第一幕・十一『迫り来る悪寒 -セマリクルオカン-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――――醜い男が追ってくる。


 どこまでも、いつまでも、執拗なまでに追いかけてくる。

 必死にもがくように走るが、チェーンのはずれた自転車を漕ぐように、その足は前へ進まない。


 目の前では三人の影が先走ってだんだんと遠のいて行く。

 そんな誰かもわからない影を懸命になって追いかける。月面にでもいるのかと疑うほどに、地面を蹴って走る身体はふわふわと浮いている感覚に苛まれる。

 離れて行く三人の影とは反対に、後ろからは異形な何者かが迫ってくる。

 よだれをだらしなく垂らしながら、睫毛まつげの無い瞼を剥きながら、痩せ細った肉の無い両腕をめいっぱいこちらに伸ばしながら。


 ――――醜い男が追ってくる。


 乱れた髪を振り撒きながら、爪の剥がれた裸足を乱暴に動かしながら、紅い足跡を残しながら、しつこく、暗闇の中を走って来る。


 恐いが、恐いのはその異様な立ち振る舞いではなく、これが紛れもない人間だということだ。


 ――何者なのだろう。――何故追ってくるのだろう。


 頭の中が、目に映る光景がぐるぐると回転する。地面を走っているのだろうか、それとも天井を踏みしめているのだろうか。高熱を出して寝込んだときのように、平衡感覚がわからなくなる。


 足は前へ進まない。


 ――醜い男が近寄ってくる。


 もう駄目だ。


 呼吸は荒れ、鼓動は高鳴り、手足は震える。


 嫌だ。捕まりたくない。

 嫌だ。嫌だ、嫌だイヤだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。


 男の骨ばった指先が肩を鷲掴む。


 捕まった――――



「……――ル。――ツル。…………ミツル!」


 どこからともなく声が聞こえる。聞き慣れた声だ。助かった。


 頭上に光が見える。

 そこへ手を伸ばせば助かると、なぜだか疑問に思うことも無く判断した。

 懸命に手を伸ばし、白墨の天使の梯子はしごのような光源に触れ――


「ッ!」


 瞬間、現実へと引き戻されたミツルは慌てて目を見開いた。


「ミツル!? 大丈夫!?」


 声のするほうへと顔を向け、半ば放心状態のままその少女を見つめる。

 長い睫毛の下で宝石のように輝く藍緑色らんりょくしょくの瞳、唇はほどよいピンクの色をしており、白いが健康的な透き通った肌が窓から差す陽の光を受けている。綺麗に整っているのにしゅんと力無く下がった眉毛を見て、自分が目の前の美少女を困らせていることを知って申し訳なく思う。


「悪い夢でも見た? ミツル、凄くうなされてたよ」


「はぁ、はぁ……、夢? ……夢か」


 荒い息を整えながら、ミツルはぐっしょりと濡れた額を腕で拭う。


「待ってて。今拭くもの持ってくるから」


 立ち上がり、駆け足で部屋を出て行くアリヤの姿形を見て一人密かに安堵する。


 少しの間をおいて再び部屋に戻ってきたアリヤの顔を見て落ち着きを取り戻す。

 手渡されたタオルで顔と身体を軽く拭き、コップ一杯の水をもらって渇いた口の中を潤す。

 咽喉を通って身体全体に染み渡ると、それと共鳴したかのように汗で体温が下がったのを自覚する。


「……なんの……夢を見てたの?」


 始め思い出させるのは苦かと躊躇っていたのだろう。アリヤは困惑した表情で黙ってこちらを見つめていたが、純粋に知りたいのか、尻すぼみな声でおそるおそるそう口にする。


 アリヤの意図をすぐさま察知したミツルは、そんな気遣いのできる優しい彼女ならばと、たった今見た夢のざっくりした内容を伝える。


「何かに、いや、誰かに追われている夢だった。暗い真っ黒な空間で、どこまでも追いかけてくる、そんな夢」


 どんな人物だったのか、一切思い出せない。


 夢とは不思議な現象だ。果てしなく盛大なストーリーでも、ぐちゃぐちゃな訳のわからない絡み合った内容の夢でも、覚めた瞬間に記憶から薄れさせていく。

 いざこんな夢を見たよと話そうとしても、なかなか上手く語らせてくれないのが夢だ。


 けれどひとつ気になったのは、彼女の声が聞こえた刹那に後ろの男が不気味に微笑んだような感じがしたのだ。


 ――なぜ、奴は笑ったのだろう。


 ミツルは腑に落ちないような顔をして窓の外へと目を向ける。

 この家は浮島の上に建てられているため、丁度目の高さで鳥が飛んでいた。


 しかし追われる夢、か。

 誰かに追われる夢を見るときは、精神的に追われているときだ、と聞いたことがあるが……。


 ミツルは周囲の人間に比べるとやや、というかかなりメタ認知能力が高い部類に入る。自分の癖や性格を客観的に見ることはしょっちゅうあるし、思索する時間だって人一倍長い。自身の悪い面だって理解している。無自覚であることを自覚するのはとても重要かつ大切なことだ。


「そっか。――でも、それは夢だから大丈夫。私は近くにいるし、どこへも行かない。ミツルは一人じゃないよ」


 物柔らかに微笑みかけ、赤子をなだめるようにアリヤはミツルの頭をそっと撫でる。アリヤの指が髪を撫で、髪と髪の隙間から彼女の熱を感じる。ほんのりとした温かみと、ほんのりと香る花の匂いにミツルの精神に絡みついた惨痛が癒されてほどけていく。


 そして同時にそんなアリヤの突発的な行動を甘んじて受け入れている自分自身に、ミツルは目を白黒させる。

 警戒心の人一倍強いミツルが、誰も触れることを良しとしなかったミツルが、他人の手を人体で最も重要な頭に乗せているのだから。


 元来、身体に触れられること自体好きではないのに、不思議とアリヤには触れられていたいと思えた。しかし他人に触られたのもいつの頃だったか忘れたくらい長い間距離を置いていた彼にとって、慣れないこの感覚にはどうにも身をよじらせるものがあった。


 ――数十秒、互いに無言のまま過ごして場も和んだところで、


「うん、もう大丈夫だ。学院に行こ」


 落ち着きを取り戻して肩の力が抜けたミツルを見て安心したアリヤはにっこりと元気づけるように微笑む。


 彼女のそんな言葉にミツルは心から溜息を吐く。


「めんどくさいな……」


「何言ってるの。ローリアだってずっと待ってるんだから。顔見せてあげたらきっと喜ぶよ」


 こんなぶっきらぼうな面構えを見て小躍りするやつがいるのかよ、と内心自身を揶揄しながらも、ミツルはのらりくらりと立ち上がった。

 すっかりと身体の汗も乾いたのを確認して、ミツルは銀のファーの施された黒いコートを羽織り、身支度を済ませる。


(この時間も、もう終わりか……)


 名残惜しむように数日安心の時を経た家の中を一望する。そんな子供ばりの態度アリヤには見せるわけにはいかないので、振り向いて彼女の家に背を向ける。


「準備できた? 行くよ」


「――ああ」


 家の扉をそっと閉め、部屋の中にしんとした静けさが舞い戻る。後に残るのは、彼女が飲んでいた余熱を残してまだ微かに湯気を立てて机の上に置かれているカップ一つと、外から僅かに聞こえてくる小鳥のさえずる鳴き声だけだった。



 〜 〜 〜 〜 〜



 家を出て空中階段を下り、少しの斜面を歩いて離れたところに見える街へと向かう。空は晴天、吹く風は暖かく、まさに日向ぼっこ日和だ。道中、何度も木漏れ日のいい木陰を見つけては、ここで昼寝をしたらさぞ気持ちいいだろうなと目が吸い寄せられる。


 アリヤの家のある辺境から延びている木々に囲まれた道を歩くと、小さな橋が見えてくる。小魚が泳ぐ清らかな川で子供たちが飛び込みをして水遊びする中、それを横目にアリヤと二人で石橋を渡る。そこから進んだところにある商い通りを抜け、その先の中央通りをしばらく南方に歩くと大きな建物が見えてくる。ロエスティード学院だ。


 開いた大門を通り、白く整備された長い道をミツルがアリヤと並びながら歩いていると、


「――ミツル!」


 中から二人が来る様子でも見えていたのか、魔術科の棟から呼ぶ声が聞こえて視線をそちらへ向けると、顔を綻ばせてこっちへと走ってくる少女がいた。


「ローリア。久しぶり――でもないか。数日ぶりだな」


「ああ。アリヤもおはよう」


 次いでローリアはアリヤにも挨拶を交わす。

 軽く手を挙げて「うん、おはよう」と微笑むアリヤ。

 そのやり取りを見たあと、ミツルはローリアの走ってきた方に目を移して疑問に思ったことを口にする。


「何で魔術科にいたんだ? お前は俺と同じ実技科だろ?」


「ローリアはね、実技科も魔術科も、両方受けてるんだよ」


 その問いに答えたのはローリアではなくアリヤだった。


「あー。試験を両方とも受けたって言ってたな」


 ミツルは思い出すように顎を持ち上げて空へと視線を向けながら呟く。

 セルムッド・クラトスが学院一の強さを持つのであれば、ローリアは学院一の頭脳の持ち主ということなのだろう。


「そうだミツル。土産の干し肉、非常に美味しかったぞ。ありがとう」


「あれなら例えローリアが数日帰らなくて外に置きっぱなしになってても平気だろ?」


「あらゆる悪い状況を考える。なるほどな、流石ボクが見込んだだけのことはあるな。それに、干し肉であれば研究の旅に出ていても長期間もつだろう。味付けも濃いめだし、ああいった手間の省ける食べ物がボクは好きなんだ。良い食料を見つけてくれたよキミは」


 ミツルは何も見込まれるほどのことはしていない。むしろ博識なローリアともあろう彼女が、干し肉の存在を排斥していたことに驚きだ。何はともあれ、ローリアが喜んでくれたのならそれは結果として良しとするところだろう。


 その場でしばらく何気ない話をして歩きながら三人で会話していると、ミツルはセルムッドが近寄ってくるのを目の端に捉えた。

 無視しようと早歩きで逃れようとするが、彼の眉間にしわの寄った形相を見ると、これ以上機嫌を悪くしても逆に厄介になると見越したミツルは仕方なく歩みを止める。


「おい黒色! なぜ逃げる!」


「止まってやっただろ」


 はぁ、と溜息をついて明らさまに嫌そうな顔をするミツルを見てアリヤは口に手を押さえて必死に笑いをこらえる。ローリアはミツルと暗雲立ち込める関係であるセルムッドの前に塞がる。


「キミはまたそうやってミツルに突っかかろうとする。セルムッド・クラトス。キミは負けたんだ。いい加減潔く認めたらどうだね」


 ――いい加減? 俺との決闘以来こいつは負けたことを引きずっているのか。くだらない価値観だ。


 誇りもプライドも無いミツルにとって、勝敗は所詮結果であり、それ以上でもそれ以下でもないのである。


 弱者が安いプライドを持って吠えたところで、強者には何の感動も与えない。ならばいっそのことそれ自体を捨ててしまったほうが気持ち的にも楽になれるというものだ。だから靴を舐めることもできるし、土下座だっていくらでもしてやれる。けれど、弱者を理解せず自己満足に浸って自己中心的に日常を謳歌する下等生物にそんなことをしてやる義理はない。


 根本的に違うのだ。ミツルもセルムッドも、正反対の存在だ。


 人間が理解し合うことなど不可能だ。親ですら、身内ですら全てを理解してくれる訳では無いのだから。家族ですら理解し合えないのに、赤の他人を理解出来るはずもなかろう。

 だから人間は太古から現在に至るまで幾度となく争い諍い殺し合ってきたのだ。


「俺が話しているのは黒色だ。ローリア、お前は引っ込んでいろ」


 セルムッドはミツルが目を逸らしていたほうへ身体をずらし、決闘の日を思い出すように問いかける。


「ミツル、お前あのとき何をした? 俺が火のマディラムを使おうとした瞬間大爆発が起きた。俺はもちろんそんなことしていないし、あるとすればお前しかいないだろう。マディラムの応用か?」


 初めてミツルの名前を口にしながら指をさして疑問の答えを乞うセルムッドにミツルは、


「あれはマディラムなんかじゃない。科学現象だ」


「かがく……げんしょう……?」


 聞き覚えのない単語を復唱しながら頭の上にクエスチョンマークを出すセルムッド。それと、


「そうだ。ボクにも教えてくれミツル」


 まだ未知の言葉を耳にして目を輝かせているローリアにそう言われて「確か説明すると言ってしてなかったな」と呟きながら、ミツルはセルムッドとローリアの質問に答える。


「燃えやすい粉末状になった物を無風状態の空気中に霧散させて、そこに火花とか着火元になるものを加えると爆発が起きるんだよ」


 ミツルはわかりやすいように端に生えている並木の下の土に小枝でラフな絵を描きながら説明する。


「燃えやすい粉末状のもの? 例えばどんな物があるの?」


 ローリアの横で一緒になって聞いていたアリヤが上から絵をのぞき込むようにして問いかける。


「そうだな……小麦粉とか、木屑とか」


 金属類でもモノによっては燃えやすいのだが、異世界人にアルミニウムやらマグネシウムと言ってもわかるはずもない。


「……木屑…………木剣か!」


 セルムッドの出した答えにミツルは無言で頷く。

 ミツルは悔しそうに顔を歪めているセルムッドの顔を見て内心でほくそ笑む。


「俺の負けた敗因は体調が悪かったからだ。本来ならばあの程度の爆発、簡単に防げたさ」


「確かに、途中セルムッドはなんだか震えていたな。動きも鈍くなっていたような……」


 ローリアは腕を組んで考えるように目を閉じる。

 そんな中で、苦しい言い訳で逃れようとするセルムッドにミツルはわざとらしくふっ、と笑みをこぼす。


「それも俺だ」


 怪訝な表情で「どういうことだ」と言うセルムッドに、ミツルは土のついた手をはたきながら立ち上がる。


「寒くなったんだろ? 気化熱でお前の体温を下げたんだよ。火のマディラムで高温になった地面に、お前の放った水のマディラムを意図的に当て続けた。あのとき蒸発した気体がお前の体温を吸収したんだ」


 打ち水や風呂上がりに湯冷めするのがその例だ。しかし本来ならばその程度、害にすらならないはずなのだが、セルムッドに関してはどうやら例外だったらしい。セルムッドの強さの秘訣には、ひょっとすれば技術面だけでなく緻密な体調管理も含まれている可能性があるのかもしれない。


 ――ミツルの頭脳派な部分と、己の傲慢さと自信から生ぜられた敗北という事実にますます苛立ちが募り、セルムッドは理性を損なわないように必死に歯を食いしばる。


「……いいだろう。お前に負けたことは認めてやる。――だがな、貴様のその他人を欺くような陰湿な在り方は断じて認めない!」


「……別に、認めてほしいなんて思ってないけど」


 ミツルは何を一人でやけになっているのだろうと頭を掻きながら困惑する。


「お前のことだ。どうせこれまで何度となく騙し欺いてきたんだろう。そうやって空を仰がず地だけを眺めてきた惨めな奴に、俺は負けたんだ。もっと誇れ。もっと喜べ」


 ――喜ぶ? 冗談にしたって笑えない。


 惨めに生きて何が悪い。

 下を向いて生きてきて何が悪い。

 上を向いて歩くことが、そんなに偉い事なのか?

 下を向いていたから虫を踏み殺さずに済んだ。

 下を向いていたから花を踏み潰さずに済んだ。

 自然界の救世主だぞ俺は。

 そんな風に最底辺の奴を踏みにじって歩んで行くような奴に分かってたまるものか。


 希望に胸をいだいて、夢に心踊らせて、失敗した過去を振り返らずに空を見上げ続けるだなんてのはただの綺麗事だ。失態を糧とせず経験とせず、同じ過ちを犯し続けるだなんて、そっちのほうがよほど惨めで現実から逃げているではないか。


 上に何があると言うのか。

 失明するほど眩しい日光や、糞を落としてくる野鳥が飛んでいるだけだろう。虹だっていつまでも出続けているわけじゃない。やまない雨はないというのなら、逆に快晴が永遠に続く根拠だってないはずだ。


 穴があっても気付けない、上ばかり見ていると足元をすくわれるのがおちだ。


 弱者には弱者を理解する義務がある。強者には到底理解できないだろう。勝利なんて必ずしも誇っていいものじゃない。それよりもいかに勝利に酔いしれず心を緩ませないかが重要なのだから。


 勝ったからといって気を抜くから、どいつもこいつもヘマをする。そうではなく、勝ったからこそ、自惚れず心を引き締め、次に待ち受けるだろう失敗に備えるべきなのだ。


「――俺はダストアレルギーだからな。もとよりなんてものは持ってないんだよ」


「戯れ言を」


 またしても始まったミツルとセルムッドの口論にローリアとアリヤが止めに入る。


「見苦しいぞセルムッド。ミツルから離れろ」


「ミツルもほら。いつもの冷静さはどこに行ったの」


 アリヤとローリアがミツルとセルムッドを引っ張ってはがそうとしていると、彼女たちの視野に別棟から教師のセリアが近付いてくるのが見て取れた。


「――なかなかどうして、お前達二人の喧嘩は面白いな。つい見入ってしまう」


 セリアは面白いと言っていながらも、その顔に笑いという二文字は全く当てはまっていない。

 そんな言葉と表情が矛盾しているクールビューティなセリアがミツルとセルムッドの脇に立つと、


「エイリヤージュ、それにフェイブリック。君たちに少し用事を頼んでもいいかな」


 アリヤとローリアのほうへと意味有りげに視線を向け、腕を組みながらセリアは問いを発する。


「「はい!」」


 威勢のいいセリアの姿を見るや、アリヤとローリアは目をかっ開いてぴしっと直立不動で了承する。

 彼女達の態度を見るに、どうやら生徒間ではセリアは恐いという印象が強いらしい。


 セリアは二人の返答に一回頭を縦に動かすと、


「助かる。――実は第一図書室の中に色々と書物が置いてあってな。入って一番手前の机だ。私個人の本も何冊かある故、用心しながら実技科の教卓まで運んでほしい。エイリヤージュの風のマディラムをもってすれば容易にこなせるだろう。……決して傷つけるなよ?」


「「はい!」」


 言葉の最後に少し強調気味で注意するセリアに彼女らは一瞬身をこわばらせる。


 ……どんだけこわいんだよ。


 しかしセリアには共感だ。よく本を粗末に扱う者がいるが、あれは理解し難い。アリヤとローリアの性格から察するに粗末に扱うことはまず無いとは思うが、二人はより一層気を引き締めて落とさないよう配慮することだろう。


 アリヤとローリアは軍の概念を知らないはずなのだが、もしかしたら騎士が同じ行動をとるのかもしれない。――かかとを合わせて背筋を伸ばし、指を揃えた右手を頭に持ってきて最速の敬礼をとる。そして両腕を中央に合わせて身体の横に置くと、背を向けていた魔術科へと競歩の如き早さで駆けて行った。二人の絶妙なコンビネーションはさながら訓練された兵士のようである。


 ミツルとセルムッドが呆けてその様子を見ているとセリアが振り向いて、


「――さて。君たちに少し話がある。ここではなんだ。私の部屋まで来い」


「はい」


 ミツルは逆らうことなく素直に承諾する。


「……俺は授業があるのでこれで」


 セルムッドは面倒臭そうに眉をひそめるが、


「私から逃げられると思うなよ。欠席扱いにはしない。いいから黙ってついてこい」


「…………はい」


 セリアの刃物のように鋭い双眸にセルムッドはやむを得ず頷く。


 ……学院最強もこのザマか。


 歩き出しながら、横目でセルムッドの意外な一面を垣間見る。


 クラトス家の長男であるセルムッドは、きっと幼少期から厳しく叱られながら育てられてきたのだろう。


 厳しく育てられた人間は怒られることに慣れ、肝が据わった性格になることもあるが、まったくの真逆な性格になることもある。今のセリアとのやり取りを見る限り、おそらくセルムッドは後者だ。その点で言えば、ミツルとセルムッドは似たもの同士なのかもしれない。


 酷く臆病に成り果て、だからそれを周囲に悟られないように見栄を張る。自分が最弱な人間であると知られたら、必ず標的にされるから。


 ――けれど。


 ミツルとセルムッドは似たもの同士であって相対的な存在だ。似ても似つかぬ弱者と強者だ。


 学院最強の称号を持つセルムッドに対して、ミツルは何も持ち合わせていない。漆黒に包まれた透明なのだ。


 何色にも染まらず、何者にもなれず、勝利してなお喜びを感じず、負けてもなお悔しさを感じ得ない。

 この世に生まれ落ちてから、何一つとして輝けなかった堕落者だから。


 視界に入る輝いた光景は、どれも腐りきったこの目に濁されていく。

 服に付いた墨が落ちないように、闇に染まったこの目も光を取り戻すことは無い。


 ――故に。


 ミツルの見る世界は、いつもいつでも白でも黒でも無い灰色なのである。


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