第二幕・三十四『自分殺し -ジブンゴロシ-』



「……は?」


 半神の言葉に理解が追いつけず、ミツルは吐いた息から一音だけ声を漏らした。


 自分が、この世界で八百年前に生きた人間の子孫? まったくもって馬鹿げた話だ。


「飛躍し過ぎにもほどがあるだろ。だいたい俺は別の世界で生まれたんだぞ。どうやってメルヒムの人間が別の世界の人間生むんだよ」


 誰もが真っ先に感じる疑問を、ミツルは早口でまくし立てながら言う。


「当然の疑問だな。だが言ったろう? わたしは初代無のマディラム使いと仲間だったと」


「まさか…………」


 意味がわからず顔をしかめているミツルの横で、ローリアは小さな頭に秘めた優れた脳で察して呟く。リテはローリアに向かって頷き、


「そのまさかだ。わたしはあいつの行く末を最も間近で見てきた。――あいつがお前のいた世界へと旅立つ、その日もな」


したって、そう言うのか……?」


 感情が消えてすらあまりの衝撃に驚くミツルに、リテは無言で再び頷いてみせる。


「考えてもみろ。お前の世界からだけ転生できて、こちらの世界からは転生出来ないなんてのはおかしな話だと思わないか?」


 確かに言われてみればそうだ。ミツルの場合戻りたくないから、戻る気がないからメルヒムにとどまっているものの、この手の主人公が転生する物語においては元の世界へ帰る方法が分からない、もしくは一方通行であることが極端に多い。


「お前はあいつの最終目標だった。誰が味方かも分からぬ世界大戦時に、唯一の無のマディラム使いの血筋などのこせるものか。そう考えたあの人は、こことは異なる場所で遺す事を決めたんだ……」


 リテはまだ先を続けそうだったが、そこまで語ると口を閉ざした。ついさっきまで大口を開けて笑っていたのに、今は限界まで眉をひそめてとても寂しそうな顔をしている。まるで、目の裏にその者の姿が映ってでもいるかのように。


「でも無のマディラムが宿ったのは後天的なものだ。俺は最初、光と闇のマディラムしか使えなかったぞ。それじゃなんの意味も……」


 ミツルが無のマディラム使いの血筋をひいた者だったとして、それならばなぜ最初から使えなかったのか。


 そう思って口に出した言葉だがリテの中では分かりきっているのか、それを伝えようとミツルにさらに話しかける。


「初めてマディラムを使った時の事を説明してみろ」


 言われ、ミツルはアリヤと出会った日のことを思い返す。


「説明? ……確か、白いオーブと黒いオーブが、俺の周りを浮かんでたな……」


「何か不自然な事は無かったか?」


「不自然なこと?」


 まるで悟らせようとでもするようなリテに、どうにか思い出そうと上を向いてしばし考えてみるが、何も浮かんでこないミツルは「いや、特には……」と断じる。しかし、


「点滅してなかったか?」


 リテにそう言われて、ミツルは復々またまた困惑を混じえながら上を向く。


「……ああ、言われてみれば。あれってそういうものなんじゃないのか?」


「通常は点滅などしない。お前の場合、内に眠っていた無のマディラムが光と闇のマディラムを打ち消そうと反発していたんだ。だから点滅した」


 当時無のマディラムは内側の奥深くに潜んでいて、ミツルの性格から来る光と闇のマディラムを消しかけていたと。


 確かにそう言われれば、初めてマディラムを使ったあのときアリヤはどこか不思議そうな顔つきをしていた気がする。あれはミツルが特別強い能力を有していたからというのではなく、ミツルの出現させたオーブが不自然に見えたからだったのだろう。


「当時無のマディラムは、言わば鍵のかかった状態。それが外れたんだろう。だから今現在、お前は怒りや憎悪、悲しみといった感情を持っていながら無のマディラムを使え続けている」


 ミツルが捨てたはずの感情を取り戻しているにもかかわらず未だ無のマディラムを使用できているのは、ミツルの身体中をかけ巡る先祖の血によるものだと、リテはそう言う。


「だったら、別に俺じゃなくても他の先祖が受け継いで来れたんじゃないのかよ」


「それがもう一つの偶然だ。無のマディラムの血を色濃く継いだのも、お前だけだ。そしてメルヒムの人間の血を継いだからには死にようによって呼び戻される。――必然だ」


「継いだのが俺だけだなんて、なんでそんな事がわかる。俺の父親とか祖父とか、もしかしたら他にもいたかもしれないだろ」


「頭が固いな。メルヒムに来れたのはお前一人だけだ。という事は少なくともお前の先祖は病死か老死だろう。他人から命を奪われたのがお前だけだと言っている」


「…………」


 ミツルの運命はあらかじめ定められていた。

 幼少の頃から楽になるために、誰からも必要とされない自分が一人でも生きていけるように死に物狂いで頑張ってきたのに、あの世界で培ったその全てが無駄だと、そう言われている気がして、ミツルはたまらず拳を握り締める。


「――さて、無のマディラムの歴史は大方こんな感じだが、まだ何か他に聞きたい事はあるのか?」


 リテが言葉を発してからしばらくの間ミツルが黙り込んでいると、素っ気ないリテなりの気遣いか、少し話題を変えてくる。


「お前は、元いた世界に戻りたいとは思わないのか」


「……俺が戻りたいのは過去のメルヒムだ。あんな世界よりもよほど生きやすい」


「過去、か。――さては何か、あるいは誰かを失ったな?」


「……ッ」


 言葉を選ばず気軽にそんなことを言うリテに、ミツルは折りたたみナイフをちらつかせる。


「落ち着け。……全く、狂気的なことだ。お前の先祖にそっくりだよ。そんなつたない物でわたしを倒せると思われようとは、められたものだな」


「……くそが」


 切りかかろうとしたミツルを両手を前に突き出して制するリテ。


 ミツルは舌打ちをして折りたたみナイフを懐にしまいながら、吐き捨てるようにリテを罵る。


此奴こやつはいつもこうなのか?」


「……あ、アリヤの話になると……」


 呆れ顔でローリア達に目線を向け、リテは大きく溜め息を吐く。


 アリヤのことを思い出してしまっているのか、ミツルはじっと地面を見つめたまま身じろぎひとつしない。


 リテはそんな項垂うなだれるミツルの顔をしばし眺めたあと、そっぽを向きながらひっそりと囁く。


「――――……戻れるぞ」


 ゆっくりと頭を起こしながら、ミツルは淀んだ視界を地面からリテのほうへと移す。


「何がだ」


 両腕を天に挙げてめいっぱい伸びをしつつ、リテは欠伸あくびを交じえながら、


「何度も言わせるな。過去のメルヒムに戻る方法はあると言っている」


「……本当か?」


「ああ」


 食い入るように確認するミツルに、リテは最小限に短く返事をする。


 過去に、過去のメルヒムに戻れるということは、それはつまり、彼女にもう一度会えると――?


 戻れると言われてもあまり実感が湧かないでいるミツルが愕然と佇んでいると、リテの方から話しかける。


「大丈夫か?」


「……ああ。――でも、どうやって……?」


 まだ半信半疑でいるミツルに、しかしリテは意地が悪く、


「一度元の世界へ送ってやる。お前の命日となった日にな。だがそこから先は自分で考えろ」


 そう言ってリテが片手を前に突き出すと、ミツルとリテの間に天まで突き抜ける光の柱が現れる。


 下から上へと伸びるように出現した輝かしい柱の上方では、薄く広がる青い空を漂っていた雲がまるで自分の意思で避けているかのように柱の周りを何層にも囲っていた。


「この中へ入ればへと辿り着ける。必要なのは少しばかりの勇気だ」


「ふざけるなよ。せめて何かヒントでも……」


 懇願する言葉とは似合わずむすっとした顔で言うミツルにリテは、


「これはお前がゼ――あの人の血縁関係にあるから気まぐれでしてやっているだけだ。甘えるな馬鹿者」


 言って、リテは一度ミツルを突き放す。

 大切なもののためならばどんな手段も厭わないが、流石に何の手掛かりもなく絶望しているミツルにリテは続けて、


「誰も見ていてくれなくても、自分の慰めのためならば努力を惜しまない。それがお前だろう。ならば無駄口など叩かず考えろ。口よりも頭を動かすほうがお前は得意なはずだ」


「……くそ。……いいよ、やってやる。それでアリヤに会えるなら」


 挑戦を決め、その無表情の顔に僅かな決意を浮かべたミツルにリテは再三頷くと、どこから取り出したのか、手のひらに収まるほどの小さな円形をした物を投げてくる。


「――これを持って行け」


 どうにかキャッチしたそれを見てみると、全体がつるつるとした丸い表面の中心部分に、透明感のある真っ白な宝石のようなものがはめ込まれていた。綺麗な石だが目を凝らしてみると端の辺りにモヤのような黒い霧がかかってきており、非常にゆっくりとではあるが真ん中の白い石を着実に侵食してきていた。


「何だよこれ」


「光がなくなるまでの時間を示す、時計のようなものだ。霧が中央の石を完全に覆い隠した時、光の柱が閉ざされる。――失敗したり迷ったなら、光が消える前に戻って来い」


「制限時間付きなのか」


「異世界同士を無理矢理に繋げているからな。延々放置すると世界の均衡が崩れ堕ちる」


 説明を受けたミツルは宝玉をしばらく見つめるとポケットにしまい、後ろへ振り向く。


 そこにはこれまでずっとミツルの背中を見守っていた少女達の姿。ミツルの顔を至極心配そうに見つめている様子が、どす黒く染まった目に痛々しく飛び込んでくる。


「――……行くのか?」


 元気なことが取り柄の知的な蒼髪のローリアは、性格がひっくり返ったように細々とした声を生んでくる。


「……ああ」


「平気なんですか? 危なくはないんですか?」


 一言を返すミツルに、次いでシエラも悲痛な声色で問うてくる。


「わからない……としか、言いようがない。異なる世界を行き来するなんて、前代未聞だろう。けどやり切ってみせるさ。大丈夫だよ」


 できる限りやわい声でミツルは応える。それから国外逃亡するに至った元凶をつくって、これまでずっと落ち込んで黙りけていたぺトラスフィルにミツルは近寄ってしゃがみ込む。


「もう誰も怒ってないから、心配すんな」


「…………本当に?」


「ああ、もちろん。過ぎたことはしょうがない。これからは戒めとして刻んどけ」


 ぺトラスフィルの声は、あの帝城での一件以降自戒を込めたように弱々しいものだ。そのちっぽけな頭の中で幼いながらに内省を繰り返してきたであろうぺトラスフィルに、これ以上咎めることなどミツルも、そしてセリアもできはしまい。


「けど、オレの感情ひとつのせいで、みんな罪人に……」


「たかだか王に楯突たてついた程度で、こいつらがお前のことを恨むと思うか? もしそうならとっくに城で見捨ててるし、料理だって与えてなんかない。こいつらの底なしの優しさ見くびるなよ」


 力なく垂れたぺトラスフィルの両腕を握り、続けざまに頭を撫でながらミツルは優しく語りかける。ミツルには苦手な慰め方だが、ここで誰かが許さなければ力でねじ伏せられてきたぺトラスフィルはいつまでも懺悔のループからは抜け出せない。


「わかった」


 苦笑を浮かべるぺトラスフィルの瞳を見据えて頷くと、ミツルは無音で延々と伸びる可視光線へと足を踏み入れた――。



 〜 〜 〜 〜 〜



 ――眩い光が周囲の景色を白へと変え、平衡感覚が失せたミツルは激しい吐き気に襲われる。


 左右どころか上下すらわからなくなって、むせ返る不味い唾を飲み込んで必死になって耐え忍ぶ。

 高熱で寝込んだとき、目を閉じればぐるぐると終わりの見えない螺旋によく悩まされたものだが、そんな感覚も幼稚に思えるほどの重力に頭と脳を引き離されそうになる。


 自身の身体も白光に掻き消されて見えなくて、完全なる孤独と底知れぬ未体験の恐ろしさから、終いには今自分は脳しか存在しないのではないかとさえ思わされてしまう。


 他人に頼るのを苦に感じるミツルだが、それでも今はローリアやシエラ、あるいはぺトラスフィルに縋りたいと、隣にいて欲しいという願望に苛まれる。


 しかし人間不思議なもので、しばらく自分の状態変化と悪戦苦闘していると、次第に嘔吐感も退いていき、三半規管も慣れて脳内で長ったらしく回っていた渦も治まってきた。


 苦しさに耐えるため強くつむっていた瞼を、ミツルは恐る恐るゆっくり持ち上げる。


 身の回り一帯には光の粒子のようなものが無数に宙を彷徨い、その奥、つまり向こう側には懐かしい景色が姿を晒していた。


 角張った建造物の家々、薄暗いアスファルトの地面を中途半端に照らす街灯、遠くに見える、高層ビルや電波塔――。


 いかな忌み嫌う世界でも、久しぶりに目に映す故郷には郷愁を感じさせられるものがあった。


「…………」


 ――ミツルは絢爛けんらんとした壁に一度二度指を触れ、何も起きないことを確認すると一歩を踏み出し身体を出した。


 光の境界から出た途端寒々とした夜の空気が肌を撫でつけ、たまらずミツルは身震いする。


 軽く腕をさすりながら今しがた出てきた場所を振り返ってみると、どうやら光の柱は神社に拠点を置いているらしかった。

 光の柱は鳥居を紅く染め上げ、狛犬の像を白く照らしていた。


 ミツルはコートの横にあるポケットからリテにもらった宝玉を取り出す。中心の石はさっき見た時とはまだ変わらず端にうっすらとモヤを漂わせたままだが、不安症で何事においても十分過ぎる余裕を持つのがモットーなミツルは再び宝玉を懐にしまうと、腕を組んでこれからどうすべきかを考える。


「過去へ戻る。……戻る……」


 まず疑問に思うべきは、なぜリテはこの世界へ送らせたのかということだ。

 過去のメルヒムに戻れるのなら、直接過去のメルヒムへ飛ばせばいいだけの話だ。だがそうしないのは、できないからなのだろう。


 けれどここへ飛ばしたということは、過去のこちら側の世界を経由すれば不可能ではないと、そう言っていることにもなる。


 しかし、という言葉がなぜだか妙に引っ掛かる。


 ――そこまで考えに至って、ミツルは大きく目を見開いた。


「…………『戻る』。やり直せっ、て、ことか……?」


 そうだ。そうに違いない。


 この世界からメルヒムへ転生した。リテは過去に戻すためにこの世界へ送らせた。つまりはあの時と同じことをすれば、過去のメルヒムへ行けると。


「けど……」


 そうなると邪魔になるものがひとつある。


 過去の世界に来たということは、当然この世界にも過去の自分みつるがいるはずだ。そしてこのまま放っておけば、車に轢かれ――――死ぬ。


 そもそもなぜ轢かれたのだったろうか。


 当時、急いでいたとはいえ信号はまだ完全には切り替わっていなかった。一瞬ではあるが左右の確認もちゃんとした。なのに轢かれたのだ。ならば原因はミツルではなく車側にあるはず。


 そして疑問となるものもひとつ。


 それは轢かれる以前に、どうしてミツルは急いでいたのかということ。


 夕飯を買うために家を出て、会計を済ませ、レシートを見て、高いなと感じて…………


 そして、


 つまり、あの時見ていた光の線は、ミツルがこっちへ来た時のこの柱だったのだ。


「あの時、既に未来の俺が来ていたってわけか。気持ち悪い」


 言いながら、ミツルは再び光の柱を睨みつける。


「なら…………そういうことか」


 全てを察したミツルは、一人呟くと全力で走りはじめた。


 邪魔になるのなら、過去のメルヒムへ転生するはずの過去の自分自身を、殺してしまえばいい。それなら辻褄つじつまが合う。


 自分で自分を殺せば、それは他殺ではなく自殺と捉えられるはずだ。そして自分を殺したあと、どの車でもいい、車道へ飛び出せば、運転手の意思にかかわらず殺してくれる。


 幸いにもこの辺りは知っている。幼少の頃、よく一人で先ほどの神社の裏で遊んだりしていたものだ。道に迷うことは無い。


 右に曲がり、長い下り坂を駆け、まだ明るい店の前を通って行く。

 電話に怒鳴り散らす主婦を押しのけ、うるさい痴話喧嘩をするカップルを避け、道端で嘔吐を繰り返す男の後ろを過ぎ、自分みつるの見覚えのある黒いパーカーの背中が見えかけたとき――――


「ちょっと君!」


「――っ」


 不意に大きな声で呼び止められ、ミツルは内側から高速でノックする心臓を抑えながら反射的に立ち止まる。


 振り向くと、そこにはこの世界ではよく目にする者が懐中電灯片手に歩いてきていた。

 黒尽くめのミツルに対して全身を藍色の服装で固め、服と同じ色をした、間近で見ると意外に大きい帽子を被る男性。左胸には場合によって増援を呼ぶための通信機。そして腰には、伸縮自在の黒光りする棒と、奪取防止の吊り紐をグリップ底面に繋げた、一丁の拳銃。


「……くっそ」


 聞こえない程度に舌打ちをするミツル。


「何ですか」


「いや、個人の自由だから変わってるとは言わないけど、なかなか見慣れない服装をしているし、そんなに急いでどうしたのかなって。――少しお時間いただいてもよろしいですかね?」


 思わず足を止めてしまったことに後悔するミツルに追いついて話しかける警察は、ミツルをひと通り眺めると通信機に口を近付ける。


(他の警察呼ぶつもりかこいつ……)


 確実に怪しまれているミツルは、自分さえ死ねば目的は達成できるのに、と閉じた口の中で歯を強く食いしばる。


「危ない物は持ってないか確かめさせてもらうね。いい?」


 そう言って警察官はミツルに詰め寄ると、黒革のコートの上から両手を当てて調査を始める。


 ここで変に騒ぎ立てては、怪しまれるのは明瞭だ。無事に済むのを待つしかない。


 最初は両肩から軽く押さえるように徐々に下へと確認していく警察官。だが、胴体の辺りに手が近付いてくるにつれ、ミツルの心臓は跳ね上がっていく。


 固唾を飲み、乾いた唇を舌で湿らせ、じわりと額に冷汗が滲み出る。


 何事もなく過ぎてほしいと、そう願っていた天秤は、しかしミツルのほうへは傾かないでいた。


 ――警察はある一点、ミツルの左胸の部分に手を当てがったところで眉をひそめる。


「コートの内側の、この固いのは何?」


 コート越しに指に触れる固い感触と、そのから伝わるミツルの鼓動の早さに警察官は睥睨へいげいしながらぼそりと呟く。


「…………」


「見せてくれる?」


 黙秘するミツルを不審に思ってか、警察官はさっきとは違う少し低い声音で再度問いかける。


 ミツルは飛び道具を腰に携える警察を睨むと、コートの前から手を突っ込んで内側の胸の裏ポケットをまさぐる。


「なっ……」


 驚愕する警察官の剥かれた大きな両の目に映ったのは、ぱちん、と音を立てて刃をロックした一本の折り畳み式の小型ナイフ。


「――なんて物を持ってんだ君は!?」


「護身用だよ」


「護身用でも駄目だ!」


 冷ややかな声で返すミツルに警察官は焦りながらもナイフを奪い取る。


「他に隠し持ってないだろな? あるなら全部出せ」


 優しさの掻き消えた声で言われて、ミツルは先ほどとは反対の胸のポケットから同じナイフを取り出して地面に落とした。


 次にズボンの左の裾ポケットに左手を入れると、片刃の折り畳みナイフを二本ゆっくり出した。そして落とすと、右の裾ポケットにも同じように右手をゆっくり入れ、二本取り出しては落とす。


 今度はコートの右袖に左手を突っ込み、取り出す。左袖にも同じく右手を入れてナイフを取り出す。落とす。


「…………」


 顔を強ばらせる警察官をよそ目に、ミツルは両手を高く挙げる。すると両袖からコートの内側を通り、ごとりと音を立ててさらに折り畳み式のナイフが二本、地面に落ちる。落ちた拍子にうち一本の刃が起き上がってロックされた。


 腰の後ろからも一本抜き取る。刃渡りだけで二百五十ミリ超もある大型ナイフで、ブレードの背中の部分には鮫の歯のような形状のセレーションが付いている。

 ミツルの気に入っている一本だが、これも地面に放ってからん、と鳴らす。


 続いてミツルはゆっくり腰を落とすと、ももの部分に短いベルトで縛り付けられた小さな革製のシースからナイフを抜いて地面に置いた。


 言葉を失い閉口している警察官をしゃがんだままのミツルはちらりと見ると、反対の足からも同様のナイフを抜き取り――――不意を突くように立ち上がった。


 そして、警棒や拳銃を向けられないよう先んじて警察の右手を素早く切りつける。


「あッ! ぎっ、何のつもりだお前! 何してるか分かってんのかッ!?」


 当たりはしたものの切り傷が浅かったのか、警官は呻き声を上げながらもミツルの両手を押さえつけてくる。


「ッ! お前こそ邪魔すんな……っ!」


 両手を掴まれ自由の利かなくなった焦りと見ず知らずの警察に触れられているという気味悪さから、ミツルは必死に抜け出そうと抵抗する。


「暴れんな、落ち着けってこら! やめろ!」


 もう少しなのに、もう少しで、自分おれを殺せるのに――!!


 自分のもとに引き寄せる警官の腰のすぐそばに両手があるのを見て、ミツルは迷わず警官の腰の黒革でできたホルスターを無理矢理にこじ開ける。


「それは駄目だ! おい、何してんだッ!! やめろって!」


 男のロマンの詰まった銃が例外なく好きだったミツルは、操作の方法も知っている。


 いかに早く撃つべきか。この状況では親指を移動させて撃鉄を起こすほうが逆に手間だろう。そう思ったミツルはダブルアクションのまま銃口を向ける。


 ――警察を撃つべきか、少し離れた距離に見える自分の背中を撃つべきか。


「こんの、いい加減に……ッ!」


 そんな一瞬の迷いが凶と出たのだろう、奪われた拳銃を取り戻すために、ミツルの手が警官に強く握り締められた。


 指が絞られた瞬間、手に激しい衝撃が伝わり、周辺に乾いた音が鳴り響いた。


 銃弾が前輪を撃ち抜き、目視できる距離で走っていた車がぐらりと傾く。蛇のように右へ左へと揺らいで進み、


 ――――そして僅わずか一、二秒が経過した頃には、どごん! という鈍い音と共にその先に立っていた黒いパーカーを羽織った情けない男が、宙へ舞っていた。


「…………ああッ」


 あれがなら、もうすぐにでも彼女に会えたかもしれないのに。


 この世の終わりでも眺めるように絶望して小さく嘆くミツルと、隣で茫然自失にただその光景を見やる警察官。


 …………まだ。

 ……まだだ。


 今ならまだ、間に合うかもしれない。


「――……せ」


「え」


「殺せ」


 条件は同じだ。今誰かに殺してもらえば、自分も過去のメルヒムに行ける。そこで先立ったもう一人の自分を殺してしまえばいい。


「早く!!!!」


「何を馬鹿なことをっ」


「殺せっつってんだよ! ほらッ!!」


 焦りと恐怖から腰を抜かして動けないでいる警官の胸ぐらを掴み、ミツルは喉仏を轟かせながら警官に持たせた回転式拳銃の銃口をかつてアリヤと触れ合わせた自身の額に押し付ける。


 真横のこいつなら、武器を持ったこいつなら俺を殺せるだろう。


「俺は凶器を持ってた! お前に切りかかりもした! 銃も奪った! 二次被害も出た! 十分だろ!!」


 目を張ってばかりで何もしない警察官に何を言っても無駄だと悟り、ミツルは周辺に集まる街の人々にも必死に懇願し訴える。


「誰でも……誰でもいいから、俺を殺してくれ! 自分でるんじゃ駄目なんだよッ。誰かに殺ってもらわなきゃ意味が無いんだッ! 頼むよ!!」


「なに、何かの撮影?」


「そんなの聞いてないけど?」


「あっちでも人が轢かれてるぞ」


 不審者を見るように、おかしな生物を蔑むように人々は困惑と冷めた瞳でミツルから数歩後ずさる。


 だからそれに対してミツルは街中の知らぬ男性に拳銃を握り締めたまま詰め寄る。自身のこめかみに拳を当て、言い聞かせるように至近距離で言う。


「これで俺を撃ってくれ。頼むよ。ここだ。ここに向けて撃て」


「む、無茶言うなって!」


 願いを受け入れてくれない男性に苛立ち、ミツルは見ることもせず銃口を地面へ向けると発砲して実演してみせる。


 再び夜闇に銃声が響き渡り、周りの人々が悲鳴をあげながら反射的に頭をかかえる。


「こうやって人差し指を絞るだけだ。これほど簡単なことなんて無いだろっ」


 火薬の臭いが漂う空気を吸い込んで、ミツルはこの世を見限った目をかっ開いてがなる。


 肩を掴まれて脅迫まがいの様相で巻き込まれていた男はミツルの腕を振り払うと、


「他のやつに頼めよ!」


 そう言って走り逃げてしまう。


 ミツルから離れ、人々が集って行くのは離れた場所で倒れているみつるのもと。


「……んな奴放っとけよ。俺を、俺を殺してくれよ――ッ」


 ミツルだってこんな頭のねじが飛んだような奴が急に話しかけてもくれば戸惑うだろうに、このままではアリヤに会えないと思うと今はそんな客観視なんてしていられる余裕もない。


 とち狂ったように嘆き叫ぶミツルは、何の頼りにもならない人々から身体を逸らし、空を仰ぎ見る。


「なあ! リテ、聞こえてるんだろ! お前なら俺を殺せるだろッ、頼む! 神が嫌いだなんてほざいてた奴が頼み事なんざ虫のいい話なのは分かってる! 恥ずべき行いなのも百も承知だ! だからッ、だからせめて生まれて初めて切に願うからッ……!」


 この場で一生のお願いを使用するミツルの声は誰の心にも届くことなく、ただ憐れみと面白がった視線をぶつけてくるだけ。


「……ッ」


 どいつもこいつも最後まで役に立たない無能集団。

 消え失せたほうが世のためになる馬鹿ばかりだ。

 この世界は一片たりとも変わらずすたれている。どこまでも腐り果てた、どうしようもない愚かな世界。


「なんで……、なんで誰もわかんねぇんだよ……ッ!!」


 どうして誰もわかってくれないのか。


 俺の思考も、思想も、どこからどう見たって間違えているはずがないのに。


 全員が全員、理解しているはずだ。

 こんなにも昔から学習しない類人猿など滅べばいいと。


 滅んで、消え去って、そうしてしまえば何もかもが上手くいく。


 苦しむことも、嘆くことも、痛がることも、怒ることも、哀しむことも、喜ぶことも、嬉しいことも、楽しいことも、その全てを何一つ感じること無く。


 無になれたなら、楽になれたことすら感じることができないとなれば、一体どれだけ楽だろう。


 最初から誕生などしていなければ、こうして悲嘆に暮れることもなかったのに。


 だから来たくなかった。見たくなかった。思い出したくもなかった。


 忘却の彼方へ押しやって、一からメルヒムでやり直したかった。


 こんな狭く、苦しく、誰にも認められず誰からも求められない世界からずっと、ずっとずっと抜け出したかった。


 やっとの思いで抜けられても、自分の命よりも大切な人は死に絶え、今やその人を救うことすら失敗した。


 様々な人達から救いの手を借り、手を引かれ、背中を押され、こうして道しるべさえ示されていながら、なおも失態をおかす出来損ない。


 昔から、いつもいつだって失敗ばかりの人生だ。

 知識を身に付けたところで、役に立たなければ何の意味もなさない。


「違う……」


 違うだろ。


 俺は身に付けた気になって、弱音を吐いているだけだと思われたくなくて、努力して頑張っている自分を周りに見せつけていただけのただの道化だ。


 一人で何でもやれると見栄を張って、誰かに頼るのは愚かなことだと言い張って、そのくせ結局は周囲に迷惑被る下衆げす勘繰かんぐりだ。


 それでいていつだって他人のせいにして、自分は悪くないなどとうそぶいて、逃げて、逃げ続けて、逃げた先々で八つ当たり。理屈のきかない子供よりたちが悪い。


 今に始まったことじゃない。今まで通りだ。何をやっても上手く運ばないのは、ただ自身が未熟者なだけ。


「…………」


 大きく息を吸って空気を吐き出す。溜まりに溜まった不満と一緒に。


 夜の冷たい空気が内側から肺を冷やし、頭を冷やし、少しばかりの落ち着きを取り戻す。否、諦めたといったほうが正しい。世の中諦めも肝心だ。


 そもそもが故人なのだ。会えるほうがおかしい。


 諦めれば肩の荷もぐっと軽くなる。死なせたのは自分だ。自分のせいだ。いつまでもストーカーのようにねちねちと追い求めるべきではない。


 ――吹っ切れたミツルはポケットをまさぐると、リテに渡された宝玉を見る。

 中心の石は六割ほどモヤが覆い、純白の石を半分以上黒く染めていた。


 ミツルは追いかけられないよう、また、自分を殺してくれなかった腹いせから腰を落としている警察官の顔面を全身全霊で蹴り込むと、重い足取りで元来た道を戻って行った。


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