情報が一気にミツルの目に飛び込んで、集約したそれらが目尻からあふれ出て頬を濡らす。


「え、え!? どうして泣いちゃうの? 話しかけちゃまずかった……?」


 おろおろと戸惑う姿も可愛らしい少女は、綺麗に整った眉毛を曲げながら続けざまに、


「それか道に迷って、寂しかったとか? こんな広い場所で一人だもんね。私で良かったら何か手伝うから、だから泣かないで?」


 困惑しながら幼子でもあやす様に、優しい彼女はのミツルを気遣いながら柔らかな声で話す。


「ア、リヤ……」


「え?」


「……アリヤ……エルスティッグ……ドールネス……エイリヤージュ……」


 わなわなと震える口で、ゆっくり、ゆっくりと噛みしめるようにミツルは目前で佇む少女の名を呼ぶ。


「どうして、私の名前を……?」


 世界的な有名人でもなんでもないのに何故自分を、それもフルネームで知っているのかと、アリヤはそんな当惑な態度で聞いてくる。


 ミツルは再会の嬉しさとともにアリヤの記憶から自身が消えている哀れさにほのかに苦笑する。否、最初からミツルに関する記憶など無いのだ。


 以前知っていたミツルのことも、このアリヤは微塵たりとも知らない。知らなくて当然なのだ。


 ミツルの本名も、過去も、年齢も、癖も、思想も、使えるマディラムも、悲観的なことも、好きな食べ物も、好みの色も、左利きであることも、ここで出会ったことも、服を選んでもらったことも、学院最強に勝ったことも、同居していたことも、首飾りを買ってあげたことも、旅をしたことも、約束したことも、全部全部。


「…………っ」


 当然のことだ。わかってはいた。覚悟もしていた。だけれどいざ目の前にして言われると、やはりきついものがあった。


「……知ってるわけ、ないよな」


 ミツルがアリヤの名前なんて知っているはずがない。

 アリヤがミツルの記憶を知っているはずがない。


 一言そう呟いて、ミツルはいつぶりかに流した涙を拭い取る。


 ――長かった。

 ここに来るまで、途方もなく遠かった。たくさん犠牲にしてきた。


 段々と無意識にアリヤへ近づけていた身を一旦引き、ミツルは嘆息を吐きながら微笑む。そして覚悟を秘めた顔つきへと改めると、目の前で可愛らしく首を傾げている彼女に言い放つ。


「その目。アリシャの翠眼、使ってみろ」


「この目のことまで、どうして……」


 間違いなく会ったことがないのに自分のことを知り過ぎるミツルに、さしもの清純なアリヤも怪訝そうな表情を浮かべる。しかし目前の男の右の瞳を見て「あっ」と気が付くと、そのまま黙ってミツルの言うことに従う。


 ――この人も、私と同じ目を。


 アリヤを真っ直ぐ見据えるミツルを彼女もまたじっと見返す。


 アリヤの両目とミツルの右目には同一のものがある。エメラルドとはまた違った、独特な色味を持つ鮮やかな深緑の瞳だ。宝石で例えるならばダイオプテーズが最も当てはまるだろう。


 無言の静寂が続き草花の揺れる音だけが聞こえる中、アリヤはミツルの記憶を覗き見る。


 追憶のトンネルの中を進むように、アリヤの周囲にミツルの過去の視点がいくつも映り込む。

 それと同時に、アリヤの心がかつてのミツルの心と結びついていく。


 昔のミツルの経験した言葉が、気持ちがアリヤの中にり組んで、純白な少女の心を黒く染めていく。


 けなされ、蔑まれ、馬鹿にされてきた黒崎光の忖度にまみれた生き様。


 生まれたっての純粋なミツルが世界の醜悪さに蝕まれたように、アリヤの心もまた光を吸収するように漆黒に包まれていく。


 なんの穢れもない真っ白な心を持っていた純情なミツル。

 家の階段から転げ落ちて泣き喚くが、親に気を遣って我慢するミツル。

 さして面白くもない話に同調して笑顔を振り撒くミツル。

 嫌われないよう欺瞞の姿を披露し続けるミツル。

 気を遣い過ぎて疲弊しきったその顔を、誰にも見せず一人そっと仮面を外すミツル。

 失敗を恐れて四六時中仕事について考えるミツル。

 不安に押し潰されるミツル。

 不満を押し込めるミツル。

 恨むミツル。

 憎むミツル。

 悲しむミツル。

 知らない世界に怯えるミツル。

 警戒するミツル。

 疑うミツル。

 大切な存在を見つけたミツル。

 約束をしたミツル。

 大切な人を失ったミツル。

 憔悴しきったミツル。

 冷淡なミツル。

 涙が出なくなったミツル。

 感情を失ったミツル。

 無を得たミツル。

 頓挫するミツル。


 仲間を犠牲にして、苦衷の痛みに悶えるミツル。


 覗き見て、理解して、様々な感情がアリヤの中を駆け巡る。


 あれだけ必死に抗って、これだけ懸命に周囲に合わせてきたのに、その見返りもなくどん底に突き落とされる感覚。人間嫌いにもなるだろうと、アリヤはその優美な顔を悲痛に歪ませる。


 しかしそこで、新たにできた仲間たちとの日常が目に映り、アリヤはミツルと同じくして病みかけていた心から光を取り戻す。


 当初見ていたミツルの漆黒の心が灰色へと薄れ、それが自分アリヤやローリア、シエラとの出会いによって成り立ったものだと気付いて。


 ミツル本人からしてみれば、黒く染められていることがそんなにも悪いことなのかと思うだろう。

『一人一人の個性を尊重せよ』を題目にしている世界から否定されて落ちぶれ、お前達のせいでこんな性格になってしまったのにと、そんな憎悪を秘めた人格すらも否定され、二度社会から否定された男だ。


 悲観的になってしまったのは他でもない人間のせいだ。愚かで、醜く、平和を願うくせに争いをやめない矛盾した動く肉の塊。最も狂気的な生物。


 否定ばかりするくせに、そのうえで頑張れだの諦めるなだの、果ては苦しいのはお前だけじゃないだのと口に出されて、それでいて平然としているほうが異常だ。


 けれども、そんなミツルの記憶を覗いて、体験したアリヤだからこそミツルを分かってあげられる。支えてあげられる。――寄り添ってあげられる。


 世界がミツルの悪い所を見るのなら、私はミツルの良い所を見よう。

 誰もがミツルを嫌うなら、私がミツルをいつまでも愛そう。

 世界がミツルを否定するのなら、そうじゃないよと、私が世界を否定しよう。


 それが時空を超越した一目惚れのする義務だ。


 ――アリヤは、ついさっきミツルに泣くなとお願いしていたくせに、今度は自分が入れ替わったようにその場で固まったまま大きく開いた目から滂沱と涙を流した。


「ミツ、ル……?」


 彼女にミツルと過ごした記憶はない。経験もしていない。今初めて出会った。名前も聞いていない。

 だがその瞳で覗いたからには、経験したも同然の記憶になる。


 アリシャの翠眼とは使用した相手の心と記憶を覗き、その上で思想を理解してくれるもの。たとえそれがどんなに悲観に満ち溢れた冷酷な価値観であれ、優しい彼女でもわかってくれる。


 覗いた相手に嬉しいことがあれば自分のことのように嬉しくなるし、相手が人を殺したなら自分の手で殺めたように感じる。


 だから普段あまり使うことを良しとせず、本当に信じられる相手にしか目のことを言わない。


 しかしミツルの右目にある翠眼はアリヤのものであるはずなのに、どういうわけだか心しか覗くことができない。


 一度ローリアやシエラに使ったことがあるが、心の色は見れても彼女たちの頭の中までは見れなかった。きっと左右の目で見えるものが違うとか、片目だけだと本領を発揮できないだとか、そういったところに原因が隠されているのだろう。


「こんな……、そんな、ことが――……」


 今の一瞬でミツルがこれまで歩んできた灰色の人生をすべて筒抜けにして自分のものにしたアリヤは、込み上げた感情を抑えきれずに溢れる涙とともに声音を上げる。


 これでアリヤ自身の人生だけでなく、ミツルの今までの人生までもが彼女の体験してきたものになった。それはつまり、ミツルが一緒に過ごしてきた未来のアリヤとも結合したに等しい。現在の自分と未来の自分がミツルを経由して結びつき、結果としてミツル以上にミツルのことを理解し、知っていることになった。


 だからこの人がなぜこんな場所にいるか。


 そしてなんのためにこの場所へ来たのか。


 その理由も、アリヤはとうに知っている。


「会いに来た。……君のために。――君を、助けるために」


「ミツルっ!」


 ずるずるといつまでも昔のことを引きずってきて、さすがにアリヤも迷惑しているかと気になっていたミツルだったが、なんの躊躇いもなく抱きついてきたアリヤの温もりを感じた途端それすらどうでもよくなった。


 勢いよく飛びついたことでミツルはバランスを崩し、その場で軽く尻もちをついて座り込む。


 ミツルの背中と後頭部に手を回して、アリヤは強く強くミツルを抱き寄せた。


「おい、アリヤ」


 アリヤに呼びかけ後ろに両手をまわしながらも、ミツルは直前で触れずにぴたりと止める。


 アリヤに会いたい。


 ただその思いだけでここまでやって来た無感情なミツルは、いざアリヤに対面するとどう接していいのか分からなかった。


 抱き締めてくれるアリヤの身体に自分も触れていいのだろうか。

 いくら彼女が自分の記憶を共有したからといっても、今が彼女にとって初対面なのは何も変わらない。

 そんな人に、それも異性に、易々と触れてもいいのだろうか。


「…………」


 身勝手なくせに保身的で、変に思われたくないからと今その瞬間の思いをも我慢しようとしているミツルにアリヤは、


「嬉しいよ、ミツル」


 抱くミツルの耳もとで、そっと囁いた。


「ミツルが一緒にいた未来の私は、そういう気遣い上手で優しいところに惹かれたんだと思うよ」


 ミツルの痩せ我慢に瞬時に気付いて、アリヤはミツルの濡羽色の髪を指でなぞる。


「でもね。優しすぎるんだよ、ミツルは。私のために時間軸まで飛び越えて、ここまで来て、気なんて遣わなくてもいいんだよ。私はさっきまでミツルのことは何も知らなかった。でも、でも今はミツルの全部を知ってるんだよ? 客観的に見てる分、ミツルよりもミツルを知ってる。この世界で誰も君のことを知らなくても、私だけは知ってる。だから私に気遣いなんて見せなくてもいいよ。見せないでよ」


 前のメルヒムでも今のメルヒムでも、やはり変わらずアリヤは優しくミツルを抱擁してくれる。


「私に見せていいのは、見せてほしいのはミツルの本当の姿。惨めでも、弱くても臆病でも、悲観的でもいいじゃん。そんなことで私は幻滅したりしない。私はそんなところも含めて、好きになったんだから。――だから、私に対しては仮面なんて被らないで。私の好きな人を、初めて好きになった私の大切な人を、そんなふうに悪く思わないでよ……」


「アリヤ……」


 アリヤのその言葉で、ミツルは停滞させていた腕を彼女の背中と腰にそっと密着させた。


 手のひらにじわりと伝わってくる、アリヤの鼓動と肌の温かさ。


 ずっと我慢してきたミツルの一番の願い。――彼女を救って抱きしめたい。


 そのちっぽけな願いがようやく叶ったのだ。


 国際恋愛どころか別の世界の住人とこうして繋がれたことの奇跡。しかも正確にはミツルの祖先はメルヒムの人間であるため、一概に異世界人同士とも言えない。


 まるでミツルの先祖が自分の世界に戻ってきたかのような、そんな懐かしさをミツルはアリヤの肌から感じとる。


 本当にどこまでも都合のいい男だと、ミツルは自分で自分を卑下する。


 神も、絆も、平和も奇跡も、あるいは希望も、そういった偽善的で利便的な言葉に対して不倶戴天を胸に生きてきたというのに、自分がその言葉でしか言い表せない状況に陥れば軽々と使う。


 好都合な言葉に好都合な人間が加わったなら、それはもう救いようのない簒奪さんだつ者と呼ぶほかないだろう。


 けれど、アリヤはそれでもミツルを見放さない。

 純情だったから汚された。純潔無垢だから黒く染められた。その成れの果てがミツルだと、彼女はそう慰撫してくれる。


 根が優しいなら誰でもいいというわけでもなくて、何十億という中からミツルに好意を持ってくれた。選んでくれた。たとえそれが、定められた異世界転生だったのだとしても。


 ならばその想いにミツルも応えなくてはなるまい。

 草原の大地の丘で、無数に散らばる星空の下であの日本音をぶつけ合ったではないか。


 アリヤはミツルの記憶を覗き、ミツルもアリヤの気持ちを読んだ。今や相思相愛の関係と呼んでも差しつかえない関係だ。


 救いの手を振り払い、綺麗な言葉に耳を塞ぎ、表面上の笑顔から目をらしてきたミツル。


 上っ面だけの何の根拠もない言葉とそれを駆使して教祖のように振る舞う人々を忌み嫌い、そんなもので世の中が救われるものかと、鼻で笑ってきた。

 見て見ぬふりをしていればいいものを、重箱の隅をつつくようにしてミツルはそれを掘り返し続けてきた。


 嫌ってばかりいるのだから、嫌われるのも当然だ。仕方のないことだ。人を嫌うということは、その人からも嫌われる覚悟をするということなのだから。

 なのに、いつからか傷つかないように過ごすことがこの身の生きる目的となっていた。


 浅ましい一方的で身勝手な考えだ。

 人が嫌いなのに人からは嫌われたくないだなんて、浅ましくて疎ましくておぞましくて、本当に気色の悪い思考回路を持ったものだ。


 ありもしない嫌悪の視線に怯え、形もない勇気で強がってみせ、いつだって他人に非があるのだと自己を騙して、自分は世界に嫌われる存在なのだと、自意識過剰になっては勝手に一人で心を締めつけられる。


 自分は到底許される人間ではないと臆断で決めつけ、己自身にさえ壁をつくられた。そんな反故ほごにされ続けてきたミツルを、アリヤは文字通りすべてを理解して、そしてそのうえで甘やかに受け入れてくれたのだ。


 確かにこれまで、何度か他人から励まされたことはある。優しい人間にも数知れず会ってきた。


 だがしかし、それはあくまで優しいだけ。励まし、慰め、それで終わりだ。心から理解してくれるわけではない。

 ほんの少しの優しさと着飾っただけの言葉で一時の安らぎを与えるというのは、鎮痛剤のそれと何ら変わりがない。


 優しく接するのなんてのは誰にでもできる。


 そうではない。そうじゃないのだ。

 別にミツルは、背中を押してもらいたいわけでも、手を引っ張ってもらいたいわけでもない。

 応援して欲しいわけじゃないし、慰めて欲しいなどとも思わない。


 ミツルはただ、理解されたいのだ。


 理解して欲しい。理解されて欲しい。

 自分の発する言葉が、思考が、理想が誰にも届かないというのは酷く恐いものだ。


 優しく声を掛けて、微笑ましく諭して、こちらの話にひたすらに頷いて、それで理解した気になるのは一体詐欺と何が違うのか。


 だから理解されたいのと同時に、ミツルは理解したいのだ。一辺倒でしかわからないのは、末恐ろしいことだから。


 そう思うのは、強欲で独善的で傲慢で、何物にも勝る愚かなことだろうか。


 いけないことだろうか。臆病で不安でか弱い人間が、そう思い悩むのは。


 会う人、すれ違う人、目が合った人、関係がある人、関係のない人。その全ての人間の気持ちを覗いて知っていたいというのは、不安に生きるミツルのわがままだ。


 この人は俺のことをどう思っているのだろう。あの人は俺を嫌っているだろうか。

 そんな風に常々思考を働かせてばかりいて、もう疲れたから。


 だから知って、理解して、そして案じていたいのだ。


 思い悩んで追い求めて、所詮は理想論だと現実に嘲笑われて。そんな中出会ったのがアリヤなのだ。


 まだ、彼女しかいないけれど。

 世界中の人の心内を知っていたいなんておこがましい話だろうけど。


「他人が自分のことをどう思ってるのかなんて、みんなにだって分からない。誰だって、人の気持ちを覗けたらって思うよ。――でもさ、人の気持ちを覗いてその人の求める人格なんかに合わせても、それは本当の自分を見せてることにはなり得ないよ」


 ミツルのそんな心情すらも汲み取って、アリヤはミツルの内心の言葉にもきちんと返す。


 周りの者達が口にしてきた仲間や絆なんかは、所詮紛い物だとミツルは思っていた。


 だが本当に間違っていたのはミツルだった。


 嘘も欺瞞も不満も気遣いも一切ない、そんな純粋な関係を望んできたミツル当人が、本性を隠して人々に接してきていた。


 仲間が欲しいと願っていながら仮面を被り、遠慮のない関係を望んでいながら配慮ばかりしていた。


 嫌われたくないから、離れていってほしくないからと、無理に笑って無理に共感して、いかに相手に自分を悟られないかばかりを考えていた。


 こんな醜い考えを持った自分を曝け出すのが、恐かったから。


 皮肉な話だ。虚構のうわべだけの関係を一番忌み嫌っていたはずのミツル自らが距離をとって、その関係を作り上げていたのだから。


「怒られないように、悲しまれないように、失望されないようにどれだけ気遣っても、合わない人には合わないよ。どれだけ良い人でも嫌う人は嫌う。それこそ偽善だとか、何かと理由を付けて。万人に好かれる人は、それだけ嫌う人も比例して多くなるもの。私のことが嫌いな人もいると思うよ。確かにそれは辛いし痛いし哀しいけど、その分自分を好いてくれる人も絶対にいるから」


 そう言ってアリヤは抱いていたミツルの肩をきゅっ、と握り締める。


 ミツルのように会う人会う人に嫌われないようにするなんてのは、たとえミツルが聖人であっても難しい話だろう。


 どれほど有名な人物でも、どれだけ周囲に愛される人間でも、必ず、絶対に良く思わない者はいる。

 ミツルは当然そんなことは百も承知だ。言ってしまえば、ミツルはただ関わる人に自分の短所を見せたくないだけなのだ。


 あまりにも出来の悪い人間だから、できるだけ己の恥を漏洩したくないと。


 口を開けば口下手で相手に上手く伝えられないし、仕事で些細なミスをしただけでもいかに叱られないように徹するか、相手の気持ちを忖度して言い訳ばかり。


 媚びへつらって、顔色をうかがって、気を利かせて、だからその代わりに優しくしてくれと、ミツルは知らず知らずのうちにそう願い続けてきた。


 しかしそれは逆に言えば、ミツルの気遣いとはであると言える。そんなよこしまな気持ちで接しているのだから、快く思われないのも当然と言えば当然だ。


「実際私は目の前にいるし、何ならこうして今抱きしめてるよ。好きなんだもん」


 囁くような薄い声で、けれどはっきりと聞こえる天使の羽毛のような声色でアリヤは続けざまに語り掛ける。


「だから心が痛いときは、こうして好きな人にかまってもらえばいい。自分のことが嫌いな人なんかに悩む暇があるなら、私はこうしてこれからもミツルに甘えるよ。ミツルも私に甘えていいんだから」


「…………」


「人に頼り過ぎとか求め過ぎとか、そういった遠慮に満ちた言葉を全部消し去ってあげるのは私の役目。そして逆に、私が辛い時にそばにいてくれるのがミツルの役目。そこに言葉とか行動なんてものが介入しなくてもいい。ただ黙って大切な人の熱を感じていられる、そんな居心地のいい関係。それでいいじゃん」


 言葉なんていらない。慰めなんて必要ない。

 二人の、二人にしか理解し合えない想いが、ミツルとアリヤの間には確かに存在すると。


「お互いの傷を舐め合ってさ。そんなの綺麗事だ、現実を見ろって言う人がいるなら、私達で見せつけようよ。そんな言葉も、黙らせられるくらいの関係を」


「その相手、本当に俺でいいのか――……?」


「ミツルがいいんだよ。ミツルじゃなきゃ嫌だ。ミツル以外には考えられないよ」


 アリシャの翠眼で覗かせて、その思考を自身の中のアリヤと結合させてしまった申し訳なさにミツルは悶々としていた。彼女の優しさに漬け込んで、彼女の優しさを逆手にとって洗脳まがいのことをしでかしてしまったのではないかと。しかし、


「私のこの気持ちは本物だよ。ミツルのためを思って言ってるのでも、ましてやミツルの頭の中を覗けたからって、あわれんで慈悲で言ってるのでもない」


 長い間、対極的な白い少女と黒い青年が互いの熱を感じてその身を預けていると、やがてそっと名残惜しむようにしてアリヤのほうから身を離す。


 抱かれていた間アリヤの顔を見れないでいたミツルは、衝動に駆られ即座に彼女の表情をうかがう。


「ミツルの全部を知れたのは嬉しいし、こうして二度も私を求めてくれたのも嬉しい。確かにこの気持ちはアリシャの翠眼で覗かなきゃ芽生えなかったものではあるけど、たとえこの目がなくても私は、ミツルとこれから過ごしていく日々の中で、また別の形をした思いで君を好きになっていたと思うよ」


 出会い方が違っていても、アリシャの翠眼が無かったとしても、出会えてさえいればミツルとアリヤは互いに惹かれ合っていただろう。この、どこか懐かしく感じる想いが身の内にあり続けるのなら。


「なら……、だったら、誰かが俺を嫌っても馬鹿にしても、『それがどうした。俺にはアリヤがついてる』って、そう考えるようにするよ」


「それ、嬉しいな。私もそう思うようにしよっかな」


 両手でミツルの頬を持ち上げるように包むと、アリヤは蕩けるような柔い笑みをその美麗な顔に浮かべる。

 熟れた実のように頬を赤らめて、陽が射さした翠銅鉱のようにその瞳を輝かせて、アリヤは「そうだ」と小声で呟きながら青い花と同じ色をしたネクタイを揺らして立ち上がる。


「自己紹介、しなきゃね」


「今さら?」


 アリヤを真似てミツルも立ち、彼女の不意な言葉に率直な疑問を投げるミツル。だがアリヤはそんなミツルに対して柔らかな笑顔をひとつ作ってみせると、


「今だから、だよ」


 そう言って両手を後ろ手に組んでミツルから一歩遠ざかる。


 改まったように初々しい面相を見せ、嬉し涙を目に溜めながらもにっ、と破顔して銀髪の少女は口を動かす。


「はじめまして。アリヤ・エルスティッグ・ドールネス・エイリヤージュです。――――おかえり、ミツル」


 まっすぐ、邪心無く、純粋にありのままの姿勢で見据えるアリヤ。ミツルは空気を読んでほのかに苦笑すると、


「ああ。ただいま、アリヤ」


 そう言ってミツルもアリヤを見つめ返した。


 この笑顔のために、一体どれだけ苦労しただろう。


 目の裏にローリアとシエラ、そしてぺトラスフィルの顔が燦然と浮かび上がる。


 今となってはもう二度と会うことのできない人達。


 この世界にはいる。何一つ変わらず、健康的で元気な彼女達が。


 けれどいない。容姿が同じでも、人格が変わらなくても、細胞すら違わなくても、それでもミツルが一緒に日々を過ごした少女達はもういないのだ。


 その苦しみをミツルはこれから一生背負っていく。

 苦しみ、苦しんで、今頃どうしているのだろうかと意味もなく考え続けていかなければならない。


 その瞳で覗いたアリヤも同じ気持ちだろう。だからこそアリヤは、愛すべきミツルとこれから一生をかけて共に背負っていく心積もりだ。


「記憶はあっても、まだ私にはミツルと過ごしたっていう事実はない。だから、これからだよ。これからいっぱい、沢山の思い出を作っていこうね」


「そう、だな」


 記憶を覗いて見た、ミツルが共に過ごした未来の自分なんかよりもずっと、もっとミツルを大切に想ってみせると、アリヤは密かにミツルの中にある自分に対抗心を燃やして胸に誓う。


 ――二人微笑ましく広大な草原で約束し、ミツルは地面に置いていた剣を拾い上げる。剣を背中に背負うとアリヤが右手を差し伸べてきた。


 意図を汲んでミツルがアリヤの手に自分の手を重ねるも、一瞬の硬直のあと彼女が「あっ」と苦笑いする。


「……そっか。ミツル、マディラムが伝わらないんだよね」


 アリヤのその言葉を聞いたミツルもまた、口を少し開いてそうだった、と思い出す。


「歩くしか、ないよな……」


 手を繋いだまま、ミツルは初めて無のマディラムの不自由さに忌々しく思う。

 コートも着用していないから自分で飛ぶこともかなわない。とするならば、


「アリヤ一人なら飛べるし、先に行っといてくれるか。俺はのんびり一人旅と洒落込んどくよ」


 世界樹オルメデスからリー・スレイヤード帝国までは飛行しても約二時間、徒歩だとさらにその倍近くはかかる。オルメデスの近辺には、最低でもそのくらいの距離をあけなければ建国することは許されないのだ。それはトルマキヤ公国や他の周辺諸国も例外ではない。


「私に気は遣わなくていいって言ったばかりでしょ。私も歩くよ」


「でもあの距離はさすがに……」


 ミツルは一般的に比べると歩くスピードが速いほうだからまだいいが、アリヤは違う。肉体的にも精神的にも大きく疲弊することだろう。それを踏まえてミツルは一度は拒絶するものの、


「いいの。私はミツルと一緒にいたいんだから」


「…………」


 彼女の時折見せる根気強さと目の奥に宿るミツルへの信頼の深さに、ついにミツルも言葉を詰まらせる。


「さ、行こっ!」


 アリヤを心配しての言葉を模索している最中にも、彼女はさっさと歩き始めてしまう。仕方なく諦めてミツルも肩を並べて歩き出すと、二人の背中をそっと押すようにして軟風が凪いだ。



 あとに残るのは、永遠に等しい間その場で立ち続けている世界樹オルメデスと、上方からぽつりと降ってきた二滴の雫、それだけだった――。



 〜 〜 〜 〜 〜

 これにて第二幕終了となります。ここまで読んでくださった方はありがとうございます!

 また会えた人と、もう会えない人。その葛藤を胸にミツルの物語はまだ続きますので、第三幕からも、どうぞ宜しくお願いします!

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