第一幕・六『異界の錬磨 -イカイノレンマ-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――ローリアが食事を済ませたのち、彼女とアリヤと共にミツルはロエスティード学院へと向かっていた。


 ロエスティード学院は帝都から南西に徒歩で数十分ほど歩いたところに位置する緑の広い平野に、まるで第二の城とでもいうかのように高く、壮大にそびえ立っている。


 高さ三メートルほどもある大門には、左右対称に向かい合う形で女神の装飾が施されていた。そんな大きな門口をくぐれば、その先は白く整備された広い道なりが一直線に続いている。


 道の両端には並木が立っており、今季は葉桜のように濃く緑がかっている。

 葉桜のようだとは言っても別段気温が高いわけではなく、それがより一層異世界にいるのだという事を実感させる。

 その木の下には休憩をするためのベンチがいくつか設置されていた。


 少し進むと道が大階段に変わっており、左右には別棟へ行くための道がさらに続いている。

 メインとなっている棟は別棟に比べてひと回り大きく、中央にはアンティークチックな時計がくっ付いていた。

 形は時計そのものだが、長剣と短剣を模した二本の針が指す文字はやはり読めない。


 この学校、一見してまるで大聖堂のようだ。


「――今日は休みだからあまり人がいないね」


「教師はいるだろう。なに、心配しなくてもここは基礎の基礎から学べる場所だ。何ならボクが教えてやっても全然構わないぞ」


 アリヤとローリアが交互に喋り、ミツルを挟む形で詰め寄る。


 この二人は素性も定かではない男に、少々警戒心が足りていないのではないだろうか。

 ミツルは見た目からして、お世辞にも善良そうな人物には見えない。


 この世界では黒髪黒眼というだけで稀有であるというのに、その上服装まで黒い。加えてアリヤにはカジノで冷徹な印象も与えているはずだ。ローリアも出会ってからまだ数時間しか経っていない。


 だというのにここまで心を開くことを許すというのは、得てして危険なのではなかろうか。

 いくらミツルにその気が無くとも、容姿の整った二人ならば今後別の男に襲われる可能性は十二分にある。


 別段襲われようとも大してどうでもいいのだが、こうして関係を持ってしまった以上、顔見知りの女の子が汚れた下心満載の男に襲われるのは看過できない。

 ……関係というのは、ディープな意味での関係ではない事をここで明白にしておく。


 ミツルは至極馴れ馴れしいアリヤとローリアに目を配ると、世の中が甘く、優しく、緩くはない事を説こうと口を開く。


「……お前ら、もう少し警戒とかしたほうが身のためだぞ」


「え? …………あっ」


 ミツルの言葉にアリヤは最初何のことだか理解しかねたようだが、視線を落とした先に手が触れ合いそうなほど極端にせばまった間隔を見つけた彼女は声を上げる。


「……ご……ごめんなさい」


 怯える子犬のようにしゅんと身を小さくするアリヤ。

 しかし同時に彼女の頬には少し赤がかかっている。


 どうやら内省して反省したようだ。

 これを機に学習したならば実に良いことだ。


 ――問題とするはローリアのほうだが、


「両手に花というやつじゃないか。平凡な男性なら喜ぶのが普通だと思うのだがな。――なに、問題ない。わきまえを知らず陵辱しようものなら、ボクが鉄槌を下して制裁してやろう」


 拳を握りながら意気揚々と語るローリア。


 そんな強気な彼女に、ミツルは歩いていた足をぴたりと止めながら、


「……あのな、男っていうのはお前が思っている以上に狡賢ずるかしこく力強いんだ。襲われて人生を台無しにした子達を、俺は何人も知ってる。なめてかかると酷い目にあうぞ」


 ニュースや新聞だけでも、毎日のように行方不明となった人や無惨に殺された者が報道される。きっと認知されていないだけで見つかっていない人も積もるほどいるのだろう。

 今この瞬間にもどこかで誰かが犯罪に巻き込まれているかもしれない。だが別の世界に来た今となっては、あの世界の出来事とは一切合切無関係になっている。


 よくもまあ来る日も来る日も罪人が減らないものだと呆れる反面、被害者にも警戒心が足らな過ぎるといった少しの不満もある。


 筋力差や足の早さで逃げきれないのであれば、防犯ブザーや催涙スプレーを常時するなどして、いつなん時も警戒心を緩めないことだ。

 臆病な者ならすれ違う相手が襲い掛かってきた途端に対応できるよう疑心になり、勇ましさを兼ね備えている者であれば金的なり卑怯な手を使うなりすればいい。悪の前ではどんな卑怯も許されるのだから。


 世の醜悪さを知っていながら必要最低限の用心も備えずに被害者面するなど、自分の命が浮かばれないだろう。

 加害者が悪であることは大前提。だからこそただの軽い悪である相手を極悪人に仕立て上げ後悔させるという意味でも、古来の武士の如く死ぬ時以外は頭を休めてはならないのだ。


 ――理屈を並べて再度忠告するミツル。だがそれを杞憂だとでも言うようにローリアは腰に手を当てる。


「問題ないと言ったろう。ボクは随一の水のマディラム使いなんだぞ。ボクが少し本気を出せば人を殺めるのも難しくはない。力強いことだけが有能ではないよ、ミツル」


「それはそうだけどさ……」


 理解してはいるようだが、その自信が悪い方へ繋がることもまた然りだ。


 確かに、昼間ローリアは目の前で大の大人二人をノックアウトしてけた。

 そんな光景をこの目で確認したのもまた事実ーー。


 と、そこでミツルは昼間に気になっていたことを思い出して隣を歩くローリアを見やる。


「そういえばローリア」


「何だい?」


 ミツルが話しかけると、ローリアは可愛らしく低い位置からこちらを見上げる。


「どうして老婆になんか変化へんげしてたんだ?」


「ほう。アリヤからキミは字も読めないほどだと聞いていたが、そんなキミが幻惑を知っているとはな」


 意外な部分に食いつかれ、ミツルは魔法系の物語でありきたりなものだと思っていたがここではそう来るのかと、当惑的な態度をなんとか隠す。


「……フードを取ったら顔が変わってたからそう思っただけだよ」


 下手な言い訳を無理矢理投げ入れるとローリアはふむ、と顎に手をやりながら、


「あの場でボクのような人が出てきたところで、なんの説得にもならないだろう? それよりも永年生きてきたような老人が出たほうが、よほど効果がある」


「あー、なるほどな」


「ああ。……しかしキミは――」


 一度言葉を切り、ローリアは顎に手を当てたままその顔に意味深な笑みを浮かべると、


「案外洞察力も高いらしいな。気に入ったぞ」


「何がだ?」


 言葉尻にさらりと気に入った発言をされたミツルは何のことだかさっぱりといった風な顔で聞き返す。


「キミをだよ。なかなかに優秀なようだ。試験に合格したあかつきには、ボクの助手になるといい」


 自分よりも幼い少女の下に従くというのには抵抗がある。

 それにまた面倒なことに巻き込まれそうな予感がする。というか未来が見える。


「……考えとくよ」


 愛想笑いを浮かべて無難な返答をするミツルに、ローリアは「ああ」と破顔した。


 ――そんな調子で三人が学院内に入ると、中は非常に広々とした空間が広がっていた。

 床は全面的に石造りになっており、歩くと靴底と密着するたびかつかつ音を響かせる。

 同じく石造りの壁面の上部には、暗くなったときのために一定の間隔をあけて火を灯す蝋燭が付いている。

 十字の窓枠からは四分割にされた日の光が射し込み、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 ――こんな綺麗な場所で学べるのかと思うと、ミツルは心躍る想いをする。


「綺麗なところだな」


 ミツルの短く、しかし様々な意味の重ねられた言葉にアリヤとローリアは柔らかく微笑む。


「――さて、ボクは研究室に戻るとするよ。アリヤはミツルを適当に案内してあげてくれ」


「うん、ありがとね。じゃあまた」


「ああ、ミツルもな。無事合格したら、さっきの店で再び料理でも一緒に食べようじゃないか」


 ローリアがアリヤからミツルに視線を移すと、応援の声を掛けてきた。ミツルはそれに軽く頷く仕草をする。


 ローリアは身をひるがえすと、数本ある廊下の一つへと歩を進めて去っていった。


 アリヤはローリアの背中が見えなくなるまで見送り、


「じゃあ私たちも行こっか」


「そうだな」


 ミツルはアリヤに連れられると、ロエスティード学院の中を色々と案内してもらった。


 ――学院の外観や入口だけでなく教室もまた広々としており、席は大学にある階段状のような造りになっていた。

 その前には、普通の学校にあるのよりもおよそ倍はあろうかというほど大きな黒板が壁に設置されている。

 そこには規則性のあるこの世界の文字列がチョークで書き綴られており、授業のあと消し忘れられたのが見て取れた。


 その後も手洗い場や公共の休憩場である中央庭、マディラム解析室にドーム状に設計された訓練室など、いくつかアリヤに案内してもらう。


 魔術科の棟には大図書室もあり、さらにそこから第一図書室、第二大図書室と二手に別れている。

 なんでも聞く話によると第一図書室に書物が入りきらなくなり、急遽第二大図書室も増築したとのこと。そのため第二大図書室は必然的に別館となり、一度魔術科棟を出て実技科と真逆に隣接する建物へと足を運ぶ必要がある。


 また何度も増築することが無いよう第一図書室よりも少しばかり大きめに建てたため、ロエスティード学院はより一層城らしさを際立たせた。


 このロエスティード学院は学校であると同時にこの世界でも有数な図書館でもあるらしく、数百年からあるいは千年以上をかけてあちこちから収集した本が揃っているそうで、それ故に大変貴重な遺産であるためもし仮に戦争になろうとも、ここは攻撃しないよう各国にはあらかじめ話をつけているらしい。


 帝国側としては攻撃しないことを口実に図書室を住民避難所として使用するつもりらしいが、いかんせんあまり治安の良くないこの国のことだ。その時が来れば住民の中から書物を盗み漁る輩も出てくるだろう。


 この世界を紐解く昔の資料は普通に読むこともできるが、やはり古びて破れやすくなっているため魔術で強化、もしくは直接触れられないように工夫されている。結局魔法なら何でもありなのだ。

 ちなみにこの図書室は実技科も分け隔てなく利用できる。


「これで大体の案内は済んだかな。――でも、ミツルの場合まだ字の読み書きができないから、合格しても実技科のほうに配属されると思う」


 日もすっかり傾いて、薄暗く、しかし夕焼けでほんのりと明るく照らされた教室内でアリヤは呟く。


「――アリヤはどっちなんだ?」


「私はこっちだよ。魔術科。マディラムをより一層追求して、詳しく、便利に使えるように勉強してるの。別棟になっちゃうけど、休み時間とかなら会えるから心配して落ち込まなくても大丈夫だよ」


「……俺は一人でも平気だ」


 後半茶化して悪戯顔でそんな事を言うアリヤに、ミツルは口を尖らせて不貞腐れた表情で言い返す。


 その様子を見てアリヤは口元を手で覆い隠すようにして軽く笑うと、


「ふふっ、冗談だよ。ミツルは不思議だね。賭博屋であんな態度見せたと思ったら、時折子供みたいに無邪気な顔したり、私とローリアの心配してくれたり」


 優しい声色で後ろの夕陽の逆光にあかく照らされた彼女は言葉続けに、


「――さて、今日はもう暗くなっちゃったから、また明日だね。夜はどうするの? あれだったら、宿屋に泊まるのもいいと思うよ、この辺り一帯はそんなに高くないから」


「そうするつもりだよ」


 そうは言うものの、字を読めない状態で会計を一度や二度見た程度では、流石に通貨価値は把握できなかった。

 店の人に虚仮威こけおどしをかければ大体のことは分かると思うが、何も知らない世界では極力口論になるような事態は避けたいところだ。


「けど金がな……」


「あー……」


 ミツルが思いあぐねていると、不意にアリヤが苦笑を含んだ顔をしながら懐から数枚の通貨を取り出した。

 金色で少し大きめの硬貨はひし形をしている。他には銀のまるい硬貨や長方形の銅製の硬貨なども見られた。どれも建造物や女神のような横顔が彫られたもので、ひと目で金銭であることがわかる。


 事前に聞いていたことと言えば、この国の通貨の呼び方が皇帝の名前であるということだけだ。

 なんでも皇帝の即位と同日に通貨の呼び名も変わるらしく、理由として新たな皇帝の名前を市民に早く覚えてもらうためだそうだ。

 現在の通貨の名前は『レフェイル』。つまり皇帝の名前もレフェイルとなる。


 ――アリヤがそれを机の上に置くと、軽い金属音が二人しかいない静かな教室内に響き渡る。

 彼女は机に置いた通貨を細くて綺麗な指で撫でながら、


「じゃあついでに、簡単にここでのお金の価値も教えておくね」


「……何から何まで、悪いな」


 ミツルが感謝の意を述べると、アリヤは「ううん」と首を横に振る。


「困ってる人がいたなら、助けるのは当然だよ。例えそれが、ミツルのような真っ黒な人でもね」


 そう言うアリヤの目は、曇り無き純粋な光で輝いているように思えた。

 その瞬間、ミツルは異世界に来てから初めての安堵感を、その身に感じたような、そんな気さえするのだった。



 〜 〜 〜 〜 〜



 幻想とファンタジーの世界へ降り立ってはや数週間、試験を控えたミツルはアリヤに文字の読み書きとマディラムの使い方を少しでも学ぼうと習練に励んだ。


 片仮名に近い単純な文字の羅列は、何度も書いていく内にゲシュタルト崩壊を引き起こしそうな感じだった。

 新たな字の習得を目指すと同時に魔法の練習をするというのは、いささかまるで勉強の息抜きに遊ぶような感覚だ。


 つまり、マディラムの習得はそれほど苦では無いという事である。

 疲れはすれど苦でさえ無いのなら、鋭意に努力する意味もあるというものだ。


 元の世界では使いたくても使えなかった魔法を、この世界では自由に使える。

 そんなロマンと関心に浸りながら行う魔法の練習は、今まで持ち得無かった趣味に当てはまるようなものだった。


「――だいぶ使いこなせるようになってきたね!」


 ロエスティード学院からほど近い場所にあるひらけた草原の真ん中辺りで、軽めに汗をかきながらマディラムの練習を手伝ってくれるアリヤ。

 最初はペットと戯れるように付き合ってくれていた彼女だが、ミツルの成長ぶりに少々肝を抜かれているようだ。


 今日も今日とてマディラムの練習だ。

 練習と言っても実戦形式で、アリヤ曰くその方が身につきやすいらしい。つまりは体で覚えろということである。


 今日はミツルが攻撃側担当となる。

 対するアリヤは反撃はすれど、防戦が主となる。


「はぁ、はぁ……、そうか? そう言ってもらえると助かるよっ!」


 息を切らせてアリヤの足下から人間の手を模した黒霞の物体を繰り出しミツルは動きを封じようと試みるが、もう少しで足首を掴めると思った瞬間、彼女にギリギリのところで避けられた。


「――ッ!」


 アリヤの避ける方向を予測しながら、ミツルは彼女が行くであろう方角へすかさず先に白い光の弾を左の掌から射出する。

 狙い通りアリヤは光弾を飛ばしたほうへ避けてきた。が、


「ふっ――!」


 鋭く息を吐いてアリヤは両手をぐと、先手を取ったと慢心したミツルの光の弾を見えない何かで撃ち落として見せた。


 理解するのに一秒ほどの時間をかけていると、ミツルの前髪をぶわっ、と一瞬強く風が踊らせた。

 風の刃。ありきたりではあるが、表現するとすればその言い回しが分かりやすかろう。


 ――切っ先が魔弾に命中した瞬間、軽い爆発音と共に砂煙が舞い上がる。


 マディラム同士が激しく衝突すると爆発が起きる。これは決して火薬などの力ではなく、魔力と魔力の激突による作用で引き起こるものだ。だから剣であろうと槍であろうと、刃の部分にマディラムを帯びていれば爆発を起こすことも可能になるわけだ。

 だがそれだって、相手側の武具にも魔力が通っていなければ意味が無い。


 ――煙により視界を塞がれたミツルが目を凝らして警戒心を硬めていると、曇りの中からアリヤが勢いよく空へ飛んで行くのが見えた。ミツルもそれに続いて空へ飛び立つ。


「飛ぶのにも慣れたみたいだね」


「アリヤには到底及ばないけどな」


 身に纏う黒いコートに付随している風の加護の効果により、空をアリヤと同じように舞う。


 空中で一定の間隔を保ち、無言で互いに警戒をする。

 相手は自分と違ってこの世界で生きてきたのだ。

 突然別世界に彷徨い込み、詳細も分からぬまま得体の知れない現象をその手で引き起こしているミツルからしてみれば、劣勢なのは明確だろう。


 しかしミツルは常に人間観察を怠らない。

 体の向け方や目のちょっとした動き、口の歪み具合から喋る内容まで、ありとあらゆる微妙な揺らぎを見澄ますのは幼少の頃からのさがだ。

 そこから生じる経験と計算からアリヤの癖や行動パターンを読み、勝敗を覆していく。


「いくよっ!」


「来い」


 妖精のように佳麗に、鷲のように優雅に、鷹のように素早く距離を一気に詰めてくるアリヤ。

 想像をいっした速度に乗って飛翔して来る彼女に、ミツルは闇のオーブから漆黒の大鎌を繰り出して対処しようとする。


 出したままの勢いで真っ黒な三日月をアリヤに向かって大きく横に薙ぎ払うが、彼女はひらりと宙で一回転し、それを難なく避ける。


 もはやミツルとアリヤの距離は、二人が手を伸ばせば届くまでに詰まっていた。

 ここまで来れば考えている時間は無いに等しく、ならば決断力と動体視力で乗り越えるほかない。


 ミツルは持っていた大鎌を黒い霧に変化させると、自分の身の周りで竜巻のように回転させる。


 たまらず一旦下がって距離をとりながら、アリヤはこちらの様子をうかがいみる。


「――せぁッ!」


 黒い霧を解除し、その刹那にミツルは突進して一気に距離を詰め反撃にかかる。

 詰め寄りながら黒い霧を今度は剣へと形状変化させ、もう少しでアリヤに届くと思った次の瞬間――、


 耳をつんざくような音がミツルの鼓膜を刺激した。


「ッ!」


「っと」


 アリヤの用意していたアラームが鳴り響き、終了の合図を知らせる。

 すんでのところでぴたっと止めた真っ黒な剣は、彼女の胸元に影を作るほど近い距離にあった。

 ミツルはこれ以上の戦闘意思を示さないようすかさず剣を消滅させる。


 ミツルとアリヤでゆっくり降下するように地上へと着地すると、 二人はもうヘトヘトになっていた。


 二人が寸分違たがわず同時に座り込み、荒い息を整える。


「ふぅ……。ミツル、感覚鋭いね。初心者とは思えない。もう実戦でも十分戦えるくらいには成長してるよ」


「そうなのか? けど、相変わらず体力には自信が無いんだ。これじゃあ全然戦力にならないな」


 汗を拭いながら褒め言葉を素直に喜ばないミツルに、アリヤは綺麗に整った眉をひそめて不満の表情を浮かべる。


「――ねぇ、ミツル。どうしてミツルは、そんなにも他人の言葉の裏を読もうとするの?」


「……なんだよいきなり」


「だってミツル、誰かに褒められたり優しくしてもらうと凄く顔が引きつるんだもん。何か悩みが、辛いことがあるなら話して? もうミツルと出会って一ヶ月くらい経つけど、ミツルが楽しそうにしてるとこ、見たことないから……。私に出来ることなら、手伝うよ?」


 アリヤの言葉にミツルは顔をしかめる。


 自己肯定感の低いミツルには、どうにも相手の褒め言葉が素直に受け止めることができない。

 褒め言葉なんてものは自分には到底似つかわしくないし、何よりそれに値するほどの存在でもない。


 自己肯定感が低くて、それでいて不信感が人一倍高いミツルだからこそ、ただ受け入れられないだけではなくその言葉が嘘に塗り固められた上っ面の虚言なのだと警戒してしまうのだ。


 たとえアリヤの本心から来ているものなのだとしても、一度疑ってしまえばそう簡単には抜け出せない。


 けれど「楽しくなさそう」というのは確かにそうだ。それは自覚している。確かに楽しくはない。


 ――だが、それは今に限った話ではない。


 元いた世界でも、黒崎光は言葉の裏を読み、罠を見抜き、嘘が真実であると判断するような人間だった。

 どれだけ相手が嘘じゃないと言い張っても、その「嘘じゃない」と言っていること自体が嘘ではないのかと、そうやっていくつもの欺瞞を掻いくぐってきた。


 もしかすると相手も自分に合わせて偽の笑顔を取り繕っているだけなのかもしれないと。


 自分がどれほどつまらない人間なのかは理解している。そんな自分に、愛想笑いをされている。

 人間が嫌いなのに、それに空気を読まれているだなんて酷く屈辱的だ。


 そんな風に常々考えていれば、自ずと楽しくも無くなるのだ。


 ――――なに一人ではしゃいでるんだ、と。


 一度、己を騙してみたことがあった。

 世界は善人に満ち溢れていて、悪い人間などほんのひと握りしかいない。

 過去の最悪たる出来事を全て忘却し、楽観的に、楽観主義に、ポジティブになれば人生捨てたものではないと思えるのではないかと、そう思ったからだ。


 しかし、結果は目に見えていた。

 人間そう易々と変われるものではない。

 いくら自分を変えようとも、周囲の見る目が、捉える価値観が変わっていなければ何の意味も無いのだ。

 むしろ自分を変えようものならば「気持ち悪い」だの「何張り切っちゃってるの?」だの、決して良い捉え方はされない。


 前向きに見ようと思ったその視界には、気色の悪いほどに醜い光景が広がっているだけだ。

 そこには希望も期待も美質も、一切無かった。

 同種で共食いを行う弱肉強食の世界は、いつもいつだって弱者を貪り葬り踏みにじるような場所でしかなかった。


 失望した。

 絶念した。

 

 やはりこんな世界に意味を見出すのは無意味なのだと。

 気付けば、元通りの黒崎光へと戻っていた。


 そうだ。

 悩みなら――――ある。


 けれど。


 それを話してどうなる?


 話しても事を解決しなかったというのはよくある事だ。


 辛い。苦しい。そのようなことを口走れば、辛さは無くなるのか? 否だ。そんなことは断じて無い。

 あるのは「他にも辛い人はたくさんいる」というありきたりな返答だけ。


 相談に乗ると先述しておきながら、つまるところは何の解決にもなっていない。


 アリヤと出会って一ヶ月。たかが一ヶ月だ。

 たった一ヶ月一緒にいただけで、二人の距離は何ら変わっていない。

 そんな関係で話すような内容じゃない。


『人間が大嫌いで、誰も信じられない。さて、どうすればいいでしょうか?』だとでも言えと?


 そんなのはアリヤを困らせるだけだ。

 俺も困るだけだ。

 そんなことを口走れば、また空気を悪くする。

 彼女もきっと引くだけだろう。ドン引きだ。


 だから言わない。言えない――――


「……言ったところでアリヤには何も出来ないさ。アリヤだけじゃない。誰にも、俺にだって解決できないんだから」


 顎から落ちて今ではすっかり地面に滲んでしまった汗を見つめながら、こうべを垂れて力無く返答する。


「そうかもしれないけど、もしかしたらその難問を私は解けるかもしれないよ」


 アリヤは疲れと悲痛をその美麗な顔に滲ませながらも、ミツルの項垂うなだれた頭を見つめて再度問い掛ける。


 もしかしたら――――無い。それは無いんだよアリヤ。

 そのもしかしたらは、もうとうの昔に経験したんだ。

 経験して、やっぱり駄目で、だからそれに縋るのはもうやめた。


 感情だけで動くのなんて時間を無駄にするだけだ。


 ――未だ戦闘により得た高鳴る心臓の鼓動と疲労から脳が負の感情を呼び覚まし、それが紛れもない苛立ちの感情だとミツルが分析し解析する。

 深呼吸をし、怒りを表に出さないよう慎重に抑制しつつ、アリヤの問いにアリヤを見ずに返答する。


「アリヤにだって、家族や友達に打ち明けてない事、一つや二つあるだろ。自分の秘密を全部吐き出さないと繋がることを良しとしないなら、俺はずっと一人でいい」


 ミツルの意気消沈しているその背中は、まるで拗ねた幼い子供のように小さく、そこからアリヤに屁理屈のような理屈を吐き捨てる。

 アリヤは、ミツルが何か深い懊悩おうのうを抱えているのだとおぼろげに悟っていた。


 体だけではなく人生そのものにも疲れを感じさせるミツルの体躯にアリヤはかける言葉が見つからず、彼女はただただやるせない気持ち混じりに無言で見守るしかなかった。


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