第一幕・十二『忖度 -ソンタク-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――実技科教師であるセリアになかば強制的に連れてこられたミツルとセルムッド・クラトス。


 ミツルがセリアの部屋に入って目にしたのは、彼女らしいの一言に尽きる、実にシンプルな雰囲気のある部屋だった。


 一瞥いちべつを投げた少し広めの部屋には無駄なものが全くと言っていいほど置かれておらず、例えば、観葉植物や置物といったオブジェクトはまず無い。

 壁に掛けられた額縁の中にあるものも、風景画や人物画ではなく何らかの賞状。中央の窓際を背にするように置かれた少し大きめの机にも、羊皮紙で出来た書類や黒塗りのペンが鎮座しているだけでこれと言って変わったものは無い。


 そしてその手前――部屋のど真ん中に長机と、それを挟むようにして来賓用のソファが二つ並んでいるだけだった。


 楽しむ、という感情が全くないミツルが思うのも妙な話だが、彼女は娯楽との縁が薄いようだ。


 確かに、ミツルは以前からセリアを一目置いていた。

 彼女の目が、この世の汚らわしさを物語っているような、そんな世界を見限った目をしているからだ。

 吊り気味な琥珀色の双眸の深淵には愉悦という概念そのものが存在せず、まるで何かを楽しむことに罪悪感を抱いているかのような、そんな瞳。


 いつの時代どこの世も、理想的な善に満ち溢れた世界など存在しない。ミツルの元いた世界は言うにおよばず、異世界にも、その可能性は適用される。


 おそらく彼女は見てきたのだろう。この世界の見た目は美しくも、愚かな部分を。


 同じ種族であろうと、個人による思考は千差万別。ある人が正義であると確信している事柄でも、他人に言わせてみればただの悪であるということも少なくない。そんな人それぞれの価値観の中で交わる差異こそが対立の元凶なのだ。だというのに、人類は幾年の時を経てもなお、理性を欠いた獣のようにはしたなく喚き散らす。

 事実、ミツルは何度となくその光景を目の当たりにしてきた。

 自分より一回りもふた回りも年上の人間でさえ、感情的になってはいつも見え透いた結果に辿り着く。


 もう辟易していたのだ。ミツルも、おそらくセリアも。


 不思議なことに自身に近い部類の生物には本能的にレーダーが反応するのである。


 ――よってミツルには、この一見殺風景に見える部屋に居心地の良さが感じられていた。



「――入れ」


 ミツルとセルムッドの後ろからセリアが一言投げかける。彼女の言葉に背中を押されて、二人は数歩踏み出し部屋の中へと入る。


「適当に腰掛けてくれて構わん」


 セリアも続いて歩いて入り、そのまま自分の席に座ると両手を組んでそこに顎を乗せる。

 普段から凛とした面構えであまり顔の形を変えない彼女なのに、口が指で隠れているためさらに彼女の喜怒哀楽の表情が読み取りにくくなる。そのため現状では目で判断するしかない。


「それで、話というのは?」


 セルムッドが早々と話を切り出し、セリアは姿勢を変えないまま、


「二人に頼みたいことがあってな」


 そう言ってセリアはミツルのほうへ視線を向ける。


「まずはミツル、クラトスとの決闘での戦勝に賛辞を贈ろう」


「……ああ、どうも」


 隣にセルムッドがいる手前、ミツルは気を利かせてあまり感情を表に出さず受け答える。


「まだスレイヤード騎士団の卵とはいえ、同じ生徒の中からクラトスを出し抜き、勝利を収めた者は君が初めてだ」


 声のトーンを変えず、落ち着きのある態度を貫き通すセリア。そしてそれに対するように、セルムッドの肩はわなわなと震えている。膝の上に置いた拳を固く握り、敗北という屈辱を噛み締めるセルムッドを見たセリアは、


「落ち着けセルムッド・クラトス。騎士になると胸を張っている奴のとる態度ではないぞ、見苦しい。理性を維持し続けるというのも、スレイヤード騎士になるに当たっては必要な要素だ。覚えておけ」


 屈辱を浴びるセルムッドをさらに畳み掛けるように、セリアは説教する。


「お前は負けたんだ。だがそれがどうした? むしろ喜ばしい事だろう」


「喜ばしい……?」


「敗北の味を知ったのだから、これで弱者の気持ちも少しは理解できるというものだ」


 真っ当な台詞を吐くセリアにミツルは少しばかり感心する。彼女が過去に何を見て何を経験したのかは知らないが、それでも彼女の倫理的思考の中にある底辺の存在を揶揄しないという意志がひしひしと伝わってくる。

 至極当然のことを言っているだけではあるが、その当然のことができない人間もまた大勢いるのがこの世の中だ。


 セルムッド・クラトスは屈辱で愚直に震える口をそっと開きながら、


「……それはつまり、俺がこいつよりも弱いと、そういうことですか」


 対面するようにミツルの前に座っているセルムッドは、睨みつけるように視線をミツルの顔に向ける。

 ミツルは表情を崩すことなく正面からそれを受け止め、慇懃無礼に彼を見返す。


「言葉の意味合いを履き違えるな。負けたとは言っても、それは判断力や駆け引きで負けたと言っているんだ。――技術面においては申し分ないよ君は」


 怒りで理性を欠くセルムッドをおだてるように、セリアは彼の決闘を称賛する。


「だが逆に言ってしまえば、ミツルはそういった読みにけている。そしてそれはミツルの場合、必ず相手の悪性から読み取る節がある。常に他人を不信がっていなければ成せない事なのだがな……」


 そう言う彼女は、どこかもの哀しげな愁いを秘めた表情をしている気がした。悪く言うならば憐れまれている、そんな目だ。


「しかしなミツル。人の善性にも目を向けることによって、視野の幅はより広がる。さらに相手の気持ちを深くわかるようになる。人間とはそういう生き物なんだよ」


 セリアはそこで一度言葉を切り、ふむ、と何事か考える。


「強制はしないが、君も少しは素直になったほうがいいな」


「そう……ですね」


 モノクロのような輝くことのない世界で、ミツルは毎日毎日他人の汚い心をその目で見てきた。

 誰かを陥れようと企み目論む彼ら彼女らの口元は不気味なほどに歪み、まるでそれが悪魔の正体は人間だとでもいうかのような造形だった。


 ミツル自身、さして面白くもないそんな相手の冗談にうつろな笑みを浮かべては、日々顔の筋肉を疲れさせたものだ。

 他人の笑いのツボが理解できず、訳も分からぬまま笑顔をつくっては無駄な体力を浪費する。


 そんな日常を送っているうち、気付けば常に他人の顔色を見て心を読んでいた。

 世界の中心は自分だと信じきっている奴に気遣いなど馬鹿なことをと何度となく思ったが、これがどうしてなかなかやめられないのだ。


 一度たりとも他人に見破られることのなかったミツルの読みの秘訣を、セリアはあの戦いだけで見抜いた。そんな並みならぬ彼女の観察力を目の当たりにしたミツルは内心で驚愕する。


「さて、本題だが。猜疑さいぎの狼と剣戟けんげきの獅子、そんな二人ならば双方の短所を補い合えるだろう。――そこでだ。ミツルとセルムッド・クラトスにはスレイヤード平原西部に位置する丘陵地帯の森林で、一月ほど前から農作物を奪い取っているバッドグリムの討伐を願い出たい」


 バッドグリム? モンスターか。ファンタジー要素のある出来事が来たな……。


 しかし一つ問題がある。――――それは、


「決闘してまで対立した俺とこいつが共同でバッドグリム討伐だと? ご冗談でしょう」


 そう。ミツルとセルムッドは仲が悪い。


 鼻で笑いながら、セルムッドは前のめりになっていた身体をすっ、と戻す。


「――私は冗談を嫌うと知っているだろう?」


 セリアは鋭い目をさらに細めて、その眼光をセルムッドに向ける。


「……さっきから言ってるそのバッドグリムって、どんな奴なんですか」


「知らんのか? 最も認知度の高い魔物だと思うんだが」


 おそらく素で驚いているのであろう、セリアは微妙に目を見開いている。


「いや、出身が田舎の田舎だから、その……」


「……まあその物珍しげな髪色と瞳ならばな。――バッドグリムは人型をした魔物だ。小柄で一体であればさして強くもないが、何せ悪意を持っている上に数が多い。ほとんどの奴は常に徒党を組んで跋扈しているな」


「なるほど」


 自身を無価値な人間としか捉えていないミツルは特に断る理由は無い。苦難も苦渋も苦痛も苦楚も、今となっては当たり前のように慣れてしまった。


 慣れというのは酷として恐ろしいものだ。人間否が応にも苦痛や孤独でさえ慣れさせ、ちょっとやそっとの事ではぶれない精神にしてしまう。


 生まれ持った怯弱きょうじゃく体質にずっとまとわりつかれて生き続け、周囲からつまらない人間だと冷めた目で見られ続け、だからそれが怖くて避け続けた。


 避ける術を身につけ、無難に回避できるように書物を漁り、知識を蓄え、いつでも逃げられるように運動能力も向上させた。


 から身を守る術はとうの昔に付いている。

 故に、いかな異形の存在であろうと立ちすくむことは有り得ない。


「――俺は大丈夫だ」


 ミツルのあまりにも空虚な決意にセリアは僅かに眉を寄せる。


「俺は修練があって忙しい」


「修練ならば実戦で補えるだろう」


 けんもほろろに諾了しないセルムッドにセリアは説得するも、一度決めたことは簡単に曲げないのが信条なのか、彼は話に乗ろうとしない。


「バッドグリムなど経験値にすらなり得ませんよ。俺は断固反対です。いくら黒尽くめが行動を許そうとも、俺は気の合わない奴に背中を預けるつもりはない。行くなら他の者を連れていけ」


 お前はいくつ俺の呼び方を決めているんだと胸中で呟く。それと同時に他の人と言われてもこの世界で知人は数人ほどしかいないのだという悲しい事実も受け止める。


「アリヤでもローリアでも、好きに連れていけばいいだろう」


「…………」


 セルムッドはそう言うが、ミツルは極力他人に頼りたくないのだ。


 誰かを頼るのも大事なことだと世間は口にするが、そもそも周囲が他人に頼り過ぎなのである。

 他人を頼るというのは、いかに自分一人で事を成せるかを考え、そこで行き詰まってもう策が弄したという時に初めて許される行為だ。あくまでも最終手段として他人の手を借りるのが妥当であり、かつまったくもって正当な方法なのだ。


 安直に頼るのを当然だと考えている輩共は、いざ自身が壁に直面して周りに頼れる人がいないとわかったとき、己の無力さと価値の無さに絶望するものだ。


 しかし、今回の件においてはセリアからの頼まれごとだ。自分の都合ではない。


「――じゃあそうするか。先生からも、二人に話しておいてもらえますか」


「……不本意ではあるが、まぁよかろう」


 ミツルが話すと一段落して椅子にもたれかかるセリア。


「にしても、帝国領内なのに魔物がいるのか」


 何の気なしに疑問に思ったことを声に出して、ミツルは視線を床に向ける。


 先ほどセリアの口にしたスレイヤード平原。その土地に帝国名が付いているということは、つまりはそこも領内であることは誰でも察しがつく。


「リー・スレイヤード帝国は近辺の国の中では最も大きい国だ。領地も先が見えないほど広大だが、それゆえに全ての領地に手が回らなくてな。手つかずの場所も多い。……そこまでして占領する意味があるのか、私もはなはだ疑問を抱いてはいるが」


 そう言ってセリアはおもむろに立ち上がると、いつの間に持っていたのか、ずしりと重みのありそうな革袋を片手にミツルのもとへ寄ってくる。


「これは支度金だ。これだけあれば一通り必要なものは揃うだろう。言わずとも分かっていると思うが、余計な物は買うなよ」


 言いながら、セリアは手に持っている金の入った革袋をミツルに渡してくる。ミツルは重量感のあるそれを受け取りながら、セルムッドをちらりと見る。


 セルムッドは平然とした様子でこちらを見ている。嫉視するでも、羨望の眼差しを向けるでも無く。


 大抵の人間は大金を目にすると目を輝かせるか、物羨ましげな態度を取るのだが、彼にはそれが無い。それだけクラトス家は裕福な生活を過ごしているということだ。


 生前、転生する前の元の世界で暮らす日々は実に虚しいものだった。


 毎朝全く同じ時刻に起床し、仕事に出掛けては夜まで働く。夏でも関係無しに長袖の服を着て一日中汗をかきながら作業し、冬になると今度はかじかむ手で職務を全うする毎日。


 残業をして家に帰ると、ご飯を食べて風呂に入り、布団にもぐり込むだけ。そんな変わらぬ辛い毎日を過ごして貰った給料は、家の光熱費や携帯代、さらには食費や区費にその他諸々と、総じて吸い取られる。


 遊びに使う金が無いどころか、趣味も無ければ特技も持ち合わせていない自分自身を客観的に見て、一体何のために生きているのだろうと、常に考える日々だった。


 ――わかっている。わかっているとも。

 セルムッド・クラトスにしてみれば、金銭に余裕があることが普通であり日常なのだ。悪意や憐れみを持ってこちらを見ているわけでは断じて無い。


 けれど、金に余裕の無かった人間からしてみれば、その何気ない視線がミツルの身体にひどく突き刺さる。


「――手短に済ませたが、話は以上だ。討伐日時などは追って説明する」


「分かりました。なら、これで」


 そう言ってミツルは立ち上がる。セルムッドも続いて立ち上がると、元来た扉へと二人して歩を進ませる。


 セルムッドが扉を開けて外へ出る。ミツルが彼の後ろに続いて部屋を出ようとすると、セリアが背中越しに声をかけてきた。


「――ミツル。……もうひとついいか」


 セルムッドはこちらをちらりと垣間見たが、自分に用が無いことを見て取ると、そのまま踵をかえして出て行った。


 扉が閉まり、少し広い空間に静寂が誕生する。

 ミツルもセリアも、どちらかと言えば寡黙な類いだ。しばらく、と言っても数秒、二人して互いを見据える。


 ミツルは悟られないよう表情を変えずに、何を考えているのだろうと物静かな彼女を観察する。――するとセリアがおもむろに口を開いて、


「……彼の――セルムッド・クラトスとの決闘で見せた最後の爆発。あれは何をしたのか聞いてもいいかな」


 何度も聞かれた同じ質問に、ミツルはまた説明しなければならないのかと少し頭を悩ませる。


「……粉塵爆発ってやつですよ」


 聞き慣れない言葉に再三目を細めるセリアに、ミツルは気だるげに説明を続けた――。



 〜 〜 〜 〜 〜



「――――なるほどな」


 セルムッド・クラトスから勝ちをもぎ取った理由を前に、セリアは目を閉じてあの時を思い出すかのように納得する。

 腕を組み、彼女は長い睫毛を生やした瞼をそっと持ち上げると、その中から現れた琥珀色の両の目ですっとミツルの顔を見つめる。


「ロエスティード学院に入ってきた当初、私が君と出会った瞬間に思ったことを言ってやろう。第一印象というやつだ。……末恐ろしいと、正直そう思ったよ」


 自分の席を立ち、先ほどセルムッドが座っていた椅子に腰掛けミツルの正面に居座る。


「……正直、ですね」


「ああとも。――自慢じゃないが、私はね、初めて会った者だろうと見た目や態度で『ああ、こいつはこういう人間なのか』と瞬時にそいつの性格がわかるんだよ。……そしてそれは、おそらく君にもできる事だ」


 セリアは向かって右に視線をやり、窓の外を眺める。

 見つめる先は高い空だが、その瞳に映るのはもっとほど遠いなにか。


「――ミツル。お前は一体何なんだろうな」


 窓の外を見つめたまま、そっと息を吐くようにセリアは不意に問いかける。


 何なんだろうとは、何なんだろうか。どういった意味を含めてそのようなことを口にしたのだろうと、ミツルは彼女の横顔を見据えながら黙考する。


「君は、君の目はどこまでもよどんでいる。他人ばかりか自分自身をも無下に扱っている始末だ。……君のその曲がり捻った思想と理性は、周りにはあまり理解してもらえないだろう。過去に何を知って何を経験したのか、私には想像できない。だから教えてほしい。君は何故、そんなにも人間を忌み嫌うのか」


「…………」


 言いながら、セリアは視線をミツルの目に戻し、真っすぐ見つめていた。その痛いほどの視線から逃げようと一瞬目を背けるが、彼女の知りたいという冷たい熱意がミツルを追い詰めた。


 呆れ、諦めそっと口を開く。何も話したくないわけではない。ただ、話しても理解してもらえないだろうという恐怖が、己の精神を侵食するのだ。


「…………どんな生物にも、好き嫌いはあります。人にも、虫にも、植物にも。貴方にだってだ。それは野菜が嫌いだとか、運動や勉強が嫌いだとか、そういった類いが常並みです」


「……続けたまえ」


「その嫌いなものが、俺は人間ひとだった。それだけですよ」


 セリアの目は微動だにせず、ミツルの顔を見続ける。両手を組んでそこに顎をのせ、鋭くも凛々しい双眸をミツルの黒澄んだ瞳に合わせる。


「だが嫌いなものには理由が付き物だ。なにも生まれながらにして嫌いだったわけではあるまい」


 当然だ。同族嫌悪などと言うが、仮に自分とまったく同じ思考を持った奴がいるならば、俺は共感し同情し、そいつと親友になれるだろう。――だが、そんなものは虚構の世界にしかいない。理想は所詮理想だ。現実ではない。


 ミツルは視線をずらして先ほどセリアが見つめていた方向を見やる。今や遠くなってしまった、あの世界を空に映して。


「……――煩悩の犬は追えども去らず。霊長、他に類を見ない俺達人類は、万能を求め彷徨うあまりに、逆に煩悩を進化させてしまった。……皮肉な話ですよ。平和をと願って作られた兵器が人を殺し、安寧をと望んで行われた行為が結果、他者を死地へと追い込むんだから。本当に――――愚かな種族ですよ」


 ずっと頭の中だけで吐いていた愚痴を実際に吐露し、身体から毒が抜け落ちていく感じがした。だが伽藍洞がらんどうになればまたそこに漬け込んでくるのがストレスというものだ。毎度毎度こうやって誰かに愚痴を吐き続けるわけにもいかない。


「俺はね先生、一度でいいから誰かを信じるっていうのをやってみたいんですよ。けど、誰もそうさせてくれない。他の奴ら同士は信じ合えるのに、俺とだけは信じ合えない。俺は不適合者なんですよ」


 視線を戻して斯く言うミツルの眉は下がり、然れどその口元は、どうしようもなくぎこちなく不敵に微笑んでいた。


 昔からそうだ。いじめられている訳でもないのに、何故か周囲に対する一歩が踏み出せなかった。

 だからこっちから待とうと決めたのに、誰として寄りついてこなかった。


 周りの人たちは皆馬鹿みたいにじゃれ合ってふざけ合っているのに、俺に対してはどこか他人行儀なオーラを醸し出していた。


 幼い子供ながらにして、大人達の会話や表情を見て醜い本心を隠すための欺瞞の笑顔を取り繕っているのだということも理解していた。


 あの世界に、自分の居場所なんて無かった。

 恐かったのだ。話している相手が偽りの皮を被っていることが。外面ではヘラヘラと笑っているけれど、本当は何を思い企んでいるのかと。


 そしてそんな恐怖感と同時進行で、常に互いを騙し合っている人間に嫌気がさしていた。


 そこでようやく気付いたのだ。他人が嫌いなのに、他人からは嫌われたくないのだと。

 そんな自己中心的で独善的な考え、理解されるはずもない。


 だから嫌いなのだ。他人も、そんな醜くておぞましい考えを持っている自分も。


「――他人ひとに答えを求めるな。自分で見出みいだしてこそ、気難しい世界を謳歌できるというものだよ」


 セリアは簡単にそう言うものの、ミツルにとっては難題だ。自らを弱者だと知っているが故に、自分のできる限界も知り尽くしている。


 勇者は一歩を踏み出す勇ましさを持っているからなれるのであって、臆病者にしてみればまずその一歩が極端に難関なのだ。


 自分自身で解決できる範囲ならばまだいい。しかし、その範囲外に一度出てしまうと弱者というものは簡単に壊れてしまう。


 自身を問い詰め、存在意義を無くし、生きる意味を失う。その悪循環によってさらに底辺の弱者となり下がる。


「そうは言っても、生きる意味すら見つけられないのに、自分で見出すことなんて出来っこないですよ」


「お前はまだ若いのに、人の悪い部分を知り過ぎる。――生きる意味なんてあとから探せばいいさ。人生は短いようで長い。ゆっくりと慎重に生きたまえ。私はそれで見つけたがね」


 確かに俺はまだ若い。この先もしかしたら見つかるかもしれない。けど……見つからない場合だってあるわけで。


「――話はここまでとしよう。少しだけと言っておいて長くなってしまったな。エイリヤージュとフェイブリックも書物を運び終えた頃だろう」


 重くなった話を切り上げ、凛とした表情を崩さずにセリアは座っていた椅子から立ち上がると、


「二人には私が話しておこう。君が引き受けたとあるならば、フェイブリックは聞いてくれるだろう。変に君に懐いているからな。戻ってくれていいぞ」


「……はい」


 結局のところ話は曖昧なもので終わり、この気持ちを理解してくれたのか共感してくれたのか分からぬまま、ミツルは腑に落ちない様子で彼女の部屋をあとにした。


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