第32話 終曲


「――師匠……」


 ……う……?


 気が付いたとき、俺は白い天井を見上げていた。周囲は同色のカーテンで覆われていて、すぐ傍らでは椅子に座った泉がうとうとと舟を漕ぐ姿があった。


 ここは……どう見ても病室だな。そうか……助かったのか、俺……。


「……」


 宙を漂ってるかのようなぼんやりとした意識の中、色々と思い返してみる。


 俺は弟子たちへの手紙をしたためたあと舞台に上がって、二重に見える視界をなんとかするために目を瞑って演奏して……無事に終わったまではよかったんだ。立ち上がって数歩歩いたとき、意識がぷっつりと途切れる感じがあって、そこから先はまったく覚えていない。


「「あっ……」」


 顔を上げた泉と、ちょうど視線が合ってしまった。


 なんとも気まずいのに目を離せない、そんな奇妙な状況がしばらく続いたあと、彼女が思いっ切り顔を歪めながら両手で俺の手を握りしめてきた。


「……お、おか……おかえりなさい……師匠……」


「あぁ、ただいま、泉……って、泣くのか笑うのかはっきりしろって……」


「……ひっく……ひ、酷いです……泣き顔は似合わないっていうから、無理して笑ってるのに……!」


「ははっ……」


 そんなことだろうとは思った。


「本当に……本当に死ぬほど心配したんですから……!」


「……ごめんな、泉……。それから、鮫島や漆原さんにも迷惑かけちゃったし、謝らないと……」


「鮫島さんも漆原さんも、ついさっきまでいたんですよ? 師匠、いきなり倒れるのもわかるくらいタイミング悪すぎです……」


「……そ、そうだったのか。そりゃ悪かったな……」


「今はいいですから、体がよくなったらたっぷりと反省してくださいね! あ、そういえば、師匠を轢いて逃げた犯人が捕まったみたいですよ」


「そうなのか……今から考えるとあの爺さん、よっぽど急いでたんだろうな」


「だからって、轢いて逃げるなんて最低です……!」


「あ、あぁ……捕まってよかったし、俺も死ななくてよかったよ。それで泉、俺が倒れたあとコンクールはどうなったんだ……?」


 俺の問いに対し、泉がほんの少しだけ苦い顔になったのがわかる。彼女は裏表がないタイプなだけに、感情がそこで揺らぐのが明確に見て取れた。


「あんまり思い出したくないですけどね。師匠が倒れちゃったあとなだけに……」


「……悪いな」


「いえ、気になるのは当然だと思いますから。あれから、師匠が倒れて欠員が出たってことで、敗者復活戦が行われて、そこで鮫島さんが勝ち上がったんです」


「おおっ……やるなあ、あいつ……」


「そりゃもう、師匠のためにも絶対に勝つって燃えてましたから……」


「……」


 想像もつかないな。あいつが俺のためにそこまで頑張るなんて……。


「ただ、ベスト8で惜しくも負けちゃいましたけどね。しかも相手は私だったので複雑でした……」


「そうか……」


 桧山の次は泉が相手だなんて、ほんとついてないなあいつ……。


「そういうわけで、トーナメントのベスト4には、私と漆原さん、山田君と桧山君が残ったんです……」


「へえぇ、俺の弟子がベスト4に二人も出た格好なのか。鮫島もベスト8まで行ったわけだし鼻高々だな……」


「師匠のスパルタ指導の賜物ですねっ! 特にはきつすぎて挫折するかと思いましたがっ……」


「……そ、それについてはな、確かにちょっとやりすぎたかもなあ……」


「ですよね!」


 俺が倒れてしまったあとも出場を続けてクラシックギターの音を届けてほしいなんて、さすがに無茶を言い過ぎたと思っている。それでも、その試練を乗り越えた弟子たちは、きっとさらなる成長を遂げたはずだ……。


「それで、結果はといいますと……」


「あぁ……」


「な、なんと、驚きの結果が……」


「……」


 泉のやつ、よっぽど根に持ったのか勿体ぶってやがる。


「泉……」


「はいはーい。まず私と漆原さんが準決勝で争って、なんとか私が勝ちました。正直、負けるかなって思ったくらい上手かったです……」


「なるほど……」


 俺の一番弟子が勝ったんだからもちろん嬉しいんだが、漆原さんの胸中を思うと複雑だ。


「もう一方の組で、桧山君と同級生の山田君が戦ったんですが、こっちも僅差で桧山君が勝ちました」


「へえ、その山田っていうのもクラシックギター部のやつなんだろ? 桧山相手によく頑張ったなあ……」


「はい……桧山君は別次元として、山田君なんて以前とは別人のように上手くなっちゃって……」


「そんなもんだよ。きっと何か悔しい出来事とかあって、それがきっかけになったんだろうね」


「そういえば、打倒桧山とか言って燃えてましたね……」


「なるほど……それで決勝は?」


 泉のやつ、俺がそれを口にした途端、悲痛そうな顔を見せてきた。


「はい……私は桧山君に負けちゃって、身も心も、もう――」


「……」


「――っていうのは半分冗談でして……!」


「わかってる」


「むうぅっ、もう少し溜めを作るべきでしたかねえ。でもそれじゃ師匠の体に悪いと思ったので……」


 こいつ、妙な気遣いを見せやがって……。


「つまり……俺は途中棄権という形になって、泉も決勝で桧山に負けたけど、恋人関係にはならなかったってことか」


「はい。それについて桧山君から伝言が……」


「伝言……?」


「『あんたの演奏を聴いてみて、正直少しだけ感動したし、戦えなくて心底悔しいと思った。だから今回の賭けについてはなかったことにさせてもらう。それと、連れが直接謝りたいと言っているから、見舞いに来たらよろしく』って……」


「……」


 なるほど。クラシックギターを通じて俺の思いが伝わったのは、どうやら弟子だけじゃなかったわけだ。桧山に関してはさらに手強い相手になりそうだし、俺もうかうかしていられないな……。


「というわけです、師匠」


「……ん?」


「もう、私たちの邪魔をする者は誰もいません……」


「えっ……」


 お、おい、泉のやつ何を言って――


「――おーい、小夜ーっ! それに前田さん、お久しぶりっす!」


「「あっ……」」


 そこに突然現れたのは茶髪の青年――泉の兄――で、手元にはクラシックギターがあった。


「妹に影響されちゃって、俺もこっちを始めることにしたわけっすけど、さっぱりわけわかんないから前田さんに教えてもらおうかと! エレキギターとの二刀流だけど――って、小夜、なんで押すんだよ!?」


「もー、お兄ちゃん、今いいところなんだから出てってよ! ほらほら、邪魔邪魔っ!」


「お、おいっ、だから押すなっての!」


「……」


 なんだか心臓に悪い状況になりそうだったし、とりあえず泉の兄さんに感謝しとくか……。

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俺とクラシックギターと女子高生 名無し @nanasi774

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