Race12. 銀白色の怪物は少女へと回帰する
あたりを見渡すが来望の姿は見当たらない。間違いなくここにいるだろうと確信しているが、その確信が自分の中で揺らぎ始めた。
落ち着け。大きく息を吸って、吐いて。新鮮な空気を取り込むと周囲がクリアに見えてくる。だから、扉を開けたときに見えた白銀に靡く髪を決して見逃さなかった。
「颯馬っ……!」
来望がオレの姿を確認するや否や、勢いよくこちらに駆け寄ってくる。そしてオレを押し倒さんばかりの勢いで抱きついてきた。オレは飛び込んでくる来望の身体をしっかりと受け止める。
「来望、悠里さんはどこ?」
「ユーリは悪くないの、私が全部悪いの……!」
「仮にそうだとしてもちゃんと話をつける必要がある」
そうはっきりと言うと、来望はオレの服の袖を掴んで案内を始めた。少ししおらしくなっているところも可愛らしいと思うが、今はそこは重要ではない。
悠里さんはのんきに新聞と向き合っていたが、オレがこっちに来ると分かるや否やそれを机に置きこちらに向き直った。
「悠里さん」
「まぁ……颯馬ちゃんならここまで来られるよね」
「で……何が目的なんですか? わざわざこんな強硬手段をとってまでこんなところに連れてきて」
「怒らないんだ? 普通大事な彼女ちゃん取られたらアタシにパンチの一発くらいしても許されると思うけど」
悠里さんは飄々と答えた。それは自分の役割がそういうものであるとでも言わんばかりで、逆に怒る気力が失せてくる。怒るというよりかは、まんまと乗せられたという感情のほうが強い。
「本気で連れ去りたいなら高速道路を法定で走ります? 普通」
「そりゃ颯馬ちゃんの彼女ちゃんをキズ物にしちゃダメでしょ」
「はぁ……ほんと貴女って人は」
「……チケット持ってるでしょ?」
「それはもちろん」
「……きっちり話しときなよ。アタシは颯馬ちゃんには幸せになってほしいからさ」
ここに連れてくることそのものが目的だったのか。そしてここには2席分既に確保されている。オレも同じくここのフロアに存在する。悠里さんはオレが持っていたチケットを奪い取ると、そのままどこかへ行ってしまった。
机の上には発行済みのチケットが2枚とさっきまで悠里さんが読んでいた新聞にペン。しかも悠里さんは使わないが、オレが愛用している新聞ときた。……まったく抜け目のない人だと苦笑せざるを得ないな。
「来望も座りなよ」
「……うん」
席から見る景色は変わらず爽快で、オレが悩んでいることなどどこ吹く風。人こそまだまばらではあるが、熱戦への期待が込められたような、そんな独特の空気が徐々に場を支配しっつあった。横目で見る来望の表情を見るに、来望もまたその光景に圧倒されているのだろう。その表情はキラキラと輝いて見えた。
「……これが颯馬の見てた景色」
「まぁな」
「颯馬の気持ち、わかるかも」
ああ、オレにも来望みたいな時代があったなと追想する。初めてこの場所の光景を見たとき、オレはきっと来望みたいに目を輝かせてその喜びに浸っていたのだと思う。その時に一緒にいたのが他でもない悠里さんだ。そして今度はその光景をオレが見ているんだ。
「最初はダート……だからあの砂のところを走るんだ」
「砂……お馬さんも大変」
「そうだな、今日みたいに晴れてるとパワーが必要だね」
「……颯馬、楽しそう」
楽しそう、か。オレは競馬をやめるつもりだったのに。こうして府中の空気を吸い、ターフの深緑を眺め、競馬場独特の音を聞くたびに。まるで自分も初心に返ったかのような、そんな高揚感に包まれているのはなんでだろう……?
「そうかな?」
「颯馬にとって
「……故郷か」
オレの人生は競馬と共にあったと言ってもいい。来望とテレビにかじりついていた幼少期も、ゲームによって間接的に触れていた中高生時代も、そしてこうして現地観戦ができるようになった今も。そのどこかに競馬は存在していて、オレは繰り広げられる熱戦をみて熱狂していたんだ。
だから、故郷。その言葉はどこか自分の中ですとんと落ちるものがあって。
「……故郷捨てるなんてできないか」
「それが颯馬だから」
「人には誇れないけどね」
二人して微笑する。そして来望は満面の笑みを見せながらこちらの目を見てくる。
「だから、今の颯馬が大好き」
「……面と言われると照れるな」
「……来望のことは?」
「来望のことも大好き……だ、よ?」
「……確かに恥ずかしい」
オレは来望みたいに淀みなく好意を伝えることはできない。それでも、それが颯馬だと分かっているかのように来望はその笑みを崩すことはなかった。そしてオレにとっては待ち望んでいたかもしれない言葉を紡いだ。
「颯馬、競馬おしえて」
「……いいの?」
「颯馬にとって一番は私だって分かってるから」
「オレでよければ」
「やった」
と言うやいなや、右目にかかっていた眼帯を取ろうとするのでそれを慌てて制止する。
「それはダメ」
「……ダメ?」
「……これだけにしてね」
新聞からローカル場(*)の部分だけ取り出すと、それを来望に渡す。来望は新聞を見るやいなや、ペンで恐ろしい勢いでチェックを打っていった。
「終わったよ」
「今日は眼帯取っちゃダメだからね」
「うん、取らない」
この光景を誰かに見られていないかと思うが、ちょうどパドックが始まっている時間というのも相まってか、人があまりいない。眼帯をしているのも異質だが、オッドアイなのもそれはそれで異質だと思う。それでも、ここにいれば情報で頭がパンクすると思うので、眼帯は外させないようにしないとな。
「それじゃ行こっか、来望」
「うん」
オレは来望の手を取る。来望はしっかりとオレの手を握りしめてオレの後をついていく。その構図は来望とオレが幼馴染である限りずっと変わらないだろう。それでも、今のオレ達にとってその意味は、もう幼馴染以上のものだ。
銀白色の怪物はひとりの少女へと回帰する。少女の右目が映す未来には希望だけが宿っていた。
■
* 東京、中山、阪神、京都以外の競馬場のこと。ただしG1開催時の中京は除く。
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