Race10. 滲む執念
翌朝、オレが目覚めた時には既に来望は目を覚ましていた。オレの寝顔を見つめていたのか、目の前に来望の顔があったのには少し驚いたが。
「おはよ、颯馬」
「……うん、おはよう来望」
軽く伸びをして身体を起こす。寝ぼけ眼で洗面台のほうへと向かうと、来望も同じようについてきた。鏡を見ると、互いの身体に思いっきりキスマークがついている。昨日の夜に何が起きたのかが体中に刻まれているのを見てお互いに絶句していた。
「……すごい」
「来望もだぞー」
「くすぐったい」
来望の頭を撫でてやると、じれったそうな顔ではにかんでみせた。そうやってじゃれついてくる姿はこれまでと何も変わりはしない。
でも、オレたちの関係は変わった。もはやただの幼馴染などと言おうものなら一笑に付される。来望はオレの『彼女』であると、そう断言できるようになったんだ。
時間は朝の8時、普段ならば競馬場へ行く準備をしている、レースによっては既に並んでいる時間帯(*1)だ。でもこれからは違う。来望のためにもオレは来望の彼氏として謙遜ない振る舞いをしないとな。
「……颯馬、今日はどこに行くの?」
「あんま考えてなかったな……カラオケでも行くか?」
「うん、颯馬の歌すき」
「来望ほどじゃないけどね」
来望はメチャクチャ歌が上手い。普段はクールで口数が少ないイメージが先行するが、いざ歌い始めるとどんな歌でもしっかりと歌い上げる。その歌いっぷりは歌姫という称号がふさわしいだろう。オレは……普通だ。音痴ではないが上手いかと言われればそうでもない、普通。
ホテルから出ても、そうして今日のデートをどうしようかなどと話していると、
「あんたが設楽来望だな?」
「そうだよ?」
目の前に高級そうなスーツをビシッとキメた男が現れた。しかしその声には聞き覚えがある。というか、普通ならここにはいないはずの人物であるということもあるのだが。
「何してるんすか悠里さん」
「あっ、バレた?」
その正体は男装した悠里さんである。声を出してくれたから分かったが、見た目だけなら本当に誰だか分からなかったぞ。一瞬変質者かと思ったじゃないか。来望に至っては目の前の光景が理解できずに宇宙ネコみたいな顔をしている。この前がチャラいホストっぽいならば今日のは有能な執事とでも言えばいいか。
「つけてたんですか?」
「いやいやまさか、偶然だよ偶然」
「偶然でこんなとこ来ます?」
「……それはそうとちょっと颯馬ちゃんに頼みがあってね」
無理やり話を変えてきた。普段なら競馬場で蕎麦をすすっているはずの時間だもんな。ウインズすら存在しない池袋に現れる理由などないだろう。
「颯馬ちゃんの彼女、ちょっと借りるね?」
「は? 何言ってるんですか?」
と疑問を呈したのも束の間、悠里さんは用意してあった車に慣れた手つきで来望を乗っけて池袋を発つ。来望が何か言う暇も無い一瞬の所業に感服しつつも、オレは自然とその辺にいたタクシーを捕まえていた。
「あの黒い車追いかけて!」
「えっ」
「いいから!」
運転手の困惑を振り切って悠里さん達の後を追う。金の心配ならちょうど先週の今日消えた! 悠里さんが何を考えているのか分からないがちゃんと追いかけて話をつける必要がある……!
車は首都高に入り、どんどんと南下していく。悠里さんの車はこちらを振り切ろうという意志はなく、まるでオレを誘導するかのように走っているように感じられた。
「(一体何の目的なんだよッ……!)」
車は首都高を抜け中央道へと入る。酷い渋滞に巻き込まれることなくどんどん西に流されていくが、その間も正直オレの心情は不安定なものだった。それは自分に対する劣等感から来ているのかもしれない。
悠里さんに連れて行かれようとしているとき、来望は1ミリも抵抗しなかったように見える。オレは悠里さんみたいにメチャクチャなイケメン顔になれる訳ではない。何かに強みがあるわけでもなく、誇れるものもない。そんなオレが来望と付き合う、結婚する。正直そんなことなど考えてもいなかった。
来望ならばもっとすごい人と付き合えるだろうし、それだけの力がある。それでも来望がオレを選ぶ理由をオレ自身が肯定できずにいた。
「お客さん大丈夫すか?」
「大丈夫です……心配しないでください」
ついには運転手の人に不安がられる始末だ。らしくないと自嘲する。否、これがオレなのだろう。なんと無様な姿だろうか。
前の車は府中インターで高速を降りた。そして少し走ると、二人が降りるのを確認した。
「ここで止めて! お釣りはとっといていいんで!」
運転手さんに万札を2枚渡すと、二人の後を追う。そして二人が入っていった場所を見てオレはようやく気付いた。
「……また、戻ってきたのか」
東京競馬場東門(*2)。見上げた看板に書かれたその文字の意味を理解すると、オレは門の中へと入っていった。
場内はなかなかの賑わいを見せているが、オレは二人の姿を見失うことはなかった。銀白色の髪はやはりよく目立つ。二人はスタンド内に入ると、どんどん上の階に上がっていく。そうして4階まで上がり、さらに上に上がった時点でオレは悠里さんの目的に気付く。
指定席。そのエリアは指定席を利用するユーザー専用のスペースになっており、ゆったりと競馬を楽しむことができる。そしておそらく悠里さんはチケットを
かくしてその予想は的中する。指定席へと歩みを進める2人を尻目にオレはただ呆然とするしかなかった。
……まだだ。オレたちが普段利用している指定席は6階のB指定席(*3)。それはオレたちに敷かれた不文律であり、そうであるものという認識だ。ならば、来望たちがいるのも当然6階のB指定席である。
時計を確認。時間はまだ9時半になるかならないかと言ったところだ。それならば可能性はまだ十二分にある。踵を返して3階のチケット売り場を確認するとやはりまだ売れ残っている(*4)。今日のメインレースは重賞ではあるものの、この時間ならばまだ売れ残りは存在していた。
チケットを仕入れると、そのまま6階へ突撃。ハンドスタンプ(*5)の押印を受ければその先は選ばれたもののみの理想郷である。だが今のオレにしてみれば理想郷を荒らす侵略者といったところか。
待っててね来望、オレが必ず連れ戻しに行くからな。
■
*1 競馬場の人手は当日のメインレースによって大きく異なる。G1が行われる日は始発で行くことを覚悟する必要もあるだろう。ちなみに日本ダービーや有馬記念といったビッグレースでは、一週間前から並ぶ猛者も存在するらしい。
*2 東京競馬場には4つの出入り口が存在する。東門は東府中駅から歩いた場合の最寄りであり、最後の直線の前のカーブのあたりに陣取りたい人にとっては最良である。また、東門は日吉ヶ丘公園に直結しており、親子連れでも楽しめるようになっている。現在は感染症予防対策により閉鎖中。
*3 東京競馬場の指定席にはC,B,A,Sの4つのグレードが存在する。Sは屋内席で、それ以外は屋外席である。Aはゴール付近の叩き合いを見られ、Bは最後の直線に伸びてくる馬たちの走りがよく見られる。Cは安いがゴールを過ぎた位置に存在するため、レース自体を楽しみたい人には不向き。また5階席と6階席があるが、6階席はターフビジョンに遮られることなく向こう正面まで見渡すことができる。
*4 東京競馬場を例にあげると、平常時はC,B,A指定席はG1レースを除いて当日販売も行われている。東京競馬場の開門は9時であるが、レースによっては開門前に販売が行われることもあり、開門時には既に指定席に座っているという芸当も可能。その際には当然開門ダッシュS(Race1参照)を眺めることもできるぞ。
*5 ハンドスタンプはブラックライトを照射すると購入した席のグレードが表示される仕組みになっている。これを利用して再入場の管理をしているのだ。
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