第二幕『サンカヨウ』

第二幕・十八『拝啓、さらば自分 -ハイケイ、サラバジブン-』



 ――――下腹部から全身に伝わってくる感覚に、遠くどこかへ行ってしまっていた意識が舞い戻ってくる。


 肌に容赦なくぶつかる冷たい風と小刻みに加わる激しい揺れに不快感を感じながら、ミツルはうっすらと重い目蓋まぶたを持ち上げた。


 左の目は通常通り様々な情報を映してくれるものの、右側の目蓋は思い通りに上がらずミツルは違和感を覚える。

 ズキズキと脈をうつ右眼に目蓋の上から指を当てるが、そこにあるはずの堅さは無く、ぶよぶよと柔らかい皮膚の感触が指先に伝わるだけだ。


 霞んだ視界半分には茶色い地面が延々と映像フィルターのように流れ続けている。顔を上げて周囲を見渡すと、既に日が沈んで暗くなった世界が広がっていた。

 冷たい耳に入ってくるのは風を切る音と、地面を蹴って走る足音だけ。


 寝起きのようにぼんやりとした意識がだんだんと目覚め、それと同じくして底なしの悲しさと憎しみも蘇る。


「――……シエ、ラ……?」


 人生最大の叫びをあげたからか、ひどい炎症を起こした喉奥が一音を発する毎に剃刀で削られるような鋭い痛みを伴う。


「っ、はあ、はあ、――ミ、けほっ! ……ミツル、さん?」


 ミツルの嗄れたか細い一声に、シエラは唾を飲んで渇いてむせる喉を潤してから呼応して立ち止まる。


「ミツル。……目が覚めたのか」


 横に顔を向けると、そこには腕や足に多量の切り傷を付けながらひた走るローリアの姿があった。


 目覚めたのか。その言葉には心做こころなしか、矛盾した感情が込められている気がした。


 単純にミツルが目を覚ましてくれた嬉しさと、目を覚ましてしまったことによって酷な現実を知らせなければならないという哀しさ。


「立てるかい?」


「…………ああ」


 シエラに肩から担がれていたミツルは立ち止まった彼女の体から身を離すと、地面に足裏をつけて踏みしめた。


 片目であるのと長い間頭を逆さまにして血が上っていたこともあり、ミツルは平衡感覚を失いかけて軽くよろめく。


 ローリアがここにいるということは、どうやらデキア洞窟からは出られたようだ。――――ただ一人を除いて。


 受け入れたくない記憶を懸命に掘り起こし、純白の少女がこの場にいないことを確認する。


「…………アリヤは」


 それでもその事実を認めたくなくて、限りなくゼロに近い可能性に縋りついておそるおそる彼女の名前を口にする。


「アリヤ、は……」


 ミツルの言葉を一言一句同じ言葉で返すローリア。しかしミツルの疑問とは違い、彼女の声には堪える嗚咽と困惑の感情が込められていた。


 たった一言発しただけなのに、ローリアは項垂うなだれ、シエラは大粒の涙を流しながらしゃくり上げていた。


 それだけで十分過ぎるほどの真相をミツルは一身にこうむって、その場で呆然と立ちすくんだ。


 先日出たときは四人だったのに、戻りは三人。アリヤと喋ったことも、食事をしたことも、星空を見上げたことも、思いをぶつけ合ったことも、約束したことも、昨夜のことのはずなのに、もう随分と昔のことのように思えた。


 ――自分の弱さを初めて呪った。今まで、これまで、弱いことを受け入れてきたというのに。そんな自らの弱さが、今では死ぬほど憎らしい。弱者なんてものは、所詮他人どころか自分だって守る余裕が無いのだから。


 そんな憐れな最弱最底辺の末路がこれだ。

 死して世界そのものを入れ替え、その果てにやっとの思いで得た大切な人を見殺しにし、あまつさえ逃げ帰る始末だ。なんと弱々しいのだろうか。

 無様に憎き相手に背を向け、不格好に女の子に担がれ、無能なまでに為す術もない。そんな醜態の集大成の具現者であるミツルは、あの魔人と何ら違わない。



 ああ――――唯一を、失った――――。

 マディラムは心を具現化したもの。ゆえにぜんあくも、色を失ってしまったミツルに残された心象風景は、『無』。



 感情の突起はもはや無く、浮き沈みはとうに消え失せた。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、恨みも、妬みも無い。一定の横線を永遠に描いたような、どこまでも平面的な虚しい感情。


 人間と呼ぶにはあまりにも空漠とした、生きていて死んでいるに等しいぞんざいな存在。



 ――――俺は、彼女に、アリヤに何か一つでも恩返しが出来ただろうか?


 助けられ、求められ、困らせ泣かせ死に追いやり、形見のひとつも持たずに逃げ帰った。

 それだけの事をしておきながら、あれだけの事をしてもらっておきながら、俺は何一つ彼女にしてやれなかった。


 首飾りなんて些細なものでしかない。あんなものは返した内に入らない。してやって当然のことだ。


 なのに俺は少しでも返した気になって、浮かれて。


 アリヤの本当に嬉しそうなあの笑顔が、あまりにも眩しいものに思えたから。アリヤとなら、そんなふうにいつか二人で一緒に笑い合える日が来ると思っていたから。


 でも。――――もうそんな日は二度と来ない。


 俺が無力で不甲斐ないばかりに、その結果彼女の体と心に大きな穴を開けたのだ。


 俺がもっと強くて冷静で賢ければ、どんな奴にも負けないほどの強靭さがあれば、気持ちを揺らがさず常に警戒心で塗り固めていれば、きっと事態はもっと抑えられたはずだ。


 最弱であれば痛みも苦しみも全て理解できるものだと思っていたが、それは間違いだった。


 ただ弱いだけでは駄目なのだ。強くならなければ。


 逆らう者皆すべからく排除するために戦うことに慣れ、どんな残酷な状況にも屈しないよう感情も捨てて。



 強く、強く。――――神をも殺せるほどに、どこまでも強く。



 〜 〜 〜 〜 〜



 非番なのかいつもの門兵がいない見知った城壁を潜り抜け、大通りをまたいで商い通りを進む。真夜中だからか、昼間の喧騒で賑わった光景を反転したように、今は閑散とした雰囲気が漂って肌寒い空気と一緒に細長い通りを抜けていく。


 店は全て大きな布が被さって閉まっていた。果物屋も同様だ。けれど今はそれが救いだった。アリヤを失ってしまった今、ジルベダに見せる顔などありはしない。


 ローリアとシエラは終始黙ったまま、ただその胸に弔意の念だけを秘めて目尻を腫らしながら歩いていく。



 それから重い足取りを数十分かけて、ミツルとローリア、シエラの三人は帝都で二番目に大きな建造物――ロエスティード学院へと辿り着いた。


 ロエスティード学院の門前まで来た途端、ローリアはずっと我慢していたであろう涙をその目に浮かべながら、学院から漏れ出る淡い照明に照らされていた。

 そして大きな門を力いっぱい押し、何度も何度もつまずきながら実技科方面へと駆け込む。

 一切の間違いなく廊下の角を曲がり、やがて視野に入ってきた一つの扉にノックもせずにうのていで転がり込んだ。


 夜なのにもかかわらず中央窓際にある机の上で流麗に文字を書いていたその手が止まり、琥珀色をした目を珍しく見開かせたセリアの姿が、そこにはあった。


「せ、せんせ……っ、せんっ、…………先生――ッ」


 傷だらけで息を切らしながら呼び叫ぶローリアと泣きじゃくるシエラ、そして二人に支えられ半ば朦朧としながら片目をくして右目から血を流すミツルの姿を見てただ事ではないと判断したのだろう、セリアは一瞬見開いた目をすっと細めると、手に持っていた光沢ある黒塗りのペンを立て掛けた。


 曰く、バッドグリムはこの世界では最弱の魔物。

 RPGでいうところの、スライムやゴブリンに等しい存在だ。そんな魔物相手に四人で行ってこのざまとは、到底信じがたいだろう。それを見越した上で、


「…………なにか、あったんだな」


 セリアは静かにこちらへ歩み寄り、そのを聞こうと目前に立つ。


 ローリアは証拠となる血にまみれた胸章を懐から取り出し、セリアに手渡した。

 乾いて血が凝固した金属製の胸章をセリアはしばし無言で見つめたあと、怒りとも悲嘆とも言い知れぬ、どこか強く感じる眼光をローリアに向ける。


「デキア洞窟へ行ったのか」


「…………はい」


「あそこへは行くなと告げたはずだが」


「……その……忘れて、いて――……」


 いつも元気で自信に満ち溢れているローリアだが、今は目尻に涙を溜めて深く反省と後悔を行き来していた。

 忘れていたのはローリアだけではない。実をいえばミツルもまた、当時セリアの話していたことを忘れていたのだ。


「……騎士共は全滅か?」


「ボク達が入ったときには、もう……」


「そうか」


 セリアは小さく「あの馬鹿共」と呟きながら、窓辺の奥に見える夜空へと目を向ける。


 門兵といい今の騎士に対する発言といい、セリアは存外顔が広いようだった。同じ仏頂面をしたミツルとセリアとで、何故こうも他人からの好き嫌いが分かたれるのかが不思議に思えてならない。


 セリアは数秒、この状況に不釣り合いなほど綺麗な夜空を眺めたあと、こちらへと振り向いていつにも増した真剣な表情で口にする。


「最後の質問だ。――――――――エイリヤージュは、どうした」


 かく言うセリアに悪気など無いのだろう。だが彼女のその何気ない問いに、ミツルは苛立ちがつのる。


 これは――――まずいな。


「…………言葉を選べよ…………」


「何か言ったか」


 ぼそりと呟いたミツルの言葉を聞き取れなかったのか、セリアはローリアの後ろで壁に寄りかかりながら必死に立っているミツルへ視線を移す。


「この状況を見て、あんたは分かりきった答えをいちいち述べたてないと気がすまないのか」


 この感情はまずい。――――ちようとしている。


「……なんだ、今度は八つ当たりか」


 セリアの睨めつけるような飄々ひょうひょうとした素っ気なさに、ミツルの負の感情が沸騰する。

 アリヤを失ってしまったミツルは情緒不安定まっしぐらだ。以前ならば怒りを感じても冷静になって抑制することができたが、今はそんな余裕など微塵もない。


「もう少し他人の気持ちを読み取れよ。いつも見透かしたような態度して、結局肝心な部分は曖昧にしかしていない。何の解決にもなってないんだよ、いつもいつも。お前よりもアリヤの方がよほど俺を理解してたんだぞ……ッ」


 震える口で、震える声でミツルは腕を組んで立つセリアに反駁はんばくする。

 一言を発するたびにアリヤのことを思い出し、吐瀉物と嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えて呑み込む。


「二人ともやめてください……っ!!」


 そんなミツルとセリアの言葉に割行ったのは、これまで大粒の涙を流しながら泣き喚いていたシエラだった。


「今はこんな言い合いなんかしてる場合じゃない! 二人なら、そんなこと分かってるはずじゃないですかっ!」


 耳に響く高い声色に、全員がたまらず黙り込む。

 夜の静かな部屋の中で、物の少ない部屋の中で声が洞窟のように微かに反響する。


「……そうだ。先生、頼むよ……。討伐隊を送ってくれ。それとミツルの治療を――――」


「それはできない」


「な――っ!?」


 ローリアのかすような懇願を、しかしセリアは否定した。


此奴こやつの治療はすぐにでも執り行おう、君もな。――だが、討伐隊は出せない」


「ど、どうしてだ!? 先生の頼みならば騎士の人たちも聞き入れてくれるだろう!」


 ローリアが早口で説得するが、セリアは腕を組んだ威勢のいい姿勢のまま、


「考えずとも分かるだろう。先にあった死体はなんだ? 討伐隊の騎士だ。その騎士達が殺られたんだ。そこへまた討伐隊を送って、無駄死ににでもさせるつもりか?」


「――っ」


 息詰まったローリアを無言で見つめながら、セリアはその場から動こうとはしなかった。


 腹が立つが、現在最も理にかなったことを言っているのは他でもないセリアだった。


 騎士の討伐隊は無惨に殺され、アリヤも瞬殺され、あの場で一番強かったローリアでさえ傷つき隙を見て逃げ出すのがやっとだった。


 シエラは立ちすくみ、ミツルは怒り狂っただけ。

 そのシエラですらミツルを救うために恐怖で強ばった身体を奮い立たせて行動に出たというのに、最弱の男は恥ずかしげも無くこうしてまた救いを乞うている相手に対して突っかかっている。


 あのような煩わしい狂人が洞窟内にいるなど知らなかったとはいえ、元はと言えばミツル達が入って行ってしまったのが今を創り出してしまった源泉だ。


 時間の無い中でも周到に計画を練っていれば、ローリアにもっと洞窟の危険性がないかを示唆していれば、シエラに妙な気配がないかを探ってもらっていれば、アリヤが死ぬことはなかった。


 自分が弱かったせいで。心が緩んでいたせいで――。


 アリヤの存在に甘えてしまったせいで、他人を頑なに突き放し続けてきた黒崎 光はいつからか消えてしまっていた。


 己の他人を信じてみたいという欲望なんかに負けず、アリヤを、ローリアを、シエラを突き放していれば、こんな事には、アリヤが死ぬなんて事にはならなかったのだ。


 あの日の夜、あの時点でやはりミツルは彼女たちとの縁に終止符を打つべきだった。アリヤの目を見ず、言葉を聞かず、思いを感ずることなく無視していれば。

 もっと言えば、出会った頃に素っ気ない態度をとって関わろうとせずにいたなら、彼女たちにもバッドグリム討伐の話が持ち込まれることは無かった。


 自分の心に未だ甘えがあったから、このような酷い終着点に至ったのだ。


「――取り敢えずは休め。睡眠は死と同様、眠っている間は痛みも苦しみも感じることは無い。その間に治癒も行っておく」


 セリアはアリヤの死を耳に入れてもなお動じず、落ち着いた赴きで優先順位を決める。


「何も諦めろとは口にしていない。だが奴は強い。私も策を講じてはみるが、その前に休むことだな」


 セリアはそう言いながらミツルとローリアを説く。――が、続く激痛と流れ出過ぎた血液による貧血により、我慢していたミツルの意識は再び彼方へと押しやられる。

 遠くローリアとシエラの呼ぶ声が聞こえるが、水中奥深くに迷い込んでしまったように自我はだんだんと沈んでいく。

 最後に感じたのは、力が抜けて床へと全体重を預ける感覚、それだけだった。



 〜 〜 〜 〜 〜



 ――目が覚めた頃には夜はとうに過ぎ去り、代わりに平和を彩るように眩しい日光と見知らぬ天井がミツルの意識を出迎えた。


 高めの天井は歯牙を粉末状にして塗り固めたような乳白色をしており、中央は二重三重にくぼまれた四角形の模様が彫り込まれていた。


 枕に沈んだ首を軽く左右に傾けると部屋の全貌が明らかになる。

 セリアの部屋の倍はあろうかという無駄に広い部屋の床に、高級感溢れる赤茶けた絨毯が全面に敷かれている。そんな一泊するのに多額を要求されそうな部屋だというのに、あるのはミツルが寝ている大きめのベッドに質素な花瓶がひとつだけ。


 ミツルが上体を起こすと左膝に軽い圧迫感と温もりを感じ、本能的にそちらへと視線を向ける。

 ミツルの膝の上に布団越しから腕を置き、さらにその上に頭を置いて眠っているのはシエラだ。


 思えば彼女はその小さな身体でミツルを持ち上げ、丸一日半もかかる道のりを一夜で走り抜けてくれたのだ。しかも時折ローリアのことも運びながら。


 獣人の血統が入り混じっているとはいえ、いくらマディラムを用いて身体が強化されていても年端もいかぬ少女だ。極度に疲れ果てたシエラは深い寝息を立てて眠っていた。


 ミツルは顔にかかったシエラの栗色をした髪を払ってやろうと手を伸ばすが、洞窟での一連の出来事を思い出し、そっと触れぬまま腕を引き戻した。


 耳の奥で鳴り響くシエラの哀哭が、こびり付いて離れてくれない。


 これ以上彼女らと親睦を深めてしまっては、また悲劇を招くことになりかねない。

 どうせミツルはその果てに意味もなく生き残り、落胆しては後悔するだけなのだから。


 もう学んだ。もうわかった――。


「……ん……ミツル、さん?」


 毛布の動きに気付いたのか、目を擦りながらゆっくりとシエラは起き上がる。


「悪い。起こしたな」


 目覚めてから初めて発した声は出づらく、いつもよりも少し低い声音が頭を振動させて眠気を飛ばす。


「あ……えっと……ここは?」


 遠慮気味に目を合わせないで語りかけるミツルにシエラは欠伸混じりに、


「ロエスティード学院の休憩室ですよ」


「休憩室……」


 復唱し、ミツルは何の気なしに右目に手を当てた。


 包帯の巻かれた閉じたままの右瞼は相変わらずぶよぶよと軟らかな感触を保っている。しかしその奥に昨夜のような重苦は無く、あるのは大切なものと共に奪われ無為に残った空洞だけだった。


 目が覚めればすべて元通りであってほしいという願いはその感触で吹き飛ばされ、ミツルはたまらず眉を寄せる。

 シエラはそんなミツルの表情を見て一瞬顔を強ばらせたが、ミツルが一度瞬きをし終わった頃にはいつもの顔をした彼女の姿がそこにはあった。


「体調はどうですか? ミツルさん、三日間ずっと寝たきりだったんですよ」


「三日……?」


 てっきり昨夜の出来事だとばかり思っていたミツルは、無意識時の時間の流れの驚異的な速さに仰天する。


「はい。昨日まではローリアが付きっきりで居てくれたんですけど、私も回復したから代わったんです」


 ローリアも身体中に多数の傷をつくっていた。自身を盾にして守ってくれたのだ。今度会った時に謝罪せねばなるまい。


「もう随分と陽も昇ってますし、大丈夫なようでしたら教室に顔を出しませんか? みんなとくだらない雑談でもすれば、きっと気分も少しはほぐれますよ」


 シエラはそう言って下から見上げるようにして朗らかに笑ってみせる。が、窓から差す日に照らされた彼女の笑顔は、ミツルにはとても苦しそうに見えた。


 本当に強い心を持った少女だ。彼女にしてみればアリヤはかけがえのない親友であったというのに、それでも今は哀しみを堪えて、元気を絞り出してミツルに気を遣っている。そんな文字通りの苦笑を浮かべるシエラは、ミツルなんかよりも何倍も強い存在といえるだろう。


 そして同時に、小さな女の子にすら励まされ気を遣われている自分がどれほど惨めで弱々しいぞんざいな生き方をした生物であるのかも、身をもって知る。


「…………」


 アリヤとローリア、シエラの三人以外とは一切関係を持っていない。他の奴らはアリヤのように純粋な存在ではない。――けれど、そんな奴らでも今はり所になる気がする。少しでも気持ち的に楽になれるなら、今はそれにすがろうとそう思い、ミツルは無言で部屋の出口へと重い足取りを運ばせた。



 〜 〜 〜 〜 〜



 部屋を出て長い石造りの廊下をシエラと一緒になって歩き、ローリアは教室にいるのだろうかと、必死に色々なことを考える。

 ほんの僅かでも思考に隙を作ってしまっては、アリヤが殺された時の様子が入り込んでしまうから。

 そんなことを頭の隅で考えている時点で、ミツルはアリヤを思ってしまっているわけでもあるのだが。


 ミツルはそんな皮肉にバツの悪そうな顔つきで困り果てて歩いていく。優しいシエラは敢えてミツルの顔は見ずに、ただ歩く速度を合わせてどこまでも続きそうな長い廊下を先導してくれていた。


 ――歩いて十数分ほど、やがて見覚えのある扉の前まで辿り着いた。


「静かですね?」


 不意にシエラは扉の前で立ち止まりながら顔をしかめて口にする。

 彼女はそうは言うものの、ミツルは実際のところこの教室にはまだ数えるほどしか足を踏み入れていない。ゆえに普段と異なるその静けさとやらはミツルには分からないでいた。


 初めに来たのはアリヤに学院を案内されたとき。二度目は合格した翌日に、セリアに連れられて入ったとき。そして残る数回は、セルムッドに決闘を申し込まれたあとだ。


 よって異世界の学校に不慣れなミツルにとって、シエラのその一言には共感し得なかった。


「……今日は休みなのか?」


 感情のこもっていないミツルの言葉にシエラは「それは無いと思いますけど」と胡乱げに呟きながら扉を開ける。


 ――――居た。全員居た。


 全員が自分の席に座り、そして全員が思い詰めた表情でこちらへと顔を向けていた。

 なのに、誰一人として口を開こうとする者はいなかった。


 まるでミツルがこの連中に初めて挨拶をした時のようなデジャヴに襲われるが、当時と決定的に異なるのはその異様な刺々しく重苦しい空気感だ。


 ミツルとシエラは不思議に思い、訝しんだ様子で恐る恐る教室に入る。

 元来、二人とも注目されるのは苦手な性格だ。中でもシエラはミツルと違ってなんてことは出来ようもない。彼女はミツルの背中に隠れるようにして萎縮してしまっていた。


 そこでようやっと、一人が席から立ち上がりこっちへ向かって近付いてきた。歯を食いしばり、鬼のような形相をしながらも愁眉の込もった表情で寄ってきたのはセルムッド・クラトスだ。


 セルムッドはミツルの目の前に立ち、至近距離から威嚇する蛇のような睨みを利かせて口を開く。


「――エイリヤージュ……、アリヤ、死んだんだってな」


 セルムッドのトーンの低いその言葉を聞いて、冷静さを欠いたミツルは愕然とした。


「……なんで……知ってる」


「今朝、先生が言ったんだよ」


 彼なりに気を遣ってか、あまり大きな声を出さずに言を発する。そんなセルムッドの配慮を完全無視し、ミツルはセリアに怒りを感じていた。何故言ったのかと。

 しかし彼女の合理的な性格からして黙っておくままではいけないと、勝手な噂が広まると判断したのだろうと、そう思ってミツルは息を吸ってなんとか怒りを飲みこんだ。


 だがそこでまた別の怒りがこみ上げる。「死んだんだってな」。そんな他人事のような口振りで、さも自分は悪くないと遠回しに言っているようなセルムッドに。


「…………お前が……」


「あ?」


 ぼそりと呟くミツルの言葉を聞き逃し、セルムッドはついぶっきらぼうに声を発する。その反応にミツルはますます苛立ちを覚える。


「……俺よりも強いお前が素直に行ってれば、アリヤも無事で済んだはずだ。……いや、行かなくて済んだんだ」


「……貴様、本気で言ってるのか? 第一、俺に勝ったんだからお前のほうが強いだろう」


「あんなの偶然に決まってるだろ」


「…………」


 いつもの冷静な判断力を失くしたミツルを前にして、セルムッドは反論する気すら起こらず困惑する。

 今までならばそんな滅茶苦茶な言動を繰り出すのはミツルではなくセルムッドだったはずだ。まるで中身が入れ替わったかのように、今のミツルはまともな思考が備わってはいない。


「――お前が彼女を殺したんだろ!!」


 するとそれまで沈黙を貫いていた部屋に亀裂でもいれたいのか、ミツルとセルムッドの話を黙って聞いていた教室の者達が皆一様にミツルが怒りを鎮めたのと入れ替わったようにして静寂を打ち壊した。


『お前が殺した』『お前が悪い』『セルムッドに勝ったような男が、少女一人も守れずにのうのうと逃げ帰った』『疫病神め』


 そんな耳から血が垂れそうな痛罵冷罵つうばれいばの豪雨を、幾度となくミツルは被った。


 どうしてこいつらが魔術科であるアリヤを知っているのだろうと思ったが、あれだけ優しくて人当たりのいい彼女だ。別の科であろうと好かれるのは当然だろう。


「――おい貴様ら、黙れよ」


 セルムッドは悪い意味で一丸となっているクラスの連中を鎮めようと対処する。


 ――言い返せなかった。いつもなら容赦なく反論して正論をぶつけて、完膚なきまでに慈悲もなく屑同然に数倍にして返していたのに。彼ら彼女らの言葉が、奴らの言葉のほうが、正しかったから――


「……っ」


 いつの間にか、気付けばシエラの背中が目の前にあった。シエラが盾になるように、立ち塞がっていた。

 小心者だというのに震える身体で仁王立ちになり、守護獣のように立ち振る舞うシエラの肩にミツルは手を置く。


「いいんだシエラ。……慣れてるから」


 ミツルはこういった多が個を村八分にする素晴らしく醜い集団心理をここの誰よりも目にしてきた。

 いざ自分が相手の立場に立てば大したことも出来ないくせに、それが素知らぬ他人となった途端に容易く牙を剥く、そんなおぞましい集団心理を。

 それも周りに似た考えを持つ人間がいればそこに紛れて保身的になりながら。


 学校だろうが社会だろうが人のいる所ではどこにでも空気のように存在する。そんなむごたらしい民意などとうに慣れた。誰よりも場数を踏んできた。


 ――ミツルの一言に振り向いたシエラの目には、こぼれ出た涙があった。


「慣れてるからなんですか。慣れてるからどけって言うんですか。仕方ないことなんですか。仕方ないから我慢してるんですか。そうやっていつもやられてる側が堪えているからこういった可哀想な人たちが減らないんじゃないんですかっ」


「わかってるよ。わかった上でだ」


 早口でまくし立てる彼女をミツルは制する。


 いくら正しさをぶつけても、どれだけ納得させようと思っても、世の中には言葉や理屈が決して通じない相手もいる。けれど、今回に限ってはこいつらの言葉をすべて受け止めなければならないのだ。――それがどれだけ酷な言葉だとしても。


 しかし、


「いえ、こればかりはミツルさんはわかってません」


 シエラはそう言ってミツルから身体を背けると、未だやいのやいのとうるさく喚いている同じクラス内の者達へと向き直る。シエラは深く息を吸って震える足と拳に強く力を込めると、


「うるさい!!!!」


 出会ってから今まで一度として聞いたことのない大きな声で、教室で先々に不満を漏らす者達のざわつきをかき消した。


 シエラのこんな大きな怒声を誰も聞いたことが無かったのか、実技科全員が思わず押し黙る。当然例外なく隣にいるセルムッドすら目を丸くさせて呆気にとられていた。


「……じゃあ。じゃあ言いますけど、なんで……どうして私には誰も何も言わないんですかッ!?」


 静まり返った教室で、震えるシエラの声だけが反響する。


「私だってあの場所にいたよ。ミツルさんもローリアも戦ってたのに、私だけ足がすくんで逃げ出すことしかできなかったんだよ……? ミツルさんが批難を受けるなら、私にだって言われる責務があるはずだよ!」


 滂沱の涙を流しながら、シエラは一辺倒にミツルを責める者達へと舌鋒鋭く言い返す。


「みんなはミツルさんが学院に入ってきてまだ浅いから、まだみんなと仲良くなれてないから、だからそうやって他人事として好き放題言ってもいいんだって思ってるだけでしょ……? それって差別と何が違うの!? ねえ!!」


 小動物の剥き出す牙の鋭さに、この場の誰よりも大きく見えるその姿勢に、誰一人として言葉を発せずにいた。


「ミツルさんを悪く言うなら、あの時一番何もできずにいた私が報いを受けるべきだよ……っ」


 両手で顔を覆って静かに鼻をすするシエラの横で、黙って聞いていたセルムッドもそっと口を開く。


「俺がいつも貴様らを快く思っていないのは、お前達の中にそういった醜い魔物が巣くっているからだ。――確かに俺もこいつのことは気に食わん。だがな、多勢に無勢、人の経験した悲劇を想像できないでいる貴様ら下衆共のほうが、よっぽど嫌いだ」


 口汚いが擁護してくれるセルムッドにミツルは意外に思いながら、


「なんでお前らまで……。そしられるのは、俺だけで……」


「勘違いするな。言ったろう、多勢に無勢なんてものが気に食わない。それだけで言ったつもりだ」


「ミツルさんはあまりにも優しすぎます。……純粋すぎるんですよ」


 こんなに黒く染まってしまったのに、それどころか色を失ってしまったというのに彼女は、それでもミツルの長所を見つけ出そうと腐った目の奥深くをしっかりと覗いて見つめてくる。


 まだ、こんな優しいやつがいたのだと思った。

 ならば、これ以上彼女たちを傷付けないように離れなければとも思った。


 ――ミツルはシエラの頭に手を置くと、軽くうねった茶色の癖毛を毛先に沿って数度撫でる。


「なんで、あっちでお前やアリヤみたいな奴と出会えなかったかな」


「え……?」


 一人でも出会えていれば、俺の人生も少しは違ったかもしれないのに。


「…………俺は、疫病神らしいからさ。そばにいるとお前も傷付ける。……だからもういい。いいんだ」


 怖がらせないよう慎重に優しく声を和らげながら、ミツルはシエラの目を真っ直ぐに見返す。


 アリヤ、それにローリアやシエラが良い子だからといって、他の奴らもそうというわけではない。むしろ彼女達のようなものは滅多にいないだろう。現に今ミツルの目の前では、弱者を嫌う者達が罵声を放ちながら跋扈している。


 誰だって弱い奴よりも強い者のほうが良いはずだ。

 身体面で強い、精神面で強い。強ければ強いほどその秘訣を教えてもらいたくなるし、守ってもらいたくもなる。中にはセルムッド・クラトスのような高慢ちきな人間もいるが、大半の強者の周りには人が寄りつくものだ。


 けれどその真逆、つまり弱い人間というのは得てして恵まれぬ存在だ。

 羨望の眼差しを向けられるわけでもなく、仲間に加えたところでこれといった戦果が芽生えるわけでもない。

 教わる事なんて何も無いし、武勇伝の一つもあったものじゃない。


 強者は好かれ、弱者は嫌われる。


 初めて教室で挨拶を交わした時も暖かな空間は感じず、どこかよそよそしさの漂う雰囲気がミツルを出迎えたのも本当は知っていた。――村八分を思わせる聲、空虚な拍手。


 どちらにせよ、そんな場所にはもう戻れはしない。


「やっぱり、シエラは俺の真似なんてしなくて正解だったよ。――悪いがローリアにはお前から言っといてくれるか」


「なにを言って……」


「あいつは優しいし賢いから、どうせあの手この手で俺を引き止めようとするだろ? だからそんな事させないように、頼む」


 ミツルは覇気のない掠れた声で最後にそう言って微笑むと、逃げるようにシエラに、セルムッドに、教室の者達に背を向ける。


 ――これでいい。


 人間における最大にして最強たりえるエネルギーは断じて絆や愛などではない。もっと醜く黒いもの――――怒りや憎しみが、人を強くする。

 実際ミツルよりも大きく膨れ上がった民意であるクラスの奴らのほうが、今はずっとずっと強い。

 復讐心こそが最も強い強さなのだ。

 愛や正義の強さなど、ただの幻想に過ぎないのだから。


 正義が必ず勝つのなら、あの日、あの時レィ・ドワールを殺せたはずだ。

 けれど、殺せなかった。深手を負わせることすらできなかった。

 それは弱かったから。弱かったから殺せなかったのだ。


 強くなる。何人たりとも逆らうことはゆるされないほどに、強く。

 そのためには、強くなるためには情けは無用だ。

 友情も愛情も、あるいは感情も、総じて邪魔な人間の部位でしかない。


 だから、これでシエラとローリアと、弱くて甘ったらしくてクソったれな自分自身とも決別だ。余計なものが介入すれば、きっと強さがこぼれ落ちてしまうから。


 奴は、レィ・ドワールは必ず殺す。その復讐心だけが行動理念として働けばいい。これは自分のためでもある。


 弱者とは甘く見られがちだ。復讐は何も生まないなどと言うが、復讐することによってこいつはきちんとやり返す人間だという評判は得られる。それがあるのと無いのとではまるで違ってくる。その評判が、今後の人生で盾として自分を脅威から守ってくれる。


 ――言葉無しに別れを告げ、和やかに笑ってのけながら顔を上げるミツル。しかしそこにはもはや笑顔など消え失せ、あるのはただただ憎き相手をその手でじ伏せる絶対零度のような冷酷な瞳、それだけだった。


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