第30話 無我夢中


「……」


 ダ、ダメだ……どんなに首を横に振ったり、目をしばたたいたりしてみても、物が二重に見えるのが改善されることはなかった。どうすりゃいいんだ。もうすぐ俺の初舞台が始まるっていうのに……。


 控室にて、俺はいてもたってもいられなくなった。これじゃ暗闇の中で弾くよりも難易度はずっと高い。なんせギターのフレットだけでなく、弦や自分の指までもが二重に見えてしまうわけだから……。


「くっ……」


 前の奏者が弾き終わったらしく、拍手が聞こえてきたので俺は重圧で押し潰されるんじゃないかとさえ思う。自分自身さえ敵になってしまったかのような圧倒的な孤独を感じるが、もうそろそろ行かなくては。


 こういうときに、俺にも師匠的な存在がいればまた違うんだろうが、自分は独学でやってきたわけでそんなのいるわけないしな。


 俺はひたすら一人でやってきたんだ……って、一人? 本当に一人なのか? いや、違う。そうだ、。師匠が、それもすぐ近くに……。


 その存在に気が付いたとき、俺はもう独りぼっちじゃなくなった。舞台に上がってみんなの前に登場しても微塵も怖さを感じなかったし、そこがいつもの自分の部屋であるかのような錯覚すら感じる。


 あるときは楽しく喋り合うように、またあるときは難しい顔で対話するかのように接してきた。楽しいときも苦しいときも、どんな状況であっても気が付けば家族のようにすぐ側から俺を照らしてくれた。


 もしかしたら、人生そのものの師匠なのかもしれない。さあ、始めるとしようか。今になってようやく仰ぎ始めた不逞の弟子と、師であるクラシックギターとの愉快な共演を……。




 ※※※




『M組、四番、前田進君、曲目はバリオスの森に夢見る』


「「「……」」」


 舞台に上がった前田進の姿を、客席から一層真剣な表情で見つめる者たちがいた。


(……師匠……やっぱりこの曲を持ってきたんですね。でも、てっきり最後のほうに取っておくって思ってたので、そこは意外でした……)


「お、おい、見ろよ、前田のやつ、目を瞑ったまま弾き始めたぜ……!」


「そ、そんなっ……信じられません……。ただでさえ緊張して指が震えそうになるところで、目を瞑る余裕まであるなんて……」


「……」


 目を見開いて驚愕の表情を浮かべる鮫島と漆原だったが、泉だけは不思議そうに首をかしげていた。


(一体どうして? あんなトリッキーなことをやるのは師匠らしくないような……? 確かに工夫が大事だとは普段から言ってたけど、ここであんなことをする必要なんてないし。ミスしないといいけど……)


 不安げな表情の泉だったものの、まもなく安堵した面持ちに変わる。その演奏は基本を踏襲しつつも、表現に関しては気ままに吹く風の如く自由奔放で、いつもの前田らしさが溢れていたからだった。


「す、すげえよ、前田……目を瞑ってんのに、なんであんなの弾けるんだ? いかれてるぜ……」


「あんなにフレット移動の幅が大きい曲、ただでさえ難しいのに視界に一切頼らないなんて、もう別次元ですね……」


 コンサートホールは、所々で小さなどよめきが発生していて、それは演奏中であるということを考慮すると、異例中の異例の事態であった。


「――ひっく……ぐすっ……」


「い、泉ちゃん!? なんで泣いてるんだ……?」


「泉さん、どこか具合でも悪いのでは……?」


 心配そうに顔を覗き込んできた鮫島と漆原に対し、目元に涙を浮かべていた泉は大きく首を横に振るとともに笑ってみせた。


「ち、違うんです。私、感動っていうかしちゃって……」


「「嫉妬……?」」


「はい……師匠の表情がとっても安らかで、本当に夢の中にいるみたいで……あんな顔をしながら演奏するのを今まで見たことなくて、それでクラシックギターさんにみっともなく嫉妬しちゃったんです……!」


「「……」」


 しばらく呆然とした顔を見合わせる鮫島と漆原だったが、まもなく納得した様子でうなずくのだった。


「俺も、泉ちゃんにそこまで思われる前田に嫉妬しちまうぜ……」


「わたくしも、そんなことまで理解できる泉さんに嫉妬してしまいます……」


「三角関係ってやつですねっ!」


「おいおい、ドロドロか!」


「ふふっ」


 それからほどなくして前田の演奏が滞りなく終わりを告げ、それまで聞いたことがないほどの拍手と歓声が地鳴りのように会場を揺らすのであった……。

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