第29話 精神力


『F組、一番、漆原雫さん、曲目は、バリオスのワルツ3番』


「……」


 これは意外だった。俺たちの前では一度も弾いたことがなかった曲だし、彼女は普段からバリオスよりソルやサグレラスを好んで弾いていたから。


 押さえるのではなく、軽く触れるようにして弾くハーモニクス奏法を織り交ぜた短い前奏が終わり、哀愁を帯びたワルツが始まる。


 この曲は物悲しさという意味では前奏曲ハ短調にも引けを取らないほどで、何よりメロディが起伏に富んでいるというか感情豊かで、心に強く訴えかけてくる感じなのもあって俺の好きな曲の一つなんだ。


 後半はガラリと曲調が変化し、最後にまた導入部から始まり、この曲定番のメロディを繰り返すようにして終わりを迎える。


 クラシックギターはミスをすると特に目立つだけに、いかに正確に弾くかが大事になってくるわけだが、最後の最後までミスらしいミスもなく弾き切ってしまった。後半の部分なんかプロでも一か所くらいは失敗してもおかしくないだけに、よくぞやってのけたものだ……。




「――なんとか無事に終わることができました……」


「「「お疲れ様!」」」


「おつありです……」


 漆原さんが俺たちの元へ戻ってきて弱り顔で安堵の表情を浮かべていたが、すぐにいつもの彼女らしい落ち着いた佇まいに戻っていった。


 本当に強いメンタルだと思うし、頼もしい弟子たちばかりで、逆にプレッシャーになってくる。これで師匠は絶対に失敗できなくなったな、と……。


「さあ、次はいよいよ師匠の番ですねっ!」


「頼むぜ、前田っ!」


「頑張ってください、前田さん……」


「……」


 みんな、ここぞとばかりプレッシャーかけてくるな。まあそれだけ期待してるってことだろうし、自分たちの番が終わったのでホッとしてるっていうのもあるんだろう。もちろん、失敗はできないという重圧はあるんだが、今の俺はそれよりも大きな心配事があって、体が持つかどうかがとにかく気懸りだった。


「――うっ……!?」


「「「っ!?」」」


 い、今、胸が文字通り張り裂けるかのように痛んで、俺は立っていられなくなり、胸を押さえてうずくまった。心臓が破裂するんじゃないかと思えるほどの衝撃だった……。


「し、師匠……?」


「ま、前田? おい、どうした?」


「前田さん……?」


「ぐぐっ……」


 だ、大丈夫だ。まだいける。元に戻った。もうダメかと思ったが、ギリギリのところで踏ん張ることができた……って、それどころじゃないな。俺はすぐに立ち上がると、心配そうな三人に向かって笑ってみせた。


「……わ、悪い、な……。もう全然なんともない。プレッシャーのあまり動悸がしたみたいだ……」


「……もー、師匠ったら、驚かせないでくださいよ! 心配したんですよ……!?」


「ったくよー、前田って小心者なんだな。俺でもやれたんだからいけるって!」


「そうですよ、前田さん。わたくしも、内心は失敗したらどうしようってビクビクでしたけど、本番になってみると意外とリラックスできたので大丈夫です……」


「……そ、そうだよな。少しは楽になった気がするよ。みんなありがとう……」


 なんとか、緊張してただけってことでごまかせたみたいだ。体の限界が近くなってきてるのはわかるが、それでもここで引くわけにはいかない。じゃなきゃ、今までなんのためにここまで耐えてきたのかわからなくなる。


 師匠としての役目は、弟子を送り出すことだけじゃない。師匠自らがお手本となり、言葉ではなく行動によって、すなわち背中を見せる……壁を感じさせることで初めて成立するんだ。


「……」


 それから、どんどん早送りのようにプログラムが進んでいって、いよいよ俺の出番が近付いてきた。さすがに緊張感が徐々に高まっていて、そういうときに限って時間が経つのが早く感じるということを実感しつつ、俺は異変に気付いた。


 視界が二重に見えるということはこれまでも何度かあったわけだが、ちょっとしたら治まってたのに、今じゃそれがまったく治らないんだ。こんな状況で上手く弾けるんだろうか、俺は……。

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