Race9. 幻影

 日曜日の中京競馬場は朝から大盛況である。今日の重賞が実績馬が多数出走していることもあるし、中京での開催が珍しいというのも大きいだろう。天気は曇り空な上に3月にしては異様な寒さであったが、場内の空気はどこか熱いものを感じていた。


「あー……もう少し晴れてくれたら良かったんだけどなぁ」

「涼馬さんがここに来るときって大体こんなんじゃありませんでした?」

「人を雨男みたいに言うんじゃないよ。いやこの場合だと曇り男か?」

「……父さん」


 そんな中京競馬場のスタンド内の一角にオレ達は陣取っていた。開場前に並んだ挙げ句、父さんの殺人的なダッシュのおかげでそこそこ良い席が取れてしまった。取れたのはいいんだが。なんで父さんだけじゃなくて母さんが来てるんだ!?


「いやー『たまには私に構いなさい!』って言うからねぇ。そう言われたら構わなくちゃいけないだろう?」


 誠実なのか不誠実なのかよく分からない。来望はと言えばスポーツドリンクを飲みながら周囲を見渡している。まぁいろんな人がいるからそうする気持ちも分かる。


「来望ちゃんもごめんなさいね、こんなうるさいのが一緒で嫌でしょう?」

「いいえ。颯馬のお父さんもお母さんも面白いから好き」


 来望のカテゴリでは面白いに部類されているようだ。まぁ端から見たら夫婦漫才だもんなぁこれ。正直身内に思われたくない。


「さてと、それじゃあ今日も一日張り切りますかねぇ!」


 こうしてオレはもう一度来望に初めての競馬場体験をさせることになったのだ。


 ◆


「いいぞー! がんばれー!」

「まけるなー!」


 ヒーローショーでも見ているかのように大の大人二人がターフに向けて応援の声を飛ばしている。その声の主は当然オレの父さんとオレ自身だ。やはり自分が推している馬が頑張って走っているところを見ていると応援したくなるのが人の性というもので。


「うおー! よく粘ったぞ!」

「いい脚使えてたよー!」


 そしてドンとハイタッチ。オレの馬券こそ外れたものの、外れたことに対するがっかり感はない。オレの父さんは競馬を推しの馬に課金するゲームか何かだと思っているようで、オレもそんな父さんの姿を見て育っている。だからこそ競馬というものをギャンブルという一側面だけで判断しないようになっているのだ。


「……? 颯馬、悔しくないの?」

「んー……何というかオレにしてみれば馬券が外れても特になんとも思わないんだよな。何万も賭けるような真似はできないからさ」


 実際このレースでオレが賭けたのは300円だ。遠足のおやつぐらいの値段だと考えれば、大したものではないように聞こえてくる。オレの中ではあくまでも娯楽と割り切っているのだ。


「ほんと、誰に似たんだか」

「……颯馬、なんで競馬好きになったの?」

「昔から父さんがこうやって競馬見せてくれたってのが一つ。んで、もう一つは来望のおかげだな」

「私?」

「来望の髪の色で昔いろいろ言われてただろ? それでぐずって泣いてさ。そんな時に見た競馬の中継で、真っ白な馬が後ろからぶっちぎって勝ったことがあるんだよ。それを見て『見た目の違いなんて些細なものだ』って思うようになってさ」


 来望が何かを思い出したかのように虚空を見つめている。そしてその目からは涙がしたり落ちていた。……泣かせるようなことをしてしまったのか? 懐からハンカチを取り出して涙をそっと拭ってやると、来望は不思議なことを口にした。


「前にも颯馬とここに来たような気がする」

「……来望?」

「ごめん。変なこと言ったかも。でも颯馬の話聞いてると、ちょっと懐かしい気分になった」


 白銀の髪が揺れる。キラキラと光る粒子のようなものが来望の周りを取り巻いているように錯覚されるほど、今の来望はとても綺麗だった。


「今の颯馬があるのは私と競馬のおかげなんだ」

「そうだな。どっちが欠けててもダメだったんだ」

「……うん。ちゃんと私、必要とされてるんだね」


 来望が肩を寄せてくる。オレはそっと来望の身体を抱くと、サラサラの髪の毛を撫でてやった。声こそ上げないものの、垣間見える来望の表情はとても嬉しそうに見えて、撫でているこちらもまた嬉しさがこみ上げてくる。


 こうして甘い時間が過ぎていくが、オレは1つのレースを決して見逃すまいと用心していた。そのレースはメインレースの1つ前のレースだ。このレースにはあの馬が出走することが確定していた。その名はスノーラブ、オレと来望を繋ぐかもしれない馬である。


 来望を引き連れてパドックを見に行くと、外には季節外れの雪がちらついていた。その雪を手のひらに乗っけようとしている来望の姿はまた幻想的で、雪の妖精とでも形容できる。来望の周囲の空間だけが競馬場にしては異様な空気に包まれていた。


 パドックには既に馬たちが周回しており、この寒さにも関わらず元気そうに歩いていた。そしてその中でただ1頭、灰色がかった白色の毛並みをはためかせながら悠々と歩く馬がいた。


「……! 颯馬、あの馬!」

「ああ、来望の好きな馬だ」


 そうじゃない。スノーラブはオレと来望を繋いでくれた馬だ。その証明がオレの手に握られている。


「来望、来望の財布をちょっと貸してほしい」

「……? お金は取らないで」

「取らないよ。あるものがあるか確認するだけだから」


 可愛らしいデコレーションがあしらわれた財布の中を探す。それはこの前の女装プリと一緒に眠っていた。オレは見つけ出したそれを抜き取ると、財布を来望へと返却する。


「来望、これを見てくれ」

「……? これは?」

「馬券だよ。あのスノーラブって馬の馬券だ」

「でもこれ今日の日付じゃ」

「そうだ。これはスノーラブの前走の馬券だ」


 こんなもので記憶が戻るなんて思いたくはない。それでも、オレの知っている来望が歩みを寄せてくれたという事実を今の来望にも伝えたいから。


「今の来望は覚えていないかもしれないけど……オレ達は何度も競馬場に行ったことがある」

「……ホントに?」

「そうだ。来望にはいろいろあってその記憶がなくなったけど……それでもこの馬券がその証明だ」


 オレも全く同じ馬券を取り出す。その場に二人が存在したことの証明としては弱いものの、状況証拠としては十分だ。


「……颯馬は、どっちが好きなの?」

「どっちって?」

「昔の私と今の私……颯馬は昔の私の幻を追いかけてるだけ?」

「……そうだな。今の来望にしてみれば自分の知らない話をされてるんだもんな。きっとオレは昔の来望の幻を追いかけてしまう。それでもそれが今の来望を見ない理由にはならない。だから昔の来望との思い出は必要ないんだ」

「……颯馬」


 だってそうだろ。この馬券だって今の来望にしてみれば何の価値もないただの紙切れじゃないか。この紙切れの存在がある限りオレはきっとあの時の来望を引きずってしまう。それが来望にとって好ましくないならこんなもの消えて無くなってしまえばいい!

 

「思い出は何度だって作り直せる。だからオレは0から来望との思い出を作っていきたいんだ」

「颯馬……そんな悲しそうな顔、しないで?」


 悲しそうな顔? オレが?


「何言ってるんだよ、そんなことないって」

「必要ないなんて言わないで。私が何も知らなくてもいい。私との思い出までメチャクチャにしなくていいから……!」


 来望の涙ぐんだ声。その必死の抑止にオレの心に少しだけゆとりが生まれた。まずは人の少ないところに移動すると、オレは来望の頭を撫でながら宥める。そして来望へと問いかけをぶつけた。


「来望は……オレが昔の来望の幻影を追いかけることが嫌なのか?」

「いや。でも、それをやめて颯馬が苦しそうな顔をするのはもっといや……!」

「来望……」


 そうか。来望にとっての一番はオレの幸せなんだ。それが過去の幻影を追い求めることだとするなら、来望は自分自身を犠牲にすることすら厭わない。


「でもオレは来望の悲しい顔を見たくない。オレのワガママが来望を苦しめることは絶対にあってはならないんだ」

「……でも颯馬」

「ったく、何やってんだお前ら?」


 話しかけてきたのは父さんだった。のんきにフランクフルトを食べながらこちらに向かって歩いてきている。そしてオレ達の顔を互いに見合わせると、


「しょけた顔してんなぁ。早速夫婦喧嘩か?」

「そういう訳じゃないよ」

「まぁまぁ、こういう時は親に頼ってくれてもいいんだけどなぁ?」


 オレと来望は互いにその喧嘩の理由を話した。それを聞いた父さんは、


「なんだそれ、喧嘩でもなんでもねぇじゃんか。互いが互いの幸せを思うからこそ意見が対立する。それは喧嘩じゃなくて不毛な譲り合いっていうんだよ」

「不毛な譲り合いって……」

「そういう時はお互いノーガードできっちり話し合うことだな……ったく」


 そう言って父さんはまたどこかへとふらふら歩いていった。まるで嵐のように過ぎ去っていったが、父さんのことだしきっとオレに助言すべくどっかで見ていたのだろう。だからちゃんと話してもいいのかもしれない。


「来望、今から話すことは現実離れしてると思うけど……全部本当の話だ」

「うん。颯馬がそう言うなら信じる」


 来望の記憶にぽっかりと空いた記憶のクレバスに橋を架けよう。オレは来望の身に起きた事実を事細やかに語っていった。

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