第二幕・二十九『稚き叛徒 -イワケナキハント-』



「当時はバッドグリムの群れの討伐のみを行う予定だったため、万全を期してはいなかったのです。相手は騎士十人を容易く屠る狂人。一人は成人しているとはいえ、まだ学院生の四人では逃げ帰るのがやっとのこと」


「四人……とは、今その場にいる者達という認識で良いのかな?」


 家臣は確かめるようにセリアの話をさえぎり訊ねる。


「……いえ、一名はレィ・ドワールによって……」


 その先は察しろとでも言うように、セリアは家臣を鋭い目で見つめる。睨みつけているわけではないが、家臣はその薄氷うすらいの双眸を見て気圧されたのか押し黙ってしまう。


「しかし御安心を。このミツルの無謀とも言える単騎突撃が甲斐あってか、魔人レィ・ドワールは満身創痍。そして今日こんにち、ミツル、ローリア・フェイブリック、シエラ・ルレスタ共に――――討伐いたしました」


 途端、家臣だけでなく周囲の騎士も思わずおお、とどよめく。


「レィ・ドワールは再生不可能。五臓六腑は微細へと果てました。――こちらが証拠です」


 そう言ってセリアはおもむろに手に持っていた皮袋からレィ・ドワールのローブの切れ端を取り出して差し出す。

 切れ端にはびっしりと血のりなどの汚れがこびりついており、家臣は反射的に鼻をつまむと代わりに騎士に受け取らせようと指示する。


「偽りではないことをその高貴なる眸子にてご確認ください」


 精神面も鍛えられた騎士は臆することなくその数枚の布を手早く受け取ると家臣まで持っていこうとするが、家臣は首を横に振ったあと顎で「退け」と合図する。騎士は両手に持ったまま素早く引き下がった。


「いやなに、疑ってなどおらんさ。――ならば、褒美をやらねばなるまいて」


 皇帝レフェイルは肩肘をついて顎をのせたまま、ふんぞり返って言う。


「何を所望する? 金か、名声か、あるいは権限か」


「身に余る光栄であります…………が、そのいずれでも御座いません」


 セリアの答えに、皇帝は微かに眉をぴくりと動かす。


「……何だ。それならば何を欲す。今一度問おうではないか」


 レフェイルの問いにセリアはミツルを一瞬ちらりと見ると、すぐさま視線を戻して開口する。


「実はレィ・ドワールを討伐に行く際、この男が上空から城壁の外へと抜けてしまったそうなのです。当人は記憶の欠如もあってか、それが違反であると知らなかったそうで……。先ほど帰路に着くと門兵に止められました。なのでそれを免罪する贖宥状しょくゆうじょうの発行をお願いしたいのです」


 セリアの言葉を聞いて皇帝と家臣はそんな事でいいのか、と少しばかり目を丸める。


「無論構わんよ? 今すぐにでも取り掛からせよう」


 言って皇帝は家臣に上質な羊皮紙を一枚手渡すと、家臣はそれを受け取り贖宥状を作成しはじめた。


 セリアはその様子を見ると彼女自身も内心気を張っていたのか、周りに気付かれない程度に浅く息を吐いた。


「……しかし、良いのか? 無欲であるのは立派な心構えだが、褒美がこれだけとはさしもの余も心が痛む。――報奨金として受け取らぬか? 溝に捨てるほど、金品はたんまりとあるぞ」


「金に困っているわけでは御座いませんゆえ、どうかお気になさらず。お気持ちとして頂戴します」


 家臣が書き終わるまでの間、高笑いしながら皇帝は雑談をはじめるものの、セリアは丁重に断る。


「土地を与えるというのも良いやもしれんな。貴殿なら騎士の育成所として拡張したいのではないか? ん?」


 皇帝レフェイルはセリアが断るも矢継ぎ早に褒美を提案してくる。セリアも少々しつこい皇帝に、僅かながらの変化であるにせよその表情を苦笑へと歪ませていく。


 ――魔人レィ・ドワールの討伐報告も済み、ミツルの免罪符も現在進行形で作成中。何失礼なく無事に謁見も終わりそうな感じではある。

 しかしなぜか気を抜くことができず、それどころか底知れぬ不安が段々と込み上げてくる。


 どうにも落ち着かず何の気なしにミツルが横で跪いている少女たちをちらりと見ると、同じく不安そうな顔つきをしたシエラと目が合った。

 シエラはミツルが見ているのに気付くと、誘導するように真横へ目移りする。ミツルも彼女の意図をんで目線を辿る。


 その先には歯が砕けそうなほどに食いしばり、爪が折れそうなほどに拳を握り、そして充血しそうなほど下から睨みつける、ぺトラスフィルの姿。


「ああ。ならばどうだ? 男でも女でも、何人でもおるぞ。地下の檻に活きのよさそうな奴もいる。日頃の鬱憤晴らしに痛めつけるも良しの、何でもありな代物だ。タダでくれてやろう。売りさばいて換金しても構わん。そこいらの小汚いだけが取り柄の奴隷よりは高値で売れよう」


「――――…………はッ!」


 少しの間を置いてセリアが再三断ろうと口を開きかけた瞬間、吐き捨てるように笑い声が響いた。

 たった一音だけのその声には震えが走っていた。この国最高の権力者に立ち向かう恐ろしさと、それに心臓を握り潰されてでも立ち向かいたいという怒りから表れたものなのだろうと、そう思わせるような、震えた声――。


 ミツル以外の全員の心臓がどきり、と一度大きく弾む。


 焦った面持ちでシエラが落ち着かせようと手を伸ばしていたが間に合わず。


 血相を変えた顔で「ぺトラ!?」と小さく呼び叫ぶローリアの声も届くこと無く。


 不敬さを凝縮したかのようなその引きった笑みに、皇帝が不快そうな表情をつくりながら声のしたほうへとぎろりと睨みを利かせる。


「……何が可笑しい。ほか三人は討伐に貢献したそうだが、君は誰だね。名乗ってみよ」


 皇帝は平静を装っているものの、その声と目からは明らかな重苦しい威圧が感じ取れる。


 言われたぺトラスフィルは首に巻いた紅いマフラーを揺らしながらのっそりと立ち上がり、見下している皇帝を逆にセリアよりも鋭い目つきで睨みつけていた。まるでいつぞやのミツルとセルムッドを皇帝とぺトラスフィルの二人が再現しているかのようだった。


「…………ぺトラスフィル。元、奴隷ですよっと」


 そんな元奴隷の軽々し過ぎる言動に、セリアは片手で頭を抱えていた。


「奴隷……。神聖なるこの場に、そのような匹夫ひっぷが何故ついてきた」


「そりゃ恨みがあるからだろうよ。愚痴のひとつも言いたくなるってもんだろ」


「何と口の悪い奴だ! 無礼極まりない!」


 贖宥状を書いていた手が止まり、家臣が耳に入ってきたやり取りを聞いて驚愕の表情で怒鳴りつける。


「無礼なのはそっちだろ、鏡見て自分のあほづら拝めってんだボケ。なにが『溝に捨てるほど金がある』だ。完全に溺れてんじゃねーかよ」


 王室でのあり得ない言葉の連続に、誰もが放心状態で茫然と立ち尽くす。


「てめぇら知ってるか? 金こそ世界最高で合法な薬物だぜ。世の中にゃ金より大事なものがあるなんてほざくイカれた野郎がいるが、そんなのはデマだ。食い物も酒も人も、全部全部金のある奴に寄っていく。そりゃあもちろん悪い方へな。人が金を使ってるように見えるがそうじゃねえ。人が金に使われてんだよ。何なら金はこの世を統べる人間よりも上位の存在と言えるわな。――つまりだ。人間の崇拝してる神の正体は、金だ」


「――……場をわきまえよ下郎! 王室に入ること自体が余に対する侮蔑であるとついに知れ! 奴隷の分際が、知った風な口を利くでないわ!」


 怒声を浴びせる皇帝の手は激情に震え、座っている椅子の肘置きを握り潰す勢いでいた。だが、


「っせぇ独裁野郎! てめぇこそこの糞みてぇな世界の何がわかんだ、あ゛あ゛!?」


 ペトラスフィルも負けじと大理石に似た質の床をだん! と蹴りつけ、声が枯れることなど意に介さないような怒号で目頭に涙を溜めながら続ける。


「鼠の肉の味を知ってるか? 腐ったなまものを食ったことがあんのか? どぶの汚ぇ水を啜ったことはあんのかよ? ……下水道の、冷えきった地面で寝たことはあんのかよ……ッ!?」


「……っ」


「濡れ衣着せられた挙句、寄ってたかって袋叩きにされたことは? 腹が痛過ぎて、一晩中のたうち回ったことは!? ――……自分の貧弱さを嘆いて、嫌々受け入れたことがあんのかッッ!?」


 猛り、怒り、憎み悲しみ泣き喚く小さな一匹の怒涛の咆哮に、皇帝は一瞬怯ひるみを見せる。


「オレらが一体何したってんだよ。過去の子供の無礼の結果だ? ……ざけんな! それこそ過去の話だろうが! てめぇが何かされたわけじゃねぇだろ!!」


 外でミツルとセリアがしていた話をぺトラスフィル自身知っていたのか、中性的な顔に剣幕を塗りたくって吶喊の声を荒らげる。


 確かにぺトラスフィルの言うとおりだ。過去に子供が皇帝に抗ったからといっても、それはもう過去の話だ。レフェイルなんてまだ産まれてもいなかったし、レフェイルが直接何かされたわけでもない。二十六代以降の皇帝だってそうだ。


 先代に教えられ伝えられてきただけで、現在の奴隷にも皇帝にも何ら関係のないこと。それを一体いつまで続けるのか。続けることに意味があるというのか。


「……ほざくなわっぱ! 汚らわしい奴隷の言葉など聞く耳持たんわ」


「け、憲兵! この底無しな愚か者を鞭打ちに処せ!」


 家臣の命令に石像のように唖然と固まっていた憲兵二人がぺトラスフィルに勢いよく近付く。


 一人は槍を、もう一人は鞭を構える。


「邪魔すんじゃねえよ……」


 ぺトラスフィルは怖気付くどころか溜めていた息を細く吐くと、近寄ってきた憲兵へと反撃を開始する。


 子供相手に刺突するのは流石に気が引けるのか、憲兵は槍を横薙ぎに払う。

 そんな情けをぺトラスフィルは知ってか知らずか完全無視し、槍の木製の柄を肘で受けて止めると膝で思い切りへし折って見せた。

 折れた前半分を器用に足で拾い上げ、くるっと一回転させて先端を驚く憲兵の喉に突きつけると、憲兵は戦意を失って両手を上げた。


 二秒ほどそうして硬直していると今度は横から鞭を振り下ろされる。が、前髪数本を残してぺトラスフィルは避けると、鞭を使い慣れてなさそうなもう一人の憲兵に槍を投げつけた。

 投げられた槍は鞭で叩き落とされたが、ぺトラスフィルは飛んでいた槍に後続しており、猿のように憲兵の胸元へ飛びついた。


 ぺトラスフィルは憲兵の被る兜をひっぺがすと先ほどの戦意喪失した憲兵の頭に投げつける。安心して油断していた顔面を絶妙に射抜き、最初の憲兵は倒れ込む。次いでしがみついている憲兵の露わになった頭に容赦のない頭突きを決めると、これまた器用に身体に登ったまま背中に回りこみ十字に交差させた腕で首の頸動脈を締め上げた。


「――……があっ……!」


 ぺトラスフィルの腕を剥がそうとつねったり引っ掻いたり、力任せに握りしめたりと試みるが、日頃の痛みに慣れた元奴隷に通用するはずもなく、ぺトラスフィルの腕は首をじりじりと深く締めていく。


 しばらくもがいていた憲兵も意識が薄くなると抵抗しなくなり、最後にはがしゃり、と重い鎧の音を鳴らしながらうつ伏せに倒れた。


「訓練しかしてないような憲兵程度がオレに勝てると思ったか? どいつもこいつも奴隷を甘く見過ぎなんだよ。いかにお前らが奴隷に無関心なのかがよくわかるぜ。……飼い主が手を汚さずに人を殺せる理由はな、奴隷に代わりに殺やらせてるからだ。それくらい考えりゃわかんだろ」


 倒れる憲兵を見下すその目をぎろりと皇帝に向けるぺトラスフィル。憎悪と厭世に塗り潰された淀んだ目は、次はお前だと、そう告げているようだ。


「――実戦ならオレのほうが上だ。本気で殺しに掛かってくる奴に対応したことも無いくせに偉そうにすんな。この脳みそ平和野郎が」


「き、騎士隊! 剣を抜く事を許可する!」


 憲兵二人を難なく返り討ちにしてのけた奴隷、それも子供を見た家臣は言葉を詰まらせながら騎士へと斬ってかかるよう命じる。


「抜剣。総員、構えよ!」


 騎士隊長であるルベルト・ハーツヴェルトの甲高い掛け声に残す十九の騎士が剣を抜いて構える。

 たちまち両側のスレイヤード騎士は素早くぺトラスフィル達を包囲するが、セリアがぺトラスフィルの前に立ち塞がったことにより全員一歩後ずさる。


「……子一人に騎士全員で斬り掛かるつもりか?」


 鋭利な刃物のように鋭い目つきで言うセリア。


「何を躊躇う必要がある。相手は女だぞ、さっさとせんか!」


 家臣の物言いに、しかし騎士は動かずかわりに隊長ルベルトが剣を構えつつゆっくりと口を開く。


「お言葉ですが、其処そこな女性は我々スレイヤード騎士団を鍛え上げる御方です。到底敵かないません」


「束でかかればよかろう」


「束でかかっても勝てる相手ではないのです。この方はかのベリアルド・シュヴァイツェフと同等かそれ以上の――」


「いいから行け! 強者に立ち向かう勇気すら無いとは、ハーツヴェルト。お前の武というのはその程度か!」


 理屈を踏みにじって聞く耳を持たず精神論を唱える老いぼれ家臣に、ルベルトはセリアを見据えたまま諦めたように溜め息を吐く。


「セリアさんがいなくなればこの国の戦力は大いに落ちるというのに…………。ではその目に直接お見せ致しましょう。現実とは、く厳しいものだと。――失礼します」


 そう言ってルベルトは一礼してセリアのもとへ一人数歩近寄ると、剣を構え直し臨戦態勢に入る。

 セリアはそんなルベルトを見てふっ、と微かに笑みを浮かべたのち、瞬時に真顔へと切り替えると、


「私に真剣を向けるのか」


「申し訳ありません。これが仕事なので」


「なかなかどうして肝が据わっているな。誠実なその意気は褒めてやろう。……だが負けることを前提としているようでは、この先思いやられるぞ」


「承知の上ですセリアさん。――いえ……セシリエ教導官」


 セリアは話しながら自身の愛用である剣の柄をそっと撫でる。柄頭には白く煌めいた宝石のような物が付いている。ルベルトはそれを見て気を引き締めると、彼女の名前を呼び直した。


「いい機会だ、お前達をさらに鍛えてやろう。この一戦を糧とするがいい。打撲程度では済まんがな。――――来い」


 セリアは慣れた手つきで腰の鞘から滑らかかつ艶やかにしゃらん、と片刃の剣を抜くと、構えることなく自然体で立ったまま最後に一言だけそう呟いた。



 〜 〜 〜 〜 〜



「ローリア、シエラ。どうするよ」


 ぺトラスフィルを中央に、周りを囲うように三人が守りながらミツルは背中越しに少女達に問いかける。


「どうするって言ったって、ここまでしでかしたらもう戻れないぞ!」


「謝っても絶対許してくれないですあの顔は! 逃げるしかないですよ! 見た限り、出口は入ってきた扉ひとつです」


 じりじりと迫ってくる騎士達に困惑しながら、二人はそれでもぺトラスフィルを見捨てずに守り抜こうと必死になっている。


「幸いって言うべきか、お偉いさん二人はあの場から一歩も動いていない。殺伐とした環境に場馴れしてないんだろう。血のついた布を嫌がってたのが何よりの証拠だ。それにこの部屋から誰も出てないってことは、少なくとも外で警護してる騎士達はまだこの状況を知らないでいるはずだ」


「つまりあの扉まで辿り着ければ……!」


「ああ。まだチャンスはあるってことだ」


 シエラの言葉の続きを頷きながら繋いで、ミツルはセリアのほうへ視線を向ける。


 思えばセリアの戦いを見るのはこれが初めてだ。レィ・ドワール戦ではほとんどローリアとシエラで片付けた。

 彼女の未知数な戦闘力も、マディラムの使い方も気になるところではある。


 そう思いながら見たミツルの光景には、既に七人の騎士がぺトラスフィルの打ちのめした憲兵のように床に転がっている様子が映っていた。


 ――――剣戟。――――絶技。――――無双。


 そんな言葉で形作られたような凛々しいセリアの戦い方は、まるで未来視でもしているのか、はたまた第三の目が上空からすべてを見透かしているのかと疑うしかないほどに卓越したものだった。


 他の騎士とは明らかに異なる洗練された動きで騎士隊長ルベルト・ハーツヴェルトは斬撃を繰り出しているが、セリアは余裕のある表情を一切崩すこと無く受け流しながら前から、左右から、真後ろから、斜めから襲いかかる他騎士達の攻撃にも対応していた。


 未来視にも等しい洞察力、音速にも劣らぬ判断力、それに遅れないだけの十分以上の反応力と身体能力。


 マディラムも使えるという点から鑑みるならば、剣聖ベリアルド・シュヴァイツェフよりも強い存在といえるだろう。その剣聖も今はもう散り散りとなった。であれば、現在最強は他ならぬセリアだ。


「――……お聞きしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


 一旦距離をとって不意に話しかけてくるルベルトに対して、その肌に僅かばかりの汗も、些かの息切れすらもしていないセリアは澄ました顔で短く返す。


「騎士の編成隊を相手にしても負けないレィ・ドワールを、どのようにしてたったの四人で倒せたのでしょうか」


「聞きたいか?」


「……差しつかえなければ」


 そう言うルベルトは気を抜かず剣を構えたままだ。セリアはそんな真面目で慎重な性格のルベルトを見透かしてか、剣を下ろして腰に手を当てると、


「期待を裏切るようで悪いが、私はほとんど何もしていない。奴を瀕死にまで追いやったのは、あの黒い男だ」


「なっ……」


 セリアの視線は後方のミツルへと注がれているものの、どういうわけか隙が見当たらない。それにルベルトは隙をつこうとするどころか驚く素振りを見せて軽く口が開いていた。


「レィ・ドワールの主な戦闘法は、暗い洞窟ではうってつけな闇のマディラムの脅威的なまでの乱用だ。騎士の大半はそれが敗因だろう」


 スレイヤード騎士は、何もマディラムが使えないわけではない。むしろその辺にいる一般民や憲兵では足元にも及ばないほど熟練されているだろう。

 しかし魔人レィ・ドワールの闇のマディラムは格別恐ろしいものなのだ。レィ・ドワール自身が人々の途方もない数多の負の感情で構成された存在であるからして、それをさらに増幅させるようなデキア洞窟はあの魔人にとって絶好の環境でしかない。

 暗黒に暗黒を塗り重ねればその分だけ黒くなっていくのは、落書きがお得意の幼児でも理解できることだ。


「だが、あの男には一切通用しない。一切だ。無論、他のマディラムもな」


「…………」


 マディラム――――即ち魔法が効かないなんてことはこれまで聞いたことが無かったのだろう、ルベルトは信じられないというように美形の顔を歪ませる。


「そんな顔になるのも無理はなかろう。だが嘘ではない。奴は総てのマディラムを消し去る無のマディラム使いだ。よってレィ・ドワールには不利な肉弾戦が強いられた。それが真実だ」


「そんな、ことが……」


「復讐心だけで動いているはずだが、いやに冷静な部分もある。それがあいつの武器でもあるがな」


 衝撃を受けるルベルトをよそにセリアは腑に落ちない様子で、


「しかしまあ、私にとっての仇である奴の手柄を取られたのが不本意ではあるというのが正直なところだ。――ゆえに。ここで発散させてもらう。私を飽きさせてくれるな」


 そう言ってセリアは剣先を前に向け直した。


「お前達はこのまま素知らぬ顔で城を出ておけ。こいつらの相手は私が務めよう」


 背後にいるミツルらに向けて、セリアは少しだけ大きめの声を発する。


「平気なのかよ。さしものあんたでもこの数はきついんじゃないのか」


 セルムッド・クラトスとの戦闘経験があるミツルには、彼よりも遥かなる強さを持つ二十の騎士を一人で相手しているセリアがいかに尋常でないかが理解できる。だが限界というのは存在するものだ。そう思ってミツルはセリアに問いかけるが、


「愚問だな。此奴等こやつらに勝てないようならば、私は生涯引退だ」


 にやり、と不敵な笑みを浮かべるセリア。その声色にフラグなど感じ得ないことを確認したミツルはぺトラスフィルを抱き上げると、目配せでローリアとシエラに逃げることを告げて走りはじめた。


 ミツル達の走り抜ける足音をセリアは背中に感じ取る。円形に余る十四の騎士に包囲されて残されたセリアは剣を一度だけ振り払うと、


「……さて。守るものが無ければ配慮する必要もあるまい。追いかけるのもいいが、ここで私と剣を打ち合えば確実に技能は強化されよう。自身の成長を促進させたいのであれば、私と付き合え」


 後ろの騎士をあおるように、あるいは挑発することでミツル達を追いかけさせないようにセリアは中央で断言する。


「――そのような戯言ざれごと、余が許すと思うてか! セシリエ・アーカツヴァイグ。貴殿がいかな強者であろうと、ロエスティード学院長クラウディアスの子孫であろうとよもや知ったことではない。命令は絶対だ! これほどの反逆許されるなどと思うな! 貴様だけではない、逃亡をはかったあやつらも万死に値する!」


 先ほどまでセリアにおおらかな態度をとっていた皇帝は一変、顔から火が出るのではというくらいにかまびすしく声を荒らげる。が、セリアも決意したのか、それとも言い逃れはもはやできぬと諦めたのか、一度目を閉じて再び開くと、


「……この機会に言わせて頂きますが、私はかねてより常々皇帝陛下の在り方に疑問を抱いておりましたゆえ、生憎あいにくですが処刑の命は聞き入れかねます。ミツル達も例外無く。――――それに」


 言って一度言葉を切ると、セリアはマディラムで自身の周りに天井まで届く光の柱を爆発的に発生させる。

 後ろでひとつに束ねた揺れ動くにび色の髪と黄金色の爬虫類のような眼力、そして慈悲を失くした残酷な天使のような佇まいで続けざまに言い放つ。


「私がこの部屋を去るまでは、誰一人としてここから出られぬ事を覚悟するがいい」


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