第一幕・十四『黒白 -コクハク-』
ほどよい風で草花が揺らぎ、木漏れ日を散らす木々が枝葉を擦らせて音を立てる。
少し薄めの青空は境界線の彼方まで縦横無尽に広がり、立体的で柔らかそうな雲がゆったりと浮遊して目的も無く空を泳ぐ。
強過ぎない陽の光が世界を照らし、適度な気温と風で非常に過ごしやすい環境を作り上げていた。
「――久しぶりに外に出ましたけど、日も風も気持ちいいですね」
「リー・スレイヤード帝国自体とても大きいけど、でも国の外だとやっぱり開放感があるもんね」
バッドグリム討伐を目的とした旅を始め、雑談を交わしながらひらけた大地を歩いていく。
リー・スレイヤード帝国の周辺に存在する土地郡も事実上はこちらの領土とされているが、国はあえて開拓せずに大地を残しているらしい。理由としては二つだ。
一つはなるべく自然を残そうという環境保護のため。そしてもう一つは、たとえ魔物や対立国の伏兵が押し寄せてきたとしても、平面となっているこの場所では隠れる箇所が極端に少なく丸見えになるためだそうだ。七、八割がたは前者よりもこちらが目的だろう。
加えてリー・スレイヤード帝国騎士団本部に設置されていると言われる、とあるカラクリの魔具。
何でも魔物が近付くと音で知らせてくれる代物らしく、驚くことにローリアが若干十歳の頃に開発したものなのだそうだ。ローリアには感謝金が支払われ、その金を生活費やさらなる研究の費用として回しているらしい。
――そういった
それでも対立国であるトルマキヤ公国が残存しているのは、それだけ相手も強大国であるという証左だ。
それにいくら隠れる場所が無いにしても、いつかのローリアが使っていた変化の魔法、闇のマディラムでミツルの使用している影の中に身を潜めるという方法など、考えればまだ対策としてはあるのだ。もしかすると、ミツルが知り得ていないだけで透明になる方法も存在するのかもしれない。
――そういう一理も相まって、ミツルを主とする一行はミツルを先頭、ローリアを最後方として華のある旅をしながらも警戒を怠らない態勢をとっていた。
アリヤとシエラも一応戦闘になれば戦うことはできるが、男であるミツルと、この四人の中ではおそらく一番強いであろうローリアで二人を囲うのが最善の策だと判断したのだ。
「こうも快適な天気が続くと、どうしても眠くなってきてしまうな」
ローリアが軽く欠伸をしながら、目尻に涙を溜めて言う。
「もうそろそろ日も傾いてきましたし、どこかで休憩しませんか?」
護衛を務めるローリアの疲労を心配したシエラが提案すると、それを隣で聞いていたアリヤが、
「そうだね。とっくに後ろの城門は見えなくなったし、今日だけでも結構歩いたと思うよ」
「ならここらで野宿にするか。まだ明るいうちに準備しないと、日が暮れたら暗さで何も見えなくなる。最悪光のマディラムを照明がわりにできるけど」
歩きながら話している間に、既に夕陽色に染まり始めてきた空を眺めながらミツルがそう口にする。
「――あ、あの辺りなんていいんじゃない?」
ピクニック気分でアリヤが指を差した方向を見やると、そこには大空が一望できるくらいの短く草の生えた広い地面があり、凸レンズのように中央部が盛り上がっている丘があった。そんななだらかな起状は一つではなくいくつも続いている。脇には人ひとり入れるかというほどの細長い小川が続いており、静かな自然の中、せせらぎが癒しを与えるように音を立てて先の見えぬ場所まで流れていた。
「いい場所ですね! ここなら手も洗えるし、なんなら水浴びだってできちゃいますよ!」
女の子らしい言葉を並べながらきゃっきゃとはしゃぐシエラだが、そんな彼女の機嫌を損ねるようにローリアが一言、
「ミツルがいるが……入れるのか?」
「へっ!?」
ローリアの言葉にシエラは獣耳を真上にぴんと伸ばし、目を大きく見開きながら錆びた機械人形のようにぎこちなくミツルのほうへと振り向く。
「ミツルはちゃんとその辺の倫理性は身につけているから大丈夫だよ」
満面の笑顔で確信をもってそう口にするアリヤ。
「……なんでアリヤがそんな自信満々に言うんだよ」
「え? 違うの?」
「…………違わないけどさ」
もともと覗こうなどという卑猥なことは考えていなかったし、そんな度胸も持ち合わせてなどいない。むしろそういった事は事前に予想して気を配っていたくらいだ。
女の子ばかりなのは疑問点だが、せっかく仲間ができてきたのに嫌われるような行為を意図的にするなど論外だ。
この三人が異様にミツルを信頼し、心を開くのにも少々どころか大々的に納得がいかないが、少なくとも現時点で嫌われているわけではないのだから、さらに背中を預けられるように努力するのは当然のことだ。
「水浴びをするときと終わったときは一言声をかけてくれよ。俺も身体くらいは拭きたい」
ミツルは関心が無いように、あるいはどうでもいいような顔つきで言を発する。
「うん、わかった。――じゃあ今日はここで決まりだね。そうと決まったら早く準備しよ」
アリヤはそう言って小川の傍まで駆けていった。
〜 〜 〜 〜 〜
辺りもすっかり暗がりに包まれ、家庭的な一面のあるアリヤによって作られた温かい料理で水浴びを終えて冷えきった四人の身体にもすっかり体温が戻ってきた。
腹も満たされ身体も暖まると眠くなってしまうのが動物であり、当然その中に人間も含まれる。
焚き火を囲う形で四人雑談を交わしていると、この中では最年少であるシエラが目尻を垂らして欠伸をした。シエラの対面側に座っていたアリヤがその様子を見ると微笑みながら、
「明日も歩かないといけないし、そろそろ寝よっか」
「ボクももう眠いよ……。ミツル、一緒に寝るかい?」
「そんな気さらさら無いだろ。――それに、真に受けてるのも若干一名いるみたいだから、そういう冗談はよせ」
ミツルとアリヤ、ローリアが一名に目を向けると、頬を赤らめて話を聞いていたシエラが、
「じ、冗談、ですか……」
「ボクは全然構わないんだがな……」
微妙に不満そうな顔つきで焚き火に照らされるローリア。
「俺はあっちで寝るから、何かあったら呼んでくれ。じゃあ、おやすみ」
そう言いながらミツルが立ち上がって離れた位置に寝袋を敷こうとすると、意外にもシエラがそれを呼び止める。
「そ、そんなに離れたところで寝なくてもいいですよ!」
「そうだよ。ミツルなら何も心配することなんてないんだから」
シエラに続いてアリヤも呼び止めると、それに便乗したローリアもまた、
「むしろミツル一人をそんな寂しい場所に寝かせたらボク達に非が出てしまうんだから、気にせずこっちで寝ておくれよ」
「……俺、一人で寝るほうが好きだし」
半分事実、半分言い訳を発するミツルに、すっかり馴染んで親睦も深まったシエラが声に力を込めながら腕を掴んで引っ張る。
「私は全然気にしませんから、どうぞこっちで寝てください!」
女子三人に言い寄られるミツルに
並みの男性なら非常に喜ばしい場面なのだろうが、ミツルの場合はそれ以上に不安や恐怖が押し寄せるため、素直に嬉しいと思うことはできないでいる。
調子に乗って嫌われはしないだろうかとか、でしゃばって幻滅されはしないだろうかとか。
「……前々から思ってたんだけど、何でお前達はこうも俺を信用できるんだよ。理由もなく一辺倒に信頼されても困る」
シエラに腕を引っ張られながら、ミツルは少し怪訝な表情で言い出す。
自ら嬉々として割り込む変態野郎が嫌われるならともかく、こんな突き放すようなぶっきらぼうな人間の何がそんなにもいいのか。
「私はミツルがどういう人間なのか、ちゃんとわかってるから」
「さっきもそうだが、キミはボクたちを気遣う言葉が自然と口をついて出るんだ。やましいことを考えているならそんな風には言えないよ」
理屈もなく感情で判断する言葉足らずなアリヤとは反対に、ローリアはミツルの日頃の態度から分析する。
「ミツルさんのそういった言葉そのものが信用できる証、ですね」
シエラもまた、ローリアの言葉を紡ぐようにして言ってくる。
「…………」
自身をきちんと客観的に見れているものだと思っていたが、まさか他人に、それも異性に褒められるような部分があろうとは思わなかったため、ミツルは思わずその場で押し黙った。
――焚き火の周りに火がうつらない程度の距離で寝袋を敷き、四人揃って横になる。
せめてもの条件として、ミツルは一番端で寝ることにした。そもそもミツルは男女関係なく真ん中になって寝るのが嫌いなのだ。真ん中で寝ていると窮屈感を覚え、暑苦しく息苦しくなって寝るどころではなくなるからである。
ものの数十分もすれば三人とも眠りについており、微かな寝息が間近であるためによく聞こえてくる。
未だに起きているのは、ミツルただ一人だけ。
いくら端で寝ているとは言っても、真隣で寝ているのは充分美少女といっていい女の子たちだ。緊張はしないが落ち着かず、こうしていつまでも寝返りをうっているというわけである。
「……はぁ」
ミツルは女性陣が目を覚まさないよう静かに溜息を一つついて起き上がると、気分転換にドーム状に盛り上がっている丘へと足を運ぶ。
丘の上で寝転がると風でひんやりと冷えた草が背中に当たり、眠れなくも少しの眠気はあったミツルの目を完全に
こうも夜更かしをすれば明日の朝は辛いだろうなと覚めた思考を働かせながら、視界いっぱいに映る夜空を眺める。
一見すれば元いた世界の黒い夜空とは変わらないが、周りに灯りの存在しないこの草原では宵闇の空に星々が一面に映える。どんな田舎であろうとも、この絶景の夜空を観ることは叶わないだろう。
この空はこの世界の、この場所でこそ観れるものなのだ。
ミツルは先ほどの溜息とは異なった意味合いの、一種の感嘆にも似た溜息を吐く。
空気はこの夜空のようにどこまでも澄み渡り、小川の清いせせらぎが常時癒しの音を奏で続ける。
――しばらくの間、孤独に酔いしれながら心地よい空間を独占していると、ゆっくり、ひっそりと草を踏みしめる音が近づいてくるのをミツルは感じた。
気遣わしげな足音から敵ではないと分かっていながらも、一応最低限の警戒はしておこうと身を引き締める。
「……アリヤか」
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「いや、起きてたよ」
「……よかった」
短く、一言二言交わしてアリヤが静かに歩み寄る。
上空に浮かぶ恒星のような光に照らされ、肩甲骨まで伸びる流麗な銀色の髪が一段と煌めいて暗い夜間を輝かせる。
「眠れなかった?」
「まあな」
仰向けで寝そべるミツルをアリヤが上から覗き込みながら、
「――となり、いいかな?」
そっと息を吐くようにして、銀髪の少女が穏やかに囁きかける。
「ああ」
ミツルが単調に一言声を出すと、アリヤは「ありがと」と断りを入れて寝転ぶ。
アリヤが脇に来てからミツルに
同時にふわっとほのかに花の甘い香りが漂い、ミツルの吸い込む空気に紛れ込んで脳に染み渡らせていく。
「冷たいね」
何が面白可笑しかったのか、ふふっと破顔してアリヤはつぶやく。
「……綺麗だよな、ここの星空」
「そう? 普通、だと思うけど」
緊張も不穏な空気も無く、ただただ二人して短い言葉を交換しながら夜空を見つめる。今この身体を支配するのは、
「俺の住んでた故郷ではさ、いつも点のような光が
「――そっか」
オリオン座も夏の大三角も、デネブもアルタイルもベガも、北斗七星も浮かんでいないところを見るに、自分が今この瞬間にも地球ではない別の世界で生きているのだということを実感する。
もしかすれば、今見ているのは全部とても長い夢で、目が覚めるとあの事故からほどなくした病室で入院しているのかもしれないと、時折そう思うことがある。
あの日の夜、黒崎光の意識のみが異世界へ飛ばされたのではないかと。抜け殻となった身体は一体どうなったのだろう。焼却されたのだろうか。
あるいは身体ごとこの異世界メルヒムへと転生させられ、向こうの世界では今頃行方知れずと化してしまっているのではないか。
――けれど、もしこれが夢なのであれば、この夢は覚めてほしくないとも、そう思う。
異世界へと転移させられた主人公達は、皆一様に元の世界へ帰ろうと躍起になるが、なぜあんなにも醜く汚れた世界へ戻ろうと思えるのか不思議で不思議で仕方がない。
こんなにも幻想的で自由に溢れていて、何なら魔法も使い放題と言える広大な異世界から、どうしてあんな疑心暗鬼となって怯えながら同じような毎日を過ごす環境へと戻りたがるのか。
ミツルの頭の中では既にわかりきった答えが見えている。
――――大切な人がいるから。だから彼ら彼女らは帰るのだろう。
どれほど醜悪で欺瞞に満ちた世界でも、そこにずっと一緒にいたいと想える人がいるから。
ミツルにとっては羨ましい限りだ。本気でそう思う。
ミツルからしてみればあの世界には何の悔いも無かったし、逆に言えばミツルの人生それ自体が後悔の塊だったのだから。
だから自分の故郷であるあの世界に戻る気なんて毛頭ないし、戻りたくもない。
メルヒムにもセルムッド・クラトスなど嫌な奴は沢山いるが、それでも明らかに転生前よりも充実した日々を過ごせているのだ。
――でも。その充実した日々が続かないことを、黒崎光は知っている。
人間万事塞翁が馬などというが、ミツルはずっと深い谷に堕ち続けてきた。否、現在もきっと堕ち続けているのである。
暗闇の中で真っ直ぐ前に進んでいたつもりが、実は逆へと歩いていたのもよくある話で、きっとミツルもそれに該当する。
このまま行けば、必ずミツルにとっての嬉しみが薄れていくのを、ミツル自身が自覚しているのだ。
そういった数々の不安が押し寄せ、ミツルの波紋ひとつ立っていない冷静な心情に揺らぎを与える。
けれど同様に、鉛のように重苦しく強固に閉ざされた心に揺らぎを与えたということは、それだけ彼女が、アリヤがミツルにとって途方もなく大切な存在になりつつあることを意味していた。
ひどく臆病なミツルは常人とはかけ離れ、幸福になることをまるで焼き鏝を押し付けられるかのように苦痛に感じていた。
――――彼女に告げるべきか、言わずに胸にしまっておくべきか。
そんな究極的な二択が、ミツルの脳を焼き尽くさんと悩ませる。
隣で一緒になって寝っ転がっているアリヤは、ミツルがそんなことを考えているなど微塵も感じていないかのように星の夜空を一眸している。そんな彼女の端正な横顔を見ていると、申し訳ないという気持ちがだんだんと溢れてくる。
徐々に大切に想えてきた彼女ですら信じることができず、いつまでもねちねちと顔色を
性悪な人間ばかりを見てきてしまったこの目では、アリヤの飛び抜けた優しさはかえって眩し過ぎるのだ。
「――なあ」
「ん? なに?」
「あ、……えっ……と」
呼びかけたはいいが、その先の言葉が見つからず、ミツルはしどろもどろに口の中でピースをかき集める。
深く、深く深呼吸をし、冷たい空気を肺いっぱいに溜め込んで思考を研ぎ澄ませる。
「俺とアリヤが出会ってから、どれくらい経ったか分かるか?」
横で寝そべるアリヤは同じ星を見ているのかはわからないが、「んー」と小さく唸りながら夜空を眺めて思い出す仕草をとる。
「一年、くらいかな?」
もう、そんなに経つのか。
そう思いながら、ミツルは異世界に来てからの過去を思い返す。
「――俺たち今まで、いろんなことしたよな」
「――うん」
優しく、どこまでも優しく、アリヤは柔らかな声を聞かせてくれる。
「大樹の下で出逢って、いきなり二人並んで空飛んで、賭博屋で大金手に入れたり、学院に通い始めたり…………こうして、冒険したり」
走馬燈のように頭の中で過去の出来事を振り返り、懐かしみ慈しむ。
時折アリヤの天然じみた言動も脳裏によぎり、たまらずふっ、と口端が上がる。
「アリヤと一緒にいると、心が落ち着いたよ。こんな風に誰かが隣にいる状態で安心できたのなんて、生まれて初めてだ」
見渡すかぎりの大草原で横たわりながら、数える気すら起きないほどの星々を二人して見つめる。
この光景を、俺はきっと忘れないだろう。
隣に大切な人がいて、共に星を見上げるこの夜を。
この思い出を、必ず忘れないだろう――。
転生されてからの、アリヤと過ごした毎日を。
もう二度と、このささやかな少しばかりの至福を噛み締めることは無いだろうから――。
「もう、何? そんな恥ずかしいことを言ってくれる口はこれかなー?」
改まって言われて、照れ隠しにアリヤは赤面しながらミツルの頬を軽くつねる。
艶やかな指先からでも伝わってくるアリヤの体温を名残惜しむように感じ得ながら、
「本当のことだよ。――ああ。心の底からの本音だ。だから――――」
言いたくない。言いたくなんかない。
けれど。だからこそ。
今この瞬間に口にしなければ、きっと俺は躊躇ってしまう。
だから、躊躇して思いとどまってしまうその前に。
――怒られてもいい。罵られもしよう。
それで彼女が幸せになれるのなら、俺はどんな侮辱も罪科も受け入れよう。悪役も担おう。濡れ衣も着よう。
もとより無価値なこの身体だ。
――誰も認めないし、――誰も求めない。
ならばせめて、この俺が初めて心の底から這い出て信じようと思えた彼女に、幸福であってもらうために、笑っていてくれるために言うべきだ。彼女のためにも、
「この旅が終わったら――――」
眩し過ぎる優しさに失明し、その濁った瞳を潰される前に。
爪痕が残るほどに強く拳を握り、震える唇を噛み締め、呑みたくなる想いを血反吐が出るかと思うくらい必死に喉から吐き出す。
「もう――――終わりにしよう」
瞬間、風が強く吹いた。
世界が言うなと言うように、ミツルの決意に充ちた言葉を遮るように、絶妙なタイミングで風が吹いた。
だからそれに対しミツルは風に負けぬよう、はっきりときっちりときっぱりと、真横のアリヤに言い放った。
「――――え?」
さっきまでの笑顔のままで硬直し、戸惑い困惑し混乱する彼女の一言は、震えていた。
「どういう、意味……?」
「言葉通り。帰ったら、そこでもう……他人に戻ろう」
本気で分からないのか、分かった上で言っているのか、アリヤは引きつった笑みでミツルの横顔を見る。ミツルはアリヤの顔を見ることなく、否、見れず、ずっと焦点をひとつの星に合わせながらそっと返す。
今が楽しい。今が最高だ。今が最高潮だ。
故に。
今が潮時なのだ。
最高潮に達したのなら、あとは下がっていくだけ。
森羅万象、星の誕生にも人の生命にも、終わりは常に存在する。
経営による目標率の達成も、黒字が永遠に続くことは無い。
山も登りきれば、あとは降っていくだけ。
そこには当然、人と人との関係も含まれる。
どれだけ好きでいても、どれほど傍に居たくても、裏切りはずっと片隅に残り続ける。
条件反射のように、信じようと思えば思うほどに、疑念や訝しさがしこりとなってそこにつけ込む。
これなら。この人なら。今度こそ。
そう思うたびに自分の臆病さが、愚かしさが、そんなわけないだろと己を諭すのだ。
そして格好が悪いが皮肉なことに、それが最も正しくて適確で、最も自分に似合わしい。
そんな穢れきった自分が今この一時を楽しいと、輝かしいと本気でそう思えたのなら。
それはきっと贋作ではないのだろう。
だからここで退くべきなのだ。
これ以上のものを求めてしまったら、必ずまた眩迷したあと悲痛な思いをする。俺が俺に怒られる。
――だから言ったのに、と。
太陽に近付き過ぎた鳥は羽根をもがれ、光に近寄り過ぎた蛾は焼き殺される。
関係が良好だからと調子に乗って、ありのままの自分をさらけ出して、そうすれば彼女達もきっと幻滅するはずだ。
この人にはどう言えば笑ってくれるか。
あの人にはどう接すれば快く思ってくれるか。
そうやって相手を
こんな人だとは思わなかった。面白みのない奴だ。薄情な人間だ。こちらに関心など持っていないのだろう。
そんな風にこれまで関わってきた者達から口では言われずとも目で語られ、そして疎外されてきた経験からも容易に想像がつく。目は口ほどに物を言うとは、まったく天才的な言葉を思いついてくれたものだ。
だからそうならないように、低下していく前に、最高の形のまま終わらせる。それが俺のためでありアリヤのためなのだから。
互いに関係を絶ち、他人に戻り、時々ふと思い出す。
あの頃は楽しかった。あの時の人は誰だっただろう。
そう思いながら一人盃を傾け、宝物のような思い出の余韻に浸りながら一日の最後を終える。
今終わりにすれば、その未来は確定となる。
優しい、とても優しいアリヤはきっと拒絶するだろう。
なればこそ俺も真っ向から否定しなければならない。否、しなければいけないのだ。彼女のその想いを。
今をあり続ければ、必ずその先で嘆き哀しむことになる。
良い思い出も悪い思い出に成り果て、ゆくゆくは憎しみと愁傷のみが残るだろう。
『弱者は幸福をさえ恐れるものだ。綿で怪我をする。幸福に傷つけられることもあるのだ』
昔本で読んだそんな一節を脳裏に浮かべて、ミツルは隣にいる彼女の顔を見ることをせずに言い切った。
――アリヤが声を出したあと、しんと静寂が襲いかかる。
実際には虫の鳴き声やそよ風に揺れる草花が合唱しているが、ミツルからしてみればそれは心臓の鼓動や冷蔵庫の稼働音、時計の秒針が傾く音のように意識しないもののうちにしか入らなかった。第三者から見れば騒々しい限りだろう。
しかし、今はそんな事はどうでもよかった。
兎にも角にも、今は横にいる少女の返答に耳を傾ける。決して聞き漏らすことが無いように。
――YESかNOか。
まるでプロポーズでもしているかのようだった。
いや、ある意味これは告白なのだ。
運命を左右するのには変わりないのである。
「――!?」
頷くでも、首を横に振るでも無く。
涙だった。
一筋、星の光に照らされ煌めく涙だった。
「――……怒るよ、ミツル」
寝転がったまま横を向き、ミツルの顔を一心に見据える彼女の瞳は、涙腺が緩んでこぼれ出た水滴で輝いて、そして熱く熱く、ミツルの表情を焼き付けているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます