第二幕・三十七『かえがえしかない命 -カケガエシカナイイノチ-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――二度目の渦巻く気持ちの悪い感覚の中で、別れた少女達に紛れて懐かしさすら感じる彼女の顔が燦然と思い浮かぶ。


 誰かのために行動に出るなんて、かつての自分が聞いたらどう思うだろうか。


 しかもこれから行うのは、昔の自分の頭に常によぎっていたのとは違う意味での自殺だ。

 昔はこんな世界から早々におさらばしたい、楽になりたいと思って願っていた自殺願望。けれどもいざ死を前にすると足がすくんで、結局今の今まで先延ばしにしてきた口先だけの自殺願望。


 それが今ではどうか。自分のためではなく他人のために己を殺すだなんて。


 人類など滅べばいいと散々言ってきたこの口で「大切な存在」だなんて口走って、穢され尽くしたこの腕で少女達の身体を抱き締めさえした。


 甘くなったのか、それとも甘えていたのか。あるいはその両方か。


 個のために多を犠牲にする。まったく酷い人間だ。

 酷くて、愚かで、惨めで、最低だ。自己中心的でずちなしの、救いようのない大馬鹿者だ。人間失格だ。


 だからこそ、もう戻れはしない。戻ってはならない。別れを告げたあの場所に戻ることは、彼女達の想いを踏みにじる行為そのものに当たるから。


 次はもう無い。――全てを彼処あそこへ置いてきたから。

 失態は許されない。――失敗ばかりしてきたから。

 死ぬ気で勝ち取れ。――でなければ想いに応えられない。


 彼女達のために。君のために。



「――っ、不快だな。この重力の反転したような感覚」


 大きめの一歩を踏み出して、ミツルは脳内の血が逆流するような不快の波間に頭を抱えながら早急に光の柱から飛び出す。


 耳鳴りがガンガン鳴り響く。こめかみがズキズキと脈を打つ。胃液がこみ上げ嘔吐えずきそうになるのを唾を飲んで無理矢理に喉奥に押し戻し、深呼吸をしてこわばった身体を落ち着かせる。


「くっ、そ……、気持ちわりい。ついてくるこの吐き気はどうにかならないのかよ……」


 狛犬の像のひとつに寄りかかり、口の中から溢れ出るあぶく涎を袖で拭う。


 いっそ吐いてしまったほうが楽なのだろうが、これからのだ。この程度で音を上げていてはこの先思いやられる。


 背中をつつっ、と流れる冷汗の嫌な感覚から意識を逸らして、ミツルは周囲を見渡してみる。

 到着したのは一度目とまったく同じ場所だ。過去の自分を殺す時間を考えると、さっきのように呑気に考えている余裕はない。


 そうとなれば善は急げ、だ。もっとも、この場合善は良いことという意味ではないが。


 全速力で走るミツルは、先ほどとは打って変わって途中のとある細い裏路地へと曲がり入っていく。


 警察のいる近くで殺すわけにもいくまい。そう考えたミツルは近道をしてより早く過去の自分のもとへと向かう。


 一度目と比較して、おそらく今は買い物を終えて薄暗い道を一人で歩いている頃だろう。曖昧な記憶ではあるが、少なくともあのとき周囲に人はいなかったはずだ。


 ――彼女アリヤに会いたい。彼女ローリアに会いたい。彼女シエラに会いたい。彼女ぺトラに会いたい。


 その思いだけを一心に、ミツルは疼痛に塗りたくられた頭を苦し紛れに叩きながら路地裏を抜けて標的を目指す。

 もともと体力面に自信のなかったミツルだが、幸いにも悪党狩りに明け暮れていた頃に鍛えられたおかげで随分と余裕がついていた。


 息を切らしながらもひた走っていると、やがて既視感のある道に辿り着く。


 ユスリカが群がる、一定の間隔をあけて設置された小汚い街灯。その直線の道路の向こう側から、ひとつの動く影と何かが転がる音が聞こえてくる。


 影より一足先に転がってきたのは、どこにでもあるような角張った灰色の小さめの石だった。


 石ころを蹴りながら帰るなんて幼稚だったな、なんて思いながら、ミツルは背中に手を伸ばし、不可視の柄を握った。


 音を立てないようゆっくりと鞘から引き抜き、試しに反対の親指に刃を当ててなぞってみる。鋭い痛みを残して親指の腹に一本短い線が引かれると、線の隙間からじわりと、丸く紅い血が実った。


 斬れ味を確認したミツルは一人頷くと、近付いてきた自身とまったく同じ容姿をした人物目掛けて、地面を蹴って突撃した。


 コートの加護も指輪の力もないミツルの突進はメルヒムにいた頃に比べると目に見えて遅かったが、それでも殺伐とした環境で培われた体はこの世界の常人よりは数段上だ。少なくとも昔の自分よりは強い、はずだ。


「――っ!?」


 が、前に突き出していたはずの刃は何も刺すことなく、ミツルはすれ違ったその人間の背後で立ち尽くした。


(……け、られた?)


 剣先は確実に軌道を逸らすこともなく目的の空間を貫いた。ミツル自身躊躇った可能性も断じて無い。


 なのに標的の内蔵を刺し壊せなかったということは、標的そのものが避けた以外に見当はつかないだろう。


 そこまでの考えに至るまで一秒と少し。そしてその憶測が正しいかを確認するために、ミツルは後ろへと振り向いた。


「――狙う相手は慎重に選べよ。常に疑心にまみれてる奴もいる、ってな」


 さすが細胞レベルまで同じ人間だからか、振り向くミツルと合わせるように、街灯下に立つも口を開きながらゆっくりこちらへと体を向ける。


 かつて鏡でうんざりするほど見てきたそのどす黒いまなこは、ミツルの右目に宿るアリシャの翠眼と相対するように光がなく曇っている。だがこの世のすべてを見限る瞳とは裏腹に、その表情はミツルを見た途端、驚懼に満ちていた。


 当然の反応だ。何の前触れもなしに、夜道でいきなり自分と瓜二つな人間に殺されかけたのだから。


 しかし過去は過去でも、こいつは同じ思考を持った人間だ。常日頃から猜疑心が強く、すべての物事に対して警戒を怠らない奴だ。だから今の攻撃も避けられた。


「なんだ、お前」


『誰だ』ではなく『なんだ』。

 目を疑うこともなく冷静に自分自身だと理解して誰とは言わなかったが、その次、なぜ自分がもう一人いるのかという疑問に思わず口をついて出た言葉だろうと思った。


 自分に話しかけられる気味の悪い感覚にミツルは仄かに顔を歪める。それから灯りに照らされている過去の自分に対面すると、空間をわずかに揺れ動かす無色の剣先をそいつへと向け直した。


 ――避けられはしたが、こいつは俺自身だ。

 悲観し過ぎなその視界も、警戒に警戒を重ねるその思考も、かつて俺自身が経験し、そして今現在も抜け出せないでいる泥沼だ。


 ――なら。

 ――同等な思想を持つ俺なら、予測できるはずだ。


「過去か、それとも未来から来たとでも言うつもりか? 俺を殺す必要があるってか」


「……盲信的だな」


 現実主義な部分があるくせに突飛な想像で憶測を立ててくる過去の自分を見返して、我ながら理解力があるのか馬鹿なのか、恥ずかしさでこちらが顔を覆いたくなる。


「そんな話を鵜呑みにするなんて馬鹿げた話だが、こうして今俺の目の前に俺がいるわけだしな」


 所謂、この目で見たものしか信じないというやつだろう。普段なら阿呆かと罵倒したいところだが、今は話が早くて助かる。


「そうだよ。俺は俺を殺しにきた。わざわざ時間まで遡ってな」


「身勝手で一方的な判断だな。俺を巻き込むなよ」


 不覚にも俺の声はこんなだったのか、なんて思いながら、過去の自分の低い声音に耳を澄ませる。


「お前の心にまだ甘えがあったからアリヤが死んだんだ。だからやり直すためにもお前が邪魔だ」


「アリヤ? 知らねえよ。俺が生きてるのは今だ。死んでこんな世界から退場できるのはありがたいけど、納得ができないな」


 時間が無いのに、と内心少し焦りながらも、ここで失敗すれば今度こそ終わりだと自分に言い聞かせて冷静を装う。


「どちらにせよお前は数分後に車に轢かれて死ぬんだ。早いも遅いもないだろ」


「なら逆に今じゃなくてもいいんじゃないのか? ……焦りが丸裸になってるぞ、お前」


「……っ」


 ふっ、と小馬鹿にしたような笑みを浮かべられて、ミツルは目の前の不貞腐れた自分を見て殺意を抱く。


「言ったろ。やり直すのにお前が邪魔だって。轢き殺されるべきはお前じゃなく俺だ。黙ってさっさと殺されろ」


「へえ……。ってことはお前、死ぬつもりなのか」


 自分のことでもあるというのに、過去のみつるは至って平然とした態度で呟き、ミツルもまたそれに「ああ」と頷く。


「『全人類は滅べ』なんざほざいてたお前が変われるほどの人だ。アリヤだけじゃない。ほかにも仲間と呼べる存在ができたんだ。この俺にだぞ」


 どん、と胸に拳を当てて、ミツルはみつるに必死さを懸命になって伝える。


「過去の俺が知ったら『甘えんな』って激怒すると思ってた。けど、それでもやっとの思いで出会えた奴らなんだよ。本当に信じられないくらい信じられる存在なんだ。頼む。理想を追い求めたお前ならわかるだろ」


「…………」


 これが終わったらもっとあいつらに対して素直になってやらないとなと思いながら、ミツルは頑固なかつての自分を困惑しながらも眼力鋭くまっすぐ見つめる。


 先人達が築き上げてきたこの世界に名前を付けるとするならば、それは妥協の世界と呼ぶに相応しかろう。


 完全なる理想など実在しないからこそ、心の奥で半ば諦めながら生き続けていくことに誰しもが妥協しているはずだ。物を買うにしても。何事においても。


 挙式で永遠の愛を誓っていながら離婚してしまうのだって、結局は心の底から愛せる相手ではないからだ。

 老後のことも視野に入れれば、皮肉にもこの世界は一人で生きていくことはできない。なればこそ半生を共にする人が必ずいる。けれど、残りの自分の人生を預けてもいいと心の底から思える相手などそういないだろう。


 中には当然見つけられた人間もいる。だけれど理想的な人を見つけられない者のほうが圧倒的に多い。


 だから妥協するしかない。

 時間は有限だ。ゆっくりじっくり探していれば歳もとる。そうなる前に妥協して、隷属して、失敗する。

 そんな人間をどれだけ見てきたことか。


 妥協に妥協を重ねて、周りと同じような人生を歩んでいくのに一体何の意味があるのか。


 そんなことを考えてしまえば、もう妥協なんて許せなくなってしまう。

 理想を追い求め、見つけられず、そのまま孤独に過ぎて行く。そんな体現者が今目の前にいる過去の自分だ。


 ――しばらくの間、見つめる先で考える素振りを見せる過去の自分。未来の自分を救うために命日となることを躊躇わない人間などそういないだろう。


 だが、しかし。


 自分のことは自分が一番よく知っている。

 こいつがどう言えば折れるのか。俺がどう言われれば折れてしまうのか。


「――……そのアリヤって奴に、会ってみたい気持ちはある。この俺にそこまで言わせたってんなら、そいつは相当なんだろう」


 過去のみつるはそう言うと、アスファルトの地面を見ていた視線を上げ、未来になるはずだった自分の顔を見つめ返す。見つめたまましばらく考えるような表情を見せ、やがて、


「俺はこんな腐った世界から消えたい。お前は俺を殺したい。――――なら」


 そこまで言って言葉を切ると、極度のネガティヴ思考の持ち主、黒崎 光は大きく息を吸い込んだ。そして、そこから先を安易に予測できたミツルもまた同じように口を開くと、


「「交渉成立だな」」


 一音のずれもなく、同時に重ねた声で言い放った。


 楽になれる嬉しさと憂愁に溢れた感情に眉を寄せながら、目前に立つ過去のみつるは街灯に照らされる中で無表情のまま中指を立てる。一方ミツルは自信ありげに腰に手をやり、お前は俺だぞとでも言いたげな表情で不敵な笑みを浮かべた。


「その代わり、一撃で絶命させろよ。お前が俺なら、悶え苦しんで死ぬのが嫌なくらい理解できるだろ」


 態度では虚勢を張っているが、暗がりの中でもこれから死ぬ運命にあることを恐れているのがひしひしと伝わってきた。


 思えば自分の時は車にねられて死んだだけだし、差し迫る死も体感ではほんの一瞬だった。


 けれどこいつの場合、あらかじめ殺されるのが分かっている上に、目の前に立つ殺人犯の正体が己自身と来たものだ。未来から自分を殺すためにやって来たなんてのは映画の世界での話。恐怖心も抱くだろう。


 それに何より、ミツルの目の前で佇むのは初期のみつるだ。慈心を捨て、甘えを捨て、妥協を捨て、弱者らしい恐怖心すら握り潰した頑丈な今のミツルとはわけが違う。身体も震えて当然だ。虚勢を張るだけまだ頑張っているほうだろう。アリシャの翠眼など使わずとも、自分の弱々しい部分くらいわかる。


「ああ。これでも異世界で鍛えてある。確実に殺してやるから安心しろ」


 言って、ミツルは彼と自分にしか見えない剣を構えて近付いていく。


 片手にさげていたレジ袋を地面にそっと置き、死の準備に備える過去の自分。そうして狙いやすいよう直立して、自分自身にまで気遣いを見せる過去の自分。


「俺はこうして、誰かに殺されるのを心のどこかで待ってたのかもな。……臆病者だから、自分から命を絶つ度胸が無かった」


「知ってる。俺だからな」


「そのくせして、嫌ってる他人に頼み込んで殺してもらうなんてのも嫌だった」


「それも知ってる。……俺だからな」


 彼我の交わす声はどちらとも同じで、第三者が目を閉じて聞けば、それは自問自答を繰り返す独り言のようでしかなかった。


「死にたい、消えたいなんざ常々思ってたってのに、思うだけで行動に移したことなんてついぞなかった」


「……人一倍、不安や恐怖が強かった。その強さだけは、誰にも負けない自信があった」


 過去のみつるはさらに過去の自分を語り、今のミツルはかつての自分を思い返して、郷愁すら感じるほどの劣等感に苦笑する。


「お前は知らないだろうけど、知れないだろうけど、そんな人としての弱さを、卑怯さを、アリヤは受け止めてくれたんだ。そればかりか、好きだって言ってくれたんだ。あり得るか? 笑えるだろ」


 今だって卑怯だ。アリヤを独占して、過去の自分には渡すまいと、己にすら対抗心を抱いている。


「だから俺はあいつの所へ行く。もう一度、今度こそは守りきってやる」


 過去の自分との距離が残り一メートルをきったところで、ミツルは手に持った剣を構える。


「……これはこれで理想的な死に方かもな。お前が俺なら、どうやってほしいかなんてわざわざ言わなくても分かってくれてる。だろ?」


 両目とも真っ黒なみつるは同じ高さのオッドアイを見据えて呟く。タイミングを見計らえば体がりきむから、不意を突くように殺れと。


 愚かで醜い他人ではなく自分自身に殺されるという悦は、死の恐怖に対して気持ちばかりの安堵を与える。

 ――ミツルはもう一人の、まだその視界に黒灰が降り注いでいるかつての自分の言葉にゆっくり、だがはっきりと頷く。そして降参の合図で両腕をだらりと上げる過去の自分へと、


「じゃあな。みつる


「ああ。楽しめよ、ミツル」


 最後に一言ずつ言い交わして、ミツルは目に映るの首横目掛けて無色の剣を勢いよくいだ。


 柔らかい肉に入り込み、筋を裂き、喉仏を抉り、直後に首の骨を断つ硬い感触が刀身から柄まで伝わる。真ん中を抜けると再び剣先は軽くなり、そのまま勢いに乗せて横に一線引くと、入り込んだ逆側から紅くなった刀身が姿を現した。


 驚くほど綺麗に一文字に分かたれた断面から上が吹き飛び、残った身体の平面となった頂部が溜まっていた血液を噴出させる。

 飛び散った血潮が電柱や民家の壁を朱色に染め、街灯にも付着したことによって灯りは白から紅い光へと変えてゆく。


 勢いよくコンクリートの壁にぶち当たった頭はごつん、と鈍い音を立ててサッカーボールのように跳ね返り地面へと転がる。体液がべったりと付いた髪は乱れ、土埃と涎、そして脂汗で汚れた顔には擦り傷ができていた。


 頭部に浮き出る表情は最期の最後まで信頼に足る人物と会えなかった悲しみから悲痛なまでに眉が垂れ下がり、半開きとなった両の瞳が、じとりとミツルを見上げていた。


 初めて、人を殺した。


 あれだけ色んな人達に暴力を振るってきたのに、無名の死神とまで呼ばれてきたのに、初めて殺した相手が自分自身。


 ――ミツルは透明な刀身に付いた空中に浮いているかのように見える血のりを振り払うと、剣を背中の鞘に戻した。転がる自分の頭に近寄りかがんで、せめてもの情けとしてこれ以上残酷な世界を見続けることのないよう瞼を指で下ろす。


 まじまじと見るのもはばかられる己の無惨な姿を確認したミツルは立ち上がると、人が来ないうちにその場から離れる。


「……これで、第一目標である自分殺しはクリア。次だ」


 再び走り出したミツルは一人呟きながら、第二の目標である《今の自分》が死ぬために次の場所を目指す。


 話し込んだ時間的にも、一度目と比べれば車はまだあの事故現場を通ってはいないはずだ。何も同じ車にこだわる必要はないが、別の車で轢かれて死ねなかったという可能性はできる限り抑えたいところだ。


 何百、数千年という人類の歴史を紐解いてみても、おそらく自分の手で過去の自分を殺したなどというのは前代未聞だろう。


 それを踏まえて感想を述べるなら、過去の自分を殺したからといって、これといった特別な感情を抱くことはない。

 ミツルが感情を捨てたからというのもあるが、何よりも実感があまりないのだ。例えるなら自分の姿を映した鏡を拳で割った、その程度にしか思わない。だから殺した自分の成れの果てをじっくり眺めようなどという関心も湧かない。


 幸いにも返り血は浴びておらず、時折すれ違う通行人から叫ばれることはなかった。ここまでは順調に運べている。問題とするはこの先の巡回中の警察官だ。


 かつて死んだ場所までの道のりは、構造上ほかにルートが無い。つまり必ず警察官のいる道を通らなければならないということだ。直前で走るのをやめ、ごく一般人として、ただの通行人として焦らず平然と通り過ぎなければいけない。


 ――そんな風に考えながら走っているうちに、問題の地点までやって来る。

 ミツルは走行から歩行に切り替えると、荒い息を整えながら慎重になって過ぎて行く。


『ちょっと君!』


 前回呼び止められたそんな言葉を再び投げられるのではないかと危惧しつつ、ミツルは警官に対する敵愾心を胸に押し込めて歩いていく。


 ちらりと横目で見てみれば、数メートル離れたところを見覚えのある若い警察官が闊歩していた。一瞬目が合うものの向きからしてアリシャの翠眼には気が付いておらず、特にミツルへ気をとめることもなくそのまま歩き去っていくのを見ると、ミツルは詰まった息を細く吐き出した。


 どうやら背中に背負っている剣は本当にミツル以外には見えていないらしい。至近距離で見ればあるいは空間の微妙な揺らぎが見られるかもしれないが、こうも警察官とミツルの間が空いていては目視で確認するのは難儀だろう。


 電話越しに怒鳴る主婦も、痴話喧嘩をしているカップルも、道端で酔いつぶれて嘔吐する男も変わっていない。ただひとつ変わっているとすれば、それは警官と取っ組み合う男がいないことだ。


 あの時、買い物帰りの道中、はた迷惑な輩がいたものだと思っていたが、その正体が自分自身だとは思いもしなかった。

 夜で辺りが暗く見づらかったというのもあるだろうが、それを抜きにしても誰として自分と全く同じ人間が目の前にいるだなんてのは想像もできないだろう。


 青信号なのに立ったまま進まないでいるミツルを不審に思いながら、周囲の人間は横断歩道を渡って行く。


 ミツルはその様子を眺め、行き交う自動車を右へ左へ流し見ながら目当ての車を待つ。


 と、一台の近付いてくる車にミツルは視線を固定する。


「……来たな」


 さすがに三度も見ればナンバーも覚える。車種も色も同じ。間違いなくあの車だ。

 運転手には何ら恨みは無いが、一方的な顔見知りとなってしまった以上こいつを選ぶしかあるまい。


 ――今回はパンクする要素が無い。ということは運転手もなに慌てることなく信号で止まるはずだ。その証拠に気の抜けた運転手は空欠伸をしている。だから信号よりも手前で飛び出さなければならない。


 ミツルは目視で残りの距離を計算し、車が減速するより手前まで、向かい合うように脇の歩道を突っ走る。

 ある程度まで近付き、これほど近ければ減速しても手遅れだろう距離に双方が到達すると、ミツルは白塗りのガードレールを軽快に飛び越えて車道に身を投げた。


 高速で動く重厚な鉄の塊は、急には止まれない。それを身をもってミツルが周囲に知らせる。


「――――ぐぅッ!!」


 車道に飛び出して一秒未満の刹那、ミツルの呻きとともに左腕全体が意志を持った壁に潰されるかのような重みに押しやられる。直後に運動エネルギーは左腕から脇腹に伝わり、衝撃で首がゴキリと激しい音を立ててくの字に勢いよくへし曲がった。同時に人生最大の舌噛みもする。


 左肘が肋骨と肺を叩いてめきめきと不快な音が体内で響き、頭蓋骨の壁にぶち当たった脳が振動する。ぱちりと視界が弾け、左半身から右半身へ分散することなく重い衝撃が抜けると、通っていった人体の様々な箇所に悲鳴を上げさせていった。


 ――やった。


 だがそんな激痛の連鎖とは似合わず、空中を舞うミツルの口元には苦し紛れな笑みが浮き出ていた。


 十から二十メートルの距離をミツルの身体は車の前面に密着し続け、そこをさかいに急ブレーキを踏まれ、数メートル先まで弾き飛ばされたミツルの身体は放物線を描いて地面に激突。さらに凄まじい慣性で五、六メートルほど転がったところでミツルは仰向けになって横たわった。


 ――これも全てはアリヤのために。


 彼女の声が聞きたい。笑顔が見たい。目を合わせていたい。隣に並んでいたい。手を繋いでいたい。髪を撫でていたい。触れていたい。触れられていたい。一緒にいたい。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 その単語だけで脳が構築されているのかと思うくらいの、あらゆる痛み。


 減速していなかった分、前回よりも遥かに重症だ。

 なのにどういうわけか、この口は上がっている。


 ――やり遂げた。


 マゾヒストも仰天の狂気的なその微笑。それは死神が迎えに来るほどのこんな痛覚さえも上回る、喜びから来ているものだった。


 ――死ねる。


 かつてこれほど自分の死を喜んだ人間がいただろうか。

 死とは生物において最恐の概念。なるべく長生きしたいと思うのが常並みだ。けれどこの男は違った。


 視界かそれとも脳内か、ぐるぐると世界が回り続けている。


 翌日には怪奇事件として世間に広まることだろう。

 ここから少し離れた場所で、まったく同じなりをした人間が首をはねられて死んでいるのだから。


 繊維を調べても、指紋を調べても、靴跡を調べても、警察犬を使っても、犯人を見つけることはできない。首を切り落としたのは自分自身なのだから。


 ――暑い。いや、寒い?


 そんな内側から掻き毟りたくなるような感覚が、胸や足を蝕んでいく。


 人はなぜ死にそうになると吐き気と同時に寒気を催すのか。薄れた意識の中で思う。


 知っている感覚だが慣れはしない。

 一度目の事故死でも、デキア洞窟で腹に大きな穴をあけられた時も味わった感覚だ。


 身体をさすろうにも手が動かない。

 くすぐったくて熱気を帯びた何かが、額から伝ってくる。


 はりつけにされたように身動きのとれないミツルのもとへ、わらわらと磔刑の見物客が集まってくる。


 上から覗き込むように自分を囲う関心に塗れたクソ野郎共をミツルは半目で眺めながら、意識と無意識の狭間を行き来する。


 ――死ぬ。


 もはや人々の顔はぼやけて見えず、遠くで聞こえる声だけが耳に入る。

 死者が最期まで維持している五感は聴覚だと、いつだかどこかでそう聞いた。


 しかしそんな思考も自覚できなくなり、やがて自我も彼方へ消えてゆく。そして、


 ――あ――――、死んだ。


 ぷつりと、テレビの電源を切るようにして、黒崎 光は四度目の死を遂げた。


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