Race9. 大人になるということ

 池袋駅周辺の某所にあるホテルの一室にオレと来望はいた。そのホテルの意味を互いに理解しているが故に、さっきからほとんど言葉を交わしていない。


 そもそも、ここに行きたいと言いだしたのは来望のほうだ。一体どこからそんな知識を入手してきたのかと小一時間問い詰めたいところではあるが、今はそれどころではないのだ。


 部屋の中にはデカいベッドが鎮座している。こんなベッド映画くらいでしか見たことねぇぞ? そして枕元にはなんかボタンがいろいろあるパネル。これも同人誌くらいでしか見たことない!


「颯馬」

「なっ、なにラムちゃ……来望?」

「お風呂入りたい」


 なるほどお風呂。確かにお互い疲れているわけだからお風呂に入りたい気持ちはとてもよくわかる。どんな感じか全くわからないのでとりあえずバスルームをチェックすると、


「でっっか!」

「おー」


 お互いに思わず声が出る。なんか無駄に高級そうな雰囲気に無駄にデカい浴槽。実家の風呂の倍はあるんじゃないか? 二人で入っても余裕でいける……ってなんで二人で入る前提なんだよ! 落ち着け落ち着け。


 お湯を貯めている間もどこか落ち着かない。テレビでも見て落ち着こうとベッドに座りながらチャンネルを弄る。


「すげぇな……映画とかめっちゃある」

「……映画?」

「来望も見る?」

「見る」


 来望も興味を示したのか、オレの横に座りながら映画のラインナップに声を上げていた。来望が好きな映画も入っていたようで、テンションが上がっている様を見ているのは正直楽しい。楽しいのだが……


「颯馬、そっちも見たい」

「そういうのはラムちゃんには早いんじゃないかな……?」

「……来望、大人」


 そう言われるとこちらも折れざるを得ない。ボタンを押すと、その先はまさに肌色地獄、桃色天国。具体的に形容しようものならおぞましい言葉の羅列になりかねない物体の展覧会である。


「っ……! 颯馬、颯馬……!」

「ほら言わんこっちゃない」


 さっさと地上波の適当な番組に変えるが、それでも来望の動揺は抑えられないようだ。正直オレも動揺している。この微妙な空気に耐えかねてオレは無言でバスルームへと移動しお湯の状態を確認する。これくらいの水量ならちょうどいいだろう。


「来望、お風呂先入る?」

「颯馬といっしょがいい」

「あーはいはい」


 日吉颯馬、腹を括れ。小さい頃は一緒に入っていた時代もあったような無かったような。とにかくこの程度で動揺しているようでは恋人になんてなれねぇ!


 ……と粋がってみたはいいものの、


「……」

「……」


 お互いに身体を直視できずにいた。いやいきなり行為の難易度が高すぎるだろ。逆に躊躇いなくいける奴ってどんな鋼の精神してるんだ? その精神力を少し分けて欲しい。


「颯馬、身体洗って」

「あ、ああ」


 もっと難易度高いのきちゃったよ。身体くらい自分で洗ってくれよと思いつつもオレは指示に従う。まったく、乳幼児の入浴じゃないんだぞ。とはいえ気まずい沈黙を打ち破ってくれた来望には感謝するほかない。


 ボディーソープをタオルで泡立て、そっと来望の身体に触れた。雪原のような柔肌に触れるだけでも心臓がバクバクしている自分に気付くと、なんとも言い難い気分になる。


「こういうの、久しぶり」

「そ、そうだな……それこそずっと昔の話、だよな……」


 まるでガラス細工の工芸品を触るかのような手つきで慎重に洗う。来望がどんな表情をしているのか窺い知ることはできないが、時々漏れ出る声からは不快ではないということは理解した。こうしてデリケートな部分を除いて全体を洗い終える。


「あとは自分でできるよね」

「……うん」


 消え入りそうな声で来望は頷いた。オレはもう一度湯船に入り直すと壁のほうを見て時が過ぎるのを待つ。下手に意識を集中してしまうと、研ぎ澄まされてしまった聴覚がよからぬ音を聞き取ってしまうかもしれない。故に無心を貫きただその時間を待つ。


「颯馬、終わったよ」

「そう? じゃあ次は」

「私が洗う」


 無心。この瞬間だけ心を閉ざせ。というか今日は来望がやけに積極的だな!? 積極性があるのはいいことではあるが……こういう時に発揮するのは勘弁してくれ。


 椅子に座り目の前の壁をガン見する。こういうときに下手に目を閉じると別の感覚が敏感になってしまう。故にあえて壁に集中する作戦だ。


「颯馬、どう?」

「いいんじゃないか……?」

「それならいい」


 ゴシゴシとオレの背中を洗う来望。洗うのはいいんだが、さっきから胸を押し付けてないか? 気のせいか? 気のせいってことにしてくれ……


「颯馬、前向いて」

「いやいいって! 自分で洗えるから!」

「洗う」


 そう言い切ると、さっきまでガン見していたはずの壁が肌色に変化した。否、来望が回り込んでオレの正面に立ったのだ!


「ちょっ、来望……!」

「じっとしてて」


 いつになく突き刺すような言葉で来望がオレを制する。そう言われてしまえばオレはもう来望のいいなりだ。もうどうとでもなってしまえ……! 目を閉じて無心を心がける。


「……見ないの?」

「見るって何を」

「……おっぱい?」

「そういうこと言っちゃいけません」


 ついこの間までまともな性教育受けていないんじゃ疑惑をかけられていた少女は、少なくともある程度の教育が施されていることが判明した。というか誰だこんな知識を来望に吹き込んだのは? アプローチが大胆すぎて違和感すら覚えるぞ。


「……終わったよ?」

「ありがとね、来望」

「うん」


 来望はそうやって普段と変わらない返事をしてみせた。ちょっと変な行動を見せてはいるが、そこは普段と変わらない来望だと言える。だからこそ、この後の来望の行動を今から予測しようなんて不可能だったんだ。


 それはお風呂から上がってすぐの出来事だった。身体を拭いてバスローブへと着替えた瞬間に、後ろから来望に抱きつかれた。


「……来望?」

「こっち向いて」

「……?」


 急にこっちを向けと言われたのでオレはそのまま来望のほうを向く。既にお互いにバスローブに着替えているだろうと思って振り返った瞬間、


「……!」


 来望が背伸びをしてオレに口づけを交わす。垣間見える来望の表情からは必死さが見て取れていた。恋愛関係になれば当然キスくらいはするだろうとは考えていたが、こんなシチュエーションがファーストキスになるとは思いもしていないわけで。だから唇が離された瞬間の感想など、『なぜ』という疑問しか浮かばなかった。


「らっ、ラムちゃん……!」

「……颯馬、ちゃんとのこと見てる?」

「見てるに決まってるだろ」


 その答えを聞くやいなや、来望はオレの手を取りベッドへと押し倒す。今起きている事象の意味を理解できずに頭がぐるぐるしてきた。


が大人だって、証明する」


 かくして夜は更ける。オレは来望のいう大人の意味をはっきりと『理解』させられることになったのだ。

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