第二幕・二十四『捲土重来 -ケンドチョウライ-』
アリヤ・エルスティッグ・ドールネス・エイリヤージュ。
何度も何度も呟いて覚えた、長い名前だ。
正義感が強く、善良で女神に愛された娘の名前だ。
料理が上手で容姿も美しくて、何より優しい。けれどどこか危なっかしい部分もある、煌びやかな白銀の髪をした少女の名だ。
彼女の感情は全てにおいて
自他の幸福を喜び、自他の不幸を哀しみ、悪行を怒り、然れど恨みはしない。そんなお手本のような可憐な少女だった。
『だった』。――もう過去形だ。彼女は既にこの世にいない。ただ一つ、一人の男の片目に宿ったまま。
黒崎 光。
親が名付けた、一人の男の名前だ。
正義感が強く、善良なのに愛されなかった男の名前だ。
良心は腐り果てているが容姿はそう悪くない、他人のせいで歪んでしまった鴉のように黒い髪をした青年の名だ。
彼の感情は全てにおいて禍々しく、悦びも悲しみさえも、他者に裏切られ穢され尽くした不純なものだった。
他の幸福を憎み、他の不幸を喜び、善行も悪行も動機によって怒ったり許したりする。そんな手本にしてはいけないような悲観的な青年だった。
『だった』。――やはり過去形だ。彼は既にこの世から消え去った。今在るのは、
慈悲心や情けを完全に捨て去った、無情さをその瞳に宿した無の男が、幻想的な世界に佇んで居た。
〜 〜 〜 〜 〜
「――明かりはまだ点いてるみたいですね」
三度訪れたデキア洞窟の内部を今まで以上に慎重になって進みながら、シエラはほのかに白く照らされた道のりを見据えて呟く。
ミツルが壁や地面に突き刺した光る棒は安価な割になかなかに優秀な物だったようで、未だすべてがきちんと発光を続けていた。ミツルが救出されてから少なく見積もっても一、二時間は経過しているだろうことを鑑みると長時間保っているほうだ。
――ミツルはそのうちの一本を抜き取ると、地面に落としたままだった端に横たわった剣を照らして拾い上げる。
「ああ、剣までは気が回らなかったよ。すまないな」
「瀕死だった俺を運んでくれたんだ。謝るようなことじゃないだろ。こっちとしても助けてもらった以上礼以外なにも言えないさ」
ローリアの気遣いにミツルは刃こぼれした安物の剣を背中の鞘に収めながら返答する。
「そういや、俺の腹にはでかい穴が空いてたはずだ。まだ身体が重いとは言え、なんでそんな死んでもおかしくない状態だった俺が今はこんな風に歩ける?」
「ああ。それはボクの調合した秘蔵の薬を使ったからさ」
「薬? 薬であの穴が塞がったっていうのか?」
にわかには信じがたいローリアの言葉に、ミツルは納得せず聞き返す。
「そうさ。そう数日で作れるような代物ではないし、材料だって長年かけて集めた物ばかりだ。だからこそごく少量しかないけれどね。試薬段階だったが、無事成功したようで何よりだよ」
現代医学も目を丸くする発明をしてのける知能の非常に高い少女に内心驚く中、そんな貴重な物を自分なんかに使ってしまって良かったのかとミツルは同時に悲観的にもなった。自分なんかよりも、もっと使って欲しかった人がいるのにと胸中で思いながら、
「あの日は持ってきてなかったのか……?」
持ってきていれば彼女は助かったのではと考えてしまい、ミツルの口からついそんな言葉が選ばずついて出る。助けてもらっておきながらできもしない欲張りを語るミツルに、ローリアはしゅんと眉を下げる。
「……すまない。バッドグリムの討伐だけだと思っていたから。奴と対峙すると分かっていたら持ってきて――いや、常に最悪のことを考えて持って行くべきだった。ボクの浅はかさの結果だ。本当にすまない……」
「だから謝るなよ。ローリアはよくやったんだから。……俺が愚問だっただけだ。忘れてくれ」
小さなローリアの頭を撫で、ミツルは物柔らかに告げる。ローリアは悲壮な表情を浮かべてはいるものの、無言でこくこくと頷いた。
「――それより、そんな大層な薬があるなら売れば金になるんじゃないのか? 瀕死になるような大怪我も治せる薬なんてまさに夢のような代物だ。売った金でさらに材料も買う事ができるだろ」
「いや――――」
ミツルが励ますように話の流れを変えて喋っていると、これまでローリアとミツルの話を聞いていたセリアが横から一言入れて遮る。続けて、
「考えてみろ。その薬が大量生産されるようになれば、おそらくは民ではなく国が買い占めることだろう。リー・スレイヤード帝国は巨大国だ。トルマキヤ公国以外にはこちらの領土に攻め入らないよう条例などで何とか歯止めしているが、陰から弓を引かれているのが現状だ。薬の多くが兵士達に使われ、対抗手段として更なる兵士を起用するだろう。即死でもない限り、言うなれば不死身の軍隊だ。凄まじい治癒力を有する薬など、我が国どころか世界各国が欲するに決まっている」
セリアの考察を聞いて一理あるなと思うミツルの横で、ローリアは再度頷きを入れる。
「ボクも同じ考えをしていたんだ。だから薬の存在を知っているのは信頼性のある今この三人しかいない。どうか今後も内密にしてほしい」
真剣な眼差しで話すローリアに、今度は彼女以外の三人が頷いた。
――ミツルが過去にここで起きた出来事を思い返して眉間に力が入りながら歩いていると、不意にあることを思い出す。
夢だ。夢で見た光景の中で、レィ・ドワールにミツルは一度襲われている。
今思えば、全力で逃げていたあの時、確かにミツルが見た夢と同じことが起こっていたのだ。
「――……実は、夢にあいつが出てきたことがあるんだ。セルムッドとの闘いの後で、その……アリヤの家で」
「え」
ミツルはセリアに話しかけたのに、それに反応したのはセリアではなく隣を歩くローリアだった。
「ちょっと待ってくれ。ボクも見たことがあるんだが……」
「お前も……?」
横から怪訝な表情でこちらの顔を見てくるローリアの声には、驚愕と不安が入り混じっていた。それは彼女だけではなくミツルも同じだった。
もしやと思い剣呑な顔つきでシエラとセリアにも目を配るが、二人は首を縦には振らずに否定する。
「私は見てないですよ?」
「私も無いな」
シエラとセリアは見ていない。ミツルとローリアの二人だけが見ている?
「いつ見たんだ?」
「奴に出くわす前だから、時期的に考えればキミと同じくらいの日だな」
だとすれば偶然とは考えにくい。同じ夢を見たということは、ローリアが見た夢の中にいたのも男、それもレィ・ドワール当人ということだ。仮にそれが女性であったり、あるいは獣であったりすればまだ疑いの余地も薄いものだが、ローリアの口振りから察するに内容も同様のものだろう。
セリアはミツルとローリアのやり取りを聞きながら、顎に手をあててしばし黙考する素振りを見せる。
「お前達二人に、何か共通点があるということか……?」
「「共通点……」」
ミツルとローリアは双子のようにシンクロしながら互いの共通点は何かと見つめ合う。
ミツルはローリアを足先から頭までゆっくりと順番に見ていくが、服装も違えば身長も違う。髪の色も違うし、瞳の色だって異なる。
見た目の共通点は見当たらない。とするならば内面的なものなのかと、今一度ローリアの双眸を見据えてみる。
ローリアはミツルにじっと見つめられていることが恥ずかしいのか、少し頬を赤らめてもじもじしている。だがミツルはそんなことを気にもとめず観察する。
ミツルは悲観的であるがローリアはそうではない。
ローリアは天才であるがミツルはそうではない。
マディラムはミツルが無であるが元々は光と闇。ローリアが水だ。誰がどう見たってその属性に類似するところは見当たらないし、似ている部分など一つとして見つからない。
「――――客観的ではありますけど、思慮深い、ではないでしょうか……?」
思考を巡らせて静寂していた四人の中で、シエラがぼそりと呟いた。
「よく考え込む奴の夢に現れると?」
セリアの投げ掛けた言葉にシエラは黙って頷く。
「あいつは物事を深く考え、その中でも極度に考え込んでいる人間に何か仕掛けているってことか?」
「ミツルはこの世の不条理に対する思想や心理。そしてローリアは日々積み重ねる研究に対する考えの深さ。そこに漬け込むと、まあそんなところだろう」
「メルヒムの世界に張り巡らされている魔術回路を通して、何かこう、意思か念のようなものをボク達に送り込む能力を持っているかもしれない、と……。ますます放ってはおけないな」
現に今でも、ミツルとローリアは思考を存分に使って解析して喋っている。どうやらシエラの提供した共通点が答案に当てはまりそうではあるが、けれどセリアも十分思慮深そうなイメージがある。冷静沈着で大人びた性格だし、それを鑑みれば他にも何かありそうではあるが。
そう考えるとなぜセリアが例の夢を見ていないのかが不可解だ。
「――……待てよ。俺達がデキア洞窟に入ったのが、偶然じゃなく必然だったとしたら……?」
「どういう、ことだい?」
ミツルがふと思い付きで
「ローリア。お前あの日、セリアに聞いた『洞窟に近付くな』っていう話を忘れてたって言ってたよな?」
逃げ帰った夜にセリアの部屋で朦朧とした意識の中した話を掘り起こして、ミツルは確認のためローリアへと向き直る。
ローリアはよほどあの夜が辛かったのか、ぶり返された過去に少し顔をしかめながら返す。
「ああ、それが?」
「…………俺もなんだよ。教室の外で聞いてたはずなのに、ど忘れというか、あの時は頭の中から抜け落ちてた」
「そうだったのか……。――でも、なんの関係が?」
難しい顔をして可愛らしく首をかしげるローリアに、語彙力の無いミツルはどう説明したものかと「えーと」と言い詰まる。
「思慮深い人ほど奥深くまで入り込まれるから、それに比例して思い出すことが困難になる。でもそれは、逆に言えばミツルさんやローリアに比べて私みたいな考えの浅い人だったら思い出すことも難しくはない……」
代弁してくれたシエラにミツルは頷きを一つ。そして再びセリアに顔を向け、
「別にシエラを浅薄だなんて馬鹿にしてるつもりはないけど、アリヤはそもそも実技科じゃないから話を聞いてすらいないだろ。そう考えると辻褄が合うかって思ってさ。あくまで憶測でしかないから、実際はどうなのかわからないけど」
三人のやり取りを傍らで聞いていたセリアは、今一度考えを改め直すように暗い地面へ視線を落とす。
「『洞窟に行くな』という言葉を逆転して認識させることで、無意識的に近寄らせるよう仕向けたか、あるいは二人の部分的な記憶と夢を入れ替えたか……」
「まさか。そんなことマディラムじゃできないだろ」
セリアらしからぬ突飛な理論にミツルは否定的な意思を見せる。
「いや、これは仮説の域に過ぎん。それに世の中にはマディラム以外の特殊能力を有した者達も数多く存在する。有り得ん話ではない」
確かに言われてみればそうだ。以前シエラから通常の人間と比べて遠くまで耳が聞こえると聞いたことがあるし、何なら彼女は動物と意思の疎通だってできる。アリヤの持つアリシャの翠眼もその特殊な類いに入っているはずだ。
「それにしたって……」
しかしそうすると心理的な疑問が沸いてくる。レィ・ドワールは何を思ってそのような事をするのか。また、何故ミツルとローリアだけなのか。
――答えは簡単だ。それはミツルとローリアの二人が、孤独の侘しさを内に秘めているからだ。
ミツルは幼少期から続く人間関係。そしてローリアは、幼くして両親を亡くしたことによる天涯孤独の身。そんな二人の表に出さない孤立した弱みを入口として、レィ・ドワールは思慮深いミツルとローリアに悪夢を見せることに成功したのだ。
戦って分かったことは、奴はこちらの攻撃を受けた際に嬉々としてはしゃいでいた。自傷行為も目立っていたし、狂乱変態殺人鬼であることに間違いはない。そしてその正体はおそらくマゾヒストなのだろう。ということは悲観的な人間は他人を卑下しやすい傾向にあるため、そういった類いの人間を選んで自身を傷付けに来させていたということであろうか。
嗜好を満たすためというそんなくだらない理由でアリヤは殺されたのか。
何はともあれ殺すことに変わりはないが、どうも傷付けて喜ばれるのは憎しみの感情を抱いている者にとっては複雑な気分だ。
「……奴はいないようだが、さらに奥へ行ったのか」
灰色の髪が光で反射し銀へと煌めかせるセリアは、そう言ってデキア洞窟の奥深くを凝視する。
「でも、この洞窟は一本道なんだよね? ローリア?」
「そうだよ。ミツルが倒れていたこの場にいないなら、きっと外へ向かっていると思う」
シエラの疑問にローリアは声をできるだけ響かせないよう小さく受け答える。
「ならばまだそう遠くまでは行ってはいまい。急ぐぞ」
セリアは最奥に微かに小さく見える点の出口を目指して歩き出す。
しかしミツルは何かが気にかかっていた。
見ると、地面には血が垂れた痕も引きずった痕も前には進んでいない。むしろこの周辺を何周もしてのたうち回っていたような血の付き方だ。
だとしたら妙だ。
レィ・ドワールの両手両足はミツルが切り刻んだ。人間の身体的観点から考えても、とてもあの手数で外まで目指すとは考えにくい。何より奴は目が退化しかけていたほど長年この暗闇にいたのだ。その両目もミツルが潰したし、今さらここから出ることはまず無いだろう。
でもそうすると、まるでレィ・ドワールが重症を負ったまま忽然と姿を消したということになってしまう。闇のマディラムで影の中に身を潜めるにしても、その影だってどこかに不自然に残るはずなのだが見る限りではそれが無い。そもそも近辺に気配すら感じないのだ。
ミツルの訝しむような顔つきにセリアは気が付き、同じ考えにたどり着いたのか、前に進めていた足を止めた。
セリアは洞窟の内部を一通り見渡してからふむ、と小さく唸るとローリアに向かって一言、
「ここら一帯に水をばらまけ」
突然そんなことを言った。
「……? はい」
ローリアは首を傾げながらもそれに応じ、杖で地面を突いてマディラムを発生させる。
洞窟の下に水脈でも通っているのかと思わせるように、じわりと地面から水が滲み出てくる。たちまち辺り一面に水溜まりを形成していくが、水量の調節もできるのか、靴底が浸かる程度でぴたりと止まった。
透明度の高い水溜まりは波をうって揺らいでいたが、しばらくすると水流を発生させてある方向へとゆっくり流れはじめた。
水は前方でも後方でもなく、ミツルの予想を裏切って横へ。
どうも壁の中へ流れていっているようだった。
近付いてよくよく見てみると、石の壁の間に長方形の僅かな亀裂ができていた。
もしやと思いミツルが壁に手を押しやると、重低音と共に壁が動いた。
「隠し扉……?」
ローリアの一言にセリアは思い返すように開いていく扉を見つめながら、
「騎士共は例外だったが、襲われた死体が跡形もなく綺麗に消えるといった噂が立っていた。間違いなく死んだはずなのに、死体が無いから持ち帰ることすら叶わないと。しかし奴は洞窟からは出ない。加えてこのデキア洞窟は曲がることなく一本道だ。だから何か仕掛けがあると踏んだ」
言いながら、セリアは水の引いた地面のあちらこちらに転がっている小石のひとつを手に取る。水に浸っていたために持ち上げると水滴が落ち、地に音を立てて水滴がぶつかる。セリアは小石を手に持ったまま扉に近寄ってミツルの真隣へ移動しつつ、
「仕掛けがあるならば必ず自然体に人工的な手を加えねばなるまい。そして完璧ではない人間が作る人工物であれば、どこかしらに隙間や綻びができるというものだ」
そう言ってセリアが念を込めるように持っている小石を目の高さに掲げると、途端に小石はミツルの手に持つ光る棒同様に自ら輝きはじめた。
思えばセリアのマディラムを見るのはこれが初めてであり、彼女が何のマディラムを使うのかすらも知らなかったミツルは「光のマディラムだったのか」と呟いた。
――セリアは淡い輝きを放つ小石を持って小さく振りかぶると、一寸先は闇となっている扉の向こう側へと放り投げた。
光の石は放物線を描いておよそ七、八メートル奥まで飛んでいく。小石の通った空間の光景が瞬間的に見えるが暗いことに変わりはなく、やがて地面にぶつかると音響を立ててさらに三メートルほど先まで転がった。
音の響き加減から判断するに扉の奥はかなり広い空間が広がっている。もはや洞窟ではなくダンジョンレベルだ。
しかし摩訶不思議なことに、本来このような空間は存在するはずがない。
何せこの洞窟は森林の中にあるのだ。外から見たときは洞窟の横にこれほどまでの大きさのある岩は無かった。ということは、この扉の奥はあるのが不自然な場所に存在していることになる。
よもや空間歪曲まで実在するのであれば、このメルヒムという異世界では何でもありだ。
「…………どうします?」
「進むしかないだろうな。これ以上レィ・ドワールの思惑通りに犠牲者を出すわけにはいかない」
不安と焦りを含むシエラの一言にローリアは覚悟に息を呑むようにして返す。
「シエラは真ん中へ。ローリア、君は後ろだ」
セリアの言葉に二人は頷き、素早く陣を整える。
次いでミツルへと振り向いて互いに無言で頷くと、
「離れるなよ」
後ろの二人にミツルは落ち着きを放った引き締まる声で囁いた。
〜 〜 〜 〜 〜
隠し扉をくぐり少し歩いて奥へと進むと、弱々しく揺れる光が辺りを覆っていた。
大広間となるこの空間は一辺が最低でも二十メートルはあり、学校の一般的なプールであれば入りきりそうな広さだった。
扉の前では真っ暗闇にしか見えなかった大広間だが、奥のほうは夜の外で焚き火をしているかのよりもさらに明るい。
明るさとなっている根源は白くて丸みを帯びた物の中から発せられている。二つにぽっかりと空いた円から漏れる灯火は、その物体の残り火となった命そのものにも思えるくらいに小さく、そして弱々しい。だがそれがいくつも乱雑に置かれているために大きな光となって周囲を照らしており、その真ん中に祭壇のように階段が数段だけあるのが見てとれた。
ミツルとセリア以外であれば目を背けたくなるほどにおびただしいほどの――――頭蓋骨。
きっとこの亡骸の数だけ、ひょっとすればそれ以上に奴は殺してきたのだ。
「――……ここは一体?」
心なしかどこか悲しそうにも見えるその亡き者達の明かりを頼りに、青髪のローリアは右や左、上など様々な方向に顔を向けて広間一帯を見渡す。
「レィ・ドワールさんの……住処?」
「シエラ。あんな変人野郎に『さん』なんて付けなくていい」
栗色の尻尾で怯えた顔を隠すシエラに、ミツルは周りを重々警戒しながら言いつける。
「す、すみません」
レィ・ドワールにすら『さん』付けをする律儀で優しいシエラの頭をそっと撫でるミツル。自然とシエラの頭の上に手を置いてしまったのに気付いたミツルは顔をしかめてその手を引き戻す。
アリヤを失ってからというもの、自身を疫病神だと疑わず、少しの間ではあっても共に旅した仲間をこれ以上傷つけないために突き放した。
先ほどローリアとシエラには洞窟の外の森で信頼関係を締結したが、それでも癖になってしまえば人間そう安易には変えられず、こうして咄嗟にしてしまった行動を何度も悔やんでしまうのだ。
一人勝手に戸惑いながら、ミツルははぐらかしに頭蓋骨でできた
階段を上がりきった所にあるそこには、今壊れてもおかしくないほどにボロくガタついた、これまた人骨でできた机と腐った人肉でできた椅子。そして異臭のしそうなその椅子に腰掛けているのは――――目玉狩りのレィ・ドワールだった。
「……寝てる、のか……?」
背中をミツルたちへ向けながら、レィ・ドワールの肩はゆっくりと上下に動いている。両腕はだらりと椅子から垂れ下がり、首は九十度右に傾いていた。
ミツルはすぐに背中の剣を抜けるように柄を握りながら音を立てないよう慎重に一歩、また一歩と忍び足で近づいていく。
それに気付いたローリアとシエラは何も喋らずにただ息を呑んで見守る。いつでもミツルを支援できるようにローリアは杖を、シエラは腰に携えていた短剣を、そしてセリアは盾となるようにシエラの前へ立ち、刀身に複雑な模様の彫られた片刃の剣を構えた。
警戒しつつ観察してみると、見た限りではミツルが切り刻んだ手足は回復しつつある。前が見えないため両目も治っているのかまではうかがい知れないが、凄まじい回復力だ。
ミツルは気を失っていたからどれほどの時間が経過したのかまでは分からない。けれど少なくとも死闘からまだ日は跨いではなさそうだ。つまりレィ・ドワールの四肢は、数時間で治癒している。まだ完全とまではいかないにしろ、割合で言うのであればとうに七割ほどは治っているだろう。
上質な薬を使ったのか、回復系統の魔法が使えるのか、はたまた常軌を逸した再生能力を有しているのかは分からない。
分からないからこそ、まだ他にも能力を隠し持っているのではないかと疑いつつ、ミツルは慎重に近づいていく。
――と、レィ・ドワールの座するまでの階段を登ろうとした時、踏み込んだ右足の裏がわずかに凹んだのをミツルは感じた。
ガコンと小さな音を立てたと思った次の瞬間には、ミツルは本能的に頭を伏せていた。
ミツルの立っていた空間に、右から左へと高速で何かが駆け抜ける。空気を切り抜けながら、細く長いそれは頭上を掠め通り過ぎる。
「ミツ――」
シエラは咄嗟にミツルの名前を呼ぼうとするが、ミツルはその言葉を自分の口に人差し指を当てて押し留める仕草をとる。
今ここで大きな音を立てれば奴を起こしてしまいかねないと判断したものの、判断したと同時に左側の大きな壁へと突き刺さって音を立てたそれによってその思惑もすんなりと阻まれた。
(――――矢?)
典型的な罠を踏み、ミツルが数センチめり込まれた
言うまでもなく毒の矢だ。あれが顔に直撃した時のことを想像すると身の毛がよだつ。
考えてもみれば、治療中に敵が攻めて来るのに無防備に待ち構える馬鹿はいない。ミツル自身同じ状況に陥れば今みたいに罠を仕掛けるし、レィ・ドワールの場合なら相手を傷付け
飛んできた軌道を思い返せば、急所はわざと外されていたように思える。きっとじわじわと拷問でもするように死なせたかったのだろうが、ピンポイントで飛ばしてくるあたり、レィ・ドワールは空気抵抗や軌道修正など緻密な計算によってこの罠を仕掛けていたとされる。
とするならば、奴は相当に頭が切れると考えたほうがいい。
――レィ・ドワールはミツルが危惧したように、矢の音に機敏に反応し目を覚ました。身体は前に向いたまま、首のみを百八十度回転させて振り向くさまはもはやホラーに近い。潰れた両の眼はまだ治ってはおらず乾いた血を目尻に垂らして抉れているが、それがかえって恐怖心を掻き立てる。その状況を作りあげたミツル当人はどこまでも冷静に落ち着きを維持しているものの、後方で身構える少女二人には刺激が強過ぎたのか、歯を食いしばって必死に恐ろしさを堪えている様子が背中に伝わってきた。
レィ・ドワールの両眼にミツルが突き刺したナイフは刺さっていない。抜き取ったのであろうが、口の中の石を取り出した時といい、自ら激痛に飛び込むのは相当な覚悟が必要なはずだ。
ミツルがバッドグリムから受けた腕の矢を抜き取ったのだって、その場の勢いあっての事だ。もちろんあの後少し経ってから痛覚が悲鳴をあげたし、なるべく急いで治癒を行ったのも事実だ。その点で言っても、レィ・ドワールはミツルよりも強い存在であると言える。
「あぁぁぁぁあ。……ヒヒヒっ、ヒヒ…………」
レィ・ドワールは何がそんなにも面白いのか、言葉を発さずただ笑い声のみを広い空間に響き渡らせ、その場から動こうとしない。――否、動けないのだ。
四肢は一瞥した限りではほぼ完治している。しかしそれは表向きであって、内側、つまり筋肉や神経系はまだ治っていないのだ。実際レィ・ドワールからは人肉の椅子から立ち上がろうと腕や脚で踏ん張る姿が見受けられるが、力が入らないのか、たった数ミリでさえ腰は浮いていないのだ。
観察力は長けているミツルはそれを機とし、警戒は怠らずとも一気にレィ・ドワールとの距離を縮める。
数段ある階段を一回の踏み込みで踏破し、鼻腔を突き抜ける死臭と腐敗の臭いを息を止めて耐える。そしてミツルは息を止めているのを利用して狂人の羽織っているぼろぼろのローブを鷲掴むと、身体全体を使ってレィ・ドワールの体躯をあらん限りの力で真後ろへと放り投げた。
レィ・ドワールの身体は驚くほど軽く、ミツルの予想よりも遠くへ飛ぶ。
階段を大きく越えて罠の上を通り、待ち構えていた三人の中で一番前へ出ていたセリアの足元へ。
飛んでいたレィ・ドワールからは着地と同時に再びどこかしらの骨の折れる音がはっきりと聞こえ、さらに強打した衝撃で低い呻き声が上がった。
「――――殺せ」
ミツルはセリアにそう投げ掛けるが、彼女は地べたに寝そべるレィ・ドワールを見下ろすと石像のように固まったまま動かずにいた。
「おい」
再度呼び掛けるも、セリアは構えたままの剣を振り下ろすことなく、代わりにそっと口を開く。
「…………やはり、死んでいたのか」
「は? 何言ってる。早く殺れ」
セリアの不可解な言葉にミツルは疑問を抱き、それを声に出す。
レィ・ドワールは地面に強く身体を打ち付けはしたが、まだピクピクと海老のように痙攣している。確かに奴の肌は青白くとても冷たそうではあるが、どう見ても死んではいない。
「いや、これは既に死んでいる」
しかしセリアは否定に声を漏らし、立て続けに、
「私自身レィ・ドワールの姿を見るのはこれが初めてだったが…………。よもや同胞であるベリアルドの身体を使用していたとは思わなんだ」
そっと、独り言のように小さな声を発した。
レィ・ドワールが死人であるとはどういう意味なのか。
レィ・ドワールがセリアの同胞とは、一体どういう事なのか。
そして身体を使っていたとは、何を意味するのか。
セリアの言葉に他三人は解釈が追いつかず、ローリアとシエラは困惑の表情を、そしてミツルは説明を求めるような顔でセリアを見据えていた。
セリアはそんなミツルの顔を見ずとも分かっているように、眼下で伸びている狂人に剣先を向けたまま静謐とした暗い空間でひっそりと話し始めた。
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