第一幕・四『喧噪の傍観者 -ケンソウノボウカンシャ-』


 〜 〜 〜 〜 〜



 ――服屋で新たな服装に着替えてさらに一段上の黒尽くめにランクアップした後、ミツルとアリヤはまた更なる目的を探すために歩みを進めていた。


「ミツルはこれからどうするの? マディラムや剣を基礎から学びたいなら、ロエスティード学院に入ればいいと思うんだけど。私もそこで色々と学んでるし、顔見知りがいたら安心もするでしょ?」


 お人好しのアリヤの口振りからして、ミツルがこれからを過ごすために必要な生活を見つけるまでどうやら共に行動するつもりらしい。


「剣は護身として修得しておきたいな。いつ背後から刺されるか分かったもんじゃない。マディラムは素直に興味がある。……行くあても無いし、そうしておくか」


 実際、原因も分からぬまま別世界へと飛ばされたミツルは目的も茫々たる中、特に何もする事が無い。ただ野垂れ死にしないよういかに今日を生き抜くかということのみだ。


 よって暇を持て余しているこの男は絶賛ニートまっしぐらと言っても過言ではない。


「けど大丈夫なのか? 俺今記憶飛んでるから、出身地とか住所とかあれなんだけど……」


 異世界からの迷い人であることを悟られないよう、ミツルは記憶が曖昧であることをさり気なく伝える。


 手続き等をするのなら、必然的に紙面に色々と書いたりしなければいけないだろう。しかしそこに自分のことを何も知らない人物が来ても、困るだけだ。しかし、


「そのへんは割りと平気。孤児院出身の人とかもいるし。それに、ほかの種族だったらなおさら詳しい出身地なんて分からないでしょ? 学院長が誰でも気兼ねなく通えるようにって建てられたのがロエスティード学院だから」


 誰かさんに考え方が似ているなと、目の前の白い少女を見る。おそらく彼女はそういう方針も気に入って通っているのだろう。


「そっか」


 ――ミツルが短く答えると、アリヤは手を後ろで組みながら無邪気に微笑み、じゃあ、しばらくよろしくねと言ってきた。


 しかしながら、ミツルは内心まだアリヤを信用してはいなかった。


 人は優しければ優しいほど怪しいものである。

 お為ごかしのために他人に優しくしているというのはよくある事で、それは報酬や対価、名声の向上といった具合に様々だ。


 中でもたちが悪いのが、人に優しく接して信頼を勝ち取り、用が済めば裏切り切り捨てるパターンだ。

 可愛げのある顔の裏に、悪魔が潜んでいるかもしれない。

 いくら本人にその気が無くとも、そう思われるのは致し方あるまい。それがミツルのような超が付くほどの人間不信ならなおのこと。


 ミツルは警戒心を悟られない程度に固めると、ロエスティード学院へ入るためさっそくアリヤと一緒に手続きに向かった――。



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 メルヒムワールドの学舎は風変わりなものであった。


 手続きを済ませたのち、数日後に用意された試験を行う。

 その試験に合格すればなんとその日の内に入学して授業も受けられるというのだ。

 いくら元の世界と違うとはいえ、その日にというのはおかしな話だ。 向こう側にも色々と準備があるのでは無いのか。

 よもや魔法の力で教材や用具は一瞬で用意できるというとんでもな話だったりするのか。

 いやむしろ魔法などという世界様承認済みのチートを駆使して日常生活は成り立っているのか。

 アリヤは誰にでもマディラムを使うことはできる、得手不得手があるだけだと言った。

 ならば空を飛んで買い物や魔法で準備というのも……



「――……ツル? ねぇ聞いてるの? ミツルってば」


 細い指で肩をつんつんとつつかれ、ミツルはふと我に返る。


「? ――あ、あぁ、悪い」


 手続きの最中、色々思索してしまっていた。

 仕方が無い。こうでもしないと寝てしまうからだ。


 ミツルは欠伸をしながら薄目で目の前でマシンガントークを行っている女を見る。


「――というのも話は七柱である神々による大戦争時代にまで遡り、その神々がかの有名なマディラムを考案し創造した張本人。そしてさらにその上、つまり世界樹の創造主であり世界の創造主である神、メルヒムが存在した時代にマディラムは誕生したのです」


「…………」


 長い。長過ぎる。

 学院の手続きを済ませるだけなら長くともせいぜい三、四十分ほどあれば事足りるだろう。

 だが既にミツルの体内時計では一時間半は経過している。そのうち半分はこの長ったらしい昔話だ。


 アリヤは時折うんうんと頷き、真面目に話を聞いている。よくも眠くならないものだ。


 ミツルも始めは知識を得るがために懸命に聞いていたが、ものの二十分も経つと飽きた。

 何せ相手はこの長時間、一度も体を動かさず口だけ動いて喋り続けているのだ。


 本来人間という生き物は、話をしつつも相手を飽きさせないよう、あるいは本能的になのか自然と手や体、顔の表情を変化させ続けて喋る、というのが普通なのだが、この眼鏡をかけた女にはどうもそれが一切見られないのだ。背筋を伸ばしたとても良い姿勢のまま、この長時間それを維持し続けている。まるでロボットである。


 いい加減終わってほしいと心底思うミツルは、隣で真面目に聞いているアリヤに悪いと思いながら目前の駄弁している女性の話を黙らせようと行動に出る。


「なぁ……、ちょっといいか」


「はい?」


 突然話の合間に口を挟まれ気分を損なったのか、少し睨み気味に視線をミツルへと向ける。

 感情の凹凸さが垣間見られる分、やはり機械仕掛けではないことが鑑みられる。


「一つ疑問になったんだが、そのメルヒム様とやらはどうやって生きてたんだ?」


「どういうことでしょう……?」


 疑問を抱いたミツルに疑問を抱く女は問いかける。


「だってそうだろ? 世界の創造って事は、メルヒムは世界が存在する前に存在したって事になる。ならメルヒムはその前までどこにいたんだ?」


「え……」


「それにメルヒムの前は? どんな生物にも祖先はいる。神だって例外じゃない。突如いきなり誕生した、なんてあまりにも不自然過ぎるだろ。メルヒムが存在したのなら、そのメルヒムの親はどこから来たんだ?」


「…………」


 ミツルが深く掘り下げた追及に、女性は言葉を詰まらせる。


 答えられるはずが無い。

 これは人類史の永遠の命題の一つでもあるのだから。


 例えば、インフレーション理論。


 宇宙は最初原子や素粒子レベルの極小の点であったが、ビッグバンと呼ばれる大爆発によりその点は一気に宇宙へと変化した。宇宙は今なお膨張を続けているが、その逆、果たして星々が誕生する前の、宇宙が誕生する前は何だったのか。


 世間では時間や空間、色というありとあらゆる概念が存在しない『無の世界が広がっていた』という常套句が周知されているが、それも仮説の域を出ていない。


 世界の天才が解決できない難問を、一般人が解けるはずが無い。


 ミツルの問いに初めて女は人間らしく伸ばした背筋をのけ反らせ、口を閉ざし、そして黙り込んだ。


 今がチャンスだ。


 ミツルは密かににやりと不敵な笑みを浮かべると、女から身を引く素振りを見せる。


「あー、分からないならいい。手続きも終わったし、そろそろ俺達は行くよ」


「え、あ、そうですか。――ではまた何かありましたらご相談ください」


「ああ」


 質問に困った相手を前に自ら話題を切り上げると、相手は内心ほっとするものだ。

 ミツルは真横で少々拗ねているアリヤを引き連れて足早に案内所を出る。

 最後に一度軽く振り返ると、顎に手を当て、さっきの問いについて黙考している女性の姿が見えた。



 〜 〜 〜 〜 〜



「――もう、せっかく話を聞いてたのに、ミツルったら途中で抜け出しちゃうんだもん。しかも眠そうにしてたし」


 頬をぷっくらと膨らませながら怒るアリヤ。


「あれで眠くならないほうが異常なんだよ」


 やれやれと両手を広げるミツル。


 ――二人が整備された石畳を踏みしめながら他愛もない会話をしてリー・スレイヤード帝国の商い通りを歩いていると、左右から聞こえてくるうるさいほどの雑踏がふいにぴたっと止む。具体的には止まってなどいない。


 営んでいる店の人達は慣れた手つきで物品を並べながら客引きをしているし、売買している飛び交う声も変わらない。


 しかしミツルがその内容に耳を傾けて聞いてみると、騒めく数多の声の一部から歓声にも似た声々が揚がっていることに気付いた。どうやら野次馬の類いのようだ。


 その声音の源となる場所を探し辺りを見回すと、西の方に衆愚の如く人々が寄り固まっているのが見えた。その集団の様子から数時間前に自分が事故に遭ったことを思い出し、ミツルは眉間に皺を寄せる。


 何事かとアリヤの顔を見ると、当の本人もさっぱりという風な表情で肩をすくめてミツルを見返す。

 白いローブを着た少女と、黒ずくめのコートを着た青年は人だかりの元凶が気になり探ろうと、細い体を大衆の中に突っ込んだ。


 二人が人の塊に割入り、その中に見た光景はーー喧嘩だった。


 一人は犬か狼か、それに近しい獣人の大男。


 一人は鉄兜を着用し、青いマントを羽織ったザ・剣士というような男。


「――いい加減にしろよテメェ、ぶっ殺すぞ」


「――死ぬのは貴様だ脳無しめ」


 その二人は果物屋の前で罵声を浴びせ合い、今にも剣を交えそうな雰囲気だった。


「あれは駄目だな……。二人とも理性を通り越してただの脳筋バカに成り下がってる」


 ミツルが一目してそう言うと、アリヤはその可愛らしい面相を歪ませ、困った顔をしながら返答する。


「止めた方がいいよ。あのままだと怪我人出ちゃうかも……」


「それにしても、この国はあまり治安が良くないみたいだな。子供も見てるのに大人として恥ずかしくないのか」


 再度肩の高さまで腕を挙げてやれやれと辟易するミツル。


 すると何を思ったのか、アリヤが突如として前に足を運び始める。


「おい、何やってる」


 ミツルは咄嗟に前へ進もうとするアリヤの手首をがしっと掴むと、意図の読めない彼女に疑問をぶつけた。


「止めるんだよ」


 そうだ。

 アリヤはお人好しな奴だった。

 危険を顧みず策なしに飛び込むなど言語道断だ。


「お前が怪我したらどうする。知らない奴同士のじゃれ合いだろ、放っとけよ」


 事件にしても事故にしても、周囲の人間が自ら関わろうとすることは珍しい。皆が皆、興味本位で近づき傍観するのみだ。


 これを世俗では、傍観者効果というらしい。

 その場に自分しかいなければ首を突っ込む可能性はあるが、周りに何人も見ず知らずの人間がいると萎縮して躊躇ってしまうのが人間だ。


 それが一人二人と増えていった結果がこれだ。

 故に今さら一人傍観者が増えたところで誰もそれを咎めることはできまい。

 彼ら彼女らは通行人Aとして、その役を担っているだけなのだから――。


「でも、殺すとか言ってるよ」


「殺る気も無いのに虚勢張ってるだけだ。好きにさせとけ。お前のために言ってるんだよ」


「けど……」


「なら、今まで『殺すぞ』だの『俺は本当にやる人間だ』だの言っておきながら本当に殺した奴を見たことがあるか? あんなのは犬の遠吠えとでも思っときゃいいんだよ」


 しかしアリヤはどうにも気にかかるようで、大人しく退こうとはしない。


 ――彼女には色々と世話になっている。

 ミツルは借りを作ったままにしておくのは気が済まないタイプだ。アリヤが危険に陥れば、その借りも返せなくなる。


 ミツルははぁ、と溜め息をひとつ吐くと、掴んでいたアリヤの手首をそのまま引っ張り軽く後ろへ下がらせた。


「あっ、み、ミツル?」


 予想外の方向へ引っ張られたアリヤは反動で後ろへ仰け反る。


「お前には色々と世話になってる。――俺がいくから待ってろ」


 そう言うと、ミツルはアリヤと入れ替わるようにして堂々と喧嘩をしている二人の間に入っていく。


 突然知らない人物が割り込み驚いたのか、二人の動きが一瞬止まる。何だこいつというような目で睥睨してくる二人にミツルは大きく息を吸い込むと、一気に吐き出すと同時に大声で叫んだ。


「双方とも下がれ!」


 局外に立つミツルの猛々しい一声に、周りでもっとやれだのあいつが勝つだのほざいていた輩が黙った。


「んだテメェ! お前には関係ねぇだろ、すっこんでろ!!」


 獣人は見た目通り漢気ある態度で罵ってくる。


「そうだ。あんたには関係ない。悪いが邪魔だ、どいてくれ」


 対する剣士は言葉こそ冷静だが、それに反して身体が言う事を聞いていない。


 ――『関係ない』。


 それは争いの中へと仲裁に入る第三者が受ける言葉の典型的パターンだ。


 ミツルは「まったく揃いも揃って……」と頭をがしがし掻きながらぼやくと、二人に向かって言葉を発した。


「関係ならあるな。客観的に見てみろ。傍から見て図々しいと思う奴もいるってことを忘れるな。公共の場でそうしている時点で、周囲の目はお前ら低脳共に集まって時間を奪われてるんだよ。俺もその一人だ」


「っせぇ! そんなこたぁわかってら! だが今はコイツをぶん殴らねェと気が収まんねぇ」


 濃いめの茶色い体毛を逆立たせて牙を剥き出しにする獣人は、殴ると言っていながらその体躯に見合う大剣を剛腕もって振りかざす。


「それは殴るとは言わないだろ。お前らがそうやって店の前で戯れてるせいで、店に客が寄らないんだよ。買うはずだった客がいなくなって収入が減り、腹を満たせなくなって餓死したらお前は責任取れるのかよ。これを関係ないと言わずしてなんて言うんだ? それともその程度の事も解せないくらいの馬鹿なのかお前らは。――子供もいるんだぞ、時と場所を考えろ。恥を知れ」


「うっ……」


「確かに……」


 ミツルが二人を交互に睨みつけ雄弁すると、その二人は少し冷静さを取り戻したのか、果物屋の女主人や端で半泣き状態になっている子供を見るやいなや、争いを中止した。


 周囲で軍勢のように寄り集まっていた人々は、余計な事をと言わんばかりにミツルに嫌悪の視線を浴びせるとぞろぞろと解散していく。


 だがミツルは、まるで周囲の人間が建物や路傍に転がる石ころのように、はたまた背景の一部としか思っていないかのように気にもとめず、相争っていた二人に振り向くと事情を訊く。


「――で、原因は?」


 アリヤが駆け寄ってくるのを視認しながら質疑を申し立てると、剣士の男が出かかっていた剣を鞘に納めながら口を開いた。


「こいつは私の、代々誉れ高き剣士の家系を侮辱したんだ」


 駆け寄ってきたアリヤに目で説明を促すと、アリヤは察しよく頷き話し始める。


「剣士を名乗る人達は、みんなそれぞれ古くからある家系の一族なんだよ」


 なるほど……それで、か。


 武の道を歩む者にとって、名高い己の家系を侮辱されるというのは相手に背中を見せ、斬られるのと同等以上だ。

 それは敗北を意味し、同時に死をも意味する。剣士にしてみればさぞ恥辱の極みなのだろう。


 しかし、何の理由もなくいきなり突っかかってきたわけでもあるまい。もしそうならただの不良だ。


 ――ミツルが解決方法を見つけるため思考を回転させていると、獣人が剣士に反駁はんばくし始める。


「だからそれについちゃ謝るっつってんだろ! それにお前だって俺が大金はたいて飼った大事なウマを叩いたろうが! 本当に誉れ高けりゃあんなことするかよ!」


「ウマが私に唾を吐いたからだ! 礼儀をわきまえないなど流石は家畜だな!」


「ウマにあれこれ言って分かるか!」


 確かにウマに言葉は通じないな。

 そういえば二足歩行で喋る獣人もいるのに、この世界には普通に動物として生きているのもいるんだな。基準が分からん。

 ……などと思索している場合では無かった。


 再び言い合いが始まるのをアリヤが止めに入る。


「待った待ったー! ほら、そこでまた喧嘩しない! ミツルも頷いて共感とかしないのっ」


「わ、悪い」


 ともあれ、今の状況ではらちが明かないのもまた事実。

 打開策を見つけなければ、ずっとこの水掛け論は続くのだろう。それは非常にめんどくさい。

 ミツルは厄介事に首を突っ込んだなと過去の己の軽率な行動を悔やみ、それを悔やんでも元には戻らない事をさらに悔やむと、後悔のループに惑わされないよう頭を振り思索する――


 ――駄目だ。何も思い付かない。


 ミツルはアリヤにすっ、と近づくと、小声で案が無いか耳打ちする。


「何かこの揉め事を解決する策ないか?」


 アリヤは可愛らしく腕を組み、整った眉をひそめてうーんと考えていたが、ミツルと同じ結論に至ったのか考えるのを諦め質問に否定の意を唱える。


「特にいい策は見つからないね……どうしよう」


 切羽詰まった。

 やはりこの場所に近づくべきではなかった。


 ――再び言い争い始めた獣人と剣士を横目で見ながらミツルとアリヤが同じポーズでしばらく悩みあぐねていると、突如とある建物の路地裏から一人の老婆が現れた。

 いや、老婆とは一概に言えない。目深のフードを被り、杖をついて腰を曲げているからそう見えるだけだ。顔までは見えない。


「あっ……」


 ミツルとアリヤに続いて老婆も厄介事に近づくと、それに気付いたアリヤが声を上げる。


 老婆は獣人と剣士に向かって、


「ほれ、よさんね。こちらのお二人さんが困っとるじゃろうに。喧嘩するなとは言わんが、もうちと周りを見よ」


「今説教はいいから婆さんはどいてな!」


 獣人が老婆に見向きもせずそう吠えると、老婆も負けじと弁駁する。


「退くのはあんたらじゃろ。白昼堂々と道塞ぎおって、人様に迷惑かけとるのがまだ分からんのか。ついさっきここの男に言われたんと違うんかい」


 威勢のいい態度で正論をぶつけられると、獣人は返す言葉も無く閉口する。


「あんたもだよ剣士さん。剣を握る人間が警戒解いてこんなとこで口喧嘩してどうする。あたしはずぅっと隅で見とった。もしあたしがマディラムで突然攻撃してきたらどうするつもりだったんだ。……あんたは勘づいてたようだが。黒衣の兄ちゃん」


 そう言いながら、老婆はミツルのほうをちらりと見る。


 老婆の言う通り、正直ミツルはその『老婆』の視線に気付いていたのだが、また面倒くさい人物そうだと無視していたのだ(性格からしてこの婆さんに面倒くさそうなどと言えば叩かれそうだから言わなかったが)。


 死んだ人間、つまり幽霊よりも生きた人間のほうがよほど怖いとはよく言ったものだ。


 幽霊、主に怨霊というものはだいたいが生前の恨みや妬み、憎しみといった負の感情を抱いて死んだ魂が彷徨い、人間に危害を与えようとするから非常に分かりやすい。中には無害な幽霊だっている。驚きはしても怖いという感情が芽生えることは無い。


 しかし生きた人間というのは得てして不可解な存在だ。

 幽霊と違って人間最強の武器である思考を駆使し、善行にも悪行にも適応し、善行かと思えば悪行だったりする。

 例え善行だったとしても、周囲の人々の口から出る言葉は偽善者の一点張り。


 こうして日々、人間同士で互いに疑い疑われるのが当たり前になっているのが今の世の中だ。

 故に、常日頃から三百六十度警戒するのはごく自然なことなのである。


 すれ違った相手に荷物を盗られるかもしれない。

 突然あの車がこちらに向かって突っ込んでくるかもしれない。

 あの電柱が倒れて来るかもしれない。

 寝ている間に喉元を掻っ切られるかもしれない――。


 そうやって疑心暗鬼になるのも、すべてはこの世の中の、偽善や虚栄たる現状を作り出した人間が素因なのだ。だからそこの老婆にも気付いていた。


「さて、黒服の兄ちゃんと白服の姉ちゃん。この二人の問題事、あんたらが無理ならあたしが解決してやろう。その代わり、一つ頼みを聞いて欲しい」


 老婆が言葉尻にそう付け加えると、ミツルは老婆に向かって言った。


「……俺達に出来ることなら」


 こう言えば多少のリスクは避けられる。

 もし『何でもやる』などと軽く口走れば無理難題を押し付けられる可能性があるが、『自分に出来ることなら』と言えば、相手が知らずとも自分自身の出来る許容範囲内に収めることができる。


 ――――が、ミツルが耳にしたのは意外や意外、


「なに、そう硬くならんでも大したことじゃないよ。……何でもいい。何か食べ物を分けておくれ」


「お腹空かせてるの? ならそんなのお易い御用だよ」


 少々間の抜けた顔で言葉を失うミツルをよそにアリヤが代弁する。


「交渉成立じゃな。ならばちゃちゃっと事片付けて飯を頂くとしようかの」


 そう言いながら老婆は持っていた杖で地面をかつっ、と突いた。

 すると空中にみるみる透明な液体が集合し、それが徐々に膨張していった。

 数秒かけてひとつの巨大な水塊と化した液体は大人数人がすっぽり入るほどの大きさにまでなり、丸くはあるがふよふよと揺れ動いたまま一定の位置で浮遊した。


 老婆はさらに杖を振ってに杖を向けると、たちまちその液体は獣人と剣士に勢いよく突進していく。


「ふごっ……!?」


「ごふぁっ……!!」


 二人はぶつかった液体に包まれ、口元を手で抑え始めた。


「少し頭を冷やしな」


 老婆は杖を二人に向けたまま言を発する。


 今までずっと言い争っていた二人は当然肺の中の酸素も少なく、もがくがそれも逆効果。体を動かせば動かすほど水流が発生し、それがさらに二人を苦しめる。

 ――やがて剣士の方が先に音を上げ降参の合図を出した。

 それを隣で見ていた獣人は剣士にならい、同じポーズをとる。

 だが老婆はいまだ杖を下げず、じっと二人の様子を伺っていた。


 それから数十秒後、二人の動きが鈍くなったのを確認した老婆は獣人と剣士に向けて維持していた杖を下ろした。

 それと同時に二人を包んでいた液体は四方八方へ霧散し、二人は自由落下により地面に激突する。

 ミツルは地面にぶつかった衝撃で目が覚めるかと心配したがそんなことは無く、二人はぐったり横たわったままだ。


 窒息の危険性があることを予知していたであろう老婆は、二人の酸素残量ギリギリのラインを狙っていたのだ。

 医療では二分〜三分程度で意識を失うとされているが、剣士はともかく人間とは肺の大きさが違うであろう獣人のほうも把握していたとなればなかなかの手練である。


「あとはどっかそこら辺にでも別々に置いとけばいいじゃろ」


 邪魔な物を置くかのような口ぶりで老婆は言う。


「……それでいいものなのか?」


「構わんよ。あとは本人達でどうにかすればいいさ、大人なんだから」


 もっともだ。

 大人になる。それはつまり、何でも自分の意思で判断でき、自分自身が自由になるということ。

 あれを買うのもこれを欲するのも、これまで親の許可無くしては成し得なかった。それが全て自由に自分で決断出来るようになる。


 しかし逆に、自由になるというのは自分で決めたことも全て自分の責任になるという事でもある。


「さぁ、そんなことよりさっきの約束、忘れてないだろうね?」


 老婆はミツルの方向へ体を向け直すと、つい先程約束した対価を所望する。


「ああ。――飯、だろ?」


「そうさね」


 ミツルと老婆が先々に話を進めていると、ずっと横で二人の話を聞いていたアリヤが口を挟む。


「ちょっと待って。…………あなた、ローリアでしょ?」


「なんだ、知り合いか?」


 アリヤの言葉に、ミツルは彼女と老婆を往復して見やる。


「…………どうしてわかった……?」


 もアリヤの言葉を受けて、被っていたフードを頭の後ろへずらしながら返答する。


 フードの中で喋り続けていた人物が正体を明かす。


 ミツルがその中に見たものは――――小柄の蒼い髪をした可愛げな少女だった。


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