第二幕・十九『不幸な仕合わせ -フコウナシアワセ-』
――あれから、どれくらい経っただろうか。
一日、一ヶ月、いや、一年か。あるいはそれ以上もありうる。いちいち数えてなどいないからそんなことは分からないが。
早々に彼女達と決別していたなら、今この瞬間も最高の思い出に浸っていたことだろう。
美しい銀髪の少女と出会い、街を歩き、一時は共に暮らしさえした。
蒼髪をした知的な少女にはたまに研究に付き添い、二人して頭を抱え、そのまま眠りにつくこともあった。
栗毛の少し引っ込み思案な少女とはまだあまり思い出が無かったが、それでも互いに居心地のいい関係になりつつあったのは確かだ。
魔物の討伐前夜に三人と別れ、一人で森に入っていたならそんな輝かしい思い出で溢れていたはずなのに。
――
あの日も、今日に似た空模様をしていた。
藍白という色が的確な表現だと思い続けていたが思い出した。
思い出した。藍白には、もうひとつ呼び名がある事を。
藍白の別称、それは――――白殺し。
もはや世界そのものが敵に思えるなと淀みきった左目に空の色を映しながら、ミツルは片手に掴んだままの肉の通った服を離した。
がつん、と頭蓋のぶつかる音が路地裏の地面にほんの僅か鳴り響き、ミツルは蹂躙する足元で伸びる五人を見渡した。
寝そべる者達は全員筋肉質な体格をした男だ。五人とも身長は違うが、それでも細々としたミツルよりは一回り大きい。
「あーあ。大事な服汚して、これどうすんだよ――……」
棒読みかつ無表情にわざとらしく溜息をつきながら、ミツルは裾に付いた鳶色のソースをごしごしと拭う。
いくら服が黒いからとは言っても見ればわかるし、匂いだって付く。
フードの部分に銀のファーが施されたこの黒いコートは、他の誰でもないアリヤが選んでくれた物だ。地味なこの服は売れることも無く、薄暗い場所に放置されていた。不人気であるが故に一着しか作られておらず、もはや手に入る代物ではない。そんな思い入れ深い大切なコートを、目の前の男は汚したのだ。
なるべく端を歩いていたミツルと向かい合うように歩いてきた男達は、皆が横一列に広がり他者の迷惑など気にせずのし歩いていた。
そのうち食べながら歩いていた一人がミツルに当たり、それが数十分前、そして今の状態へと発展した。
――五人の中で
「生半可な仲で
倒れ込む男の前にしゃがむと、ミツルは男の髪を鷲掴んで乱暴に持ち上げる。
「……そっちに非があることなんて、お前らの年齢にもなればそのくらい分かるよな?」
少し長めの前髪の間から覗くミツルの瞳は、横たわっている男を目線だけで殺そうとでもするかのように、どこまでも無慈悲に見下していた。
「ぶつかった拍子に食いもんが当たったくらいで、なんでここまでされなきゃならねぇんだよッ、ああクソ――……!」
折れた脚を両手で抑えながら、男は冷汗を一筋その額から垂れ流す。
ミツルは空虚な笑みを口元に浮かべ、同時に鼻で笑いながら呆れるような口調で、
「何寝言言ってんだ? 寄って
言いながら、ミツルは男の足に
「ならお前は、大事な大事な物を汚された挙句、逆切れされても『大丈夫ですよ』って笑って許すのか? どこの牧師だ、笑わせんな。今の時代子供でももう少しましな言い訳するぞ」
男はうるさいほどに叫び声を上げるが、人通りを離れた路地裏からではただの無駄吠えにしかならない。そして、その悲痛な声も、ミツルの心情には響かない。
――あの日、シエラたちと決別をした日からミツルの行動理念はより孤独で無慈悲なものへと変わっていった。
元来、孤独で孤高に他人を卑下してきたミツルだったが、アリヤという一人の少女と出会ったことでそれが歯止めとして働いていた。しかし彼女の死、それも目の前で起きたミツルの何よりも大切な人との一生の別れによって、止まっていたミツルの醜い思想が暴走したのだ。
「…………死ねやぁ!」
後ろで横になっていたもう一人の男が機を狙って咄嗟に起き上がり、男は風の刃を生成してミツルの背後から首目掛けて真っ直ぐ放った。――が、皮膚に触れる刹那に、それは一瞬にして消え失せた。
火、水、風、土、雷、光、闇――。如何なるマディラムを用いようとも、攻撃を無効化するマディラムなど起こし得ることは不可能。しかしミツルはできた。知らぬ間にできるようになっていた。
「なっ!?」
「声なんざ出したら奇襲とは呼ばないんだよ。馬鹿かお前」
目を大きく開いて典型的な驚愕のリアクションを見せる男にミツルは振り向くと、
「風のマディラム……。お前みたいな屑が、彼女と同じ魔法なんてな。それと――」
そう言ってミツルは踏みつけていた足を上げると、今度は後ろの男へと煙るような速さで一気に距離を詰める。軽く砂埃が舞い、足を骨折した男の顔面に砂塵がかかった。
常人とはかけ離れた速度で移動するミツルの秘訣は、左手の親指に通されている指輪だ。
小型の折り畳みナイフを買っている闇市場で購入したこの指輪は、ミツルのコート同様に雷のマディラムの加護が込められている。これを使えば、デキア洞窟でシエラが見せた身体強化が再現できる。
――突進した勢いの慣性を乗せたまま、ミツルは男の腹に容赦なく膝を入れる。器官を圧迫され呼吸を妨げられた男は情けない声を出し、片手を腹に当てて、もう片方の手を地について何度も咳き込む。
次いでミツルは
力技ではない。ミツルの色の無い殺気立った威厳に男が押し負け畏怖をなし、再びその頭を地面へと擦り付けられた。
口から薄く血の混じった唾液を飛ばしながら、男は地へと這いつくばる。
「――軽々しく死ねとか言ってんじゃねえよ。喉元掻っ切るぞ」
ミツルは男が腰に携えていた見るからに安っぽい刃こぼれした剣を握ると、男の髪を鷲掴みにして首元へと刃を近付ける。
喉元に強く押し当てられた剣によって男の首には紅い線ができ、滲み出た液体が一筋つつっと鎖骨まで滴る。
男の生命は今やミツルの手中にあり、あとはヴァイオリン奏者のように軽く腕を横に動かせば絶つことができた。
自分の無様な死を、大切な人の悲惨な死をその目で見てきたミツルだからこそ、死ねという言葉には鋭く反応するように、看過できないようになっていた。
「もうその辺りで許してやったらどうだ」
体躯を踏みつけプライドを踏みにじるミツルに声を投げかけるのが聞こえて、ミツルは細い一本道に立つ影に目を向けた。
聞いたことのある声。感じたことのある風貌。久しく見た、
「……そろそろ戻ってきたらどうだ。結局ろくに授業を受けることも無くお前は学院を去った。去ったと思えば、あちらこちらで暴力沙汰の日々。――エイリヤージュが浮かばれんぞ」
相変わらずの沈着な赴きで喋るセリアにミツルはどす黒い
「あんたみたいな強者が知ったふうにアリヤを語るな。……お前に俺の何がわかる」
「分からんよ。分からんから、分からせてもらうために戻れ」
「俺の領域に踏み込んで来るな」
前髪に微かに隠れた右目は
「こやつらは一様に馬鹿だが、ここまで一方的に拳を振るうと問題にもなる。
一度言葉を切り、両の目に憐れみを浮かべながらセリアは、
「私がお前の居所を掴んだのは、騎士からの通報を受けたからだ」
「…………」
「『無名の死神』が
――――無名の死神。
確かに俺は今まで争った中で一度たりとも名乗ったことは無かった。こいつら程度に名前なんて教えてやる義理は無いし、教える理由も無い。けれど、何ともまあ恥のある呼び名だろう。それに一人も殺してはいないというのに死神呼ばわりされるのは釈然としない。
「強くなってどうする。奴を殺して、その後どうするつもりだ」
どうする、だと?
別にどうもしない。後に残るのは、いつまでもどこまでも虚しい無の極地。
虚しさと哀しさだけが残存し、武力も労力も損なわれるだけ。
分かっている。分かっているとも。
けれど、それでも俺は、アリヤを殺したあいつがのうのうと息をしているのがどうしたって
だから強くなるのだ。奴をなぶり殺しにするために一歩でも前へ、一秒でも早く。
「敢えてきつく発言するが、少年。それは甘えではないのか。どうも私には、君が自分の不幸さをいいように使っているようにしか見えないが」
対面し、セリアは鋭いミツルの視線を一身に受けながら見返す。
「自己承認欲求を満たしたいんだろう。何も考えずに生きている者が、真面目に生きる自分よりも華やかに過ごしているのが許せない、そうじゃないのか」
「…………この俺が他人に理解を求めるなんて天地がひっくり返っても有り得ないな。自己承認欲求? 俺は
「君は屁理屈も達者なようだな」
「冷静に人間の醜さを分析してるだけだ。論理と屁理屈を履き違えるな」
「……減らず口を」と口にしながら、セリアは横たわる男達を起こし、一人一人慎重に壁に寄りかからせる。
「――彼女の死が君にとってどれほどの苦痛を与えているかなど、私には想像できまい。だが、同じ悲しみを抱いているのが君だけだとでも思っているのなら、それは大いに間違えているぞ」
ローリアもシエラも、その他にもアリヤと仲良くしていた者はたくさんいるはずだ。その誰しもが、彼女を思い涙しているのも事実。しかし、
「……悟ったように同情押し付けて、分かりきったような態度を見せて、そうして名声を勝ち取るのは楽しいか?」
「そのようなつもりは」
「あるだろ。その気持ち分かるだの大変だったねだの、勝手に理解した気になって勝手に憐れむな。勝手に人を不幸扱いしてんじゃねえよ」
顎を引いて睨みながら、ミツルは吐き捨てるような口振りで弁駁する。
お情けや同情などというものは、結局のところ上から目線の都合のいい言葉でしかない。
自らが過去に先んじて似通った体験をしたからと、そこで相手との優劣を計測して、自分よりも人生経験の浅い奴だと臆断で決めつけた後「解決してやろう、私なら可能だ」と、優位性を確保してくるのだ。
お前は初めての境遇かもしれないが経験豊富な私なら、俺ならその気持ちを知っているからと、自分のほうがもっと過酷な場面を体験しているからと頼んでもいないのに偉そうに腕を組んで憐れんでくる。それのどこが慰めだ。
「そんな節介は反吐が出る。今すぐ失せろ」
セリアに喋らせる隙を与えず、どさくさに紛れて男共を助けている彼女にミツルは棘のある言葉で罵る。
――ミツルは戻らずセリアは去らず。双方が重い膠着状態に陥っていると、再び、続いて可愛らしさの滲み出る声が飛び込んできた。
「ミツル。――久しぶり、だな」
悲壮の込もる声色で、蒼いショートヘアを揺らしながら少女は口元に笑みを浮かべる。
「……ローリア」
何故、と思いながらミツルは少女の名前を呼ぶ。
ローリアのために、シエラのために、数少ない貴重な仲間と呼べる存在を傷つけないために離れたというのに、どうして追ってくるのか。
「……授業は、どうしたんだよ」
「ボクはあの学院で習うことは既に全て得ている。実技科も、魔術科もね。よってボクには自由行動が許されているんだ。――先生にも承認済みだよ」
ミツルもローリアも、あまり大きな声を出さずに
互いの顔を見つめながらしばらくの間無言でいると、ローリアがそっと口を開いた。
「ミツルがいなくなった翌日に、アリヤの追悼式が行われたよ。…………みんな泣いてた」
俯いて石畳の地面を見ながら、ローリアは学院での後日談を話す。その声には心なしか、否、目に見えて元気が無かった。
「追悼式もなにも、アリヤはいないだろ」
「ああ。だから形だけの式だったよ」
「そんな事して何の意味がある。ただの時間の無駄だろうに。……馬鹿馬鹿しい」
自分を散々罵倒しておいてその程度のことしかできないのかよ、と学院の奴らの間抜け面が脳裏に浮かび、ミツルは白々しくふんと鼻で笑ってみせる。
「――で、……お前は何しに来た」
「……連れ戻しに来た」
「シエラから何も言われなかったのかよ」
「ああ、言われたさ。――――『ミツルさんを救うのを手伝って』ってね」
「……あいつ……」
シエラのことだ。優しいシエラはそう言うだろうと思っていたから念を込めて別れを告げたのに、それでも彼女は諦めずにローリアと協力を得た。なぜ、どうしてそこまで俺にこだわるのだろうか。
何も特別な思い出があったわけじゃない。命の恩人でも愛し愛される存在でもない。なのに、どうして。
思索に時間を割き黙ったままのミツルの思考を読み取ってか、ローリアは立て続けに口を開く。
「ミツルからは何か気を引き寄せるようなものでも感じるんだろうな。ボク自身、あまり他人の根深い所までは踏み込もうとは思わない。――だがミツル。キミには不思議と吸い寄せられるんだ。安心できるんだよ」
俺が? 疫病神とまで
――違う。俺はそんな人間じゃない。今まで他人を嫌って他人から嫌われてきたような人間に、そんなものは備わっていない。
「他人を不信に思っているからこそ、備わるものもある。他人を嫌っているから、期待なんてしていないから、キミに
陰る路地裏で影に照らされながら、ローリアはミツルに優しげな声で諭す。
「
知的な彼女は、人間観察を行っているミツルを逆に観察していたのだろう。ミツルよりも幼いけれど、その中身は理性の塊で溢れている。
「そもそもの話、本当にミツルのことをどうでもいいと思っていたなら、ここまで必死になってはいない。ボクはこれでも研究などで忙しいんだ。それでも研究よりミツルのほうがずっと大事なんだよ。――ボクが今ここに立っているのが何よりの証拠だ」
「洞窟での出来事をもう忘れたのか。俺に近付くなよ。俺に関わるとろくなことが無いんだよ。俺は一人でいることを自分から決めたんだ。お前まで失いたくない。だから強くなるんだ。一人でいい。一人がいいんだよッ」
「なら――!」
説くために感情を抑制し、ミツルの言葉に今まで落ち着いて話していたローリアは声を荒げる。
「ならどうして、キミはそんなにも寂しそうな顔をするんだ」
「は? ……何を言って――」
寂しそうだなんて心外だ。何を言っているのか理解に苦しむ。今現在この顔は無表情を貫いているはずだ。
そう思いながらミツルは古臭い建物のヒビの入っている真横の窓ガラスへと顔を向ける。
「――っ」
なんて間抜け面だろう。眉は下がり目は歪み、口元には誰にでもわかるほどに偽りで引きつった微笑。
「そんなことを口走るのなら、そんな顔をしないでくれよ!」
大きく口を開けながら、大きく目を開きながら、ローリアはミツルの顔を見上げ続ける。
「アリヤを失って辛いんだろうが、ボクだってミツルのそんな顔を見て胸を引き裂かれそうなんだ。罪悪感に押し潰されそうなんだよっ……」
ローリアは苦し紛れに自分の胸に手を当てがって、ミツルの歪みきった瞳を一心に見据える。
「あの日、あの時、ボクのわがままに付き合わせたせいで、アリヤは死んだんじゃないか。三人の意見に素直に乗って、真っ直ぐ帰っていれば良かったんじゃないかって……」
過去に罪滅ぼしをするように、ローリアは瞳の奥から、心の奥底からの懺悔を絞り出す。
「ボクがもっと洞窟の危険性に気を遣っていればあんなことにはならなかったんだ。イルフィンの男も魔物達が凶暴になっていると言っていたのに……! あれは凶暴になっていたんじゃない。怯えていたんだよ、奴に……ッ」
「…………」
自責の念ではち切れそうになっている蒼髪の少女の顔からは、いつもの
普段自信を持っていて、活発で、それでいて理知的な彼女が、今は悲痛な表情で必死に訴えている。
そしてその原因がミツル本人だということをミツル自身が知っているから、何も言えずにただ黙ったままで立ちつくす。
「時間が解決してくれる、なんて言われているが、してくれないことだってあるんだ。そんな人を放って独りにさせるほど、ボクの心は強くはないんだよっ……」
今にも泣きそうな面構えで、ローリアは願いを乞うようにしてミツルを見つめる。
「けれど、キミだって間違えているんだよ。ボクが言ったのは誰かを痛めつける強さじゃない。誰かを守れる強さを身につけてくれと言ったんだ」
ローリアはそう言うが、もはや守りたい少女はここにはいない。
それに。
間違っているのはこの世の中だ。間違った世界で生まれ育ったから、偏見も価値観も間違ったものになる。自分も含めて。
間違っているものが当たり前だと誰もが認識しているから間違いに気付かない。
けど、俺はそれを自覚している。気付いている。身につけるのはお前達のほうだ。無自覚であることを自覚する。そのメタ認知的な行程こそが最も重要なことだから。
これが間違った道だと知った上で、それでも俺は選んだのだ。
「後生だ。ボク達がキミを支えるから。頼むよ、ミツル……。折れそうなその姿を、ボク達が、いや、ボクが折ったその姿を、どうか立ち直らさせてくれ」
言いながら、ローリアはその小さな手をすっとミツルに差し伸べてくる。
だがミツルは彼女の手を腐りきった目で見つめるだけで、腕を上げようとはしなかった。
「…………支えるってなんだよ。手と手を取りあって、絆の力で元通りってか」
「ミツル……?」
この手をとって欲しいと嘆願していた矢先にミツルがぼそりと呟いたのが聞こえて、ローリアは恐る恐る黒尽くめの青年の名を呼ぶ。
ミツルの手は爪が食い込むほど固く握り締められ、そしてわなわなと震えていた。
「……なんだよそれ。ふざけんなよ。絆にはな、束縛を意味する
視線を地面に落として、ミツルは喉の奥から絞り出すように悲憤慷慨する。
そうだ。絆だ縁だとほざいているが、言うなればそれは他人の自由を奪い縛り上げるための呪いの鎖でしかない。
皆仲良くなんて名目でこじつけて、助け合おうみたいな薄っぺらいスローガンを掲げて、和平の輪などとカルト教団のように手を繋いで円を描いて、そんなことで人間が強くなれるだなんて絵空事もいいところだ。
武器を捨てて手を取りあっても、どこかに凶器を隠している。たとえそれを見破って捨てさせたとしても、自分よりも強い握力で手を握り潰されるのがおちだ。容易にお近づきになどなるべきではない。
口ではふれあいや繋がりを願っていても、心の中では互いに警戒しているのが人間だ。そんな生ぬるい不誠実な関係は疲れるだけだ。
勝手に助けた気になって、誰かに傷を塞いでもらうのを当然だと勘違いして、そんなものを助け合いだなんて呼んでいいはずがない。お門違いも甚だしい。
「なにが支えるだ。なにが立ち直れだ! 俺は元からこういう人間なんだよ。弱いから、弱いなりに努力してんだ。――なのに、なのにお前らはいつだって俺のする努力は無駄だとでも言いたげだ。必死に強くなろうとしてる人間相手に、お前達は諦めさせようと手を差し伸べてくる。それが苛つくんだよ!」
まるで「しょうがないから手を貸してやるよ」と憐れまれているようで、神経を逆撫でされている気分になる。
弱き者の欲する力は決して正しいものじゃない。
金を積んでも身体を鍛えても届かないものはある。
なら、その悔しさを力に変換するしかないではないか。
鬱憤、悲哀、嫉妬に憎悪。
それらに侵食されるのは愚かなことだ。自制が出来ていない証拠だ。
けれど、しかし。それらがとてつもない力を秘めているのも知っている。
俺は散々この目で見てきた。人間を強くするのは仲良しこよしの馴れ合いなんかでは断じてない。騙された者も、いじめられた者も、大切な人を殺された者も、その末に彼ら彼女らが手にしてきた武器はいつだって獰猛な怒りや狂気じみた怨恨だった。
むしろ団結なんて他律的なものは、考えの違いからさらなる諍いを生む元凶にしかなり得ない。加えて自由を制限されて、自身の中で芽吹いた計画もままならないのだ。
そんな狭苦しい場で強くなどなれるものか。
だから知っている。それらがどれだけ綺麗事だけで蓄積された紛い物の強さなのか。そして孤立した復讐心がどれほどどんな感情よりも強いかということを。
「俺は人間のそんな醜い感情を逆手にとって利用してるだけだ。憤怒も、憎しみだって立派な強さだ。使えるものはなんだって使う。あいつを殺すのを邪魔するってんなら、俺はお前の敵にだって……」
助けてもらっているようじゃ、支えたいだなんて言わせてしまうようじゃまだ足りない。
「仇討ちをするなとは言っていないよ! ただ一人で背負い込まないでくれと言っているんだ。それが、それがボクの
「それ、でも…………それでも、俺は――――!」
ローリアの悲願にぎこちなく首を振り背中を向け、ミツルはまたしても目の前の出来事から逃走する。
逃走癖から得た技術、人と関わりたくないがゆえに独学で身につけたパルクールを駆使して路地裏の高い壁を左右の凹凸や屋根を利用し難無く登りきって行く。
「ミツル――っ!!」
嘆くローリアの悲痛な号哭を背中越しに受けて、ミツルは高所から一度だけ後ろを振り向いた。
高みから見下ろすミツルの片目には、目尻に涙を溜めて未だ呼び止めてくれているローリアと、その一連の様子をただ黙考して眺めるセリアの姿が映っていた。
――逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げ続けてきた。救いの手を払い除け、褒めそやす言葉に耳を塞いできた。
逃走して迷走して、それでも今までずっと、たった一人で物事を考え、策を弄し、答えを導いて解決してきた。
だから今回だって、なんだかんだで解決できると、そう思っていた。否、そう思っている。
これだけ必死に抗って、これほど必死に努力をしているのに、誰一人として認めてくれた人はいなかった。
幼少時代の愛想笑いも、学生時代の勉強も、社会人になってからの多量の仕事も、周りの奴らは何一つ見てなんてくれなかった。微塵も見ちゃいなかった。
貧乏だからこそ親を困らせないように子供特有の抑揚感を閉じ込め、我慢し、学生の醍醐味である青春をすべて勉学に費やし、周りで馬鹿みたいにはしゃいでいる人達との間に線を引き、大人になってからというもの、平日休日関係無く常に失敗しないよう頭の中で仕事のことを考える。
昔からそんな人間らしからぬ機械的な人生を送り続け、その結果として趣味も物欲も長所も無い、生きる意味が皆無な人間が出来上がった。
ただ一つ、自分を認めても求めてもくれなかった他人を心から恨むという、その感情のみを残して。
――なぜそんなにもヘラヘラと笑っているのか。
――なぜそんなに勉強ばかりして戯れないのか。
――なぜそんなにも失敗ばかりしてしまうのか。
そんなふうに理解しようともせずに気味悪がり、距離を置き、悪い面しか見なかった低脳共の言葉に怯え、独り哀しみ、それでも一切表に出さずに明るく同調して笑い続けてきた。
――そうだ。一人でいることの一体何が悪いのか。
世の中には孤独であることに幸福を感じる者だっている。
誰かと共有できればもっと幸せ、なんて言われているが、自分の、自分だけの時間は誰とも分かち合いたくないことだって沢山あるはずだ。
一人でじっくり湯船に浸かりたい。一人でゆっくりお茶を楽しみたい。一人で邪魔されず旅に出かけたい。
そんな行動は許されて、どうして一人でい続けることは蔑まされるのか。それがどうしたって理解できない。
そしてそんな理解できないということを、周りの奴らは理解しようとしない。そのことにまた不満が募っていく。いつまでも尽きぬ悪循環だ。
だけれど、そんな世界一無意味に生きる人間をアリヤだけは認めてくれたのだ。
たとえそれがアリシャの翠眼をもってして芽生えたものなのだとしても。それでも彼女はこんな屑同然の男の身体に、優しく腕をまわしてくれたのだ。理解してくれたのだ。
泣いた。嬉しかった。初めて自分に好きと言ってくれた人に出会えて、芯から鳥肌が立った。
だからこそそんな彼女を殺した奴を、決して何があろうとも許してはならない。
その妨げとなるものは、仲間であろうとも邪魔な存在でしかない。
中身が空っぽの人間を助けたいなんて言っているのならなおのこと。
――自分のことは自分が一番よく知っている。お節介をかけずとも、自分なりの解決策を見出して一人で困難を突破するから。
「…………ありがとな」
ローリアの罪科に苛まれた優しげな顔を見つめてぼそりと呟き、ミツルはコートをたなびかせて大空へと浮いて行く。
ローリアに聞こえたかは分からない。けれど彼女のお人好しな性格には感謝の気持ちで溢れていた。
溢れ出た分を念を込めて送り、ミツルは遠く遠く、国全体を見渡せるほどに遠く――――天へと翔けて行った。
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