第二幕・二十三『闘争か逃走 -トウソウカトウソウ-』



 ――……ル。


 ――……れは?


 ――……アリヤ……。




 ――――こいつを使うぞ。




 〜 〜 〜 〜 〜



 声が聞こえる。

 水中から聞いているような、こもった声音だ。


 身体が震える。

 雪の降った日のように、指先から毛穴まで張りつめたような寒さを感じる。



 ――――この感覚、何度目だろう。


 そう思いながら、自我を自覚してミツルは乾いてへばりついた瞼をゆっくりと持ち上げる。


 眩しさは無い。いつも真っ先に現れる直視できない陽光の代わりに、今回は雨水に濡れて艷めく葉を付けた木々の間から灰色の空が顔を覗かせているだけだ。


 雨はんでいたが、止み終わってからまだ時間が経っていないのだろう、背中に服がへばりつく気持ち悪さにミツルは顔をしかめた。


「――……ツル」


 なぜ背中が濡れているのか。それは見ている緑色と灰色の景色と、後背に伝わる冷たい草の地面との密着感から理解していた。


「――――ミツルッ!!」


 突然の甲高い声と同時に、首から下に人肌の温かい圧迫感が押し寄せた。冷えて軽く身震いする寝そべった身体にぬくもりが広がり、いつぶりかの安堵の息を吐く。


 未だ霞む視界に景色と一緒に映る女性の面影が見え、ぼーっと懐かしみを感じながらじっくり十数秒、必死に呼びかける彼女を見据える。


 整った細い輪郭に長いまつ毛、大きく開閉している唇は潤いを持っていて柔らかそうで、思わず触れてしまいたくなる。


 …………ア……リヤ……?


 人間思い込みというものが激しく、一度そうだと思うともうそれにしか思えなくなってしまう節がある。

 木目が霊の顔に見えるだとか、本当は安価なのにこれは高級な食材と勘違いするだとか、表立っては善良な奴がある日悪行を働いているのを目撃して悪人にしか見えなくなっただとか、数え上げればきりがない。


 声の違いで気付くはずなのにミツルは気付かず、けれど自分の名前を呼ぶからには知り合いなのだろうと未だ胸のあたりに顔をうずめている少女の頭を優しく撫でる。

 少女は数度頭を撫でられると首をゆっくり上に持ちあげる。水滴のついた蒼いショートヘアは湿気を吸い込んで少しばかりうねり、どうにもそれがミツルにはいつもの元気をなくした花のように思えてならなかった。


「お願いだ返事をしてくれ……頼む。――ミツル……!」


「…………ローリア……?」


 微かに漏れる声を懸命になって押し出しながら、ミツルは再認識した目の前の少女の名を呟く。


「ああ。…………ああ……ッ」


 声を引きつらせながらかすれた声で呼応するローリアの目から水滴が落ち、ミツルの頬へと到達したあと飛び散っていく。涙は身体に伝わる温かさ同様にどこか熱いものがあり、まるでローリアの想いや感情を含んでいるかのようだった。


「ミツル、さん……」


 ローリアとは別のおそるおそる発している声が聞こえて、ミツルは聞こえてきたほうへと顔を傾ける。


「……シエラか」


「はい」


 ミツルの呼びかけに数歩離れた位置に生えた一本の木の前で立つシエラはわずかに頷きながら返事をする。彼女の顔は内情をそのまま表したようで、横たわるミツルを心配げに見つめている。


 ミツルは抱きつくような形で胸に覆いかぶさっているローリアとの圧迫感から五体に感覚がしっかりとあるのを捉えると、ローリアの頭を支えながら腹に力を込めて起き上がった。


「おい。あんまりくっつくと濡れるぞ」


「…………」


 心配してくれているローリアに優しく小さく語りかけるものの、ローリアは顔をうずめて無言のまま依然としてミツルの身体から離れようとしない。


 ミツルは無反応のローリアに軽く溜め息を吐きながら周りを見る。

 辺りを見渡してみるかぎり、洞窟からは出ているようだがまだ森の中にいるらしい。


 奴は、レィ・ドワールはどうなったのかと遠く微かに見える洞窟の入口を見てミツルはふとあることに気付いた。


 まずは右目に手をあてて左目だけで風景を見る。次いでその真逆、左目に手をあてて右目だけで彼女らを見る。


 ――――見えるのだ。それも普通の見え方ではない。ローリアたちのちょうど胸のあたりが、もやのように色づいている。


「――その様子、見るからに不可思議なつらをしているのを見るに、どうやら移植は成功したようだな」


 起き上がったミツルの後方からローリアでもシエラでもない三人目の声が聞こえて、ミツルは声のしたほうへと振り向く。

 そこにいたのは、凛々しさを醸し出しながらもミツルと同じく無表情な顔で立っているセリアだった。


 騎士が駄目ならセリア自らが赴けばいい。そういった考えに至って今この場にいるのだろう。無様に逃げ帰ったあの日にセリアが言っていた『策を講じる』ということが、よもや自分が出れば解決するだろうという考えだったとはセリアも存外に単純な人だ。――しかし、ミツルはそんなことよりもセリアの言葉に引っかかっていた。


「…………移植……」


 その単語を復唱して小さく呟くミツルにセリアはローリアへと顔を向け、


「ローリア、水で鏡をつくってやれ」


 その言葉に抱きついていたローリアは身体をぴくりと震わせて、ようやくのらりとミツルの身から離れた。


「――ッ、……はい」


 言われたローリアは持参していた自身よりも少し長めの杖を空中に円を描くようにして振るった。するとまるで割った皿が時間を巻き戻して元通りになるかのようにして、大気中から水分が一点に集合していく。水はたちまち円形へと形を変え、数秒後には子供が両腕をめいっぱい広げるほどの大きさにまで発展した。


 横から見ると薄っぺらく、表面から見れば黒尽くめな男が死人のように青ざめた顔をして映っている。


 片目は前髪がかかって隠れているが、本来の真っ黒な色とは異なった鮮やかな色彩が髪の隙間からちらりと垣間見え、ミツルは前髪を持ち上げた。


「――――!?」


 息を呑むほどに美しい緑色をした右の眼球。

 宝石のように綺麗で、それでいて澄んでいて、奥を覗き込むと吸い込まれそうになる、唯一無二に信頼した大切な人の一部分。


 ふところを急いでまさぐるが大事にしまったはずの小瓶は無く、その中身が今、ミツルの空洞だった右目にはまって機能していた。


「……ボク達が洞窟に入ったときには、既にキミは満身創痍の状態だった。腹に大きな穴をあけて血だらけになっていたんだぞ……」


「そ、そんなミツルさんを外まで連れているあいだに、小瓶が落ちて……」


 言いながら、ローリアとシエラはミツルからセリアへと視線を誘導するように移す。


「…………」


「…………」


 ミツルもセリアも無言でしばし見つめ合う。ローリアとシエラがその様子をどぎまぎしながら見ている中、ミツルが先に口を開くと、


「……礼を、言うよ」


「ほう……?」


 セリアに対する開口一番のその意外な言葉に、ローリアもシエラも、セリアですらも眉を持ち上げて少々驚く素振りを見せる。


 単純で無機質で、儀礼的とも取れる一言ではあるが、他人を突き放してきたミツルの口から出ようとはこの場の誰もが予想だにしなかったのだろう。事実、


「てっきり『よくも勝手なことを』と、罵倒するものだと思っていたが……そこまで恩知らずではなかったようだな」


 セリアは瞬時に落ち着きを取り戻してそう言ってのける。


 ミツル自身その言葉に嘘偽りはない。彼女が生き返ったりはしていないけれど、彼女の、アリヤの一部分が己の身体と結合し、ほんのわずかではあるにせよ一つになれたのだから、セリアには感謝こそすれ、そのような怒りの感情を持つことはない。


 セリアのことだ。『ひとえに傷を治すついでに目も治した』という理由だけではないだろう。


 ミツルが単独で狂人に自殺まがいに突っ込んだように、自身の身体を傷め、蔑み、自虐しているさまをセリアは苦に感じていた。


 しかしそれも自分の身体に大切な人が入り混じれば、自ずと己を大切にしなければならなくなる。

 自身を傷付ければアリヤをも傷付け、自害しようものならアリヤを再度殺すことになる。


 つまりこのアリシャの翠眼はある種の呪いでもあるのだ。

 これでミツルは死ねない身体になってしまったのだから。


「――その……、奴は?」


「ボク達が入ったときには、いなかったな?」


「はい。ミツルさんがうつ伏せで倒れてるだけでした」


 ローリアとシエラの返答から察するに、シュレディンガーの猫状態だったレィ・ドワールは、どうやら『まだ生きている』という選択に向いているらしい。


 あれだけ殴り、歯を折り、骨を砕き、眼球を刺し潰し、四肢を切り刻んだというのに、一体何が奴をそこまで強くしているのだろうかと疑問に思いながら、ミツルはそれと同時に思っていたもうひとつの疑問を目の前に佇む命の恩人たちに言葉として放った。


「……なんで、どうして来たんだ。それに、ペトラは」


「ボクの家で留守番だ。あの子をこんな禍々しい場所に連れてこられるわけ無いだろう?」


 ローリアは破顔しながら雑談でもするように悠々とミツルの質問を返す。


「置いてきたのか……?」


 ぺトラスフィルはまだシエラよりも幼い女の子だ。口が達者でも家事ができても、この世の残酷さを知っていても、彼女はそのわずかな人生を怠慢な男にすべて捧げてきたに過ぎない。きっと金を稼げといえば貴重品を盗んでくるし、飲食物を買ってこいといえば廃棄物の中のものは食べさせるわけにはいかないからと、脅してでも店からかっぱらってくるだろう。


 ペトラは心優しいが常識を知らない。あの男はそれを教えようとしなかった。加えて今は主人であるミツルから遠く離れた場所にいる。まだ体も弱っているのに、なぜ置き去りにしてきた。ペトラは孤独なのに、どうして。


 ――そんな戸惑いの表情をその顔に浮かべるミツルを見て、少女二人はやんわりとした優しげな笑顔で、


「ミツルが独断で行動したように、ボク達も勝手に行動したまでだよ」


「それにはペトラちゃんも賛成してます。今はローリアの家で待機してますけど……。『元奴隷を見くびるな。数日食べなくても平気だから』って」


「さすがにそれは駄目だから、ここに来る前飲食物も買っておいたし、家にある物は遠慮せず好きに食べて飲んでくれとは言ったけどな」


 二人は互いに顔を見合わせて軽く笑みを見せる。


「……なんだかんだ言って、ペトラちゃんだってミツルさんを放っておけないんですよ。それにペトラちゃん、言ってましたよ。見守るって。――それを承諾して、ミツルさんはここまで来たんでしょう?」


「そんなのは分かってるよ……! お前らがどんなにお人好しなのか。わかり過ぎるから、わかり過ぎて辛いから、分からない振りをして、お前らを傷付けないようにして独りでここまで来たんだ」


 元の世界で愚者しか見てこなかったミツルからしてみれば、アリヤやローリア、シエラにペトラスフィルはあまりにも良心的過ぎる。新鮮なものは気付きやすいのが道理だ。これで分からないほうが鈍感も甚だしいというものである。


「けど、一人で無茶した結果がこれだろう。――それこそボク達だって同じ考えだよ。ボク達からしても、ミツルには傷付いてなんてほしくない。復讐なんてものでミツルの人生が制限されて、一体誰がボク達の悲哀を慰めてくれると言うんだ」


「前にローリアが言ってたじゃないですか。少しは私たちも頼ってほしいって。ミツルさん、今がその時なんですよ」


 ローリアとシエラは眼力鋭くミツルに訴えかける。


 この娘たちは優し過ぎるがために、ミツルのような人間であろうと自分の命を顧みずに助けにくる性格だ。


 自分よりも他人が大事などと絵空事を並び立てる大馬鹿者だ。


 愚かな考えだと自覚しながら、それでも己の信念を貫き通してこんな所にまで手を伸ばしてくるどうしようもない奴らだ。


「――ボク達を傷つけたくないのなら、ボク達から離れないでくれよ! ボクにとっては、キミが離れてしまうことが傷つくんだよ。ミツルの判断でミツルまでもがアリヤと同じ道を辿ってしまったら、ボクもシエラも、ペトラだってひどく傷つくし凄く悲しむんだ。一方的な自己満足でキミだけが去るだなんて…………ずるいよ……」


 眉を八の字に曲げながら、ローリアはしつこくミツルに訴える。

 それでもなお折れる姿を見せないミツルに、その様子を今まで黙って見ていたセリアが顎に当てていた手を引いてようやっと口を開く。


「お前が人間不信だという話は前に聞いた。私だって、いや、皆同じなんだよ。いつでも誰かに怯えて、媚を売って。――だがお前がその何倍もの不信感を抱いているのは、今まで出会った者達が愚かだったからに他ならない、そうだろう」


 とうの昔に分かりきったことを述べ立てられてミツルは再び口を開こうとするが、それよりほんのわずか早くセリアが言葉を続ける。


「目を開け、口を開くな。――お前が出会った奴らが総じて愚者だったとしても、これから出会う者達が必ずしもそうだとは限らん。現に見てみろ。お前が新たに出会った中で、こうして嘆き悲しみ、お前のために涙を流している奴がいるだろう」


 促され、ミツルはローリアたちへと黒く曇った瞳を向ける。彼女らは弱々しくその目を潤わせながらも、確固たる姿勢でミツルを見据えていた。


「――これでもお前は、この二人が裏切ると、そう思うのか? この涙が、贋作だと言えるのか?」


「…………」


 雄弁に語るセリアを筆頭に、ローリアとシエラはミツルに対立する。ミツルを救うためにミツルと言葉をぶつけ合いながら。


 ミツルの人格から、自分はいつも自己憐憫に陥っているのだということは自覚している。


 自身のことばかりに目を向け、彼女達の不幸や悲しみなどそっちのけ。自分のあわれさは他人の不幸とは程度が異なると、自分ほど世界から嫌われている者などいないのだと、小さい頃からずっと思い続けてきた。


 一度彼女達のことを考えねばと思いながらも、終局的にはいつも自分の慰めへと戻ってきてしまう。


 彼女らが口にしている『心配』だとか『頼れ』だとかいう言葉は建前上で、ローリアの、シエラのアリヤに対する死の悲しみはミツル自身が引き起こしたものなのだと。だからローリアもシエラも、きっとミツルのことを憎んでいるに違いないと。どうしてもそういった考えに結論が至ってしまうのだ。


 世の中には途方もない時間を費やしてでも裏切ることを企む輩もいる。それこそ何週間何ヶ月という単位ではない。何年、何十年とだ。


 人間の執念とは文字通りに恐ろしいもので、自身に身に覚えのない事柄でも相手にとってはその人生を棒に振ってでも成し遂げたい場合もあり、相手との信頼関係をじっくり築いた後に打ち壊すことに快感を抱く。


 これまで文句一つ言わなかった愛する養子に刺されるのだってよくある話で、そしてそれはミツルにも当てはまることだ。


 アリヤを殺した憎きレィ・ドワールのために長期間鍛錬を積み、実際に先ほど復讐したばかりだ。


 奴の目――あのすっとぼけたような馬鹿げた面を見るに、おそらくアリヤ達のことは憶えていなかったのだろう。

 殺し過ぎていちいち顔なんて覚えていない。そんな表情をしていた。


 だからあり得る話なのだ。ローリアが裏切るのも、シエラが裏切るのも。

 ミツルが知らず知らずのうちに彼女達に嫌な思いをさせ、それが引き金となって後ろ頭をぶち抜かれる。そんな未来が容易たやすく想像できるのである。


 ミツルはアリヤを殺したレィ・ドワールを憎み、ローリアとシエラはアリヤを死なせたミツルを怨んでいると。


「――いつまで意地になっているつもりだ貴様は。なぜ素直に助けてほしいと願えない? なぜわかっているのに、正直にわかったと言えないんだ」


 知らぬ間に地面を見つめていたミツルの頭に、セリアは諭すようにして鋭く発する。


『信じる』。その言葉を美味しく飲み込めるのは、ミツルからしてみれば赤ん坊が異国の字を読むのと同等以上に難しい。

 いかに仲が良かろうと、いかに善人であろうとも、人類の歴史には数えきれないほどの裏切り行為が書き綴られてきた。当然記録にも記憶にも残っていない裏切り者もいる。そう考えればなおさらだ。


 アリヤは特別だった。アリヤだけは信じられた。だからもう――――


「――ボクが裏切るようなことがあれば、死して償おう」


 悲観的に思索していた耳に決意に満ち溢れた言葉が入り、ミツルは思わず顔を上げる。


「そうだな。けど自殺はやっぱり恐いから、できればミツルの手で終わらせてほしいな」


 ローリアは提案するように人差し指をぴっと突き立て無理矢理に笑ってみせる。日常的な会話でもするようにぺらぺらと喋りながら仕草を変え、続いて思い出したように「あっ」と声を上げると、


「でもそうするとミツルが殺人鬼になってしまうな。それは嫌だし……むう……」


「……待てよ。なんだよ。お前、急に何言って……」


 唸るローリアの言葉の意図を悟るのに思考が追いつかず、ミツルは彼女の言葉を制止する。


 自分が死ぬことを考えながら笑い、しかもその方法を思案するだけでなくミツルを優先して気遣うローリア。

 ミツルにはどうもそれが己の死を恐れているが、朗らかに受け入れてでたらめに格好をつけているようにしか思えてならなかった。


「心配しなくてもミツルの手は汚さないさ。汚さない方法を考えているから少し待ってくれ」


「そうじゃなくて!」


 白々しくミツルの言葉を勘違いするローリアにミツルはたまらず声を荒らげる。


「――こうでも言わなければ、ボク達の思いが伝わらないと思ったからだよ」


「ローリアだけじゃない。私の気持ちも、本当に本物です!」


 ローリアの言葉に続いてシエラも便乗し、二人はじりじりとミツルに迫り、ついにはゼロ距離まで寄ってきた。


「……それに、一人で無茶をして戦うよりも、私達に相談してくれてたほうがきっともっといい解決策が出てきたかもしれませんよ」


 シエラは詰め寄った末に見上げるようにして淡い笑顔で優しく語りかける。


 一人で突っ走ったミツルに関しては、シエラの言葉に一理ある。アリヤを死なせて冷静さを欠き、自暴自棄になって手当り次第に叩きのめした。結果としてはある程度の強さを身に付けれたものの、そのリスクは計り知れない。


 ごろつき達に面は割れたし、素性がそのリーダー格だったぺトラスフィルの元主にも悶絶と気絶させるほどの殴打をしてのけた。それ以前に金目の物をふんだくってもいるのだから、当然怒りも恨みも買ったし、服の下に雑誌を仕込んでおかなければこの先危険であることは自明の理だ。


 シエラの言葉にミツルは自分の短慮を唇とともに噛み締め、言い返そうと吸い込んだ空気を喉に押し込める。


 アリヤ亡くした今、信じるべきものは――


「――――もう一度、もう一回だけ、最後の最後に、ボク達だけでも信じてくれないか……ッ!」


 ミツルよりもずっと身長の低いローリアとシエラ。だというのにミツルのほうがずっとずっと低く、取るに足らない存在で、彼女たちから教えられているかのようだった。


「…………馬鹿だな。お前らは……」


 どす黒くいびつに割れた雲の隙間から天使の梯子が地上へと繋がり、幻想的な世界に夢幻的な光景を描く。美術館で展示された中世絵画のようなその風景は、少女たちの言葉に力を与え、そしてミツルの背中を押してくれるような暖かいものにも思え、


「――――…………なら……そこまで断言するのなら、約束だ。二人とも、小指出せ」


 そう言ってミツルは小指を立てて真似るように促す。

 それを見たローリアとシエラはならって小指を突き出すものの、表情はきょとんとしたものだ。


「えと、あの……何をするんですか……?」


「ゆ、指を切り落とすのか……? ああは言ったが、まだ心の準備が……っ」


 二人の悲しんだりとぼけたり怯えたりところころ変わる豊かな顔を眺めて、ミツルは思わず笑みをこぼしながら三本の指を交じ合わせる。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます――」


 棒読みかつ無機質な声で意地悪く発するミツル。それを聞いた二人の少女は口をへの字に曲げて怯えたうさぎのように震える。


「――指きった」


「………………まじない?」


 呆けるローリアをよそにシエラがゆっくりと一言呟く。


「言っとくが、俺は本当に千本飲ますからな」


 斯く言うミツルの口調は真剣そのものだが、目と口は久方ぶりに上がっていた。


「望むところだ。キミこそボク達を裏切るんじゃないぞ。今の約束は、双方に対するものだからな」


 ローリアは手を腰に当てて、自信ありげにミツルの目をまっすぐに見る。


「その言葉、さらにそっくりそのまま返すよ。裏切らないと言って裏切る、と思わせておいて裏切らない。そこまで練って裏切ると、俺は常に予測し続けるからな」


「それでいいさ。その予想をさらにボク達は裏切って、ミツルの入り浸っている汚い泥沼から引きずり出してやる」


「上等だ、やってみろ」


 見つめ合っていた視線は固く熱く、闘争心すら芽生えてきているような心理戦へと変わっており、シエラは追いつけずに、ただそれがとてつもなくもの柔らかな縁であると確信した彼女は、元気に尻尾を揺らして微笑ましく涙をためて見守っていた。



 〜 〜 〜 〜 〜



「――――ミツルの無駄に頑固な殻は、無事に砕けたようだな。これで話も円滑に進めることができるというものだ」


 数歩引いて一連の流れを傍聴していたセリアは薄ら笑いを浮かべながら話す。


「……で、結局のところどうするつもりなんだ」


 ミツルの素朴な問いにセリアは瞬時に無表情へと切り替えると、


「奴を叩きのめす。今度こそ確実にな。――いい加減腹が立っていたところだ。私が育成した者共の血を浴びた非礼、詫びさせてもらう」


「……でも、ミツルはマディラムが使えませんよ?」


 ローリアは隣に立つミツルを手で名指しながら話す。


 ミツルはローリアとシエラには信頼関係を結んだものの、その他の全人類においてはまったくもって軽蔑の目しかない。心が軽くはなったがアリヤに対する傷も癒えてはいないし、世に対する侮蔑と失望の念もなんら変わってはいない。変わっていないということはマディラムが使えない事実も変わっていないということでもある。


 実際、つい数分前に試してみたが案の定駄目だった。光のマディラムも使えなければ闇のマディラムも使えない。今のミツルには裏商売でたったの銀貨一枚で手に入れた背中にある細身の両刃の片手剣一振りと、コート内に仕込んだ幾本もの折りたたみナイフで物理的な近接戦闘を行う以外に方法はない。


「私も善処しますけど、皆さんのように上手く戦えるかどうか……」


 尻すぼみな声でそっと手を挙げながら、シエラもまた自身の短所を語る。


 セリアは黙考して腕を組むが、判断力や洞察力も磨き抜かれた実技科の教師の肩書きは伊達ではなく、ものの二秒ほどで再び口を開いた。


「幸いレィ・ドワールにはミツルがある程度深手を負わせているはずだ。ここに来てミツルの無情さが役に立った…………が」


「消えていたということは、まだ動けるほどの体力があるはず」


 言葉の先をミツルが続け、セリアはそれに「そうだ」と頷きを入れる。


「弱っているからと警戒を怠るな。――ミツルは前衛に出て奴のマディラムを打ち消せ。可能ならば追撃しろ、だが踏み込み過ぎるな」


「ああ」


「シエラは中距離からの遊撃だ。それには私も加わろう。――なに、常時指示を出すから、その通りに動いてくれればいい」


「え、あ……はい……!」


 ミツルが近距離、シエラとセリアが中距離、つまりはローリアが、


「そしてローリアが後方支援だ。奴は他人の意外性を突いてくる節がある。一番離れているからと油断するなよ」


「はい」


 ローリアは真剣な眼差しではっきりと返事をする。シエラよりも緊張感を抱いているのも無理はなく、なぜならアリヤが最もレィ・ドワールから離れた位置から攻撃されたのだから。


 レィ・ドワールはミツルと共通している部分がある。もしかしなくとも、ミツル以外の、他の人間にも言えることだ。


 古人曰く、他人の悲劇は常にうんざりするほど月並みである。


 人間結局のところ一番可愛いのは自分であり、他者が幸福になると嫉妬心を芽生えさせてしまう愚かな生き物だ。

 素直に讃えることすらできず、なぜ自分ではなくあいつが幸せを勝ち取るのかと、妬み嫉みを繰り返す。


 レィ・ドワールは言うなれば負の感情の化身だ。

 他人が不幸になれば嬉しいし、逆に不幸になるよう仕向けているのに幸せそうにしていると、怒り猛り狂う。


 ならば怒りや哀しみの感情を堪え隠し楽しそうに喚けばいいと思うが、ミツル自身そんな器用なことはできないうえに、アリヤの死を嘘でも喜ぶなど無理極まりない。


 ――だからぶつかる。正面から、今度こそ。


 生物的に最強のクマムシにも駿足のアキレスにも弱点はある。四肢を切り刻んでまだ生きているのなら心臓を、それが駄目なら脳を。


 既に奴の両の目は破壊した。しぶといが確実に命の灯火は削れているはずだ。不死身ではない。


「――もう少し休憩をとったら向かう。これは訓練ではない。君達のことは私が全力をもって守るが、人の身である以上限界はある。命の保証はできないことだけは胸に刻んでおいてほしい」


 晴れて雲の隙間から、そして木々の隙間から差して明るさを取り戻した森の中で、三人の「はい」という返事だけが響き渡った。


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