第一幕・十七『最悪の災厄 -サイアクノサイヤク-』
〜 〜 〜 〜 〜
――バッドグリムと戦った場所から少し離れた位置で、負傷した右腕の血をローリアが水魔法で洗い流し、シエラが薬で消毒したのち、アリヤが治癒魔法で傷口をケアしていく。
今まで感じたことのない暖かみのある、ともすればひんやりもする薄緑の柔らかな光に包まれて少しむず痒いのを我慢していると、傷痕は多少残るものの既に完治するまでになっていた。
「魔法って……凄いな」
ぽつりと感嘆を漏らすミツルに両手を添えて魔法をかけている最中のアリヤは、
「治癒って言っても、なんでも治せるわけじゃないんだからね。切断された部位は繋げられないし、死んだ人も蘇らせられない。致命傷だって先延ばしにするくらいしかできないんだから。――もう、無茶はしないでね」
「いくらボク達を守るためとは言え、ミツル一人が傷つくのは見てるこっちも辛いんだ。全部任せろとは言わないよ。だがボク達も戦える身なんだ、もう少し頼ってくれ」
しゃがみながら悲しげに眉を下げているローリアにミツルは「悪かったよ」と一言、
「今度からはローリアにも頼るよ。――シエラにもな」
「……! はいっ!」
そんなふうに手を顔の前でぐっと握るシエラを見て安心していると、治療を終えたであろうアリヤがすっくと立ち上がる。
「よし、これで治ったはずだよ。念のために、ちょっと腕を動かしてみてくれる?」
自身の腰に手を当てがるアリヤに言われてミツルは激痛に少しばかり恐れながら観覧車のように右肩を大きくゆっくりと回してみる。続いて肘を曲げ伸ばしし、上腕二頭筋に力を込めて力こぶをつくる。
痛くない。あれほど激痛だった腕からは嘘のように痛みが消えている。矢が刺さる前に戻ったような気分だ。
「――大丈夫みたいだね。良かった」
ミツルが痛みに顔をしかめること無くたまげた表情をしているのを読み取ってか、銀髪の少女は晴々しく安堵の声を漏らした。
「ありがとな。アリヤ」
心の底から喜んでくれるアリヤに感謝を告げ、頭に手を乗せて軽く撫でる。
アリヤは気恥ずかしさで少し顔を赤らめながらも、内心嬉しいようでミツルの手を払い除けること無くもじもじしている。シエラのように尻尾が生えていれば、まず間違いなく左右に揺れていただろうとシエラのほうを見やると、頬に空気を溜めて羨ましげに見据える顔がそこにあった。
……お前もか。
ミツルは苦笑いをしながら、シエラに手を招く。ペットのように近寄ってきた彼女の頭をもう片方の手でもふもふ撫でながら、意外な展開になったなと、そんなことを思うミツル。
「……ミツルミツル」
服の裾をくいくいと引っ張られ、声のしたほうへ顔を向けると、残る少女がにんまり笑顔で「ボクもしてくれ」と訴えかけてきた。
「…………なんでこうなる」
三人に囲まれながら嬉しさではなく戸惑いを抱くミツルは、木々の間からこぼれる陽の光に射されてアリヤを撫でたことを後悔した。
離れているとはいえ魔物の死体が見える位置で呑気に少女達と戯れ、よくもまあこいつらは気にならないものだといっそ感心を抱いていると、日が少し傾いてきていることにミツルは気付いた。
「――そろそろ戻らないか? ほかの魔物が出てきても、暗かったら対処できるかわからないし」
「そうですね。まだ明るいですけど、私も早めに出たほうが賢明だと思います」
ミツルの投げかけた言葉にシエラとアリヤも頷いて賛成の意を示す。が、一名は不満を漏らしたような顔つきで、
「待ってくれ。ボクが同行した理由の一つは、キミたちにもパッコの実を探すのを手伝ってほしかったからなんだが」
「時間があれば私も手伝ってあげたいけど……。もうお昼も過ぎてるし、森を出る時間も考えたら――」
「そんなのとっくにボクが計算している。それを承知でお願いしているんだ、頼むよ」
子供のようにアリヤにしがみつきながら頑なに賛同してくれないローリアに、ミツルは違和感を感じた。
この三人組の中ではアリヤが一番常識的なのだが、最も落ち着いて状況分析を行えるのはローリアだ。そんな理性的でない彼女の姿は新鮮ではあるが、らしくない言動にミツルは「ローリア」と名前を呼び、
「どうしてそんなにも実にこだわるんだ? お前らしくもない」
そう言うとローリアははっとした様子で落胆する。
「……すまない。――
「恋人か?」
「ち、違うわい! 気になるのはいるが恋人なんていな――……っ!?」
ミツルの意地悪な短い問いにローリアは赤面し両腕を振り回すが、暴露したことによってさらに
「冗談だよ。――で、なんとか山っていうのはこの近くにあるのか?」
「え、ああ、そうだが……」
ミツルの予想外の質問にローリアは顔をしかめる。
「……探してくれるのか?」
「こうやって話してる間に探せると思っただけだ。けど、幻なんて呼ばれてるんだろ? もし見つからなくても、文句無しだぞ」
ミツルが頭を掻きながら渋々了承すると、ローリアが朗らかな笑顔を作って「もちろんだ」と言った。
隣で聞いていたアリヤとシエラは、ミツルに「しょうがないな」というような顔つきで苦笑して、それ以上は何も言わなかった。
〜 〜 〜 〜 〜
――パッコの実があると云われているグライア山に向かって、ミツルたちは少し湿った森の地面を歩いていた。
グライア山への道のりを一番よく知っているローリアを先頭にし、その後ろをミツルが歩いていつも以上に警戒心を固める。
「――そういえばシエラ。ミツルの戦いを実際に見て、なにか参考になった?」
歩きながら、もの柔らかにシエラに問いかけるアリヤ。
「へ!? あ……え……っと……」
アリヤの突然の問いにシエラはへの字に口を曲げて言い淀む。
「どうかした?」
「じ、実は…………迫力に
はにかみながらアリヤと話すシエラにミツルが振り向いて様子を見ていると、視線に気付いたシエラがあわあわと手をせわしなく動かしながら必死に謝る。
「す、すすすすみません! ミツルさん、怪我までして頑張ってくれたのに……!」
「いや、気にしてないから。それに、俺の戦い方なんか参考にしてたらそれこそシエラが怪我ばっかりするぞ。シエラらしい戦い方を身につければいい」
こうも涙目で謝罪されると、こちらとしても微笑んで許すしかない。そもそも許すもなにも、怒ってすらいないのだからそんなことは些細なことでしかない。
「良かったねシエラ。ミツル、気にしてないってさ」
小悪魔的にシエラを驚かすアリヤにミツルは、
「気にしてたら怒ってた、みたいな言い方するなよ。俺はそんなに気は小さくないぞ」
「だ、大丈夫ですよ! ミツルさんが優しいのは、知ってますから」
「――みんな、こっちだ」
三人で話しているのをよそに、ローリアは振り向いて立ち止まる。
「洞窟?」
そう言ってアリヤが目の前に広がる光景を一言で説明する。
雑木林の中から突如顔を見せた洞窟は、ごつごつとした灰色や赤茶けた岩で構成されている。木々に囲まれた場所だからか、岩の表面には湿気を吸った鮮やかな緑色の苔がびっしりとこびり付いており、一部に関しては花まで咲かせていた。
巨大生物の口のように広く、そして大きい入口は、先の見えない暗がりの中から温もりを追い払うかのように冷気を放っていた。
「ああ。近道なんだ。ここを通るか通らないかで大きく時間の短縮を左右する」
「……なんだか怖いですね」
シエラがぼそりと小さく呟き、肩に力が入る。
「ほんとに入るの……?」
アリヤもシエラも、怖いのが苦手なのかあまり乗り気ではなさそうだ。しかしどのみち日も傾いて暗くなってきているのだから、四方八方から襲撃されるよりは前か後ろの二方向に縮めたほうが無難だろう。
「水のマディラム最強のローリアがいるんだ。いざとなったら逃げればいい。目的よりも命のほうが大事だしな」
「ボクも同じような考えだ。学院最強と謳われたセルムッド・クラトスに勝ったミツルがいる。……あとはアリヤとシエラだが、どうする? 頼んだのはボクだ。立案はしても無理強いはしないが……」
アリヤとシエラを交互に見やりながら、ローリアは二択を迫る。
アリヤはしばらく黙考していたが、ミツルの顔を見ると途端に表情を変える。
「行こう」
「三人が行くのなら、私も行きます……! 一人でいるほうが逆に危ないので」
……そうか。アリシャの翠眼で俺の臆病な思想から、もし何かあればやられる前に即逃げるという考えに至るだろうと推測したのか。
ミツルはアリヤを見返すと、彼女には適わないなというような顔をしてほくそ笑んだ。
「別に、意見をわざわざ俺に合わせなくていいんだぞ?」
振り返ってもみれば、この三人の少女は不思議とミツルを警戒しない分、逆にミツルの浅はかな意見にも易々と乗っかってくる性質がある。
今まで散々他人から嫌われてきたミツルからしてみれば好かれるのは非常に喜ばしいことではあるが、だからといって好いてくれている人達がイエスマンと化すのはあまり看過できることではない。
自分の中にしっかりとした強さを持っている彼女達であるからこそ、こういった重要な部分では流されずにきちんと己の意見を発してほしいところだ。
しかし、
「――ううん。私の意見。私の独断で、ミツルの考えに乗っただけだよ。別に合わせてるわけじゃないから、心配しないで」
にこっとそう言って笑ってみせるアリヤの言葉にそれ以上は返せず、「ならいいけど……」とだけ付け加えてミツルは話の軌道を戻す。
「洞窟を出たら今晩はグライア山で寝泊まることになるな」
「そうだね。そうと決まれば、早くこんなところ抜けちゃいましょう」
ミツルの言葉にシエラも身を引き締めなおして四人は大口を開けている洞窟へと足を踏み入れると、外界からはまったく見えない闇夜の空間へと潜り込んでいった。
――ミツルにとって大体の洞窟は狭いというイメージが根付いていたが、想像とは真逆にダンジョンのように広々としているのを見て少しばかり意外に思えた。
天井は手を伸ばしても届かず、ゆうに三、四メートルはありそうなものだった。
寒いくらいの洞窟の中では歩く四人の足音が鳴り響き、奥のほうからは水の滴る音が聞こえてくる。
後ろではアリヤとシエラがせめて恐怖感を消そうと苦し紛れにパッコの実を食べるときの話をしている。二人は楽しそうに会話しているが、その笑顔は軽めに引きつっていた。
洞窟に入ってから十分ほど経つものの、出口とおぼしき穴は一向に見えない。
「――なあローリア。この洞窟はどこまで続いてるんだ?」
洞窟とはいってもちょっとしたトンネルのようなものだろうと予想していたミツルは、反響を考慮して小さめの声でローリアに語りかける。声を窄めても微かに響く洞窟に顔をしかめながらも、これくらいの小ささが限界だと諦念を込めた声でひっそりと話す。
「もう少しだ。この洞窟は一方通行だから迷うことはまず無い。安心したまえ」
手に持った
それからさらに体内時計で数分が経過し、アリヤとシエラも話題が尽き四人全員が黙々と洞窟内を進んでいると、その中で先頭を歩いていたローリアが何の前触れもなく突如として立ち止まった。
ミツルは思わずぶつかりそうになったのをぎりぎりのところで止まるものの、続く後ろの二人が背中にぶつかったことでミツルも玉突きのように自然とローリアに当たる。
「っ。なんだよローリア。……どうした――――」
アリヤとシエラを後ろ手に制しながらそこまで言って、ミツルはローリアが照らす前方の光景を見て思わず息を呑んだ。
目の前に広がるのは、暗闇でもわかるほどに紅く染まった地面。水滴の音だと思っていたものは半身だけ吊るされた者や寝そべる何体もの死体から滴る、生臭い血潮。
そこから数十センチ離れた位置には、骨の垣間見える死体から離されたであろう何本もの四肢。青白い腕は根元から抉られ、灰色へと変色した脚は
その中に紛れて長細い臓物も散りばめられており、本体である土の付着した身体は血液が足りなくなったことで冷ややかに青ざめていた。
ローリアの異変に気付いたシエラとアリヤはぶつけた鼻を
ミツルはその光景を目の当たりにした瞬間どきりとしたが、吐き気の
「…………おい、まずくないか」
それでも震えることをやめないミツルの声にローリアも正気を取り戻す。そして何かに気付いたのか、松明を死体に近づけて絶句する。
躊躇いながらも死体の前にしゃがみ込むローリアの隣にミツルも並ぶと、彼女が照らしているものへと目を凝らす。
白銀と漆黒の二対の剣が交錯した後ろに描かれた一つの盾。それを左胸、ちょうど心臓を守るような位置に縫い付けられた、金属製の紋章。
ミツルがこの世界に来て、あの国に住み始めてから何度となく目にした、誇り高き剣士の証。
「…………これ……この紋章。――……スレイヤード騎士団だぞ」
ローリアの言葉は一言一句が震え、同時に手に持っている松明の炎も動揺で小刻みに揺らぐ。
「スレイヤード……騎士団……って、確か、討伐任務にあたってたんじゃ…………」
(あの時確か、城門前で兵士が何かを……。帰還日を過ぎても帰らないとか何とか……)
そこまで思い出していると、ミツルの真後ろにいたシエラがバケツを被ったような冷汗を全身から噴き出した。
「……ねえ、ローリア。……ミツルさんが学院に入ってきた時のこと、覚えてる?」
シエラの不意な質問にローリアは訝しんだ顔で振り向き、
「なぜ今そんなことを……」
「あのときセリア先生が言ってた洞窟って――」
「――――っ!?」
そこまで言って理解したのだろう。ローリアは踵を返すとひどく慌てた様子でまくし立てる。
「帰るぞっ! 今すぐだ急げ!!」
金切り声で洞窟内に響き渡らせながら、後ろ三人に命令するローリア。だがそんなローリアの背後でうごめく影に、誰もその場から動くことができないでいた。
金縛りとはこういうことを言うのだろう。心霊やお化け屋敷などを何とも思わないミツルでさえ、その異様な造形に身体を強ばらせた。
「――やア。やァヤぁやあ。ワたクし、レィ・ドワールと申しまス。貴方がたモ興じに来たので? イヒヒハハヒヒっ!」
嘲笑し、哄笑し、嬌笑し、冷笑する。
どこか焦点の合っていない剥き出しの眼球には、恍惚の淀みが宿っている。
涎を垂らしながら裂けているのではないかと疑うほど、口元をにっこりとさせて不気味に微笑んでいる。
垣間見える歯牙は、血の足りていない青ざめた異様な顔にそぐわず真っ白な輝きを保っているようだ。
骨が肉越しにわかるそのやせ細った手足を、自らをレィ・ドワールと名乗る男は機械人形を彷彿とさせるように、あらぬ方向へと自分の力で捻じ曲げ、不快な音を鳴り響かす。
狂気に満ちた男は騎士達のものと思われる臓腑を撒き散らし、血の雨を一身に浴びながら、
「あぁあぁぁ……イタい。イタイ。キモチイィキモチィイ…………。貴方も共二味わいマしょうこの感覚感情共々にぃイ。オレが、ボクが、ワタシが、ワレがァ。その肉汁濃密に溢れる肉に亀裂を入れ、割き、取り出し、こノ感覚を、この快楽をその濃厚な脳に覚えさせてあげますヨぉおィイヒヒヒヒヒヒ!!」
「――ふッ!!」
どこまでも不気味な笑い声を漏らす目の前の男に、ローリアは間髪いれずに弾丸のように速い水玉を撃ち出す。
水弾はこの暗闇の中でレィ・ドワールの顔面に見事直撃し、鼻を潰す勢いで打ち当たった。
レィ・ドワールは顔を両手で抑えて痛がっているように思えたが、ぼたぼたと地面に垂れ落ちた血の混じった自分の
これが同じ人間だとは到底思えない有り様だ。
「逃げるぞ!」
関わってはいけない存在だと勘づいたミツルはローリアの手を引っ張ると、うまく一足先に走り始めていたアリヤとシエラの後ろを全速力で追いかける。
「……すよ」
そんなどこかで見たような既視感にミツルは苦虫を噛み潰したような顔をしていると、後方からぼそりと男が何かを呟いたのが聞こえた。
「……駄目でスよ」
再度、次ははっきりと聞こえたその一言の刹那、最前を走っていたアリヤが――――――――
「――――へ」
ミツルの掠れた声に音は無く、ただ無駄な空気が、口元から出ただけだった。
目前で純白のローブの中央から花火のように紅い何かが噴き出し、耳を塞ぎたくなるほどの破裂音が一瞬鳴り響く。
こだまする音が洞窟に響き渡る中で、見慣れた美しい銀色の髪が乱れ、真っ赤に染まった身体がぐらりと傾く。
かつて自分が車に轢かれた時のように世界そのものがゆっくりと流れ、徐々に徐々に地面へと近付いていく彼女の姿を、ただ呆然と眺める。
液体の混じった鈍い音のあとには洞窟内に無音が戻り、宇宙空間に放り込まれたような感覚に苛まれる。
体に重力を感じず、鼓動音を感じず、生を感じず、己が呼吸しているかしていないかさえも
たった今高速で踏み出していたはずの足は知らぬ間に停滞し、視界に映る黒い空間でたった一人輝く潔白の少女は、汚れた地面に横たわったまま、ぴくりとも動かなくなった。
目の前で起きた出来事が理解できず、いや、認めたくなくて、嘘であってほしいと願いを求めてローリアとシエラを見る。しかし彼女らの口は力が抜けたように下がり、大きく開いた目と同様に塞がりはしない。
そんな二人の表情を読み取って、目を背けたくなる衝動を堪えてもう一度アリヤのほうへと振り向く。
ついさっきまで純白だった布は派手なドレスのように薔薇色に染まりきり、その中央には、拳一つ分の穴が顔をのぞかせていた。
「アヒャヒァヒァヒャヒャ!! これ、こレですよ! ワタクシから最も離れテ最も助かる可能性の高いものを敢えて選んで壊す、この快感! ああ、たまラナいっ!」
レィ・ドワールは自身の身体に腕をまわして抱きしめながら、醜い嘲笑を上げて一人叫ぶ。
「貴方がたも見ましたよネ? ね!? 油断してイタ者が壊れルその顔を!!」
頭が真っ白になる。否、真っ黒に染まる。
指先から毛先まで、ありとあらゆる部位が憤怒に支配され、激動に身を狩られる。
「……はっ…………はっ……」
止まっていた呼吸で苦しくなって、たまらず細く息を吐く。
今までの冷静さをひっくり返したかのように、全身に巡る血が煮えたぎるかのように猛々しい怒りが周囲の空気と肩を震わせる。
視界のまわりがチカチカと明滅し、噎せ返るほどの悲憤が血流に乗って脳内を循環する。こめかみの血管が脈打って、噛み締めすぎた奥歯がみしみしと歯茎を貫き抉る音が伝わった。
感情に身を任せるのは愚かなことだと分かっているのに、どうしたって身体が言うことを聞いてくれない。
胃液が煮えくり返り、ぷつりと何かが切れる音がした。
湿った導火線に、最も着いてはならない人間の導火線に火が着いた。
この男を激怒させれば、自分であろうと他人であろうと、躊躇なく殺しにかかる。
「き――……さ、まあぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
青筋を立てて喉が焼き切れるほどの裂帛を叫び、洞窟内の隅々を轟かせる。思考回路が焼き切れるほど目を見開き、限界を超えて目の前の男を焼きごてを押すかのように、その目に焼き付ける。逃がさないように、忘れないように、殺すために、八つ裂きにするために。
冷静さを欠き、無様に無能に無作為に全速力で突進し、目前に迫る醜態の集大成である男へと一揆突撃する。下衆で
「キイぃたああァ。来た来た来ましたよぉ。その憎悪に満ちた表情、それです。それなのデス! その顔が見たかったんです!! ――――さぁ、殺シにきなさいッ!」
両腕を大きく広げながら嘲笑に満ちた瞳に涙を浮かべ、自らを引っ掻いたことにより流れ出た血が混じりあって涙と共に落ちてゆく。
ミツルは固まったことにより生じた指の関節を軋ませながら、コートの中から隠し持っていた小型のナイフを取り出しレィ・ドワールを肉塊に変えるために一気に距離を詰める。
「おああぁぁああああああ……!!」
緩んだ涙腺から涙が溢れ出で、汗と身を知る雨で顔をぐしゃぐしゃにしながらミツルは逆手に持ったナイフを振り回す。
理性の欠けらも無いミツルの攻撃は総じて空を斬り、三十センチと離れていないはずの狂人に当たらないことでさらに怒りを増していく。
刃が届かないと判断したミツルは手に持っているナイフをあらん限りの力でレィ・ドワールへと投げつけ、コートの中にさらに手を突っ込む。
護身用にと密かに装着していた何本ものナイフを次々に取り出しては、目の前の男へと無闇矢鱈に振り投げる。マディラムを使うことなど頭に無く、ただただ憎き相手をその手で解体しようと躍起になる。
途中数本はレィ・ドワールの足や腹、肩などに突き刺さったが、狂気の魔人は痛みを気にすることもなくミツルの憎悪と復讐に塗りたくられた顔を見てにやけ笑いを浮かべている。
「――――ッッ!!」
瞬間、目の辺りに想像を絶するほどの激痛がミツルを襲い、それと同時に右半分の視界が完全なる闇へと
見ると、レィ・ドワールが手に何かを持っている。白くて丸い何かを。
「ワタクシのこの住まいは、一切の光ガ入り込まヌ暗黒の世界。ツマリ、つまりつマりつまり。この中デは闇が手となり足となリ寸鉄となるのですよ」
人差し指と親指で白い球を掴み、子供が飴を舐めるような仕草で奴もそれを舐める。ミツルはその物体の正体を把握し、あまりの激痛に倒れ込んだ。右の瞼を強く閉じ、その上から右手で思い切り押さえる。
「ご存知ですカ? 人の眼球というノは、斯くモ意外ト大きいのデすよ。――ほら、実際に手に取ってみルト、より実感を得られル。手の上ノ目と目が合った時には愛嬌スラ湧きマす」
高圧電流を纏った手で内側から握り締められているような抱えきれない痛みに意識が飛びそうになるが、それも愉快に俯瞰する憎き男の顔を見て無理矢理に引き戻す。
「ク、ソ野郎、がああああ……ッ!!」
右眼を抉り取られ、視界の半分を失っても構い無しに這いずる。地面に血の
見下ろしながら興奮に満ちた恍惚の表情を浮かべるレィ・ドワールを、ミツルは地面に這いつくばりながら残った左目でこれでもかと睨みつける。
「――ミツルっ!」
先の尖った水弾を数発レィ・ドワールに撃ち込みながら、ローリアが叫んでミツルの前に立ち塞がった。
「ああああなたは要りませんねェえ!」
ローリアの放った水弾をレィ・ドワールは珍妙な身体の曲げ方で、にもかかわらず華麗にすべて避けていく。
次いで闇のマディラム使いであるレィ・ドワールは、影で無数の触手のようなものを形成し、ローリアに向けて一斉に放った。
ローリアはミツルの欠いた冷静さを吸収したかのように、水流で出来た盾を作ってレィ・ドワールの攻撃を決死の覚悟で防ぐ。
「シエラ! 先に行ってくれ! ボクもすぐに行くから!」
恐怖に立ちすくむシエラに、ローリアは水の盾を構え続けながら訴える。
「で、でも……!」
「いいから行くんだ! ミツルを連れて、早くッ!!」
「ッ……はい!」
ローリアの剣幕と思いの叫びに気圧され、シエラは目先で転がるミツルに駆け寄る。
シエラは全身に力を込めると、マディラムを発動させる。すると彼女の身体からパチパチと小さく電気が
「ミツルさん、すみません……!」
「ッ! 何を」
損害に苦しむミツルの言葉を遮り、シエラはミツルの身体を担ぎ上げることによって意思表示を伝える。
何故この中で一番小柄な少女が俺を持ち上げることができるのかとミツルは疑問を抱くが、彼女の輝く身体を一瞥してほんの僅かに残った理性で憶測を立てる。
おそらく今現在のシエラ・ルレスタの体は、電気信号を利用したマディラムの使い方によって一時的に身体機能を大幅に上げているのだろう。しかし今のミツルには至極どうでもいいことだ。
「離せよ! あいつを! あいつが――……!!」
殺意の獣に支配され、抜け出そうと藻掻くミツルの身体をシエラは必死に手で抑える。
今のシエラは細身のミツルなんかよりも遥かに屈強だ。男が小さな女の子に担がれているなど、傍から見ればさぞ見物だろう。
「待てよッ、わかったからせめて……! せめてアリヤだけでも!! おいッ! シエラ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
届くことのない手を必死に伸ばすミツルを肩から担ぎ、シエラは何度も何度も謝る。
ローリアは守りで手一杯。ミツルは重症で一人で歩くことすら難しい。そんな中で、彼女までも連れて帰るなど不可能。
ことは一刻を争う状況で、シエラなりの判断で、否、誰もがそうせざるを得ない状態で、栗毛の少女は身に纏う電気をスタンガンのようにミツルに浴びせる。
「な……、で――」
たちまち気絶するミツルにシエラは殺されてもいい覚悟で、涙を流しながら、小さな声で泣き叫びながら、必死に何度も謝り続ける。
後方からローリアの防御を抜けた黒い影が一本シエラとミツルへ襲いかかるが、当たる直前で風で煽られたように影は消し飛びなんとか無事で済む。ローリアがぎりぎりのところで防いでくれたのだろうと、自覚のない思考の隅でミツルはそんな事を思う。
薄れゆく意識の先で、視界の端に紅く染まってしまった彼女を捉える。穢れを知らぬ純白たりえた少女は今や赤いワインを一身に浴びたように鮮血に染まっている。
意識と共に、彼女の姿が遠のいて行く。このまま離れていき、もう二度と、彼女の姿を見ることはできないだろう。
アリヤをこんなにも暗く、寒く、静かで孤独な空間に置き去りにするために。
俺は、黒崎 光は――――アリヤと出会ったのか。
〜 〜 〜 〜 〜
ここまで読んで頂きありがとうございます。これにて第一幕終了となります。次話から第二幕になるので、今後ともよろしくお願いします。
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