第二幕・三十一『時針の消えた日 -ジシンノキエタヒ-』



 早朝、暗闇に紛れるため日が昇る前にローリア宅の裏口から出立し、総勢五人の逃亡者はなるべく裏路地を通って脱出した。


 騎士でなくとも僅かでも他の足音が聞こえれば壁に張りつき、セリアを先頭に、そしてミツルを最後方にして少女達を守るように陣を固める。


 悲観視ばかりしているミツルは自分達が早朝に出ることを騎士が見越して回り込むのではないかと危惧していたがそんなことは無く、開店の早い商い通りの各々の店が開く直前にはロエスティード学院へと辿り着くことができた。


 ――なんてものは建前で、ミツルの本心は別にある。本音をいえば、ミツルは果物屋を避けているのだ。


 アリヤを死なせた言い訳が考えつかず、合わせる顔もなく、だからあの日を最後に店の前を通っていない。

 アリヤは三日に一度はあの店へ顔を出すお得意様だった。それを鑑みれば、少なくともジルベダは気にかけているだろう。最悪探しているかもしれない。


 さらに最悪だとするならば、今日の昼頃にはミツルら一行は指名手配人として街中に広められる事だ。

 悪い噂ほどすぐさま拡大するのが常であり、警備中の憲兵はもちろんのこと、当然果物屋にも情報が行き届くだろう。


 やり直しがきくのなら、過去へと飛び立てるのなら今すぐにでも実行したいところだ。もっといえば、後悔ばかりの子供の頃からやり直したいと、そこまで思う。


 果物屋の女主人に見つからないかと怯えながら日々を過ごし、今も無事に見つかること無く学院へ辿り着けたことに三人互い知らずに胸を撫で下ろす。

 ミツルは単に出会いたくないからだが、他人思いのローリアとシエラはおそらく違う。


 事情を話せばジルベダのことだ。どうせすぐにでも危険を背負ってでも匿ってくれるだろう。そうやってジルベダが共犯扱いされるのが、ローリアとシエラは嫌なのだ。だから出会いたくない、そんなところだろう。


「まだここまでは来てないな……」


 もう何度往復したかわからない白く広い学院の道。しかしいつも気にせず中央を歩いていたのを、今回は慎重になってミツルは呟きながら端を歩く。


 学院長の部屋はその名に相応しく学院のど真ん中に存在する。学院の中へ入るための大階段から左が実技科、右が魔術科と別れているが、それぞれ入った中から中央に向かって、カーブする形で廊下は枝分かれしている。そして鉢合わせた場所にある螺旋階段を登れば目的地の部屋だ。つまり、どちらからでも学院長の部屋に行けるということである。


「――私、学院長の部屋に入るの、初めてだよ……」


「ボクもだよ。入るべき理由も無かったからね」


 部屋へと向けて歩を進ませる中、両手で口を隠しながらおどおどと小声で言うシエラにローリアも少々緊張気味な面持ちで同情する。


「緊張してんのか?」


 依然無感情な声色で話すミツルにローリアは、


「……少しね。だってそうだろう? リー・スレイヤード帝国ではとどまらず、今やメルヒムで一番のマディラム使いだ。ボクが以前読んだと言っていた古書『無のマディラム解析論』の著者も学院長だ」


「ふーん……、なら助かる。話が早そうだ」


 上に伸びるバネのような螺旋の階段を、この学院の教師セリアの後に続いて登りながらローリアは立て続けに、


「それだけじゃない。可視できない魔術回路を探し当てたのも、その存在を証明したのも、マディラムの発生源が大気中の魔術回路との結合によって生じるものだと発見したのも、クラウディアス学院長その人なんだよ」


 国王そのものから逃亡している最中さなかであるにもかかわらず、ローリアはどことなく興奮した様子で喋る。学院首席の座を陣取るだけでなく、数ある研究結果と発明でスレイヤード騎士団にも貢献している知的で冷静な彼女をここまで関心に向かせるとは、ロエスティード学院の長とはよほどの偉人なのだろう。


 戦闘において最強の孫を持つ世界最強の魔法使いとやらが気にならないと言えば嘘になるが、しかしミツルの脳裏にはそれ以上にやはり彼女達の身に危険が迫っている事にこそ意識を向けられる。


 大元の原因は確かにぺトラスフィルの皇帝に対する罵詈雑言だが、それを眼中に含めなかったとしても、無関係な人など捨ておくと決めてなお助けているミツル自身の安易で愚直な考えが生みだした結果ともとれるだろう。

 ぺトラスフィルの利便性に目をくらませ、ローリアとシエラが頼れて頼られる存在だからこの子もそうだろうと身勝手な臆断で決めつけて、そのくせ予想を裏切るような行動に出られたなら偉そうな上から目線の説教。何様のつもりなのかと、自分を疑いたくなる。


「――落ち着けよローリア。学院長の話は後回しとして、お前らの家族は平気なのか?」


「何故だい?」


 話題を変えておだてながらずっと自分達の心配をしてくるミツルに、ローリアは質問の意味を内心分かっていながらもその嬉しさに思わず頬を緩ませながら聞き返す。


「いや何故って……。あれだけ皇帝が激怒していたんだ。悪趣味なあいつの事だから、俺達が見つからないとわかれば家族を人質にしかねないだろ」


 子が不祥事を起こしたならば、当然刃も親に差し立てられよう。ミツルと彼女達の両親との間には関係など無いが、それでも今となっては大事な存在と化したこの娘達のためを思えば、知らん振りはできまい。


「心配してくれてありがとう。けど、ボクの両親は物心つく前に既に他界しているらしいんだ。だからボクにとってはアリヤやシエラが家族みたいなものさ」


「お前は大丈夫でも、シエラは」


 言いながらシエラへと振り向くミツルに彼女もまた、栗色のふさふさとした髪を揺らしながら小さな顔を左右に振る。


「私の父と母はリー・スレイヤード帝国の外にある離れた村に住んでいるんです。私がまだ村にいた頃、ローリアとアリヤがよく遊びに来てくれて……。そこから仲良くなって、私だけ二人について行ってこの国に住むようになったんですけど」


「……家族を置いて、自分一人でか?」


「はい。手紙は頻繁に出して近況報告してますけどね。私の両親、心配性ですから」


 そう言いながらシエラはミツルとローリアの顔を苦笑いして見つめながら話す。


 内気でいつもおどけているように見える少女だが、バッドグリム討伐に参加したり、教室の中で一喝したり、果ては凶悪魔人からミツルを救うために命をかえりみなかったりと、意外や意外シエラは何かと行動力があるようだ。


「なので私も大丈夫ですよ」


「…………」


 言って、朗らかな表情をミツルに向けてくるシエラ。ミツルがそんな彼女を横目に見て口を結んでいると、階段を登りきった先に一枚の扉が目に飛び込んでくる。


「――さて、着いたぞ。ここが学院長の部屋だ」


 ローリアに言われてミツルは再度扉を見つめ直す。

 セリアの部屋のシンプルな木扉とはまた違って、こちらは幾何学模様がこれでもかとふんだんに彫り込まれてある。魔力など微塵も感じないミツルだが、そんな身でも何かスピリチュアルなものを感じさせるような、不思議な扉だ。きっと無理矢理にこじ開けようとすると作動する、何かしらの仕掛けでも施されているのだろう。


 ――ローリアが先陣を切って扉の取手に手を伸ばそうとすると、セリアが制止して入れ替わる。


 交代したセリアが扉の前に立つと、彼女は扉を不規則かつ複雑なリズムで数度叩いた。それがセリアと学院長の秘密の合図だったのか、しばらくすると扉が音も無くゆっくりと開いた。


 興味を持つと堪えきれない人間の本能なのか、ローリアとシエラ、そしてぺトラスフィルの三人がいち早くぐい、と首を伸ばして覗き込む仕草をする。


 そんな少女達をよそにセリアが入ると、皆も後に続いて入っていく。


 部屋の中は図書館のようにどこか落ち着く独特な香りがしていた。

 扉のすぐ左手には木製のコート掛けがある。四方は壁面本棚になっており、赤ワインのような色合いをした分厚い本などが敷き詰められていた。

 部屋の中央辺りから二、三段程度の階段に変わっており、そこから先の床は少し高くなっている。すす色をした机は階段を登ったちょうど真ん中に据え置かれていて、卓上には一冊の本と照明、銀製の杯があるだけだ。


 他に目立つものといえば、学院長の机よりも手前にある円卓――ローテーブル。囲うように七つ椅子があり、そこで教師達が、もしくはそれ以上のお偉いさん達が話し合いをするのだろうと想像させられる。

 そして最後に目に入ったのは、部屋の一番奥の両端にある二つの小型の螺旋階段。というのもこの部屋は吹き抜けの二階建てで、コイルバネのような階段を左右どちらかから登ると上へ行けるつくりになっている。

 二階には階段を登りきった所に左右に一つずつ窓枠がくり抜かれてあり、奥の真ん中、つまり学院長の席のちょうど真上にロエスティード学院の大時計があるのだ。


 ミツルがよく見ていた、剣を模した秒針の時計の裏側が学院長の部屋になっていると言えばわかりやすかろう。


 ――だがそんなことよりも、肝心なこの部屋の住人が見当たらないことに疑問が浮かぶ。そう思ってミツルが周囲を見渡していると、左側に立つローリアとシエラの顔が視界に映る。二人も同じことを思っているのだろう、きょろきょろと部屋中を見回している。


「――……いないな?」


 部屋の中を何度か確認し、やはりいないと判断したローリアがぼそっと呟く。


「けど扉は開いたろ? それって居るって事なんじゃないのか?」


 ミツルは言葉尻に「いないと困る」と付け足し、数歩進みはじめた。

 すると向かって左の壁からがちゃり、と音がし、壁面本棚の一部が動いた。訝しむシエラの裾をぺトラスフィルがつまみながら全員が一点を見つめていると、ついに目当ての人物が姿を現す。


「セシリエか。その叩き方をすると言う事は、何かしらの急用じゃな?」


 のろりとした喋り方に沿ってゆったりと出てきたのは、白い髪と髭を長く生やした老人。しかし見た目に反して姿勢は良く、床まで引きずっている灰色のローブ越しからでもそれは窺え知れる。


 クラウディアス・ペールディオング・ブライアス・アーカルディア=アーカツヴァイグ――この者がロエスティード学院の現学院長だ。


「ああ――、群れることを好まぬお前さんが大勢連れ入るとは珍しい」


 鼻に乗せたラウンド型の縁なし眼鏡を通して、学院長クラウディアスはミツル達の顔を一人一人見つめてくる。


「少々厄介な問題が発生しまして……。事情が事情だけに、学院長のもとで少しの間、かくまってもらいたいのです」


 孫であると同時に学院長の下に就く一介の教師でもあるため、セリアは丁寧な口調で話す。


「事情、とはどういう?」


 両手を後ろで組みながら、学院長は自分の椅子へと向かう。それに続いてセリアも机の前に近づく。


「結論から言えば、国から追われています」


 机に置かれた本を開いて続きを読み始めていたクラウディアスは、セリアの静謐とした一言を耳に入れると視線だけを机上から前へと向ける。


「……正して言うなれば、『追われる身となってしまった』ではないのかね? 国を守る役目を担っているセシリエからそのような事態をまねいた訳ではなかろう? そこのいずれかじゃろ」


 クラウディアスはセリアを信用しているのか、何一つ疑うこともなく再び彼女の後ろに並んでいる四人をちらりと見ると、一人に目線を固定した。


「君は、ローリア・フェイブリックかね?」


「え……あ、えと、はい……」


 突如名前を呼ばれたローリアは、セリアから自分に関心を向けられたのに対応できず言葉を詰まらせる。


「……あの、どうして、ボクの名前を……?」


 動揺しながらもどうにか繋げるローリアに、学院長クラウディアスは皺の多い顔を微笑ませながら、


「ロエスティード学院の全生徒を覚えていると思ったかの? 君がこの学院の首席であるから既知だっただけじゃよ。――すまんがその他の者までは把握しておらんでな」


 ローリアは尊敬している学院長が自分のことを知っていてくれたのがよほど嬉しかったようで、重苦しい状況の中で喜びを隠しきれずにその知的な海色の瞳を輝かせる。


「学院首席である秀才な君が、この国の、皇帝の機嫌を損ねる問題を起こすとは考えにくい。かと言って、隣の君もそのような大事をもたらす人格者ではあるまい」


 言って、クラウディアスはローリアの真横に立っているシエラを優しげな目で見る。

 シエラは緊張と見られている恥ずかしさ、そして疑いようのない人物であると理解された嬉しさから、もじもじしながら床へと視線を落とす。


「残すはその隣にいる君ら二人じゃが……」


 ローリアとシエラの時と比べてわずかに声のトーンが落ちているのをミツルは感じ取る。


 後ろめたさが体に出てシエラの背後に半分隠れているぺトラスフィルと、見た目からして誰もが真っ先に疑いそうな黒尽くめのミツル。しかしクラウディアスの洞察力はセリアに負けず劣らず優秀らしく、しばらくミツルの死んだ魚のような目を見つめたあと、


「一体何をしたのかの?」


 最後にぺトラスフィルの顔へとその視線を見定めた。


「…………」


 クラウディアスはこの中で最年少のぺトラスフィルを恐がらせないよう和やかな表情で語りかけるものの、少年の皮を被った少女は言葉を発しようとしない。そこで見かねたセリアが代わりに口を開く。


「――その者の名はぺトラスフィル。少し前まで奴隷としてごろつきに仕えていたそうです」


「なるほど……」


 それを聞いたクラウディアスは察したように薄く目を細め、鼻から深く息を吐きながら椅子にもたれかかった。


 しばらくの間、何を思っているのかぺトラスフィルを黙って見据えるクラウディアス。その間誰も話すこと無く、外を飛び回る早朝の小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。


 朝焼けが霧の中をほんのり照らす暖かい部屋の中、シエラがまだ重い瞼を二度三度擦っていると、ようやっと学院長が閉ざしていた口を開ける。


「…………如何いかんともしがたい世の中じゃて、ついに耐えられんかったか……」


 もの哀しげな声で呟きながら、クラウディアスはもたれかかったままの姿勢で天井を見上げる。まるで下民がいつか、皇帝に叛そむく日が来るのを見越していたかのような目で。


「長年追っていた魔人を討伐したので、その報告として行ったつもりなのですがね……」


 セリアの言葉に天井を見ていた目をすっ、と戻すクラウディアス。


「シュヴァイツェフは見つかったのかの?」


「ええ。……ですが、魔人に乗り移られていました。既に手遅れで……」


「そうか……。もう彼奴あやつの顔も、本当の意味で見ることはできんのじゃな……」


 セリアの話を聞いたクラウディアスの声は悲哀に満ち、引き出しから取り出した自分と共に写るかつてのベリアルド・シュヴァイツェフの写真を見つめて、一人落胆に暮れる。


「マディラムを使えない身でありながら、実に秀でた強さじゃった。……これで剣聖の座も、空席じゃな」


 クラウディアスは一人そう小さく呟くと、剣聖ベリアルドの思い出と共に写真を再び引き出しの中へと閉じ込めた。


「フェイブリック。君のご先祖がこの『写真』を発明してくれていたおかげで、シュヴァイツェフの姿かたちを忘れることは無いようじゃ。間接的ではあるが、礼を言うておこう」


 言われて、珍しくどぎまぎしながら会釈するローリア。クラウディアスはざっくりとした内容からミツル達の現状を把握すると、


「――良かろう。ただ一人の家族の頼みじゃ。事が治まるまで、ここにいなさい」


「……恩に着ます」


 セリアが一同を代弁して感謝した。



 〜 〜 〜 〜 〜



 疲労と寝不足のため再びシエラとぺトラスフィルの二人が円卓に伏して眠る間、セリアは二階の窓から監視を行い、ローリアは物珍しい多彩な本を借りて読書に勤しんでいた。


 そしてミツルは、


「――なあ。話があるんだけど」


 ロエスティード学院を統括するクラウディアスに対しても、無愛敬な口調で話しかけていた。


「わしが分からん事は答えられんが?」


 クラウディアスはそんな無礼なミツルにも眉一つ動かさずゆったりと返す。


「マディラムを極めているらしいあんたに分からなけりゃ、どこの奴に聞いても分からないだろ」


「という事は、マディラムに関する話じゃな」


 察しの良いクラウディアスに、ミツルは無言で頷き返す。


「確かにわしは七種全てのマディラムを扱える。わし以外は、世界中飛び回っても見つからんじゃろう」


「な、七種!? 七種全てだって!?」


 寝ている二人同様に円卓に座って本を読んでいたローリアは、耳に入ってきたクラウディアスのその言葉に思わず声を荒らげて驚嘆する。


 ローリアが驚くのももっともだ。ぺトラスフィルのようにマディラム自体使えない者がいる中で、通常使えるのは一種類。それ以上があったとしても、セルムッドのように二種類までが限度なはずだ。魔術科で優秀だったアリヤもそう言っていたのだから。


 ミツルに関して言えば光と闇、そして無のマディラムの計三つを使用していたが、厳密に言わずとも光と闇を使っていた頃は無のマディラムは使えていない。逆に今のミツルにも光と闇のマディラムは使う事ができないでいる。


 マディラムは言い換えれば心や性格の表れだ。

 情の熱い者は火のマディラム使いになる事が多いし、ローリアのように思慮深く聡明ならば水のマディラム使いとなる事が多い。


 セルムッド・クラトスは感情が豊富でありながらも、一歩距離を置いて一つ一つの状況をしっかり見極めながら戦うような性格だ。それが火と水の二つを使える最大の理由だろう。

 土は頑固、闇は悲観的というように大まかに分類分けはされるが、事細かに解いていけば人の人格など千差万別にある。


 かつてのミツルは人類に失望し、他人など奈落の底へと落ちるべきだとは思いながらも、心の奥ではアリヤのような存在を求めていた純粋な部分があった。

 元よりミツルは純情なのだ。ただ周りの人間に恵まれず、黒く染め上げられたに過ぎない。

 だから闇のマディラムだけでなく光も使えていたのだ。


 そんな考える葦を現したようなミツルでさえ突出しないというのだから、七種全部を扱えると口走るクラウディアスの言葉なんてものは到底信じられない域にある。


「わしは正真正銘人間じゃが、事情があっての。平均的な者よりも少々長く生きておるのじゃ。――まあ長い人生ゆえにな、色々あるんじゃよ」


 秘密主義なのか、クラウディアスはあまり多くは語らずにはぐらかす。しかし代々継がれる探究心から来るものなのか、ローリアは食い下がる。


「どんな感じなんですか? 七種使えるなんて、よほどな心情でないと……」


「ん。すまんの。言葉や意思で表現するのは、ちと難儀なのじゃ」


 ミツルの後ろにある円卓へと視線を向けて、クラウディアスは申し訳なさそうに眉をすぼめる。


 碩学せきがくたるクラウディアスの辞書でさえ言い表すことができぬというのだから、聞いたところで常人に理解などできまい。


「七種ってことは、無のマディラムは使えないのか……」


 早々に諦めかけているミツルの呟きにクラウディアスは、


「八つ目を使える者など今はおらんよ。わしが知っているのでも、過去八百年以上も前に一人だけいたという記録があるだけじゃ」


「八百年前……」


 言われて小さく復唱するミツルに、クラウディアスは「ほれ」と年期の入った細い指を上方に向けながら、


「そこに肖像画があるじゃろ。一番右端の彼女。このロエスティード学院の設立に最も貢献した者じゃ」


 見ると、天井近くの壁には歴代の学院長であろう肖像画が横一列に並んでいた。

 どれも貫禄のある人物だが、右端を指されたミツルはその画に視線を合わせる。


 古に生きた彼女の時代には写真など当然無く、代わりに繊細でリアリティある絵で描かれていた。

 特徴的な白銀の髪は首まで伸びたショートカットで、目はセリアほどではないにしろ吊り気味。そしてその中に見える、より巧妙に描かれたであろう陽に照らされた海のように輝かしく透き通った翠色をした両の瞳。


 古い絵のためところどころ掠れてはいるが、雰囲気や美貌、そして何より目が、どことなく彼女アリヤに似ている気がした。それと同時に、この学院が八百年も前から存在していたことに驚愕する。


「――……なんか、どっかで見たことあるような……」


 ぼそっと何の気なしに独り言を呟いたミツルだったが、クラウディアスはそれにも応じ、


「ロエスティード学院の門の彫刻こそまさしく彼女じゃ。他に挙げれば硬貨の絵にも彼女が採用されておるな」


 言われてミツルは「ああ……」と思い返す。


 街の至るところで目にしていたが、そんな偉人ならばさぞかし人気だったろう。


「僅かな文献の情報では、彼女の伴侶が無のマディラム使いだったと記されておるが……。正直なところを申せば、わしもあまり知らんのじゃよ。何せ聞いただけの話での。詳しく知りたいのであれば、リテに聞く事じゃ」


「リテって……、あのリテ、ですか?」


 目を丸くしているローリアにクラウディアスは頷きをひとつ。しかしそんな名前など初めて聞いたミツルは、二人だけで理解しているローリアとクラウディアスの間に割入る。


「あのリテってどのリテだよ」


「半神リテ。――世界樹オルメデスをずっと守護してるびとだよ。まさか実在するなんて……」


 世界樹オルメデス。その場所はまさしくミツルがこの世界に転生した時に最初にいた場所だ。だが当時、周りを一望したが守り人らしき者などミツルは一切目にしていない。あの場にいたのはミツルと、そしてアリヤだけだったはずだ。


「リテは古い友人でな。わしの名前を出せば耳を傾けてくれるじゃろう」


 事も無げに言うクラウディアスの話を聞きながら、ミツルはリテなる者の容姿を想像する。


「じゃが何故そのような事を聞く?」


 今更ながらに疑問を訊ねるクラウディアスに、ミツルに代わってローリアが口を開く。


「実はミツルが、まさにその全てを打ち消す無のマディラム使いなんです」


「……ほう……?」


 偉大なるマディラム使いであってもあまり信用できないのか、クラウディアスは胡散臭そうに冷めた目をミツルに向ける。最後に観測されたのは八百年も昔なのだ。無理もあるまい。

 しかし逆もまた然りだ。こちらとしても、七種類のマディラムを使えるなんてのは理解の域を越えている。


「無のマディラムに似ているだけではないのかな? 他のマディラムでも、使いようによっては打ち消す事は可能じゃよ?」


 実際に目にしたものしか信じないたちなのか、クラウディアスはミツルとローリアを交互に見据えながらそう呟く。


 クラウディアスの言わんとすることは分かる。

 確かに風のマディラムで火を消し去る事はできるし、闇のマディラムでも水や土を包み込んで消す事だって可能だ。

 けれどミツルの場合はそんな物理の範疇はんちゅうを逸脱している。時には人をも文字通り消してきたのだから。


「――ローリア、俺にマディラムぶつけろ」


 ミツルは実際に見せたほうが早いと踏み、つんとした言葉をローリアに向ける。


「いいのかい……? もしかしたら使えなくなっているかもしれないよ?」


「その時はその時だ。この前許可なく俺にぶっぱなしたくせに、今さら躊躇うなよ」


 心配そうな顔つきをするローリアにミツルが再度頼んでいると、


「わしがしよう」


 二人のやり取りを見ていた学院長が名乗り出てきた。


「当たっても怪我をせんよう調整するから安心せい。――マディラムはどれを使ってもいいんじゃな?」


「何なら全部でも」


 マディラム最強を前にしてなおミツルはたじろぐことせず、クラウディアスはミツルに感心すると同時に少しの心配もつのらせる。


 怖気付くこと無く、見栄を張るでも無く、心から早くしろとでも言いたげなその表情は、いわば無のマディラムを使える一種の証明とも呼べよう。


 生物的に、恐怖心というのは誤魔化すことはできても隠しきることは難しい。目の奥の瞳孔や身体の小刻みな震え、顔の引きりなどは本人の意思に背いてしまうのが常並みだ。

 だがクラウディアスの洗練された目で見ても、ミツルにはそれらが垣間見られない。


 ――もしや、とクラウディアスは思い手をミツルにかざすと、試しに軽く火球を放った。

 言動がゆったりとしたクラウディアスのように、空中をのんびりと泳いでいく小さな火の玉。ミツルとの間のわずか数十センチを何秒もかけて渡りきると、ミツルの胸に当たる直前音も無く消え去る。


「…………」


 原理が解らずクラウディアスは黙り込む。一瞬の間をけてかざしたままだった手から続けざまに水、風、雷、土、闇、光の小さな球体をも順番に放つが、いずれも火のマディラム同様の結果になると驚きを隠せず今度はじっと固まった。


 黙考して喋り出そうとしないクラウディアスに、ミツルのほうから話しかける。


「そっちが七種類使えるのは分かった。あとはあんたの判断次第だ。どうなんだ」


 敬いの欠片も無い喋り方をするミツルの胸の辺りを凝視するのみだったクラウディアスは、ミツルの欲する返答とは少し違った言葉を口にする。


「……君をリテのもとへと連れて行こう。わしよりも話が通じるはずじゃ」


「ってことはつまり……」


「少なくともわしの見解ではどのマディラムにも属しておらん。十中八九、無のマディラムと見て良かろう」


 そう言うとクラウディアスは机に手をついて立ち上がる。


「――セシリエ」


「聞いていましたが」


 クラウディアスが名を呼ぶと、二階でずっと見張りを続けていたセリアが返事をしながら顔を出す。


「これからオルメデスへと向かうが、このミツルという男ならば使えるやもしれん。を外してもらえるかの」


「…………はい」


 セリアは短く応えながら、ミツルのほうをちらりと見やる。ミツルは「あれってなんだよ?」とクラウディアスに投げるが、


「慢心は人を狂わせるでな。まだ秘密じゃ」


 そう言って教えてはくれなかった。

 そしてクラウディアスは代わりに、的外れなことを口に出す。


「――そうと決まれば、追手が来る前に早く出立した方がよかろう。向かうは第二大図書室じゃ」


「……なぜ図書室へ?」


「着けば分かる」


 ローリアの素朴な問いにクラウディアスは優しい目を向けると、白い髭で隠れた口から一言、そう声を洩らした。


 何かを外して準備をするらしいセリアは「後から行く」と言い残し、その他の学院長含むミツルらは颯爽と第二大図書室へと向かった。


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