第二幕・三十六『思い悩んで、悩み抜いたから -オモイナヤンデ、ナヤミヌイタカラ-』
そんな微弱な風も少し吹いて停滞すると、真昼間にもかかわらず完全なる無音が広がる。
ミツルの口は僅かに開いたまま、身体ごと石にでもなってしまったように固まっていた。それはシエラも同様だった。
「――なっ」
閑散とした空気に振動を響かせたのは、この中で最も年齢の低いぺトラスフィルだった。
「……ん、だよ……、それ……」
その気持ちはぺトラスフィルだけではなかった。
この場の誰もが、今の今まで気づかなかった。
一番肝心な部分を、誰も気づかないでいた。
あくまでミツルはこの世に一人しか存在しない。そんな分身もできないミツルが過去に行ったとして、当然この現在の世界に残ることなどどう考えても不可能だ。魔法ありきのこの世界であってもあり得ない。
「それってつまり、兄貴には二度と会えないってことだろ……? ……誰か何か言ってくれよ、なあ!?」
今の自分の言葉に首を振ってほしくて、ぺトラスフィルは黙り込む全員の顔を順番に見ながら声を荒らげる。
ミツルの場合、彼女達に会えなくなるということはない。しかし、過去に戻るということは少女達からミツルに関する記憶が消え去る、否、無かったことになるということだ。
対面しても見ず知らずの人としか認識できなくなり、出会う前の、赤の他人に戻る。
濃密に積み重ねてきた出会いも、記憶も、経験も、今までのやり取りの一言一句が、その全てが彼女達の中で無になる。
気難しいミツルを懸命にここまで育み、人間不信だったミツルに「信頼に値する」とまで言わしめた少女達。なのにその事をミツルだけが覚えているというのは、きっと途方もない苦しみだろう。
多世界解釈を真実と
「――出しゃばるな奴隷。その通りだが、それを選択するのはお前ではない」
黙する皆に代わって、こうなる事も当然として予想していたリテはぺトラスフィルに鋭く言いながら、ミツルへと顔を向ける。
リテの視線に誘導されるように、ローリア、シエラ、ぺトラスフィル、セリアの目線も一点、ミツルに注がれる。
「…………」
ここに来て、ここまで来てやめるなどとはとても言えない。
けれど、残された彼女達の想いはどうなる?
ミツルもアリヤもいなくなった世界で、同じ世界なのに決して出会えないなんてのは、一体どれだけ悲しく寂しい事なのか計り知れない。
ミツルだけがいなくなるのならまだいい。元は部外者だ。諦めもつくだろう。
だがローリアとシエラの親友であるアリヤすらいないとなっては、安直に彼女達の前で行くとも言えない。
ミツルがアリヤと関わりを持ってしまったがゆえに彼女を死なせてしまった。それでいて自分だけが過去に戻ってやり直そうとは、あまりにも無責任で身勝手ではないか。
より直球に言うならば、ミツルは彼女達の親友を死なせておきながら何の責任も負わずおめおめ逃げると、つまりはそういうことなのだ。
ならば、ならばミツルはローリアやシエラのために、亡きアリヤの代替品となってこの世界に残るべきなのではないか。
「俺は……」
言葉のピースが見つからず、そこから先が声にならない。
アリヤにもう一度会いたい。
だけれど、信頼を築き深め合ってきたこの娘達とも別れたくない。
今の彼女達と過去の彼女達は別だ。ローリアとシエラが生きているのは今だ。
過去に戻れるミツルは再び親睦を深めれば済む話だが、今を生きる彼女達はそうもいかない。
そんな究極的なジレンマが、ミツルの脳を焼き付くさんと悩ませる。
優柔不断なんていうレベルの話ではない。
この選択は、ミツルの、そして彼女達のこれからの人生を大きく左右する究極の二択だ。
絆や繋がりなんて言葉を足裏で踏み潰してきたミツルが、他人など信用ならないものだと信じ続けてきたミツルが、ローリアとシエラの二人には例外だと言ってあの日信頼の約束を交わした。
この世で一番大切だと言い続けてきたアリヤよりも長く共にしてきた少女達なのだ。
一体どの口で片方を選ぶなどと言えようか?
「――……ぃ」
人生最大の未曾有のジレンマを前にして懊悩に苦しむミツルの耳に、ふと、微かに漏れ出た声が入ってくる。
「…………いっ……」
今度ははっきりと、誰から聞こえたのかミツルにはわかった。続きを待とうと変に身構えるが、ただ、彼女の声はその一音だけで明らかに無理をしていることも伝わってきた。そして、
「……行ってくれ――……ッ」
訥々と、喉を引きつらせながらローリアは今最も言いたくないであろう一言を声に出した。
その証拠に彼女の両の瞳は濡れ、細い吐息は震えていた。
「っ、ローリア!?」
驚き目を張るシエラ。
ミツルもまた、ローリアの悲哀に痛々しく歪める顔を見て仰天する。
「……いい、のか?」
「……いいわけ……」
ミツルの言葉を受け、肩を震わせながら呟くローリアの目にどうにか溜まったままでいた滴がほろりと、それを機に途切れなしに白い肌を伝って濡らしていく。
「いいわけ無いだろうッッ!?」
「――――!」
目尻の水滴を散らしながら、ローリアは
それを見たミツルは、自身の配慮の足らなさに砕く勢いで奥歯を噛み締めた。
――馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ、俺は。
悩んでいたのが、自分だけだとでも思っていたのか。
ミツルを呼び止める申し訳なさも、ミツルを送り出す勇ましさも、そのどちらにも含まれる哀しみがミツル本人よりも深甚としているのなんて、考えるまでもなく分かるだろう。
ミツルが悩んでいる間もローリアは必死な思いで悩乱し、決心し、悩み抜き、最後までミツルのことを思って放った一言。それを「いいのか?」などと、ふざけるのも大概にしろと自分に言いたい。
「せっかく、せっかくここまで仲良くなれたのに、なんだって別れなきゃならないんだ! アリヤだっていないのに! 寂しいに決まってるじゃないか! 嫌に……、嫌に決まってるだろうッ!」
ぐしゃぐしゃに濡らす顔を両手で覆い、ローリアは肩を小刻みに揺らしながらしゃくり上げる。
「言いたくなんてなかったさっ! ――でも、でもッ……、ミツルの元々の一番の願いはアリヤだ。なら、背中を押すしかないだろう……!」
ローリアの堪えきれない姿に、シエラとぺトラスフィルもつられて滴を流す。
ミツルがリー・スレイヤード帝国内で初めて仲良くなれた女の子、ローリア・フェイブリック。
知的好奇心に身をまかせて生きる彼女と長らく共にしてきた中でも、今は最も悲痛に溺れているように見えた。
アリシャの翠眼を通して見れば、ミツルにはローリアが何故これほどまでにミツルを想ってくれているのか察しがつく。
……嘘だ。
アリシャの翠眼をこの身に宿すずっと前から、敏感に気付いてはいたのだ。そんな感情、前の世界では一度として抱かれたことは無いから。
「何勝手に決めてんだよ!? オレはアリヤなんて奴知らねぇんだぞ! 反対だ!」
ぺトラスフィルの
「っ、嫌だッ! あんたが認めてもオレは認めねぇ」
「……いや、いいんだ」
「嫌っつってんだろ!!」
ローリアに泣きつき抗弁するぺトラスフィルに、ローリアは顔に手をあてがったまま掠れた声で返す。
固く決めたローリアの選択は変わらないのか、はたまた変えてはならないと、そうでないと自身の心が持たないと分かっているからなのか、彼女の確固たる選択肢は曲がることはなかった。曲げてしまえば、次はもう言えないと、丸まった彼女の背中がそう語っている気がした。
「兄貴は、兄貴は本当にそれでいいのかよ!?」
ローリアの袖にしがみつきながら、ぺトラスフィルの濡れた顔と言葉はミツルへと向けられる。
この期に及んでローリアに選ばせてしまったミツル。
言いたくなかったろう言葉を言わせてしまったミツル。
ミツルを引っ張ってくれるのは、一歩を踏み出させてくれたのはいつだってローリアだ。
街中での喧嘩に一緒に助けに入ってくれたのも、学院の授業で不安だったミツルを隣で教えてくれたのも、文字の読み書きに付き添ってくれたのも、マディラムの使い方をしごいてくれたのも、洞窟で狂乱したミツルを身をもって盾になり逃してくれたのも、道を外したミツルに手を差し伸べてくれたのも、満身創痍だった身体を癒してくれたのも、そのほとんどが、彼女がいつもいてくれたから成し得たことだ。
これ以上ローリアに負担をかけさせるのは男として名が
惚れられた女に、一度くらい勇猛さを見せつけろ――。
だから言え。
「……俺は」
選べ。
「俺は――」
もう逃げるな。
「――――過去に、戻る」
「…………」
瞬間、ぺトラスフィルは涙を落とすと同時に身体も崩れ落とした。
これまで仕えてきた主達にずっとぞんざいに扱われ、ミツルと出会ったことでやっと生きる意味を見出せた小さな女の子、ぺトラスフィル。
ミツルは何もしていないと言い張っていたが、ぺトラスフィルからしてみれば人生を大きく変えてもらったに等しい。
食べ物は好きなものを何でも選ばせてもらえるようになり、服は布切れからちゃんとした衣類に、寝床は極寒の地下水路から柔らかいベッドへと変わった。あれだけ鬱陶しかった四肢を束縛していた枷からも解放された。
未だ恩返しのひとつも出来ていないのに、去られてはまた生きる意味を失ってしまう。
けれど、この人に従うと決めたのはぺトラスフィル自身だ。自由の身となったからには友になることだってできたのに、そんな対等な関係ではなく、主従としての関係を選んだ。ならば仕える身とあっては主の言うことは絶対。ミツルが行くと言うならそれに従うしかない。
――腰を落とし、目から輝きを失ったぺトラスフィル。
そんなぺトラスフィルに寄り添い髪を撫で、シエラは涙をこぼしながらも無言で懸命に微笑んでみせる。
むせび泣くローリアは感情を堪えようとはしていたが、抑えきれないのか震える唇の隙間から声が漏れ出ていた。
しばらくの間、ローリアの嗚咽だけが周囲に聞こえる。セリアとリテは黙ったまま、ただその光景を眺めていた。
「――なあ、ローリア」
まだ喉に声を引いてすすり上げているローリアに、ミツルは優しくそっと語りかける。
ローリアは黙ったままだが聞こえてはいるようで、濡れた顔を少しだけ上げてミツルを上目遣いで見る。
ミツルは涙で揺れ動くローリアの瞳を見返しながら、
「前から、お前にしたいことがあったんだ」
「……?」
そう言うと、ミツルは涙とともに疑問を目に浮かべる蒼髪の少女をぎゅっと抱き寄せた。
「――っ、……!?」
訳の分からなさと照れくささに、ローリアは喉を高く鳴らしながら目を白黒させる。しかし嫌がる素振りは見えない。
抱き締めたまま、ミツルは彼女と初めて出会った時から今までの分の思いを、感謝を言葉に乗せて放つ。
「ずっと……、ずっと、お前に礼が言いたかったんだ」
「れ……い?」
声を震わせながらも、ローリアは涙声で小さく聞き返す。ミツルはそれに「ああ」と相槌を打ち、続けて、
「ローリアには、初めて会った時から助けられてばっかりだった。――ほら、覚えてるか? 街中で、獣人と剣士が喧嘩してた日のこと」
「……うん……」
優しく、柔らかに、しかし依然とした無機質な感情の無い声色で話すミツルの胸にローリアは顔を
「あの日も、お前は困ってた俺を手伝ってくれたよな。こんな暗くて惨めな俺をさ」
「違う……、ミツルは、惨めなんかじゃないよ……」
顔を埋めながら喋るローリアの声は
「ボクの知ってるミツルはいつも落ち着いてて、それで、気遣いも上手だ。とても優しい人間だよ……」
自分ではわからないミツルの長所をローリアは「それから、それから」と途絶えさせないように言おうとするが、必死に探して泳ぐ目からぼろぼろと涙が溢れだすことによって彼女の思惑通りにはいかず、喉が引きつってせき止められる。ローリアはそんな自分に苛立ちすらおぼえて、持っていたミツルのコートをぎゅっと握り締める。
「――前にローリア、言ってたよな。『誰かを痛めつける強さじゃなく、誰かを守れる強さを身につけろ』って」
「……ん」
胸に当たるローリアの頭が、こくりと一度だけ頷いたのをミツルは肌で感じとる。
「その言葉、大事にするから。過去に戻ったら、俺はお前達を守れるように頑張るよ」
「……ッ、……うん……」
ミツルの胸元にローリアの純粋な涙が染み渡り、温もりを持ったまま広がっていく。
「その服、貰ってくれるか? もうボロくて汚いけど、気に入ってたやつだからさ」
ミツルはそう言ってローリアがずっと抱いたままでいる黒革のコートを一瞥する。
アリヤが選んでくれた大切な服だが、これが原因で警官に呼び止められた。置いていくしかないのなら、ミツルを好いてくれているローリアにあげてしまったほうがこいつも有意義だろう。
「それと、俺の本当の名前、まだ教えてなかったよな」
ミツルは長く密着していたローリアから一度そっと身を離すと、その後ろで放心しているぺトラスフィル、それを支えるシエラにも目を配る。
全員がミツルを見つめる中で、
「俺の本名は――――黒崎 光だ」
「クロサキ……ミツル?」
聞き間違いをしていないか小さな声で復唱するシエラに、ミツルは「ああ、そうだ」と頷き返す。
「クロサキ、クロサキ……」
ミツルの目前で立つローリアはミツルから顔をずらすと、下を向いて何度も何度も連呼する。それから再びミツルに目と鼻を赤らめた顔を向けると、
「……うん、覚えた。絶対に忘れない。……忘れるもんか。――ずっと、ずっとずっと……っ!」
哀しみと教えてくれた嬉しさの両方が対立し、感情が込み上げ、枯らしたはずの涙を再び流しながら今度はローリアのほうからミツルに抱きつく。
ミツルの名前を、体温を、声を、匂いを忘れないよう、ローリアは非力な腕で力いっぱい抱き締める。
もう、二度と会えることはないだろうから。
ミツルもローリアも、まだまだ言いたいことは沢山ある。だけれど言葉にしようとすればするほど、何を言えば相手にこの気持ちが伝わるだろうかと思って表現できなくなる。だから言葉で言うのは諦めて、体の熱で伝えゆく。
「今生の別れだ。手土産に持って行け」
ミツルを感じ続けるローリアをよそに、セリアは言いながら数歩踏み出し持っていた長細い布から中身を取り出す。
ミツルの目に映るのは、真っ白な鞘に納められた一振りの剣だ。
純白の鞘と対称になるように柄は黒く、白と黒以外の色はぱっと見では判別つかない。
「ありがたいけど、せっかく着替えたのにそんなもん持って行ったらまた呼び止められる。気持ちだけでいいよ」
ミツルはローリアの頭を撫でながらそう言って丁重に断るが、セリアはすっ、と剣をさらに前へ突き出す。
「持ってみろ」
何を考えているのかと、ミツルはこの状況で訝しみながら抱きつくローリアの背中越しに両手で剣を受け取る。
「――ッ!?」
ミツルの両手に剣を横にして置かれた瞬間、鞘ごと綺麗に消えていくのをミツルは見た。言い換えれば、透明と化した。だがミツルの両の手には未だ剣の感触も重みもある。
気の利いたローリアはミツルから一旦離れると、一歩退いて驚くミツルの顔を凝視する。
ミツルの手の内に確かにある剣を地面にそっと置いて離すと、たちまち白い鞘と黒い柄の部分が姿を取り戻す。次に指先で触れると剣はまたしても自身を透かし、下にある潰れた草を映し出す。
「やはりな」
「……この剣は?」
一人納得するセリアにミツルは意味もわからず聞き返す。セリアは癖なのか、腕を組みなおすと口を開く。
「ロエスティード学院の大時計の針だ」
言われて、ミツルは地面に置いたままの剣から鞘だけを引き取った。すると中から刀身まで真っ黒の本体が姿を現す。
剣先から柄まで単色の
学院長であるクラウディアスの部屋でセリアが準備をしていたというのはおそらくこれの事なのだろうが、いかんせんミツルが譲り受ける理由が無い。
「――また懐かしいのを出してきたものだ。今や時計の一部にされていたとはな」
「これが何か知ってるのか?」
これまでのやり取りを黙って見守っていたリテは、セリアから手渡された剣を見るとそう言って口を挟んでくる。
この独創的な剣を知ってる風な発言にミツルは聞き返すとリテは平然とした顔で、
「知っているもなにも、お前の先祖が使っていた剣だ。無のマディラム使いが持つと不可視の
そう言ったあとリテはどこか懐かしみを感じさせる表情をした。
八百年も前からそんな代物を鍛造できていたこと、そしてそんな昔からある剣が錆ひとつ、刃こぼれひとつ無くこうして黒い光沢を残していることに素直に驚きを隠せず、ミツルは地面に横たわる漆黒の剣を見つめなおす。
「確かにこれなら持っていても不審には思われないだろうな。でもあっちの世界にはマディラムなんて概念が無い。ちゃんと作用するのか?」
ミスは許されないからこそ、ミツルはリテに聞いて入念に下準備をする。
「無のマディラムはマディラムであってマディラムではない。何せ『無』だからな。場所など選ばんよ」
「なら貰っておく」
言ってミツルが再び剣を鞘に戻し入れると、鞘に付属した黒革のベルトで剣を背中に背負う。
「長引かせ過ぎだ。もういいな。やり方はさっきと同じだ。自分を殺してから死ね。――開くぞ」
「待ってくれ」
「まだか。早くしろ」
ミツルは顔を曇らせ以前の奴隷のように荒んだ目に戻ってしまったぺトラスフィルの前に片膝をつくと、ぺトラスフィルの首に巻かれた真紅のマフラーを一度外して手に持っていた自分の灰色のマフラーをふわりと巻いた。
「これ、やるから元気出せよ。な?」
「ぺトラ。お前は俺と違って心が強い。俺がお前に負けている部分でもある。だから俺がいなくても大丈夫だ」
「――……大丈夫な、もんか。オレはこれから、誰に
慰められているのがわかって、ぺトラスフィルはくしゃりと歪ませた顔を左右に二度三度振る。
「ぺトラはもう奴隷じゃない。この場で誰よりも自由な身だ。俺のことを忘れて生きていくか、それとも忘れず生きていくのか、それもお前の自由だ」
誰かを
しかしそんなミツルだからこそ、醜態の果てに見つけた心置き無く気を休められる存在がいる。
「けど、できれば俺はお前に、ローリアやシエラについて行ってほしい」
悲嘆に暮れるぺトラスフィルの頬に手を添えて、ミツルは言い聞かせるように続ける。
「この二人は俺を何度となく助けてくれた恩人だ。人間不信な俺が自信を持って信じてもいいって言える奴らだ。だからきっと、いや、絶対にぺトラスフィルを立派に成長させてくれる」
「…………」
事ここに至ってなお、最後まで人任せにしてしまう身勝手さ。ローリアとシエラに一方的にプレッシャーをかける愚かしさ。それもぺトラスフィルの将来のためを思えば、優しい彼女たちなら許してくれるだろうと見込んでのこと。
「二人の言うことを聞いてくれ。俺のお前に対する、最後の頼みだ」
「最後……」
その一語に惑わされ、ぺトラスフィルは嫌々ながらも観念する。
「…………ほんと、どうしようもねぇ主人だよな」
「悪いな」
ずるい男だ。最後の頼みなんて言葉を使われてしまえば、頷くしか選択はあるまい。
「わーったよ……」
ぺトラスフィルは濡れた顔を拭うと、空元気に苦笑してみせる。
ミツルはそんなぺトラスフィルに頷くと、隣で寄り添ってくれていたシエラにも目を向ける。
考えるように空を
「シエラにはこれをやるよ。ちょっとでかいかもしれないけど……」
そう言ってミツルは左手の親指につけていた指輪を外すと、シエラの右手をそっと掴んで人差し指に指輪を通した。
空に向けて右手を開いて指輪を見つめるシエラに、ミツルはできるだけ柔らかくした声で話す。
「俺が愛用してた物だ。雷のマディラムの加護が込められてるから、身体強化をしてくれるんだ。シエラもできるだろうけど、体にもの凄い負荷がかかるだろ? それを使えば、いつもより負担がぐっと減ると思う」
言葉尻に「滅多に売られてないから大事にな」と付け加えるミツルに、
「ありがとう、ございます! 大切に、大切にずっと身につけてますから……っ!」
シエラは指輪のはめられた右手をぎゅっと握ると、左の手を被せながら抱くように胸の前へと持っていく。
「俺のいた世界では、通す指にそれぞれ意味が込められているんだ。今通した右手の人差し指は、確か集中力の向上や意志を強くしてくれる、そんな意味があったはずだ」
「意志を、強く……」
覚えたてのミツルの本名と共に忘れないよう、シエラは小さく呟いて頭の中に刻んでいく。
「まあ、それはただの迷信だから、気にせずシエラの好きな場所につけてくれ」
「……いえ、ミツルさんが選んでくれた場所ですから。ここにします。ここがいいです」
水分を多く含んだ目を輝かせながら、シエラはミツルの顔を真っ直ぐに見つめる。
「俺の戦い方は無様だったし、迷惑もかけた。そればかりか、シエラのマディラムを見てその指輪を買おうと思ったくらいだ。だから、ありがとな」
シエラの頭を撫で、ミツルは本心からの感謝を述べる。
初めミツルの戦い方に憧れて関わってきたシエラ・ルレスタだったが、ミツルは知識を持っていただけで、元からミツルよりもシエラのほうがずっと強かったのだ。身体面でも、精神面においても。
――涙を流すシエラを一度抱いてからミツルは立ち上がると、リテのもとへと戻って行く。
「形見分けをしているようで、あまり感心しないな」
「こいつらは俺の大事な仲間だ。これくらいいいだろ」
どこまでも冷静に、合理的に見せるセリアにミツルはぎこちない笑みを浮かべると、その後改まった顔を垣間見せる。
「世話になった」
「……ああ」
ミツルのほうから手を差し伸べ、セリアに別れの握手を求める。
なんだかんだと、セリアはミツルを気にかけてくれていた。
初めて顔を合わせた入学試験のあの日から、セルムッド・クラトスとの決闘、デキア洞窟での出来事、王室での一件と、ミツルが壁にぶち当たった時にはいつもそばで見守ってくれていたのが事実だ。ならば礼のひとつくらい言っておかなければ、師に対して失礼というものだろう。
一通りの挨拶を済ませてもう一度ローリアを見やると、未だ涙を溜めながらも一心に見つめる彼女と目が合った。
「…………」
「…………」
互いに言葉を交わすこともなく無言でしばらく見つめ合うと、ミツルは意を決して、離したくない目線を逸らした。
今のが本当の最後の挨拶だ。もう振り返ってはならない。名残惜しみは別れの最大の敵だと知っているから。
「――――待たせたな」
「もう、いいんだな?」
向き直ったミツルがリテを真っすぐ見据えると、リテは重苦しい声で最終確認をとってくる。
「ああ。やってくれ」
その一言に躊躇いを見せず、涙も流さず、ミツルははっきりとした声で言い放った。せめて、彼女達の瞳に映るこの背中の滲んだ悲しみが、暴かれないように。
再び、天と地を繋げた光の柱が降り立つ。
青い花が上空に飛ばして溜め込んだ光体が、集合して一本になったかのような色合いだ。
もう戻りはしないからと、ミツルは懐から出した時間を知らせる宝玉を、地面に落とした。
「ミツルさん!」
「兄貴っ!」
涙声の混じったシエラとぺトラスフィルに同時に呼ばれて、身体が勝手に後ろを向こうとするのを懸命になって堪える。
――見るな。見てはいけない。見ればきっと、この先後悔し続けるから。
そう思って、背後を見れない代わりに手を挙げて別れの仕草を済ませる。
そして一歩、また一歩と踏み出すと、ミツルは螺旋の光へと消えて行った。
「いやあっ!!」
シエラが嘆き叫び、ぺトラスフィルが追いかけようと走り出すのを、ローリアは鷲掴んで無理矢理に止める。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!!」
「……今度は必ず成し遂げるさ。……ミツルならね」
暴れ、もがくぺトラスフィルを力強く抱き寄せながら、ローリアは囁くようにして言う。が、その震えた声が必死になって嗚咽を堪えているというのがぺトラスフィルに伝わると、ぺトラスフィルはローリアの腕を全力で押し離そうとしていた力をふっ、と抜いた。
「ミツルの目にはアリヤと同じ目がある。アリシャの翠眼を通して見れば、ボクの気持ちにも気付いていたはずだ。でも、その素振りすら微塵たりとも見せなかった。彼なりに、気付いていない振りをして気を遣ってくれていたんだ。――ミツルにとってはね、それだけ大切な人なんだよ、そのアリヤって娘は……」
「兄、貴――ッ」
感情がこみ上げ、喉が高く鳴るのを構い無しに声を発しながらぺトラスフィルは崩れ落ちる。ローリアもまた、嫌がる姿を見せれば躊躇してしまうだろうからとミツルが完全に去るまで我慢していたらしく、ぺトラスフィルと一緒になってへたり込むと汚れるのも構いなしに重い頭を地面に擦り付けた。
一面に生える青い花が無数の淡い光体を上空に散らしていく中で、対抗するように空から羽毛のように軽くて白い綿雪が降り始めた。
乾いた雪が一粒花に降り立つと、まるで花も一緒になって泣いてくれているかのように
ひとつ、またひとつと次第に数を増やしていく白銀の雪と昇っていく光体の幻想的な世界で、風に乗った三人の少女の哭声だけが、広大な草原を薄く、いつまでも澄み渡らせていた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます