第二幕・二十一『透明な鈍色 -トウメイナニビイロ-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――城下町が見えぬ濃い朝霧の中、露で濡れた草々が朝日に照らされて一本一本がダイヤのように煌めいていた。遠目から見れば、草原の中に宝石が散りばめられているのだと錯覚するほどに。


 気温の低いひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込むと、身体全体の体温がぐっと下がったのをミツルは感じる。眠気も覚め、地平線から漏れ出る朝日を見据えながら、この世界にもまた今日が来たことを知る。


 溜め込んだ空気を吐くと口から白息しらいきが放出され、大気中に霧散して消えていった。


 その様子をぼーっと眺めていると、隣で同じくして白息を吐いているぺトラスフィルがそっと幼さの残った声を発する。


「――地べたに這いずっていたオレが、こんな上空から世界を見渡せるようになるなんてなぁ……」


 黒衣の男の手を握り締め、高く壮大な上空にヘリコプターのようにホバリングしながら、鼻先を赤く染めるぺトラスフィルは感嘆を漏らす。


「手は離すなよ、落ちるからな。それと空気が薄いから長居はできないぞ」


「ああ」


 ミツルの今の言葉がきちんと伝わっているのか、ぺトラスフィルは前方へ顔を固定させたまま見向きもせずに生返事で済ませる。


 誰しもがマディラムをその身に秘めていると言えど、それを実際に具象化して扱えるかは適性によって決められる。どれだけ想像力豊かでも皮肉な話だ、適性が無ければ一切の反応が出ないのである。


 けれどマディラムを使える者のほうが多いらしいこの世界では、逆にぺトラスフィルのような存在は貴重といえる。それにマディラムなんかが使えなくとも手足が動くのであれば、肉体そのものを武器にだってできる。ミツルの元いた世界では、むしろそれが普通だったのだから。


 ――早朝、奴隷から自由人となったぺトラスフィルの「鳥の目線から朝日を見てみたい」という要望に応えてやるべく、ミツルは猫すらも暖炉に縋る中、寒さを堪えて上空数百メートルを飛んでいた。


 昔から寒さにめっぽう弱いミツルは黒革のコートのほかにグレーを基調とした、真ん中に一本白いラインの入ったロングマフラーを首に巻いていた。


 ぺトラスフィルには自分が良いと思うものを選ぶよう言った結果、ボロ布を繋ぎ合わせただけの奴隷服に慣れてしまっているからなのだろうか、七分ほどの袖の紺色シャツに黒のショートパンツと、あまり布面積の多くない服装になった。

 ミツルはせめてこれだけでもと深紅のマフラーを渡してやったところ、人生初のプレゼントだったからか随分とお気に召したようで、首に巻いてはさっきから何度ももふもふと嬉しそうに触っている。


 アリヤの死後、自分が厄を呼ぶ死神のように思えてならず極力他人との関わりを避けてきたが、ついに一日中離れない従順な御側付おそばつきができてしまった。


 せっかく手にした自由をこんな無の世界に放り込んだような男に預けるなどどうかしていると思うが、本人が嬉々としている以上こちらからは何も言えまい。


「なあ、ぺトラ。……聞いてもいいか」


 だからその代わりとして、ミツルはに別の疑問をぶつけることにした。


「どうして、男のふりなんてするんだ?」


「…………」


 奴隷だった頃は泥や傷で不清潔に見えたが、いざ水浴びをし、髪を梳かしてみればぺトラスフィルは普通に可愛らしい陽気な少女だ。ミツルと同じく中性的な顔立ちのため初見で男だと言われればそう思い込んでしまいそうではあるが、雇い主だったあの男もぺトラスフィルがこんな健気な娘だと知れば、あそこまでいたぶる事もしなかったろう。


 しかしぺトラスフィルはミツルの質問を聞くと、遠い日の出を眺め続けながら眉を寄せた。しばらく無言で哀しみの浮き出る横顔を晒しながら、彼女はゆっくりと語りだす。


「……昔話、なんて言う歳でもねぇけどさ。――けど、もう随分前になるな。あの男に雇われる前に雇われていたときの話だ。だからあいつは今から話すことを知らない」


 眩い朝日の中から探るようにして、ペトラスフィルは過去の出来事を掘り起こす。


「オレと……いや、私と一緒で、奴隷だったがいたんだ。直接喋ったこともないし、特別仲がいいわけでもなかった。顔見知りって言い方のほうが正しいかもな。雇い主の用事で、時々すれ違う感じで街で出くわしてた。……けど、何度かすれ違ううちにあの子と出会える日が唯一の楽しみになってたんだ」


 その時のことを思い出しているのか、ぺトラスフィルは懐かしむように血の気の戻った顔を微笑ませながら言葉を繋げる。


「その子も私のことを見つけるとさ、笑顔でこっそり手を振ってくれたりしてたんだ。そんなことすりゃあ拳が飛んでくるから、おおやけにはできなかったけどな。――凄く、凄く精神的に癒されてた。『ああ。この子とたくさんお喋りして、もっと仲良くなって、友達になりたいな』って。――でも」


 哀しみ、微笑み、また哀しんでを繰り返すぺトラスフィルの濃い紫の瞳は微かに濡れていて、遠方から優しく照らし出す陽の光を受けて眩く輝いていた。

 眩しさにやられて眩迷した彼女の目は、哀惜というよりかは怒りや憎しみの淀みに浸っている気がした。


 何度も口を開いては、その先を口にしてもいいのだろうかと相手の気持ちをおもんばかるようにして再度閉じる。


 喉から出たがっている続きを容易に予想ができ、ミツルは無理に話さなくていいと声を発しかけたが、それよりほんのわずか早くぺトラスフィルが話し出した。


「ある日、いつものように楽しみにしてた少しの愉悦は、悪党の手によってことごとく壊された」


 震える声で嘆くぺトラスフィルのそのあまりにも小さな抗いは、寒さによるものなのか、あるいは憤りや悲哀から生じているものなのか、ミツルには分からない。


「……路地裏で、その娘が襲われてたんだ。まだ、年端もいかないってのに…………ッ」


 不意に、握っているぺトラスフィルの手が強く、とても強く握り締められた。


『襲われていた』。この子供は遠回しにそう言うが、一言で言い表すならば、それは強姦に他ならないだろう。

 まだ知識の浅かったろう頃から標的にされ、意味もわからず苦しい状況に置かされるというのは恐怖以外の何物でもなかったはずだ。


「何もできなかった。自分があそこに入ったところで、何もできやしなかった。一緒に襲われて、用が済めばゴミのように捨てられる。そんな未来しか見えなかったんだ。この目で見ているのに、苦しいのに。その娘はもっと、辛かったのにっ!」


 堪えていた涙が零れ落ち、いくつもの水滴となって地上へ落ちていく。その涙も、想いも、彼女の謝罪も届くことなく空中で無為に散っていく。


「なぁ。奴隷だったら、奴隷になら、何をしてもいいのかな……?」


 ぺトラスフィルは悔しさの感情を押し殺してできる限りの笑顔でミツルに語りかける。その壊れたように引きつった笑みを見て、ミツルはただ小さく首を横に振り、しかしそれが本心からのものだと彼女に伝えるべく目はずっと彼女を見据えて。


「奴隷ってなんだよ。飼い主ってなんなんだよ。……オレたちだって、同じ人間なのによ――……っ」


 幼くして世界の残酷さを知り、人間の醜悪さを知り、その上でぺトラスフィルは己の無力さに矛先を向ける。


「……臆病者なんだろうな、私は。だからあの日、その光景を見たあとで私は私をやめた。男として振舞っていれば、あんな目には遭わないだろうなんて思ったりしてさ。…………あの子の前で、そんなふうに言えんのかよって」


「…………」


 いつからか自身に糺問きゅうもんして、ぺトラスフィルはかつての自分の行為を思い返し歯ぎしりをする。


「だから蹴られても殴られても、じっと我慢して耐えた。それを贖罪と受け取っていたから。受けて当然の報いだって思ってたから」


 ぺトラスフィルはまだまだ幼い、おそらくシエラよりも幼い。だというのに、贖罪や報いなどという難しい言葉で話す。

 暗い世界で生き続ける中で学校にも行けなかった彼女は、きっと汚い大人たちの言葉を聞いたりすることでしか学べなかったのだろう。

 けれどその目で見て、その耳で聞いてきたからこそ、ぺトラスフィルはその単語の重みをきっとミツル以上に理解しているはずだ。


 だから彼女の過去に助言する言葉が見つからず、なら黙って聞いていようと、ただこの手は離さないでいようと思った。「大変だったな」なんて軽々しく言ってはいけないと思ったから。


「それが理由だよ。とても単純で、とてつもなくずるい理由さ。オレは……オレはこんな人間なんだ。――がっかりしたかい?」


 ぺトラスフィルはミツルの顔を見上げずに、まっすぐ早朝の陽光だけを見据える。幻滅されるのが恐くて、ミツルの無愛想な面を見れないのだろう。

 今まで幾度となく他人を嫌いあしらってきた。だから、今さらその程度で見限ったりはしないと、


「――いや」


 ぺトラスフィルの問いかけに、否定の意を唱えた。


 見限られても仕方のない事をしたと、それを償いとして受け入れなければならないと思い苦笑をこぼしている彼女のすぐ隣で、手をとって今のミツルにできる最大限の優しい声で否定した。


「俺だってそうする」


「――――っ」


 ぺトラスフィルはか細く息を呑み、見ることを拒んでいたミツルの顔を大きく開いた目で観察する。


 互いに似たもの同士と言い合って、嫌われ者同士と知っていて、だからこそわかることもある。


 同情なんかじゃない。共感なんかでもない。ぺトラスフィルと同じで、ミツルだって面白可笑しいほどに臆病者なのだ。


 過去から逃げて、今だって逃げていて、おそらく明日も逃げてしまう。

 ローリアから、シエラから、セリアから、ほかの奴らから――――おのが運命から。


 逃げ癖がついた人間は、そう簡単に勇気を振り絞ったりなどできないようになっている。

 故意にしないのでは断じて無く、人間が心臓を自らの意思で止めたり動かしたりできないのと同じで前進しようとすると拒否反応のように身体が強ばるのだ。

 手は異常なほど震え、歯はがちがちと音を立て、心臓は全体に響くほどに高鳴る。


 けれどこれでも必死に立ち向かおうとはしているのだ。アリヤを死に追いやった忌々しいあの男を殺すためだけに二度目の人生を費やして。


 復讐なんてしたところで何も残らないのは解っている。報復は虚しさを生むだけだなどと謳い文句をよく耳に入れるが、けれど少しでも、ほんの僅かでも自身の罪滅ぼしの言い訳にできるのなら、ミツルは迷わずその道へと足を踏み入れる。


 他人が真似れば恥の極地のあまり卒倒することだろう。もっと大げさに言えば自殺だって考える。

 愚者の頂点に立つそんな自分と比べれば、ぺトラスフィルは懺悔と後悔と謝罪の想いではち切れそうになっているのだから、既に許されてもいいはずだ。


「逃げて隠れて避け続けて、大抵そういう臆病な奴ほど長く生き延びるもんだ。だから軟弱なくらいが人間ちょうど良いんだよ。破天荒な奴や英雄なんかは、早死にするのがつねだろ? 結局人間ってのは自分を一番可愛がる愚かな生き物だ。そう考えれば、お前のそん時の判断は正しい」


「……そう言ってもらえたなら、報われるよな」


 一言ぽつりと呟くぺトラスフィル。ミツルはまだ幼い彼女がどんな顔をしてその言葉を発したのか知りたくなった。だが読み取ろうとしたその顔色は、彼女が背中から受ける眩い朝の陽光に隠されてうかがえなかった。

 注視しようと思うより早くぺトラスフィルはそっぽを向いてしまい、鳥すらまだ目覚めぬ静謐とした音の無い世界の中で、結局彼女の真意を探ることはかなわずにいた。



 〜 〜 〜 〜 〜



 ――――湯気が大気中にうねっている。

 取手以外の箇所は熱く、火傷をしないよう留意しながらそっと運ぶ。


 息を数度吹きかけ、熱さを確かめるために一口そっと含みながら、少女は机上に乱雑に散りばめられた紙に目を通していく。


 自宅だというのにまるで研究所のような景観をしている少女の家は、掃除こそされているもののなんとか暖炉や洋風の置物などがちらほらと垣間見られるほどだ。


「……何も、頭に入ってこない」


 ぼそりとしかめっ面で呟く彼女の理知的な目は、紙面に書かれた一般人が見れば何であるかすら解らないであろう複雑な羅列を流し見するだけだ。


 その様子を机の傍らに置かれた背もたれ付きの椅子に座りながら見ていた、ふさふさの耳を頭に生やした少女が語りかける。


「本日六回目。ずっとそれ言ってるよ。――やっぱりもう一度よく捜してみたほうがいいと思うよ、ローリア」


「そうしたいのは山々なんだがな……」


 ローリアと呼ばれたその少女は腕を組んで「うーん」と唸りながらしばし黙考する。


「あの日以来姿が見えない。相手がいかんせん思慮深いミツルだからな。ボクの計算さえも読まれてしまうんだよ、シエラ」


「ミツルさんが行きそうな場所に心当たりは無いの? 武器屋とか服屋とか」


「いくつかあったが駄目だった。と予測してるんだろうな。……まったく、本当によく他人を観察しているよミツルは」


 カップの中で渦を巻くお茶に自分の苦笑交じりの顔が映える。何よりも研究大好きっ子のローリアがのめり込めなくなるほどの事態だ。我ながらミツルのことばかりを心配しているその顔を見てお人好しだなと嘆息を吐く。


 人の心理を絶対的な数値に表すことはできない。いくら式を立てて解を導き出そうとも、その答えが正しいかなど誰にもわからないのだ。答え以前に式が間違っているのか、それすらも全知全能の神のみぞが知ること。人間の感情や募る想いが数値化されているならば、きっとこれほどまでに悩むこともないだろうに。


「――どうしようか?」


 シエラも答えが見つからず、投げやりな疑問ばかりを掲示する。


「おそらく、いや、確実にレィ・ドワールの所へは行くだろう。それがミツルの最終の目的なんだからな。……しかしそれがいつか? 肝心な部分が不明なままだ」


 腕を組んだまま手を顎に当て、重要な日程を模索するために自分の思考に問いかけるローリア。


「逆に言ってしまえば、ボク達があの近辺で待機していれば向こうのほうからやってくる。だが場所が場所だけに、長居はできない」


 自問自答を繰り返し、打開策を導くのに再びループへと迷い込むローリアとシエラ。そんな黙考し続ける二人の静寂を破砕するようにして、不意に玄関のドアノッカーを叩く音がした。


「ボクの家に客なんて珍しいな……」


 手に持っていたティーカップを机に置き、思考回路を巡らせて疲れた目を軽く擦りながらローリアは玄関へと歩いていく。


 少しだけガタつくノブを回して体重を扉に預けると、外の世界の光が家の中へと入り込んできた。眩しい陽の光に顔を背け、ようやっと慣れてきた目を再び外へと向ける。


 そんなローリアを迎えたのは、つい先ほどまでシエラと思い悩み、どうすれば見つけ出せるかと必死になって何日も考えていた人物だった。

 黒いコートに身を包み、少し長めの前髪の下にはどこか影のあるアンニュイな瞳。片目は無く閉じ、自分が守ってやれたならと、そんなことを思わせてくれるような表情。


「み、ミツル――っ!?」


 意外な来訪者に驚き目を見開きながら、ローリアは目の前の人物の名を呼ぶ。それを聞いたシエラもドタバタとせわしなく慌てふためいてつまずきながらも玄関までやってくる。


「ミツルさんっ!?」


「……久しぶり、だな」


「どうして……!?」


 ローリアの当然の質問にミツルは答えず、代わりに感情の見られない虚しい苦笑をひとつ。そして一言、


「頼みがある」


 そう言ってミツルの隣に立っているぺトラスフィルを優しく前へと突き出した。


 何か事情があると踏んだローリアは真剣な眼差しで、


「とりあえず中に入ってくれ」


 そう返答した。



 〜 〜 〜 〜 〜



「――……なるほどな。あらかたこの子の事情は分かったよ。にしても、まだ小さいのによくやってきたんだな」


 ぺトラスフィルの頭にぽんと軽く手を置きながら、ローリアはしゃがんで同じ目線でほくそ笑む。

 ローリアも幼さの残る容姿ではあるが、こうしてぺトラスフィルと並べて見るとやはり年長者なんだと思わせてくれる。


 ぺトラスフィルは他人に優しく接してもらえることに慣れていないからか、戸惑ったり恥ずかしさで顔を赤らめたりとせわしない。


「ぺトラちゃんも、ミツルさんに出会えて良かったですよね」


 シエラは歳の近いぺトラスフィルをいたく気に入ったようで、人見知りであるにもかかわらずさっそく近距離でぺトラスフィルとじゃれ合っている。


 椅子に腰掛けたローリアはしばらくその様子を微笑ましく見たあと、すっとミツルの方へと振り向き、


「――本当に君という奴は。ボク達がいないところでも、そうやって人を助けるんだな」


「……勘違いするな。こいつの雇い主と面識があったからだ。あんな屑同然の奴に付き従うくらいなら……って、そう思っただけだよ」


「それでもあの子が救われたという事実は変わらないよ」


 覇気のない声で薄ら笑いを浮かべるミツルにローリアは懐かしみを感じながらもどこか寂しそうな表情を浮かべる。


「……まだ、続けているのかい?」


「……ああ」


 続けている。ローリアが言っているのはそう、ミツルが何日も何週間も何ヶ月も悪党を打ちのめしている、まさにその事だろう。


 強さだけを求め彷徨い、元の世界でやれば間違いなく補導されるようなことを長らく続けてきたミツルは、かつて共に行動したローリアからすればとても違った風格に見えるはずだ。眼球を抉り取られ、大切なものを奪われた腹いせに無闇矢鱈とナイフで斬りかかり、顔を汗と涙でぐしゃぐしゃにした奴とは思えまい。今ローリアの目の前にいる男はまさにその人本人だ。しかし目に希望や和平の光はなく、口元に自然体の笑みは一切無い。


「そうか」


 ローリアの短い返事は、何をやってるんだといった呆れよりかは、どちらかと言うと心配事のほうが多く含まれているような口振りだった。


 しばらくの間、ミツルとローリアの二人はシエラとぺトラスフィルのじゃれ合いを無言で眺める。ぺトラスフィルは戸惑いを表情に滲みだしながらも、シエラに今しがた教わったこの世界特有の手遊びをぎこちない手つきで遊んでいる。


 歳の近い人と戯れることが極端に少なかったぺトラスフィルは、きっと距離の置き方が分からないのだろう。ミツルですらいまいちよく分かっていないのだ。


 だから焦らなくてもいい。ゆっくりでいいと、鏡を見せられるようにミツルは優しく念じる。


「――――キミが」


 ぽつりと、ローリアが呼んだのが聞こえて、ミツルは彼女へと振り向く。ローリアは依然シエラたちを見据えたままだが、言葉はミツルに向けて放っているようだった。


「――……キミが、逃げ出したあの日。キミの背中は本当に小さかったよ。身長も、年齢も、手の大きさも、キミのほうがずっと大きいのに。あの時のミツルの背中は、今まで見た誰よりも一番小さかった」


 ローリアの双眸に映っているものはシエラとぺトラスフィルではなく、もっと遠くて深くにある、孤独な何かだろう。でなければ、こんなにも悲しそうな顔はしない。


揶揄やゆしてるのか?」


「違う。違うよ。全くもって違う。――ボクはね、悲しいんだよ」


「……悲しい……?」


 アリヤを失ったこと以上の悲しみを知らず、加えて今や憎しみでしか動いていないミツルには、彼女の悲壮感は理解できなかった。

 彼女が――――アリヤが死ぬ前であれば他人の大抵の心理状態は把握できたし理解もできた。それが怒りや悲しみ、嘆きといった感情ならなおさらだ。そんな負の感情なら自分の中にいくらでもあったから。けれど、昔のミツルはアリヤと一緒に死んだ。


「悲しいし、それと同じくらい怒ってもいる」


 ローリアはぬるくなったお茶に潤った唇を触れさせながらゆっくりと話す。


「ボクに罪滅ぼしをさせてくれと言ったのに、ミツルはそれを無視して逃亡した。ボクの必死の願いを聞き入れてくれなかったことに怒っているんだよ。あの時ボクがどれだけの悲しみをもってキミの背中を見ていたか、キミには想像できないだろう?」


 湯気の立たなくなったお茶を俯瞰して、ローリアは眉間に皺をつくりながら言葉を続ける。


「ボクの手はとってくれないんだ、ボクには助けさせてもらえないんだって思ったよ。……今だって、できることならキミの力になりたいし助けてもやりたい。ミツルの中でうごめいて復讐とやらを撒き散らしているそれを取り除いて守ってやりたいと、心の底から思っている」


「…………」


「けどキミはこの短期間でボクよりも遥かに強くなってしまった。間違った方向にある強さを身につけてしまった。――もう、ボクの手では届かないよ」


 ミツルのよどみきった左目を見つめて静かに語るローリア。理知的な彼女の顔は曇り、それが彼女がいかにミツルを想って悩み怒り悲しんでいるのかを物語っているようだった。


「――――何弱音吐いてるの!」


 いつから話を聞いていたのか、ローリアに鋭い視線を向け、鼓舞するようにシエラが傍らに寄って立っていた。だが、


「……無理だよシエラ。ボク達にミツルは救えない」


 対するローリアは困り果てた面持ちでシエラを見返す。


「なんで、どうして? ローリアだってさっきまでミツルさんを捜すのに懸命になってたじゃない」


「…………ここまでとは思わなかったんだよ」


 ミツルをちらりと見ながら、ローリアは落胆している。シエラはローリアの言葉の意味が分からずに、眉を窄めて頭の上にクエスチョンマークを出すような顔をしていた。


「……試してみるかい……?」


 言葉で分からないのならと、ローリアは不意に右手を前に突き出す。


「ちょっと……ローリア、何やって……ッ!」


 シエラはローリアのその行動を見て、彼女が今何をしようとしているのか一瞬にして勘づいた。


 シエラは咄嗟にローリアの右手を下げようと飛びつく。ローリアは突進してきたシエラにより横へと体勢を崩したものの、それよりコンマ一秒早く、なんの予備動作も無しにローリアの右手から水弾が射出された。


 速度が自慢のローリアの水弾は彼女とミツルの間のわずか一メートル未満の距離を目で追えない速さで駆けていく。ローリアは「もしも」を考慮して標準を斜め右上、つまりミツルの左肩部分を狙って放たれた。


 速度、距離。どれだけ動体視力が高い人間でも決して避けられないものだった。

 ミツルはそれを知ってか知らずか、まるで死を決意し受け入れているように無反応だ。避けられないのではなく避ける気がそもそも無い、そんな様子だった。


 シエラが目を見開いてミツルを視界に入れる中で、拳ほどの大きさのある水弾は三人の目前で霧散して消え失せた。


「――――え?」


「…………」


 シエラは驚愕の表情を浮かべ、ローリアもまた目の前の現象を理解はしながらもやはり驚きを隠せずにいた。


 ローリアは変わらず真っ直ぐにこちらを見据えているミツルを見やると体勢を立て直して、


「…………これが、今のミツルの心象だ」


 シエラにそう口にした。


「ミツル。キミはどうやら陰で有名になっているらしいね。風の噂で聞いたよ。……マディラムが、効かないんだってね」


「…………」


「ボクは様々な研究をしているためにこれがどういったものなのかは知っている。以前古い文書で読んだこともある。けれど、ここ数百年一人として使えた者は現れなかった」


 無言のまま黒い光をその目に宿すミツル。その瞳はつまらない映画を孤独な空間で鑑賞でもしているかのように、どんよりとしている。


「全てのマディラムを無へと変える、最強にして最低な能力。……使えないほうがいいんだよ、本当は。だって――……」


 そこまで言って一度言葉を切り、息を呑みながらローリアは告げる。


「だってこれは、心の底から自分を捨てた者にしか扱えない、八つ目のマディラムなんだから」


「…………八つ目……?」


 その言葉を聞いたシエラの両の瞳は、わなわなと揺らいでいた。


 もともと冷静な性格ではあった。この異世界メルヒムへと転生させられても、何慌てることなく現実を受け入れてここまでやって来た。


 賭博屋で大金を稼ぎ、学院最強の称号を持つセルムッド・クラトスと闘い、バッドグリムを討伐してきた。どれをとってもミツルは冷静沈着にことを運んできた。


 ただ一人、アリヤの前でだけは何度か感情を揺さぶられていることを自覚して。


「キミにとってアリヤは、そんなにも、それほどまでにかけがえのない存在だったのか……」


 でなければこれほどまでに堕落することは有り得ない、とでも言いたげな表情だ。……まったくもってその通りだ。


 友の一人もできずに能力的にも恵まれず、そのくせ他人に気遣う事だけは一丁前に時間と労力を費やしてきた卑怯者。無神教なだけでなく、これまでに頑張ってきた成果や対価を一切支払われなかった神を冒涜し、親どころか自分さえも信じることができなかったそんな男が信用を認めた少女だ。血の繋がりも無く、永久の時を共に生きたわけでもない。

 そんな彼女がこの世から消え去り、一体何が残ろうものか。


「…………俺みたいな、他人をゴミとしか思わないような人間が殺されるのはいい。けど――――」


 俯いていた顔を上げ、ミツルは無くした感情で無理矢理に悲哀の表情をつくりながら重ねた両手をぎゅっと握り締める。


「アリヤみたいな娘が殺されるのは……我慢、ならない」


「…………」


「アリヤのどこに殺されていい理由があった? アリヤのどこに、一体どこに落ち度があったって言うんだ……」


 どこまでも空虚な声色で、ミツルはローリアでもシエラでもぺトラスフィルでもない、空気のような存在に疑問をぶつける。


「俺のことはいい。それよりもぺトラを、少しの間でいい。預かってくれないか」


 ミツルはローリアたちの後ろの椅子に腰掛けてこちらを一瞥しているぺトラスフィルに視線を向けながら不躾な言葉を声に出す。


 本当に、一方的で身勝手な懇願だ。

 必死に願いを乞うている少女の頼みは無視したくせに、こちらの願いは聞いてくれと、ミツルはそう言っているのだから。嫌われるのも致し方ない。


「……キミはどうする気だ」


 ミツルの要求を一旦保留し、ローリアは最も危険で心配で放っておけない目前の黒尽くめに設問する。


「――俺は、やつを殺す。それだけだ」


「それだけの理由で、キミは強さを手にするのか」


「これ以上の理由なんて無いだろ。充分過ぎる理由だ」


 ミツルはそうは言うが、ミツルの根底にはもうひとつの理由もあった。

 レィ・ドワールの復讐を大半に占める中、伽藍堂がらんどうの瞳に映すものは――――憎悪。


 雰囲気か容姿かは分からないが、ミツルは昔から他者から舐められる体質だった。

 表立っては善良な人間を演じ、多少の嫌がらせをされようともへらへらと笑い退けていたから、こいつはいじれる奴だと、そう思われたのだろう。


 だから、そういった気を遣われていることにすら気付かず喚いている勘違い共を屠るために強くなる。

 気遣いもせず、自分を中心に思うままに周囲が動いてくれるのなら、さぞかし生きるのが楽なことだろう。何も考えずにのうのうと生きているからこそ、少々の傷で大げさに泣き喚き自分は不幸だと社会に格好悪く訴えるのだ。


 だからそんな甘々な輩の閉じた目を開けさせるためにも、ミツルはそう決意したのである。


「ぺトラちゃんは、それでいいの――……?」


 シエラは困惑にその愛らしい表情を歪めながら、後ろで黙って話を聞いているぺトラスフィルへと顔を向ける。


「オレは……、オレからは、何も言わねえよ」


 行儀悪く片膝を立ててそこに顎を乗せながら、ぺトラスフィルはミツルと同じように濁った目をシエラの目線に重ねる。ただ一つ違うのは、ミツルには無い望みの光が彼女の瞳に宿っていることだ。


「ミツルの兄貴はオレを助けてくれたんだ。同じ種族である人間の下に就いて、ボロ雑巾のような扱いを受けてきたオレを。そんな忌み子と言われてきたオレに、兄貴は生きろって言ってくれたんだ」


 態度こそ悪いものの、眼差しや口振りは真剣に。


「理由がどうあれ、こんなオレを認めてくれた兄貴の突き進む先に求めるものがあるのなら、たとえそれが茨の道だろうともオレはただ『はい』とだけ答えて、あとは黙って見守るだけだよ」


「キミは分かっていない。その道は、とてつもなく辛いんだ」


 髪を耳に掛けながら、ぺトラスフィルは濃色の双眸をミツルへと向ける。


「分かってるよ。少なくともあんたらよりはね。生まれてこのかたずっと暗い世界で過ごしてきたんだから。だから……兄貴が挫折して振り返っても、背中を守り続けるオレがそこにいる限り、兄貴がオレにしてくれたように手助けをするのみさ。この、価値のない命をしてでも」


 ミツルの考えを汲み取っているのか、それとも似たもの同士だからこそ辿り着くぺトラスフィルの憶測なのか、彼女はここで待つと、そう言っているように思えた。


 ミツルは長居することなく立ち上がりながら、


「じゃあ俺は行くから。ぺトラの生活費はこれでまかなってくれ」


 言いながら、ミツルは懐から重みのある皮袋を取り出す。細かい金属音を鳴らしながら、これから向かう場所に持って行っても邪魔になるだけだからと机の上にそっと置いた。


「シエラ。どうかぺトラをよろしく頼む」


「…………」


 肯定も否定もできず、シエラはただ黙って困惑の表情を浮かべていた。

 仲間が自ら死地に飛び込んで危険を冒しに行くというのに、それを止めることもできない自分を情けなく思いながら。


 ――ミツルは黒いコートと灰色のマフラーをなびかせながら入ってきた扉へと、今度は独りで出て行く。


「…………」


「…………」


「…………」


 ローリアは諦念と悲哀の目を、シエラは罪悪感と愁眉の目を、そしてぺトラスフィルは確固たる信頼の目で、それぞれ似て非なる視線を向けて、ミツルの後ろ姿を傍観する。


 三人の見方は違えど、その胸に秘めた想いはみんな同じだった。


 ――――救いたい。ただそれのみを宿して、三人の少女達は茫然と立ち尽くしながら、無色へと成り果てた黒尽くめの男が扉の向こう側へ消え行くのを眺め続けた。


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