第二幕・二十二『いつか聞いた君の声 -イツカキイタキミノコエ-』



 ――城門をくぐることなくコートに付随した風の加護で空へと飛び立ち、一辺数キロはある七角形の城壁の上を通り国を抜けて一直線に森へと向かう。


 上空から下を見ればだだっ広い草原の真ん中にかつて四人で歩いた道が延々と続いており、一瞬視界にその時の様子がフラッシュバックする。


 三人の少女が笑顔を振り撒きながら歩き、笑わずとも仲間に囲まれ安堵している愚かな自分自身の背中を見返して、隙だらけで甘々だったなと客観視する。


 ――空は曇天、薄い色をした蒼の空は分厚い雲を突き抜け遥か上空に行かなければ見えず、今は綿菓子を墨に漬けたような灰色の雲が一面に渡ってどこまでも浮遊しているだけだ。

 雷の轟音こそ聞こえないものの、肌身に伝わってくるその湿気に雨水が上方で蓄えられていることを想像しながらミツルは空中を突っ切っていく。


 ――しばらく飛翔していると、平面な世界の中に凸レンズのように隆起した丘が見えてきた。

 朝早くに出た甲斐もあってか、前回ここの地点で既に日が暮れかけていたのに今はまだ昼頃だ。


 ミツルは速度を落として空中でじっくり数十秒その丘を見つめると、ゆっくりと下降して数ある丘の一つの頂部へと足裏を着けた。


 彼女と共に寝転び、星を見、言葉を交わし、肌を触れ、涙を見せ合った思い出の場所には、今は自分一人のみ。

 寂しいなんて感情は抱かず、その代わりに憎悪の念が身体を支配している。

 奴をどうなぶってやろうか、アリヤの感じた苦しみ以上の苦痛を与えてやろうと、そんなことばかりを考える。


 あの日に戻れたのなら、彼女を思いきり抱きしめたい。抱きしめて、セリアの依頼を断りたい。

 被害がどうだというのだ。見ず知らずの赤の他人のために命を散らすよりも、何よりも大切な人を優先するほうが人間らしいし当然の行いだ。


 今は露で草が濡れているため、寝転ぶことは叶わない。だから寝転べない分の思いを、拳に集中させて堅く握り締める。


 空を仰ぎ見ると同時に、ぽつりと一滴頬に液体が落ちてきた。一滴、また一滴とそれらは落ちてくる間隔をだんだんと縮め、次第に無数の雨となって地に降り注ぎ始めた。


 かつて彼女が寝そべった場所に手を触れると指先に冷えた草の温度が伝わり、時間の経過をその身に教えられる。俯き、地面を目視するミツルの垂れた前髪から水滴がぽたりと滴り落ちる。


「…………」


 雨が降ってきたこともあり、ミツルは無言のまま再び空へと飛び立つと、丘を一度も振り返ることなく目的地へと去って行った――。



 〜 〜 〜 〜 〜



 薄れつつある記憶を頼りに、ミツルは道順に沿って上空を翔ける。

 思い出の丘から立ち去ってはや小一時間、前方に丘陵地帯が顔を覗かせる。そこを下ったところにある広大な地域の中央部には、前回の目的地であった鬱蒼と生い茂る森林。


 避けるように周りに土の道が囲い、だだっ広い大森林の真ん中だけを刈り残したように不自然な森は、まるでその場所に足を踏み入れれば祟りでもあるのではないかと疑うほどだ。実際、ミツルは一度あの場に入って最悪な目に遭った。


  もしかすれば過去に何度も同じようなことがあったために、皆恐れを為して森の中でもその場所だけを伐採せず残しているのだろうかと、ミツルは独り思考を巡らせながら森へと躊躇無く向かう。


 今回の目的は森ではなくその中に存在する洞窟だ。そしてさらに洞窟の中に居る異形の怪人、レィ・ドワールの単騎討伐。


 長かった。辛かった。とてつもないほど、恐かった。

 侮られないように他人の前では冷静沈着な態度をとって見栄を張っているが、本来ミツルは虚弱なのだ。心霊系が怖くないのは事実だが、生きた人間に関すれば末恐ろしいことこの上ない。


 彼女は、アリヤはそんな性格をしっかりと見抜いていた。見抜いた上で、腹黒く狡く醜く汚い生き方をしているミツルに親身に寄り添い続けてくれた。

 一度突き放し、終わらせようとしたこの愚かで臆病な身体に腕をまわし、涙を流してくれた。


 だから彼女の報いを奏でるためにと、ミツルは真下にまできた森を俯瞰すると、羽を折り畳んだ鴉のように暗い木々の中へと吸い込まれていった。



 〜 〜 〜 〜 〜



 小降りになった細かい雨を葉に受け止める木々を縫いながら、ミツルは単独で慎重に奥へと突き進んでいく。この森を寝床としていたバッドグリムはすべからく退治したはずだが、それでも残敵がいる可能性は十二分にあることを考慮して、ミツルは過去の自分の比にならないほどに病的なまでの警戒心を装っていた。


 話し相手も気遣う相手も守る相手もいない分、そのリソースを総じて自身へと向ける。

 視線や気配だけでなく、草の揺れる音から虫の飛び立つ羽音、さらにはぬかるんだ地面を踏みしめる音から空気の振動まで、ありとあらゆる物に対して過敏に敏感に過剰に感覚を研ぎ澄ます。


 レィ・ドワールに限らずミツルに襲いかかるもの全ての肉を削ぎ落とし、骨を断ち、五臓六腑をぶちまけることだけに意識を向け、ミツルは背中に背負っていたひと振りの細い両刃の剣をしゃらんと音を立てて抜き取り、洞窟目掛けてひた歩み続けていた。


 ――集中力とは凄まじいもので、極限までそれに陥ると視界がせばんで思考が停止する。だが不思議なことに視界外のものにも鋭く勘づくようになり、停止した思考も、逆に言えば邪心が無くなったことによって周囲をコンマ一秒見ただけで次に何をすべきか判断できるようになる。


 時間は倍速で過ぎたように感じ、その間一切の感情が遠くどこかへ吹き飛ばされたように消え去るのだ。


 今現在その集中力に入っているミツルの中での時間は感覚的に早くなっており、それ故に洞窟にたどり着くのにもそう遅くは感じえなかった。


 冷たい空気を吐き出しながら大口を開けている洞窟の前に立ち、ミツルは雨で濡れた顔を袖で一度拭うと、決意はとうに固まっていたため躊躇うことなく怪人の住まう洞窟内へと踏み込んで行く。


(――――楽に死ねると思うなよ)


 怨嗟えんさを含ませた視線で前方を睨み続けながら、ミツルは迷いを忘れた蟻のように一定の速度を保って洞窟内を進んでいく。じめりとした蒸し暑い外気とは打って変わって、洞窟の中は初冬のようにひんやりとした大気状態が蔓延している。


 光のマディラムを使えなくなったために雑貨屋で購入した光を発する棒を片手で掲げながら、奥へと睨みを利かせる。


 淡い白色の光を放つ棒はさすがに懐中電灯や照明ほどの明るさを持ち合わせていないものの、それでもかろうじて足元周辺数メートルは照らしてくれる。こうも雨が降って湿気が多い状況では、松明の火はそう長くは持つまいとして、事前に予想して買っておいたのだ。


 この棒の中には光のマディラムのオーブが閉じこめられている。棒を手で折り曲げたり、壁や地面に叩きつけるとひびが入り、その隙間から伝わるメルヒムの魔術回路が反応して発光する仕組みだ。


 ――洞窟に足を踏み入れて十数分、そろそろ奴の姿が現れてもいい頃なのだが、依然視界には白い光を発する棒と薄闇の暗黒世界が広がっているだけだ。


 暗い洞窟内にも目が慣れて少し見えてきたとはいえ、それでも暗いことに変わりはない。


 ミツルはポケットのたくさん付いている一張羅のコートをまさぐると、中からさらに数本、光の棒を取り出す。

 ミツルは取り出した発光する棒を手に持つと、光の届くぎりぎりの範囲に間隔をあけてその棒を地面や亀裂の入った壁に突き刺していく。


 ものの数分後には、辺り一帯は手元の棒無しでも何ら問題ないほどに明るく照らされていた。この中でなら、前回ほとんど見えていなかったレィ・ドワールとの戦闘になろうとも相手の動きが見えるというものだ。


 しかし、これは闇のマディラムを使っていたミツルからしてみれば、危険を増幅させたも同然の行為だ。

 辺りが見えるようになったのは有り難いことだが、影とは光の強さが増すほどにその濃さを際立たせる。


 影が色濃くなればなるほど闇のマディラムが扱いやすくなるのは明瞭であり、それはつまり、闇のマディラム使いであるレィ・ドワールの牙をミツル自らが鋭く磨きあげたと言ってもいい行いなのだ。


 だが背に腹はかえられない。ある程度の危険を承知でミツルは視界を手に入れた。この恩恵は大きい。


 ミツルは地べたに座り込むと、レィ・ドワールが来るまで待機することにした。アリヤやシエラならば絶対に恐がってこんなことはできないだろう。けれどミツルは、アリヤを一人そうさせてしまったのだ。


 ――アリヤの身体はどうなったのだろうと、とてつもなく嫌なことを考えていると、奥のほうから軽い音を立てながら小石が転がってきた。


 ミツルは拳ほどのその小石を手に取ると、転がってきた先方へと目を向けた。そこには当時から今に至るまで抱え続けてきた憎悪そのものが、いた。


「――おやおヤ。おやおやおやぁ? ワタクシの神聖なるこの住まいに来客とは、いつぶりになりますでしょう、カ」


 気味悪く人差し指を顎にあてて記憶を探る異形の化物を見て、ミツルはゆっくりと立ち上がる。


「心地良き住まいヲ、こンなにも不純な明かりで満たしテしまっては駄目でしょう」


 辺りをきょろきょろと不気味な動きで見渡すそんな狂気の怪人、レィ・ドワールの言葉を無視してミツルは一旦しまっていた背中の剣をいま一度引き抜くと、大きく深呼吸をする。


 ――やっと見つけた。やっと、殺せる。


「一つ、質問がある」


「なんですカなンですか?」


「自分を傷付けに来させたいなら、なんで相手を殺すんだ」


 ミツルの問いにレィ・ドワールはにんまりと気持ちの悪いにやけづらを浮かべる。


「決マっているではありマせんか。生命トはマディラムをも超越しうるこの世の奇跡デス。そんな叡智ヲ壊セたのなら、一体どれほどノ性的快感を体験できるのでしょう。そう感じたかラですヨ」


 そう言ってレィ・ドワールは無機質な声でかっかと嗤笑する。


 なるほど。こいつはマゾヒストであると同時にサディストなのだ。


「アナタ、知らないでしょう? 血肉の味を、臓物の匂いを、骨の砕ける音を、死ぬ寸前の、悲痛な叫びヲ!」


「……お前だって知らないだろうが」


 天を仰ぐように両手を広げて恍惚の表情を浮かべていたレィ・ドワールに、ミツルはそっと息を吐くような声で呟く。


「死の感覚を」


 ミツルも一度死んでいるから。アリヤがどれほど痛く苦しんだか、こいつは知らないだろうから。


「殺しとはある種芸術でもアリます。紅い雨の中デ肉を断ち、骨ヲ砕く音が楽器ノ役割を果たシ、それに悶え泣き叫ぶ声は詩とナリ唄となる。想像してご覧なさイ。斯くも幻想的ではありまセンか」


「狂ってるな、お前」


「ああ――狂ってイマスとも。だがしかシ、それはアナタも同じではないのカ……?」


 同じ。この狂人が言っているのは、ミツルが今人生を費やして行っている復讐のことだろう。復讐に飲まれ、復讐に駆り出され、傷付けることに躊躇をなくした。その点で言えば、ミツルも狂人と同等ではないのかと。


「人ガ人ヲ殺めて何が悪いノか。戦争では殺した数が多いほドに賞賛される。兵は時に殺ス数を競うことすらアル。と、なれバ。殺すことは遊戯に他ならない。故に――。コロシとは、愉悦でアル!」


「…………」


「弱者は蹂躙サレ、例エ強者を真似ようとモそれは所詮贋作に過ギズ。弱者は弱者のママでいるのが無難でス」


 その言葉を聞いてもう何も話すことは無いと思ったミツルは、脳裏にアリヤの眩しい笑顔を思い描く。そして、


「付き合えよ。――――骨の髄が果てるまで」


 一言そう言って、右脚に体重を落として突撃しようとしたミツル。だが、それも目に入ったあるものによって遮られた。


 レィ・ドワールの、ちょうど鳩尾みぞおちの部分。奴の首から吊り下げられた、レィ・ドワールやミツルの淀みとは正反対の、謎の液体と一緒になって小瓶に入れられた宝石のように美しい玉。


 それと目が合った。否、――――


『――私の目、宝石みたいでしょ? ……自分で言うのも、恥ずかしいんだけど』

『この目ね、『アリシャの翠眼』って呼ばれてるの』

『この目は、他人の思想を理解して、心を色として見ることができるんだ』

『好きだからだよ。君が、君のことが』

『それにさ、この目を使うのだってあくまで確認だよ? こんなの使わなくたって、私はミツルが優しいってこと知ってるんだから』

『私もミツルが信用できるように努力するから、ミツルも私を信じられるように頑張ろう? 一緒にさ』



「――……ッ!!」


 ――その目を見た瞬間頭の中でアリヤの声が思い返されミツルは走っていた。またもや無様に、無作為に。しかし涙は出ず、叫ぶこともせず、ただ爆発しそうなほどに高鳴った心臓を胸に、ローリアの水弾のようなスピードでその小瓶に飛びついていた。


「おお、おお、ソれほドまでにワタクシに会イタかっのぶぉッ!」


 ミツルの体当たりにレィ・ドワールは仰向けに倒れ、その拍子に後頭部を強打して妙な声を漏らす。


 レィ・ドワールは倒れながらもまるで痛覚が無いように痛がることせず、代わりに苦悩を情で表現させたようなおぞましい人の顔をした闇のマディラムを無数に出現させると、ミツルへと噛みつかせようとする。


 しかし魔法のすべてを無力と化するミツルを前に、レィ・ドワールの繰り出した黒顔も例外なくその場で消え失せた。


「…………アナタ。今何をしましタ――……?」


 おそらく素で驚いているであろうとち狂った魔人は、もともと大きく開いている目をさらに剥き出しにしてミツルの無表情な顔を睨めつける。


「…………駄目ですよ。何してルんですか……? 駄目だ、ダメだだめだだめだだめだだだだだダダ駄目なのデす!! わ、私が、オレの喰らうことのできないマディラムがこの世に存在するなど……! あってはならないッ!!」


「黙れ屑が」


 ミツルは鷲掴みにした小瓶を髪を乱れさせながら右へ左へ顔を振り回す魔人の首から引きちぎり、代わりにもう片方の手で開いたレィ・ドワールの口に先ほどの石をぶち込んだ。


 勢いよく無理に捻じ込まれた石はレィ・ドワールの歯を数本へし折り、その歯もろとも喉奥まで入れられる。

 すっぽりと口に入れられた石は取り出すことかなわず、ともすれば噛み砕くこともできずに、レィ・ドワールはもごもごと聞きたくもない言葉を発していた。


 ミツルは手に持った小瓶を割らないよう大切に慎重に懐へとしまうと、目を剥き出してなおも笑っている男に跨って腕を振り下ろす。


 アリヤに穴をあけておきながら、へらへらと笑う者への怒りの一発。


 アリヤに途方もない激痛を負わせた者に対する憎しみの一発。


 アリヤを死なせた挙句に自分は生きている奴への恨みの一発。


 アリヤが死んでしまったこの上ないことに対する哀しみの一発。


 繰り出す一発一発に失くした感情を乗せ、ありったけの力を込めて上から垂直にレィ・ドワールの頬や鼻目掛けて拳を落とす。何度も、何度も。

 これ以上の感情を言い表せないほどに殴りつけ、もう表現できないからとループする。


 レィ・ドワールは血色の悪い青ざめた顔にさらに紫がかったあざを大量に作っていった。


 次いでミツルは小型の折りたたみナイフを二本取り出すと、暗い世界に住み続けて退化しかけたレィ・ドワールの右目に一本目を突き刺した。


「――ぎぃあああああああハハハハハハ!!」


「……これは俺の目の分」


 狂笑しながら叫びまくるレィ・ドワール。じたばたと暴れて両腕を振り回しミツルの頬に爪で引っ掻き傷をつくるが、目を見開くミツルは無反応のまま二本目を狂人の左目に振りかざす。


「そしてこれはアリヤの目の分だ」


 魚のはらわたを裂いたときのように血飛沫がミツルの顔に飛び散る。レィ・ドワールの両の目は真っ赤に染まり、くぼんだ骨格に血溜まりを形成する。


 喉仏目掛けて深々とナイフを刺し、追いかけられぬよう両足を剣で突き刺し抉り、反撃されぬよう両腕を切り刻む。この時点で未だ意識を保っているレィ・ドワールに驚愕を秘めながら、ミツルは最後にあえて急所を外れた箇所を攻撃していった。


 ミツルが攻撃を開始してから終わるまで、その間わずか二分半。レィ・ドワールがミツルの前に現れたのを含めても三分程度。


 一切の無駄を省きながら行ったミツルの半殺しは、もはやある種の芸術とも呼べるものだった。これがサイコパスが言うところの美学なのだろうか。


 ミツルのいた世界でこの事が世間体に知らされれば、その異常なまでの残虐性から狂っていると責められるのはミツルのほうだろう。何せ向こうでは包丁で一刺ししただけで騒がられるのだから。これほどまでの行いはきっと歴史に残る凶悪事件となるだろう。


 しかし、ここメルヒムはそんな生易しくも安心安全な世界でもない。

 言語を話す多種生物のほとんどが凶器を携え、マディラムなどという未知の能力を操り、ひとたび街を出れば話の通じぬ異形の存在がたけりながら襲い掛かってくる。それこそ生皮を剥いだり血肉を喰らったりするようなものばかりだ。

 ――ゆえに、ミツルの行為も異常ではなく正常。


「……そのまま生き地獄を味わえ」


 ミツルは口端と石の隙間から血をあぶいて全身を痙攣させているレィ・ドワールから離れると、一言そう呟いてから来た道へと歩きだした。


 一度殺してしまっては、奴の苦痛はそれきりで終わってしまう。それは避けなければならない。

 ある程度の傷が癒え、痛みが引いてきたタイミングを見計らってまた訪れ、そして残虐行為を繰り返す。


 レィ・ドワールは狙う相手を間違えた。ミツルの異常なまでの復讐心は、おいそれと覆せるものではない。


 もとより普通ではないのだ。それゆえに、普通の人間から敬遠されてきたのだから。逆説的に言ってしまえば、普通の人間から敬遠されてきたがゆえに、こうした歪んだ性格が出来上がった。


 普通の人間を演じる時点で自分は普通ではないのだと、薄々勘づいてはいた。


 周囲の人間がもっと理解を示して、気遣いができて、自分と同じような人格であれば、こんなおぞましく醜い人間にはならなかったのにと、未だについ昨日の事のように思う。


 ――淡い白色の光に照らされたどす黒い狂人を背にミツルは虚無感を感じながら歩いていると、同時に腹の中央部にも重苦しい衝撃を感じた。


 刹那に前方を物凄い速度で何かが飛んでいき、数メートル離れた暗い壁に土煙を散らしながら激しい音とともにぶつかった。


 驚きと共に急激に冷えていく身体に冷汗をその額に滲ませながら、ミツルはどくどくと紅い生血を噴出する己の腹に指先を近付ける。


 酷使し過ぎたように痙攣する手に、ぬめりとした生温かい物体が触れる。腸なのか、肝臓なのか腎臓なのか。何にせよ人体に宿るいずれかの内臓である気がした。それが前面へと飛び出ていた。


(ああ――――まずいな、これは……)


 人間体内にこれほどまでに血液を溜め込んでいるものなのかといっそ関心を抱きながら目を向けて見ると、覗き込めばおそらく反対側が見えるだろう大きな穴がぽっかりと空いていた。


 ミツルはガチガチと震える歯を噛みしめながら、随分と揺らぐ体を耐えて背に感じる狂気へと振り向く。


「――――ひがすと……お、おおおもひでふゅはぁ……ッ?」


『逃がすとお思いですか』。かろうじてそう聞き取れたレィ・ドワールの金切り声を耳に通して、ミツルは激しい嘔吐感とともに重く動かなくなった身体を地面へと倒れさせた。


 見ると、首だけを持ち上げてミツルと同じく倒れているレィ・ドワールの口の中にあったはずの石が無い。

 それも当然だ。レィ・ドワールはマディラムを用いて自身の口を裂き、無理矢理に石を引っ張り出してミツルの腹へと投げつけたのだから。


 疑うでもないがその証拠として、レィ・ドワールの顎は外れ、前側の歯は数本へし折れていた。到底人間が開く口の許容範囲を超えている。


 マディラムの根源にあるものは心、それすなわち意思。いくら腕を切り刻もうとも、どれだけ脚を抉り潰そうとも、そいつに意識があるだけでなく堅い精神力がまだ残っているのなら、マディラムにはさほど影響は無い。そんなこと、考えればわかることだったのに。


(――これで……良かったのか? ここで死ねば……アリヤを……独りにさせることはなくなるのか…………?)


 うつ伏せに倒れ右頬を冷たい地面に密着させる中、ミツルは痙攣しながら遠のく意識でぼんやりと耽る。


 魂というスピリチュアルなものがもし実在するのならば、大切な彼女が最期を迎えた場所で同じく死ねば魂魄を共にすることができるだろう。

 その場所がどんなに暗くて寒くて寂しい場所であっても、彼女と一緒なら、苦ではない。


 痙攣も次第に過ぎ去り、せめて奴を道連れにと思い全力を振り絞るが、感覚の無い指先がわずかにぴくりと動くだけでそれ以上に身体を動かすことはできなかった。


 ミツルは最終目標であるレィ・ドワールを殺めることすらできずに、未だ力不足の自分を卑下しながら徐々に閉じていく視界に血まみれの怪人を最後まで映し続けた。


 彼女の家で育てられていた白い花が、透明と化していることも知らぬまま――。


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