第二幕・二十『愛されなかった者と愛されたかった者 -アイサレナカッタモノトアイサレタカッタモノ-』
ローリア達から離れてさらに数日が経ち、ミツルは最低限の栄養分のみを摂取しながら強さを手に入れるために根無し草となって彷徨い続けていた。
もともと細身の身体なのに食事もまともにしていないため、その幼さの残る童顔をさらにやつれさせていく。
この世界に来た当初に入手した金銭も随分と減少したこともあって、戦い負かした報酬として相手の懐を漁ってもいた。
――あれから顔見知りの者達には一切会わず、逆恨みで再度襲来してくる輩だけと顔を合わせるのみになっていたミツル。
ここでは稀有な黒髪黒眼に続いて真っ黒なコートまで羽織っているとなると地味な色でも目立つようで、いつからか殺気立った者達から悪目立ちするようになっていた。
いくら強さを求め彷徨ってはいても、ミツル側から相手に喧嘩を売るような真似はしない。売り言葉に買い言葉、相手がその気になった時にのみミツルは乗るようにしている。
今も現在進行形でそんな人間を探しながらあちこち歩き回っている最中だ。しかし逆恨みで暴力を奮ってくる者達もこぞって返り討ちにあっているのに加えさすがに周知されているだけあって、初めに比べ薄暗く細い裏通りを行き交う人数は減っていた。
もっと強くならなければいけないミツルにとっては非常に悩ましいことではあるが、こうも毎日続けていると無理もなかろう。いつ憲兵がミツルを捜索しに来てもおかしくない状態だ。
地球単位で既に数週間、下手をすればもっと続いているかもしれないこの殺伐とした環境で、たまの休みも入れるべく今日はもう宿を探そうと思いミツルは重い溜め息をひとつ吐くと
迷路のように入り組んだ裏通りにもすっかりと慣れ、右へ左へ迷うことなく角を曲がる。
狭い路地を作る両側の建物の壁。上を見上げると紐に吊るされ干された服などが吹き抜ける風によってその場で泳いでいた。
細く見える空は相も変わらず薄い青色だ。それだけを見ていれば、世の中は今日も平和だと錯覚できるだろう。
だがどこの世界においても絶対的な平和なんてものは存在しない。知能を持ってしまったおぞましい生物が世に
――一定の速さで歩き続け、四つ目の角を曲がったところでミツルは足を止める。理由は、
「――おらさっさと行けよッ! それであいつの腹でも首でもぶっ刺してこい。見つけられなかったら今晩の飯は抜きだ。わかったな!?」
「……ッ」
地べたに
子供は何もかもを諦めきったような黒澄んだ目で男を見るが、
「……んだよその目は。不満ならそいつで俺の喉でも掻っ切ってみせろ。できもしねぇ目で見てんじゃねえ。わかったら立て! 歩け!」
男に言われるがまま、子供は海藻のようにふらふらと立っては歩きだす。
「……へへ、そうだ、それで奴を殺すんだよ。俺が殺せば後々おっかねぇからな。だが家畜の糞みてえな奴隷のお前なら、煮ようが焼かれようが知ったこっちゃねえ」
そんな三下の悪役を体現したような口振りと態度で、男は立ち上がった童子の背中をもう一度蹴って無理矢理歩かせる。
しかめっ面と泣きっ面を入り混ぜたような表情で足取り悪く歩き出す子供の髪は直毛だが手入れがされておらずボサボサで、限りなく黒に近い紫、いわゆる至極色のような色をしている。
瞳も髪と同じ色彩をしているが、ミツルと同じように輝きは一切なく深海のように暗い。
やせ細った首と両手首には冷やかで決して軽くは無さそうな
今にも折れてしまいそうなほどに細っこい四肢を懸命になって動かす中、後方から男は悪辣な笑みを浮かべながら幼子を見つめる。
――そこでミツルは気付いた。この男の気味の悪いにやけ面を知っていると。
他人に関心の無いミツルは、人の名前も顔も覚えるのがとてつもなく苦手だ。
毎日のように顔を合わせて喋る者でないと、なかなかどうして頭に残らない。
しかし目の前にいる男の様相には身に覚えがあった。
ニヤニヤと死神のように不敵な笑みを見せ、ジャラジャラと見せつけのように両手指に高そうな輪を
間違いない。いつぞや、
――子供が歩き去っていったのをよそ目に、ミツルは路傍に飾られている小さめの植木鉢を手に取ると、花を抜いてもうひとつの植木鉢へと埋め直した。そして中身が土だけになった植木鉢を握ると、数メートル離れた男目掛けて遠慮なく放り投げた。
焼物でできた植木鉢は緩い放物線を描いて男のもとへと飛んでいき、男の頭に触れた瞬間にいくつかの破片となって砕け散る。
割れた植木鉢の中から容器の形に固まった土が現れ、三秒と経たぬうちに崩れ落ちた土は茶色い滝となって男の顔面を覆い尽くした。
一瞬の低い唸りのあと、激痛に耐え忍びながら男は辺りを見渡す。そして黒服に身を包まれたミツルの姿をその目で捉えた途端、今度は焦りを含んだ表情へと変えていった。
「お、お前、なんで……ッ」
口に入った土を吐き出しながら汚れた顔に冷汗を流す男を、ミツルは死んだ魚の目のように濁った眼球で俯瞰する。
男は己が困惑しているのを自覚すると、それを否定するかのように首を横に振って豊かな表情を変える。
「あ、あの時はよくも無様な格好を晒させてくれたな」
「…………」
一言も言葉を発しないミツルに苛立った男は、今でも十分無様な面をしたままでかい声を荒らげる。
「忘れてねえよなあ? おかげで店にいた奴らから笑いの大合唱だ。――それと、最近この辺りで俺の仲間に色々と面倒かけてくれてるみてぇじゃねーか。人の金で食う飯は美味いかよ」
「…………」
なおも喋らないミツルの態度に「だんまりかよ」と舌打ち。次いで片手を掲げて前へと突き出し、男は手の平に集中力を凝縮させる。すると徐々に手の平が熱を帯び始め、赤を通り越して白光りしてきた。
つまりは今あの男の手は、およそ五千から六千度の熱を持っているということになる。熱さでいえば太陽の表面のそれと同じだ。
周囲の家々の一階や二階の開いた窓からこの国の住民達が二人の様子を眺めて顔を覗かせていたがそれも数秒のことで、仏頂面をした民達はすぐにわざとらしく大きく音を立てて窓を閉じていった。
争いを見ても放ったらかし。怖くて割り入れないのではなく面倒事に首を突っ込みたくないという意思がひしひしと伝わってくる。やらない善よりやる偽善という言葉にさえ唾を吐くような住民の民度の低さに、呆れて物も言えなくなる。
治安が悪いだけでなく奴隷制をも採用しているこの国にミツルは疑問を抱く。もしもリー・スレイヤード帝国を統治する王に相見えることがあるならば、一つや二つ、三つや四つは文句を言ってやろうと、そう思う。
「――そういやぁあの嬢ちゃんはどうした? 喧嘩でもしちまったか!?」
男のその言葉にミツルは眉間をぴくりと痙攣させる。
この男と初めて対面した日、ミツルの横には一人の少女しかいなかった。その時はまだローリアにもシエラにも出会っていない。ならば考えるまでも無く男の言う「嬢ちゃん」とはアリヤ以外にほかならない。
今彼女の話をされるのは精神的苦痛が凄まじいことは明白だ。軽はずみに考え無しにそんなことを口に出す男に、ミツルは閉じている口の中で密かに歯軋りをする。
「フンッ!」
だがそんなミツルの心境など知るはずもなく、男は手を大きく振りかぶると短い気合いと共に無形の炎をミツルの方向へと放つ。
不規則な形状をした火炎は宙を泳ぎながらミツルのもとへと突進してくる。当たれば必死、火傷どころの話ではない。しかしミツルは高温の炎をただ突っ立って見つめるだけで、避けようとはしなかった。
今から避けても間に合わず、直撃を免れないのを確信した男は口元に大きな笑みを見せる。そんな余裕ある表情を見せる男の目の前で、燃え躍る炎はミツルに触れる直前に一瞬にして消え失せた。
大きく開いた口からは嘲謔の笑いが途絶え、代わりに絶望と驚愕の感情が男の口を形作っていた。
ミツルのもとには熱波すら届いておらず、額には汗の一滴すら流れてはいない。
――――ある日、ミツルはいつものように襲い来る輩を排除しようと闇のマディラムを発生させようとした。けれどミツルの手に黒いオーブは現れなかった。何度試そうとしても、光のマディラムを使おうとしても、今までのように自在に操っていた魔法は発動しなくなっていた。
そしてその代償として、ミツルの身にはいかなるマディラムも寄せつけぬ謎の現象が起きていた。マディラムで発生させたものは火であろうと風であろうと闇であろうと、総じて無に
シエラのように直接マディラムを身に纏う者がいようものならば、触れた瞬間にそいつ自身が消えて無くなった。
事実、ミツルを滅多打ちにしようとしてきた者達の中には、数えただけで十人ほど、ミツルの手によって文字通りこの世界から居なくなったのだ。
この現象に名を付けるならばそう――――無のマディラム。
「嘘……だろ……」
火傷どころか傷一つ負っていないミツルを一瞥して、男はずりずりと重い足で後ずさった。
「あの噂……まじだったのかよ」
「……無神経だな、お前。あいつと喧嘩なんて、一度だってしたことは無い」
何も知らないくせに。
「悪事なんざ一切やってこなかった、真面目で誰よりも優しい人間が突如として死の痛みを味わう気持ちがお前にわかるか? 二度と薄っぺらいことを口走るな」
そう言うミツルの目は男には向いてはおらず、ただ焦点の合っていない片目は石畳の地面の継ぎ目へと落とされていた。
ミツルは腰に取り付けた刃渡りだけで数十センチもあるナイフを抜き取ると、低く、低く構えながら片足を踏み込んで全速力で駆けていく。数メートルの距離をアスリート顔負けの速度で走り抜け、コートに付随した風の加護に乗って一回の踏み込みで男の
自分のマディラムも他人のマディラムも打ち消されてしまうため、結果としてコートに付いた風のマディラムに頼るほかない。幸いにも己が身に付けている装飾品の加護は消えないようなので、今後他にもそういった装飾品が売っていないか見て回り、あればいくつか買収しようと思った。
――瞬時にゼロ距離まで詰められた男はおもわずバランスを崩し、仰向けへと倒れた。
ミツルは仰向けになった男の上に
「――ッ!?」
咄嗟に顔を左に反らせた男の真横――つまりほんの僅か前まで頭があった場所には、刃先を数ミリ地面へとめり込ませ、自身の体幹だけでバランスをとってまっすぐに立っているナイフがあった。
「……誰が
「じ、冗談じゃねぇや! 今の、完全に殺す気だったろうが!」
「お前だってやったろ。さっきの攻撃の威力、俺じゃなけりゃ焼死体になってたぞ」
言いながら、ミツルは男の頬を拳で殴打する。潰れた声と共に唾を飛ばし、頬が赤くなりアザをつくるが、男の目には未だ恨みが色濃く残っていた。
誰かを恨むその目はミツルも同類だが、それでもただ金を取られた人間と大切な人の命を取られた人間とでは雲泥の差、月とすっぽんほどの違いがあった。
ミツルはレィ・ドワールに報復するためならばどんな罪も針も呑むつもりだ。よって男のそんな甘い瞳には目もくれず、何度も何度もミツルは男を殴り続けた。
やがて男が鼻や口から血を流して気を失うと、上に跨っていたミツルはすっと立ち上がった。
空を仰ぎ、溜め息をひとつ吐くと一歩を踏み出す。
その背中に背負うべきものは神への冒涜それのみ。
空気よりも軽く、然れど鉄塊のように重みを感じるその手向けを、いずれ届ける神という名の悪魔のために、ミツルは一歩、踏み出した。
〜 〜 〜 〜 〜
宿探しの途中に道草を食ったミツルは、無駄な時間を過ごしたことを一方的に男の悪因として再び歩んでいた。
建物の間の細い道で酒瓶片手に突っ伏す文無しを避けることなく踏みつけながら進んでいると、少し先に先ほどの奴隷の子が立っているのが見て取れた。子供はこちらの存在に気が付くと泥や油に
幽霊のようにふらふらと危なっかしく歩く子供の手には、男が持たせた鋭利な硝子の破片が握られている。強く握られているせいか、手に食い込んだ硝子の部分から先に沿って紅い液体が伝っていた。
童顔に埋まった目の奥はミツルほどに腐り、歪み、福など微塵も噛み締めたことが無いようななりをしている。無理に激情を内側に押し込め、爆発しないようきつく何かで縛っているような、そんな子供らしからぬ風体をした顔つきだ。
足取り悪くも一直線にこちらへと向かい、やがて手を伸ばせば届く距離になった時、子供は硝子を持った手をミツルの腹へと突きつけてきた。
だがミツルは驚きも焦りもせずに、息をするようにして楽々とその子の手首と小指を掴み、百八十度捻って硝子を落とした。高い音を鳴らして地面に落ちた硝子を足で後ろへ蹴って子供が届かない場所まで飛ばすと、ミツルは警戒心を保ったまま手を離した。
あまりにも遅すぎる攻撃。当然だ。両手に枷を嵌められて、それで人を殺めろなんてほうが土台無理な話だ。
自分の手は汚さずにこんなにも小さな子に殺させる愚鈍さ。それも武器として持たせたのはナイフや剣ではなく、治安の悪い掃き溜めのようなこの場にならいくらでも転がっていそうなただの窓硝子の破片。
おそらくまともに食事も与えられていないのであろう、痩せきった子の細っこい腕は非力の二文字が最も似つかわしいほどに弱いものだった。
「――皮肉なもんだ。力尽きてこのザマか。あーあ。情けねえなあ……」
唯一の武器を失い諦めた子供は、魂が抜けたように力無く地面にへたり込みながらぼそりと呟いた。
光り物を纏った男がこの小さな子供に殺すよう命じた相手はどうやらミツルだったらしい。黒づくめな格好をしているのはミツルしかいない故に特徴もわかりやすくさぞ見つけやすかった事だろう。
「……食うためだったとはいえ、なんともまあ恥しかねえ人生だ……。笑うわ、クソったれ」
子供は覇気のない声でため息混じりにぼやきながら、体を反らせて空を仰ぎ見る。
「廃棄される残飯のために命張ってよ。扱いはそこらの鼠と同一だ。よくもこんななりで生きようなんざ思えるわな。……我ながら呆れるぜ、ったく」
「俺より歳が下なんだから人生語るにはまだ早いだろ」
ミツルの言葉に子供は顎を高く上げたままぎろりと目線だけをこちらへ移すと鼻で笑いながら、
「おいおい、まさか一発逆転してオレでも酒池肉林狙えるとか言い出すんじゃねーだろうな。奴隷舐めんなよ。この枷だってマディラムで固定されてんだ。どうやったってこっからは這い上がれやしない」
「……そんな絵空事誰が抜かすかよ。希望なんて幻想抱いたところで馬鹿見るだけだ」
鎖の付いた手枷を見せつけるようにぷらぷらと揺らす奴隷に、ミツルは甘さのあの字も含まれないような冷たい声で言い返す。
世の奴らは希望を見出そうとするから期待なんてしてしまうんだ。希望という希望を排除し、常に最悪だけに観点を置いていたほうが災厄を予測しやすいだろう。そうすれば、容易に回避できるというものだ。俺はあの忌々しいやつとの戦いでそれを学んだ。否、思い出したと言ったほうが正しい。そんなこと、とうの昔にあの世界で知っていたはずだ。
「お前の主みたいに愉快に口開けてるような奴が俺は大嫌いなんだよ。あんな
「…………」
届くことのない高い空へ向けていた中性的なその顔は、気が付けばミツルの顔をまっすぐに見つめていた。
これまでにも何人かの優しい人から温かい言葉は掛けられてきた。慈悲という名の哀れみの目で食べ物を分け与えられもしてきた。
けれど、綺麗に塗り固められた顔と言葉で語りかけてくるそんな人達を、内心疎ましく思っていたのだ。
――『可哀想に』。――『まだ幼いのに』。
そうやって救いの手を中途半端に差し伸べて、一時の出来心でたったの一食分を渡される。それが返って飢餓を促進させる行為であることも知らずに。
底辺の負け犬に骨をやり、仁徳に溺れ、自分は善良な心を持った素晴らしい人間だと思い込みたいがために自身よりも下手の者に慈悲を贈り優位性を確保していたいのだろうと、考えるほどの知性は無くとも幼いながらにそう感じていたから。
優しさに溢れていると自惚れて、そのくせ結局はお為ごかしだ。それなら何もしてくれないほうがましだと、何度思わされたことか。
――だがこの男は最初から現実を突きつけてきた。
夢物語を聞かせるでも、哀れみの目を向けてくるでもなく、ましてや根拠のない励ましの言葉をかけてくることもない。
立ち上がらせるどころか更なるどん底へと突き落とすような酷な言葉だが、綺麗事を並べられるよりかはずっとましだと子供は思った。
「あいつなら俺が個人的な理由で潰しておいた。お前はもう自由だ」
「殺した、のか……?」
「殺してはない。
「……なんで……」
「言ったろ。個人的な理由だよ。ああいう屑は地べたに這いつくばらせときゃいい。なのに世間では俺やお前みたいに馬鹿真面目な奴がそうなってる。――逆だろうが、どう考えても」
この世を見限ったような濁った眼差しで見つめながら、ミツルはふと、この子供は自分に少し似ているなと思った。
「あんたさては嫌われ者だな?」
「それはお互い様だろ」
「
笑えないやり取りに子供は揺りかごのように体を前後に揺らしながらケタケタと虚ろな笑顔を振り撒く。
「――お前、名前は?」
「ぺトラスフィル。苗字は無いよ」
「ぺトラでいいか。交友関係は?」
「奴隷にそれを聞くかよ。――嬉しいことにあの男が雇い主としているだけさ。それだってあんたが根元から絶った。今はしがない文無しの風来坊だよ」
肩をすくめ、両手を上げて匙を投げる仕草をしながらミツルの質問に素直に応えるぺトラスフィル。
「……俺と似てるな」
「あんたも浪人か?」
「家はある。……いや、あった」
目の裏に残る辺境の地に浮かんだ島。小さい湖と草原に囲まれた、決して大きくはない家。小鳥が戯れ温かく過ごしやすいあの家。
誰もが羨む理想的なあの家には、もう長らく帰っていない。あの場所に彼女が加わって、初めて理想を形作るのだ。でももう彼女は居ない。故に戻る意味もない――。
「あんたもあんたで苦労してるみてーだな。追求はしねーけどよ。――で、どうする?」
言葉の最後に疑問を付け加えるぺトラスフィル。吹っ切れたのか、声に力は無いが意気揚々と喋る。
「何が」
「とぼけたって無駄だぜ。新しくオレを雇うか?」
「……ひとつだけ聞きたい」
「何でも答えるよ。言って失うもんもねえしな」
ぺトラスフィルは自虐的に返答するが、その表情には哀愁が漂っている。
「何ができる?」
ミツルの質問にペトラスフィルは哀愁漂う顔つきから不敵な笑みに変えると、自慢げに口を開く。
「大抵のことは何だってできるぜ。炊事洗濯掃除に窃盗。暗殺でも構わねえ。死ねと言うなら自殺だってする。下の世話は勘弁だけどな。
言い値で売る商人のような口振りでペトラスフィルは語らうが、目の奥深くには真剣な眼差しが垣間見られた。
食べるために、生きるために誰かに拾ってもらう。「プライドが」なんてことを言っていられる余裕すらぺトラスフィルにはなく、ただ無様でもいいからあてどない自分を飼ってもらおうと交渉する。
――そこまでして生きようと思えるぺトラスフィルの意思は、一体どこから来ているのだろうか。ずっとずっと、楽になれたならと思い馳せて生きていた自分と比較しても、やはり人間としての敗北感を感じずにはいられない。
ミツルは一周して羨ましさすら感じるそんなどこか必死なペトラスフィルに、
「奴隷なんていらない」
そうきっぱりと言い放った。
ぺトラスフィルは驚きと哀しみを含めた表情でミツルを見るが、ミツルはまっすぐに見返しながらさらに言葉を続ける。
「それと、俺は今からお前を殺す」
「…………そっ……か」
その一言を聞いてペトラスフィルはずっとミツルを見ていた顔を下ろすと、この上ない悲しみの笑顔で
「…………オレはお前を殺そうとしたんだもんな。当然だよな。――――いいよ。どうぞお好きに」
「ああ」
感情の込もっていない声で短く返事をし、ミツルはぺトラスフィルの首に両手を伸ばす。
この奴隷は今、おそらくこう思っているだろう。――最期は絞首刑か、と。
「――なっ…………え?」
そんなふうに死と苦しみを覚悟して待っていたぺトラスフィルは絶句した。
なぜならば、鎖同士が擦れ合いぺトラスフィルの首を締めていた重みが消えたからだ。
首元が軽くなったことを不思議に思ったぺトラスフィルは、金属音を響かせながら落ちたそれを見て息をするのを忘れた。
「
重みで地面に傷をつけ、自らも傷だらけになって黒光りしている枷を茫然と眺めながら、ぺトラスフィルは解き放たれた首に手をあてがる。
ミツルは身じろぎせず固まっているぺトラスフィルの手首足首に付いている枷にも触れようと手をのばすが、ぺトラスフィルの次の言葉に停止させられた。
「――ま、待て待て待て! お前、何してるんだよッ!? 雇い主の許可なく外したら罪を犯すことになるんだぞ!? それにオレはあんたを殺そうと――」
罪を犯す。つまり奴隷を無断で解放することは横領罪や窃盗罪に部類するものに当たるのだろう。だがミツルは今更そんな軽罪に臆する程度の人間ではなくなっている。それどころか、そんな罪を作り上げた皇帝に殺意すら抱く。
「どうでもいい。いいから黙ってろ」
ミツルはそう言うと、停滞したままだった手を再びのばし、ぺトラスフィルを蝕んでいるその全てを真っ二つに割って見せた。
枷が外れ
アリヤがいればすぐにでも治癒魔法をかけてやれたが、今そのようなことを嘆いても仕方がないというものだ。
「――……どう、なってんだ。これ」
「お前が言ったんだろ。マディラムで繋げられてるって」
先ほどぺトラスフィルが口走った「
「――――奴隷のぺトラスフィルはたった今死んだ。これからはお前の好きなように生きろ。間違っても俺や屑共のようにはなるなよ」
トーンの低い無感情な声音でミツルはペトラスフィルに言い聞かせる。
「……なん、で……」
「法のすべてが正しいなんて思ったら大間違いだ。法律も制度も、全部人間が生み出したものだ。なら必ずどこかに穴や綻びはある。秩序を作り上げた奴がたとえ王だろうが賢者だろうが、人間であるかぎり間違いはする。状況に応じて、時には罪を犯さなきゃならないことだってあるんだよ」
そうだ。仮に法律に『人を殺せ』などという項目があったとしても、皆が皆それに従って殺し合うなんてことは無い。
こいつらは機械人形ではない。生きているのだ。自分で考え、自分で判断し、そして自分で行動する。それが正しい行いだと確信するものなのであれば。
根底から間違っているのだ。法も、人も。
知性ある生物の住むこの世界においては、物事の善悪は常に流動的であり相対的だ。
間違っている人間が正しさを説いたところで、果たしてそれは正しさと呼べるに足るのだろうか。
「…………」
ぺトラスフィルはしばらくの間固まり続けていたが、自分の中で様々な感情や思いが飛び交ったらしく、目を左右に泳がせたあと死人のような顔を途端にくしゃりと歪ませる。と同時に歯を食いしばりながら大粒の涙を流して嗚咽混じりに泣きだした。
ミツルは予想だにしなかったぺトラスフィルの反応にかける言葉が無く、そっとそのままぺトラスフィルが歩いてきた方向へと歩き出す。
「――待ッ……て」
一通り泣いたあと、手で溢れる涙を拭ってしゃくり上げながらぺトラスフィルはミツルを呼び止めた。
「……何だ」
「――ッ。どう……礼をすればいい……ッ」
拭っても拭っても止まることを良しとしない涙に、ぺトラスフィルは両手で目を抑えながら対処する。
「……何が」
「何がっ……て……、助けてくれた、から」
「俺は熊ほど甘くないぞ。別に助けただけで導いたわけじゃない。だから礼なんてする必要も無い」
事実、ミツルがぺトラスフィルにしたのは魚の獲り方でも生きる術を教えたことでもない。『ただ助けた』。それだけだ。その先へどうやって踏み出すかも、今後どうすればいいのかも諭したわけではない。
ミツルの突き放すような台詞に、しかしぺトラスフィルは下唇を噛みしめながら、
「それだけじゃない。……初めてだったんだ。生まれて初めて、生きろなんて言葉をかけてもらったのは。生きることを認めてもらったのは。これまで挨拶がわりのように死ねと言われるのが普通で、オレにとっての日常で。――でも、本当は辛かった……!」
さっきまで陽気な口調で喋っていたぺトラスフィルだが、今は眉根が下がりきり涙声で鼻をすすっている。
「忌み子として嫌われていたオレが、家畜も同然な最底辺のオレを、あんたは助けてくれた……! それだけでも充分だよ。オレを地獄から地上に引っ張り出してくれたんだ。…………決めたよ。――オレは、いや、わたしは、あんたに仕える!」
「……好きにしろ」
自由だと言ったのはミツルだ。それがこいつにとってしたい事なのであれば、ミツルにはそれを肯定も否定もすることはできない。もう奴隷で言いなりのぺトラスフィルはミツルの手によって殺されたのだから。
しかし、ミツルの思考は別にあった。こいつは今、おかしなことを口にしなかったかと。
ミツルは自分の思い込みが正しかったか否かを確認するためにそっと振り向いた。
そこには今しがた赤く腫らした目尻に涙をため、にんまりと小悪魔じみた笑顔を
「ずっと気づいてなかったみたいだけど、オレは女だよ」
「…………」
――――やはり人間というのは、
「お互い嫌われ者同士、よろしくな」
勘違いして間違い続ける生き物のようだ。
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