第一幕・十五『光の光 -ミツルノヒカリ-』



「――え」


 これまで共に過ごしてきて初めて聞いたアリヤの低いトーンの声色に戸惑いを隠しきれずに、ミツルはたまらず声を漏らした。普段ならば決して溢れようのない、間の抜けた声だった。


「私だけは信じてくれていいんだから。お願いだから、そんな悲しいこと、言わないでよ――……」


 わずか数十センチの距離にあるアリヤの双眸の奥に、情けない顔をした男が映っている。無愛想にむすっとした、どこか不貞腐れたような顔つきだ。

 人を見限り、世界に失望し、己をさえも憎んだその男の顔に精気は無く、死んだような目で睨め付けてくるのが見て取れる。


 彼女はそんな男に精一杯の本音をぶつけ、その確固たる証拠として赤く腫れた目尻に溢れんばかりの水滴を溜める。必死に堪えようとするが、身体を倒して寝そべっているために抵抗虚しく下へ下へとそれは落ちていく。


「……信じたいさ。――信じたいから、終わりにするんだ」


 信じられたままでいたいから、裏切られる前に終わらせたい。


 これだけ気持ちを込めているのに、それでもなおアリヤはミツルを求めようとする。

 子供が玩具をどうしても欲しいと地団駄を踏んで泣き喚くように、アリヤは頑として諦めようとしない。


 しかし、時には親も鬼にならなければならない。

 なぜなら、あれほど欲しいと駄々をこねた物でさえ、日が経てば関心がなくなってしまうことを知っているから。


 あの日、あの時、この世の何よりも大切な存在であったぬいぐるみも、歳をとれば埃をかぶりいつかは処分されゆくものだ。


 ゴミ扱いされ、汚物と同じ場所に投げ捨てられ、焼却され、灰にすらなり得ず、一体なんのために生まれてきたのかと。


 俺はそんな風にはなりたくない。

 大事にされていた人から裏切られるのが最大の驚愕にして最悪の結末なのだから。


「嫌だよ……。どうして今になって、そんなこと言うの……?」


 喉を引きつらせながら、彼女は信じられないという風にミツルを見つめる。揺れる瞳に哀切と困惑を滲ませて、ミツルが口走った愚かな言動を後悔させるようにひたすらに見据える。


 そんなアリヤの目線の意味を理解して、ミツルは耐えきれず視線を星空へと再度逸らす。


「……この場所が、ふさわしかった」


 街で話すのは論外。それを抜きにしても、ローリアやシエラなど他の人がいる中では気が散って、ことの重要性を芯から理解してもらえないと思ったから。


 だがここであれば、今であればローリアとシエラも眠っているし、閑散として何ものにも邪魔されることはない。

 さっきと同じで、三人から説得などされれば流石に全てを言い返すことはできない。だから卑怯だとわかった上で、アリヤには後から二人に話してもらうつもりだ。しかし、


「違うよ。私が言いたいのは、そんな事じゃない! なんで……っ」


 アリヤは当惑した表情で、自分なんかよりも空高くに見える星を眺めるミツルに嘆きをぶつける。


「……私って、そんなに信用できない、かな――……?」


 自身の無力さを痛感し、これまでミツルに良かれと思って行ってきた行動になんの成果もなかったことにたまらず彼女ははにかんで必死に苦笑いを取り繕うが、震える言葉も止まらぬ涙も、総じて反発するようにアリヤを苦しめる。


「いや、できるよ。…………他の奴らなら」


 アリヤは充分すぎるほどの信頼性を持った少女だ。

 男の理想を具現化したように美しい少女だ。

 いつも明るい笑顔をしているし、言葉遣いも綺麗だし、料理だって喜んで作ってくれる。


 困っている人がいれば躊躇いなく飛び込んで助けに行くし、常識人かと思えば、ふとした瞬間守りたくなるような言動を繰り出すしっかり者のドジっ娘だ。

 元気だけどうるさ過ぎない、清楚で健気な女の子だ。


 そして何よりも、途方もなく優しさがある。

 でなければこんな黒づくめの不審な男を助けようだなんて発想はしない。逆に関わりを持たないよう遠ざかろうとするだろう。


 他の人間なら絶対の信頼を寄せるばかりか、おそらくは妻に欲しいと躍起になる。それくらいに、信用できる彼女だ。


 だが、ミツルはそんな能天気な他人じゃない。

 それだけ優しければ、必ず何か裏があると思い込む。

 綺麗な花や鮮やかな生物には猛毒が付き物だ。

 優しさが強ければ強いほど、それと同時に不信感が芽生える。


 何か、何か隠しているんじゃないかと――


「ミツル」


 不意に名前を呼ばれて、ミツルは夜空を見ていた目を横のアリヤの顔に合わせる。


「――ミツルがどんな考えを持っていて、どれだけ他人を信じられなくても、たとえ何があっても私はあなたを裏切らないよ、絶対に」


 指で滴る涙を拭ってアリヤが言いながら起き上がると、さらりと白く輝く髪がなびく。


「どうして……なんで、そんなふうに言い切れるんだよ?」


 それを見たミツルも腹に力を入れて上体を起こし、彼女の言葉の真意を探ろうとする。


 数秒、いや、数十秒、じっくりとミツルの顔を見つめて何事かを考えるアリヤ。その唇はきつく結ばれていたが、やがて彼女自身は決心したのか、大きく息を吸いこんで深呼吸する。


「――私の目、宝石みたいでしょ? ……自分で言うのも、恥ずかしいんだけど」


「……まあ、な」


 アリヤの意外な台詞に、涙で潤ってより一層輝いて見える彼女の瞳を改めて凝視する。


 アリヤは先日買ってあげたターコイズブルーの首飾りを今もって首に下げている。

 そんな南海色をした宝石の上で、また別の宝石を原石からくり抜いて両の目に付けたような、そんな現実離れした綺麗な眼球だ。


「この目ね、『アリシャの翠眼すいがん』って呼ばれてるの」


「……アリシャの……翠眼?」


「うん。――そしてこの目は、他人の思想を理解して、記憶を覗いたり、心を色として見ることができるんだ」


 色として見ることができる。それは一体全体どういう意味なのだろうか。


「そんなものを信じろと?」


 訝しむようにして、ミツルは眉を寄せる。


 魔法や特殊能力なんてものが存在しない世界で生きてきたミツルには、アリヤのその言葉がどうにも素直に受け止めることができない。

 マディラムこそこの目で見て実際に自分自身で扱えるからまだ信じれるものの、彼女の目は綺麗なだけでミツルには共感できない。


「時には信じないと始まらないこともあるんだよ」


 しかしそう言ってアリヤはミツルの胸の中央部を哀愁漂う顔つきで見つめながら、


「白と黒が混ざったら、何色になると思う?」


 子供でも答えられるような分かりきった問いを投げられ、ミツルは考える間もなく頭にその色を思い浮かべる。


 決まっている。それは――――


「うん。灰色、だよね。――ミツルの心の色は、限りなく黒に近い灰色なんだ」


 アリヤが先ほどから口走っている晦渋かいじゅうな文章を理解はしているものの、上手く言葉に変換できないもどかしさにミツルは顔をしかめる。


 アリヤが言っているのはそう、情熱やエネルギッシュの代表的色彩である赤色や抑制、冷静さの青色、希望の象徴の黄色など、そういった色彩心理のことだろう。


 ――つまり、彼女はその心の色を直視できるということなのだ。


 仮にその目が事実だとして、ならば灰色の心を持った、空漠と広がる灰の降り積もった心象風景をその身に秘めたミツルは何だというのか。


 アリヤの先ほどの『白と黒が混ざり合ったら』という言葉から察するに、おそらく善と悪とか、光と闇とか、そういった相対するものが混在した具現者がミツルのことなのだろう。


 しかし限りなく黒に近いということは、闇が、悪が濃い人間だと、そう言っていることになる。


 実際のところ、ミツルは自分含め人間が苦手だし嫌いだ。赤の他人が目の前で死のうと何も感じないし、誰かが事故や事件に巻き込まれればざまあみろとしか思わない。悲しんで同情するどころか、むしろ他人の不幸を見るのが好きなくらいなのだ。


 ――だったら、やはりもう光は失われつつあるのだろうか。既に手遅れなのだろうか。


 ……これで良かったのかもしれない。これでまだどこかで、ほのかに希望を抱いていたであろう自己の甘さにも諦めがつくというものだ。



「――――でも。黒寄りでも、灰色っていうことはまだ白い部分が残ってるってことなんじゃないかな」


 徐々に俯き気味になっていたミツルの頭に、未だ涙声の残るアリヤの声が優しく響き渡る。


 直後、重く項垂うなだれたミツルの顔を白くすらりと伸びた両手が覆い、そっと頬に触れながらアリヤが持ち上げた。

 必然的に地面を見ていた目が前を向き、眼前に迫る彼女の表情が視界内に入る。


 さっきまで泣いていた彼女の顔はくしゃりと歪み、それでも懸命に朗らかな笑顔を形作っているのが見て取れた。

 ミツルのために涙を流し、ミツルのために端正な顔を崩すアリヤは、悲しみを呼ぶ涙を吹き飛ばすように無理矢理に笑ってみせる。


「――そしてミツルの心の色はね、少しずつ、本当に少しずつだけれど、薄くなっていってるんだよ」


 哀情と歓びが入り交じったような表情をしながら、アリヤは立て続けに、


「私といれば、こんな私でも、一緒にいてあげればミツルは安心してくれるんだって思えた」


 善という言葉を表したようなアリヤのその一言が、ミツルの冷めきった脳に、ダイヤモンドより強固な心にひびをいれる。

 最も硬いとされるダイヤモンドでも、瞬間的な衝撃には非常に脆い。


 確かに、言われてみればそうだ。


 アリヤと共に行動していくにつれ、段々とどこか心に余裕が出来てくる感じがしていた。彼女の甘やかに溶けるような温かい気遣いに、知らず知らずのうちに助けられていたのだ。


「ミツルが他人に何をされて、そして何を経験してこれまでを生きてきたのか、私はこの目で見てきた。だからこそそんな過去をわざわざ聞かせてとは言わないよ。聞いて、軽はずみに『頑張れ』とか『諦めないで』なんて口に出していいはずが無いから」


「…………」


「でも、それならさ。全部全部真っ白に消してしまえばいいんだよ。――ほら、真っ黒に塗り潰してしまうより、明るくて前向きな言い方でしょ?」


「……物は言いようだ。綺麗事だよ、そんなの――……」


 口ではそう言うものの、ミツルにはアリヤが今まで出会ってきた者達と比べて決定的に何かが違うと、そう確信し得る何かをこの娘は持っていると心のどこかで思えていた。


 言葉が綺麗事ばかりなのは変わらない。死にたいなんて言うなと、誰もが考え無しに悩む若者にかける言葉と何ら遜色ない。

 けれど違う。ミツルが今まで相談に口を割って、返ってきた思いつきの上っ面な言葉とは明らかに異なる。


 彼女のどこまでも真っ直ぐな双眸は、今はただミツルのみを映して。


「私はミツルのそばを離れたりしないよ。離れないし、裏切らない」


 明るいほどの月明かりはアリヤとミツルを含め周囲を照らし、野に大量に咲く珍妙で綺麗な花が薄青い光を上空に飛ばして幻想的な光景を創り上げていく。

 そんな中で目の前の白銀の少女を見て、天使が実在するのならきっとこんなだろうと、柄にもなくそんな妄想を膨らませる。

 その瞬間、淀みに淀み切ったミツルの両の目は潤って輝いた。


 ――そうか。そうだったのか。

 ここは異世界だ。あの腐ったような世界とは違う。

 魔法もあれば、何だってある。

 向こうには無かったものだって、きっと。


 言葉にはできなくても。態度にすら表さなくても。

 心で理解できるのなら、それは本心から信ずるに値するものなのだろう。


 見つけた。――――やっと見つけた。


 俺の唯一無二に、心の底から信じられる存在。

 神ですら、家族ですら信用できなかったというのに。

 他人が信じれるだなんて、過去の自分が知ればひどく憤ることだろう。――なにを勘違いしているのだと。


 けれど事実、存在したのだ。これが、これこそが本当の意味での信頼だ。

 周囲の偽善に満ちた、見せかけだけの醜悪な偽物信用とは違う。


 今度こそ、次こそは。

 そう思うたびに失敗して失望し続けてきたミツルが、最後の最後にやっとの思いで出会った少女。最期を終えて最初に出会った少女。


 アリヤ・エルスティッグ・ドールネス・エイリヤージュ。


 他の誰でもない、ただ一人の彼女に、黒崎光は失くしてしまったはずの希望と期待の念をぶつける。


「…………本当に……本当に、信じても、いいのか――……?」


 震える口で、震える手で。

 目の前の眩しい天使に願いを乞う。


 実現することなど不可能だった、ミツルがただ一つ求めて、その末に諦めた憧憬を。


「同じ屋根の下で寝て、同じ物を食べて、飲んで。互いの本性を打ち解けあって、手を繋いで、一緒に寝転んで星を観て。そこまでしておいて、今さら裏切るなんてほうが無理だよ」


「なんで……なんで、そこまで……」


 これほどまでに慕ってくれるのか。

 その理由を知りたい。


「好きだからだよ。君が、君のことが」


 ――――好き。


 そんなこと、生まれてこのかた一度たりとも言われたことがなかった。


 そんな言葉、架空上でしか聞いたことがなかったのに。


 一番忌み嫌って、一番憧れていた言葉を、目の前の彼女が、一番言ってほしかった彼女が言ってくれた。


「……一目惚れ、だったんだよ。恥ずかしい話だけれど、今まで人をこんな感情で見たことなんて無かった。不思議と、懐かしいような感じがしたんだ」


「一目惚れなんて、そんなただの外面そとづらだけ見たって……」


「だからこの目があるんだよ。外も中も見て、その上で君が好きなんだ。これを機に何度だって言うよ。私はミツルが好き」


 こんな、こんな幸せな事があっていいのだろうか――。


「――俺、なんかの、どこがいいんだよッ……。こんな人間不信で、物事を悪い方へばかり捉えて、口も悪くて、舐め腐ってて、根暗で、不貞腐れてて、目も死んでて、態度だって冷たくて、容赦も無くて、自分すら大嫌いで、面倒臭い性格な人間を、どうして……!」


 小さい頃から他人に嫌われるのが恐くて、ずっと嫌われないよう努力してきた。

 わけも分からず相手を褒めそやし、共感などし得なくても同情し、それでもなおどこか距離を置かれてきた。


 どうしろと言うのか。


 気を遣えば風見鶏だ何だと小馬鹿にされ、大人しくしていれば面白味の無い奴だと陰口を叩かれ。


 他人に感情を向けられることほど恐ろしいことはない。


 好きになられたら失望されないよう努力しなければならなくなるし、嫌いになられれば矛先を向けられるんじゃないかと不安になる。

 だから、一番良いのは好意でも敵意でもなく無関心だ。


 しかしアリヤは、そんな人生経験が浅いくせして世の中はどうだこうだと嘆いてばかりいるミツルに首を振って見せる。


「…………そんなとこが、いいんだよ」


 彼女は赤みを帯びた頬を光で照らされながら、天使のような、女神のような優しさで周囲の空間そのものを柔らかな何かで包み込む。


「裏切られたくないから、本当に信じれる人が見つかるようにほかの人を信じないようにしてて、だから裏切られても傷つかないように悲観的に身構えてて。上から見られないようにわざと口悪く言って、態度も大きく見せて。でも心の底では、本当の本当はそんなの嫌で、そんなことをしてる自分も嫌で。そんな優しい君が――いいんだ」


 段々と何かが込み上げてくる。奥のほうから、何かが込み上げてくる。

 込み上げ、それが目元に集中し、潤いをもって乾ききったミツルの瞳を湿らせる。


「ミツルが根は優しい人なんだって、他の人が知らなくても私は、ううん、私が知ってる」


 想いを露わにして恥ずかしさで顔を赤らめているのに、笑っていて、でも泣いていて。


「あれだけ人を疑って警戒して嫌ってる人なのに、寝ているときは無邪気な子供みたいに無防備にぐっすり眠って」


「…………」


「頬に触れても気付かないで、こっそり手を握っても全然起きなくて、それどころか、握り返してきたりして……。それでちょっぴり照れくさくなって、でも、悲しくなって……」


 今はそんな目の前の純真な少女をたまらなく見たいのに、視界がぼやけ霞んで、ミツルの思惑を遮らせる。


「違う。俺は、アリヤに好かれるような、人間じゃ……」


 粗探しをするようなアリヤに、ミツルはぎこちなく首を振って否定する。


 純粋に、彼女の放ってくれる一言一句が嬉しい。

 しかし同時に、こんな惨めな自分を恋の的にさせてしまったのが悔しい。


「ミツルの欠点も含めて好きなんだよ」


「っ……!」


 その一言に衝撃が走る。心臓を下から持ち上げられたかのように、ミツルの身の内が仰天する。


 ミツルなる男は、欠点だらけの欠陥品だ。指折り数えるまでもなく、長所よりも短所が多いことも把握済み。そう考えることそのものがもはや短所の一つでもある。


 好きだなんて、誰からも言われたためしがないのに、アリヤはさらにその先、ミツルの醜ささえも愛すると、そう言ってくれる。


「――ミツルが自分の悪い所を口にするなら、私はミツルの良い所を粗探ししてでも沢山見つける。ミツルが自分を嫌いだって否定し続けるなら、私はミツルを好きだって肯定し続けるよ」


 アリヤはミツルに追い討ちをかけるように、そっと残り数センチの距離を詰めて密着状態を確保する。

 耳元で囁くような小さな声で、けれどはっきりと聞こえる声で、彼女は震え悶えるミツルに言葉を掛け続ける。


「それにさ、この目を使うのだってあくまで確認だよ? こんなの使わなくたって、私はミツルが優しいってこと、知ってるんだから」


 無音で嗚咽を漏らすミツルの額に、彼女は自分の額をこつん、と優しく当てながら、


「――ちょっとずつでいい。一歩、ううん。半歩ずつでいいよ。私もミツルが信用できるように努力するから、ミツルも私を信じられるように頑張ろう? 一緒にさ」


「……ごめん。ごめん」


 口で謝罪の言葉を伝え、心で感謝の想いを伝えながら、ミツルは親に甘える子のように両腕を彼女の背中にまわし抱きしめる。


 白い前髪と黒い前髪が交錯し、互いの熱を感じ得ながら信頼の誓いを交わす。


 これだけの事をしておきながら、裏切るなんて行為、できようものか。

 もし、もしも裏切られるなんてことがあれば、今度こそミツルの精神は維持できず瓦解するだろう。


 こわい。とてもこわい。いつかそれが現実になればと思うと。


「……記憶も見れるって言ったよな? ……なら……」


「うん。――……知ってたよ。ミツルが、この世界の人じゃないってこと」


 知っていた。最初から。アリヤは、出会ったあの日から何もかもを。


「ごめんね、黙ってて。恐かったよね。辛かったよね」


 ミツルの過去も現在もその綺麗な瞳で覗いて、臆病者と罵るどころか痛感してくれている。なんて嬉しいことだろうか。


 出会った瞬間に別世界の住人だと知って、言い広めようなどということを考えもせず、この世界で生きていくために手を差し伸べて、見え透いた嘘に頷いてくれて、突き放すような言動にも屈せず好意を抱いてさえくれた。


 これまで誰も理解せず、誰にも理解されず一人で頑張ってきたが、ようやっと報われたのだ。


 一人しか、今はまだ彼女しか信じれる人はいないけれど。だからこそミツルはこの瞬間を大事に大事に、そのまま共に眠りにつくまで大切に感じていた――――。



 〜 〜 〜 〜 〜



 ――暖かい陽射しと一緒に小さく声が聞こえる。二人、女性の声だ。


 その声音に引き寄せられ、徐々に意識が戻ってくる。


「…………?」


 目蓋を上げると、眩しい姿があった。


 思わず触りたくなるような白銀に輝く特徴的なさらさらの髪。生気のある透き通った白い小顔に長めの睫毛が煌めいている。吸って吐いてを繰り返し行うことで上下にゆっくりと動く肩は華奢で、作り物のように思えるほどだ。これで今まで男がいなかったという話に、素直に驚きを隠せない。


 目を覚まして一番初めに彼女の姿を見るというのは、なかなかどうして心地がよかった。


「――これは……一緒に夜空を見ながら話をしてそのまま寝てしまった、という解釈でいいのかな」


 眠りから目覚めたばかりで未だ脳は起きておらず、ミツルは上から覗き込んでいるローリアの考察を聞き流していると、ふと、文字通り目前で向かい合って横になっているアリヤの目が開いていることにミツルは気が付いた。


 アリヤは寝ぼけまなこでぽーっとミツルのことを見つめている。それからくすり、と微かな笑みをひとつ。次いで周りをきょろきょろ見渡し、ローリアとシエラの姿を発見するや半目だった瞳を大きくさせて飛び起きた。


 そんな様子を見ていたミツルはアリヤの勢いある行動に一気に頭が覚め、ワンテンポ遅れてのっそり起き上がる。


「お……おはよう、ございます」


 頬を赤らめてアリヤとミツルに朝の挨拶を告げるシエラ。


「……ああ。……おはよう」


 朝が弱いミツルは通常通り普通に言うものの、シエラとは比にならないほど顔を真っ赤に染めるアリヤは挨拶どころではないようだ。


 昨夜のこともあり、ミツルもアリヤも微妙な気まずさオーラを醸し出している。

 互いの涙を見せ、双方の想いを静かにぶつけたとあっては、平静でいられるほうがまともではないだろう。


 しかし、そのままというわけにもいくまい。ここは男らしく真正面から、


「……おはよう、アリヤ」


「あ……うん。……おはようミツル」


 アリヤは涙と恥じらいで目尻と頬が紅く染まっており、その照れ隠しとして彼女は視線を誰もいない斜め下へと逸らせた。


 ――全員で朝の挨拶を言い交わし、顔を洗って朝食を済ませる。その間ミツルとアリヤはあまり会話をしなかったが、それでも着実に二人の距離は大きく縮まったように思える。

 口数が減っても場の空気は温かみのある雰囲気を保ち、それが心で通じ合えていることだというのが、ミツルには何よりも嬉しかった。


 こんな根暗で悲観的な自分を、なぜ彼女たちは受け入れてくれるのだろう。


 陽もすっかり昇る中、ミツルは自分の食べ終わった携帯型の食器を小川でじゃぶじゃぶと洗いながらそんなことを思う。


 アリヤとシエラは洗うから置いといていいよとミツルに言ったが、ミツル自身、最低限の配慮というものがある。自分の出した始末は自分で片すべきだ。


 ――冷たい水で手も頭も冴え、ミツルが思考するループに陥っていると、ふと、どこからか落ち着きのある音色が鳴っていることに気が付いた。


 声や笛といった音ではない。もっと滑らかな、羽根を指で撫でるような安らぎのある音色だ。

 早朝の薄く霧のかかった広い大地。寝起きには少々眩い、赤白く映える朝日。上空を通って何処かへ飛んでいく小鳥のさえずり。そんなのどかで幻想的な景色にぴったりと合うような、純粋な音だ。


 そのうち傍で談笑していた少女三人組も気付いたのか、楽しそうに笑っていた表情を疑念へと変え、ミツルに寄りながら音源のする方角へと顔を向ける。皆が同じ方向を見ていると、向日葵ひまわりにでもなった気分になってくる。


 音は徐々に大きさを増し、それと同時にひとつの人影も見えてきた。


「……誰、でしょうか――……?」


 シエラが身を小さくして訝しげにその影を見つめる。


「こっちに向かって来てるな」


 ローリアが言うように、確かに人影は音響と共にこちらへと近づいてきている。


 四人してしばらくその人影を見つめていると、やがて目視でも判断できるくらいにまで迫ってきていた。


「イルフィンだね」


「イルフィン……?」


 アリヤの一言にミツルは少しばかり関心の交じった視線を向ける。


 流麗に波打ってうねる長い髪には薄く緑がかかっており、横から耳とおぼしきものが生えている。が、ミツルやアリヤたちのような形状はしておらず、肌色のそれは細く長く、そして尖っていて、特徴部位といってもいい箇所となっている。


 染みひとつ無いきめ細かな美貌を持った顔には微かに幼さが垣間見られ、ミツルよりも高い身長がそれをギャップとして発揮させる。


 そしておそらく音の源であろう楽器が、その両手に優しくしっかりと支えられていた。


 湾曲して繋げられた二本のさおには緻密に彫られた模様が描かれており、棹と棹の間には平行にして弦が張られている。その数はおよそ数十本にも及ぼうものだった。俗にいうハープだ。


「――おはようございます。綺麗な音色ですね」


「これはどうも。そしてありがとう。――旅の途中かな?」


 イルフィンと呼ばれるその者は透き通るような声をしていたが、声を聞いたかぎりどうやら男性のようだ。


「はい。森林地帯まで」


 アリヤが一歩前へと足を出し、にこやかに愛想よく接する。ミツルには到底真似できないことだ。


「ということは、バッドグリムか何かの討伐だね?」


「よく分かりましたね」


 イルフィンの察しよい読みに、アリヤは目を丸くして軽く驚きの表情を見せる。そんなアリヤの顔を見てイルフィンはにこりと優しく微笑むと、


「僕は吟遊詩人だからね。こうして行く先々で出会う人達から情報を貰った礼として、音楽を奏でてあげるんだ。――バッドグリムに限らず、今は色々な魔物達が乱暴になっているみたいだよ」


「それは何故なんだい?」


 ミツルの横で一緒になって話を聞いていたローリアがイルフィンに疑問を投げる。


 イルフィンの男はアリヤからローリアへと視線を移すと、細く整った眉毛をわずかに寄せて首を左右に振る。


「それが、詳しい要因は分からないんだ。精霊に問いかけても、何かに怯えるようにして逃げていってしまう。この辺りで良くないことでも起きようとしているのか、それとも既に起きているのか……」


 彼が話していると、それまで会話を黙って聞いていたミツルが口を開ける。


「魔物っていうのは、性格的にどんな感じなんだ?」


 その質問に応えたのはイルフィンではなくシエラだ。


「……好戦的で凶暴なものが多いですね。私は通常の動物たちとなら意思疎通が可能なんですが、魔物となれば話は別です。交渉の余地も何もありません」


 さらりと口にしたシエラの意外な特技にミツルは軽く驚きながら、


「……となると、修辞学も弁論術も役に立たなさそうだな……。武器を調達しておいて正解だ」


 考えてもみれば、言葉も通じず意思の疎通もままならないような野生の生物相手に心理を読み取るというほうが馬鹿な話だ。そもそも相手が交渉できるほどの知的生命体であるならば、良くも悪くもとうの昔に人間と何らかの交流があってもいいはずだ。

 だがそれが今に至るまで無かったということは、やはり試す価値は無いということだろう。


「君……、どこかで会ったことある?」


 ミツルがそんな風に考えていると、ストレルは顔をまじまじと見ながら不意に突拍子もないことを聞いてきた。それが彼女達ではなく自分に対してなのだと理解したミツルはすぐに否定する。


「俺? ……人違いだろ」


「そうなのかな。……いや、そういうことにしておこう」


 即行で否定されたストレルはそれからも一考していたが、思い出せないのならやはり人違いなのだろうという決断に到達したのか、諦めてそう言った。


「――くれぐれも気を付けてね。弱者も集えば厄介だ」


「油断大敵、もちろんです」


 アリヤの返答にイルフィンはにこやかに微笑む。


「さて、僕はこのままリー・スレイヤード帝国へ向かうとするよ。汝らに、旅の加護があらんことを」


「ああ」


 そう言うとイルフィンの男は背を向け、ミツルたちがこれまで歩いてきた道なりをゆっくりと歩み始める。と、数歩歩んだところで足を止める。


「――そういえば名前を教えてなかったね。僕はストレル。また機会があれば、旅の話でもしよう」


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