第27話 喝


 俺の心配をよそに、コンクールのプログラムは順調すぎると思えるくらいスムーズに進み、D組の出番がやってきた。


 ここでの注目ポイントは、もちろん最初に演奏する超エリートの桧山、それから、この組の最後に登場する鮫島だろう。


 そりゃ師匠としては一応弟子のこいつに勝ってほしいんだが、その可能性は極めて低いわけで、胸を借りるつもりで挑戦したらいいんだ。


「……」


 やつだ。桧山楓――あの少年が姿を現わしただけで、周囲がこれでもかと静まり返るのがわかる。そりゃ今大会の優勝候補筆頭なわけだからな……。


『――D組、一番、桧山楓君、曲目はバリオスのマズルカ・アパッショナータ』


「ぬぁっ……?」


 俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。高校生であの難曲を、それもこんなところで持ってくるとは……。あのいかにも余裕そうな立ち振る舞いといい、大胆不敵としか言いようがないな……。


 三拍子であることは同じだが、ワルツと違って二拍目以降にアクセントを置くという、なんとも特徴的なマズルカのリズムに乗って物悲しい旋律が流れ始める。


 そもそもこの曲は、人によっては弾くのが不可能と言ってもいいくらいの指の広がりを、それも前半のほうから要求される。


 その箇所は人差し指で7フレットの弦を全部押さえる……すなわちセーハした上、中指と薬指で10フレットの第三弦と第二弦を押さえ、さらに小指で12フレットの第三弦を押さえたり離したりして弾く形になるわけだが、届かないっていうクラシックギタリストも多いんじゃないかな。


 なのに、あいつは見事に弾き切っていた。機械じゃないかっていうくらい正確で、まったくミスがない。アポヤンド奏法は入れていないが、それを感じさせないくらい力強い演奏だった。


 まもなく演奏が終わり、会場は拍手の坩堝となる。


「どうでしたか、師匠? 桧山君の演奏は」


「……ふぅ、ふぅぅ……い、いやあ、凄いね。こりゃあ、かなわない……はぁ、はぁ……」


「し、師匠? さっきから息が荒いんですけど、大丈夫ですか……?」


「えっ……?」


 こりゃいかんな。泉に指摘されるまでまったくわからなかった。気を付けなくては……。


「……あ、あれだ、緊張を紛らわそうと思って、ついついスケベなことを想像しちゃってな。気持ち悪い師匠ですまん……」


「もー! というか、桧山君、確かに凄いですけど……


「へっ? 何を確信したんだ……?」


「絶対師匠が勝つと思います」


「……お、おいおい、泉……はぁ、はぁ……プレッシャーかけるなって……」


「ふふっ。師匠は気付いてないだけです。謙虚すぎて、自分自身の凄さに……」


「……な、なるほど……」


 正直よくわからんな。そこまで言い切るとは。あんなに完璧な演奏のあとだっただけに余計にそう思う。まあ俺の弟子だからそう見えるのかもしれないな。


「――もー、ダメだぁ……この世の終わりだああぁぁっ……!」


「……」


 鮫島のやつ、もうすぐ出番が来るっていうのに、まだこんなところで頭を抱えやがって……。


「鮫島さん、頑張ってくださいっ!」


「そうですよ、鮫島さん、頑張りましょう……?」


「うぅ……棄権しちゃおうかな……どうせ負けるし……恥かくし……」


「なあ、鮫島」


 俺は項垂れた弟子の肩を強めに叩いた。


「なんだよ、前田……」


「……一番恥ずかしいことって……はぁ、はぁ……なんだと思う……?」


 やつの顔が二重に見えて、さらに吐き気まで伴ってきたが我慢だ。ここは師匠らしさを見せてやらねば。


「はあ? んなのわかりきってんだろ、初戦敗退とかだっての! ま、俺のことなんだけどよ……」


「……それは違うぞ、鮫島……」


「はあぁ……? 何が違うってんだよ、前田ぁっ!」


「はぁ、はぁ……ほ、本当に恥ずかしいのはな……挑戦すらせずに逃げることだ。プライドばかり高くて、負けるのが怖くて、高みの見物をして……自分や誰かの欠点を嘲笑うようなことなんだ……」


「……」


「なあ、鮫島。俺たちをがっかりさせないでくれ。お前が晴れ舞台に上がったとき、そこはお前だけのステージになる。勝ちも負けもない……そんなものはな、あとからついてくるだけのおまけみたいなものなんだ……!」


「……ま、前田……」


 それから少し経って、鮫島が意を決した様子で立ち上がった。


「わかった……。それじゃ、見守っててくれ、師匠! うおおおおぉっ!」


「……」


 鮫島が走り去っていく。もう心配しなくてもよさそうだな。それにしても、初めてじゃないか。あいつが俺のことをそう呼んでくれたのは。


「……師匠も、それに鮫島さんも素敵でしたよ! 聞いてて、ウルッとしちゃいました……」


「……わたくしも、とても感動いたしました……」


「は、ははっ……二人とも、泣くのはまだ早いよ。見守ってやろう、あいつの雄姿を……はぁ、はぁ、はぁぁっ……」


「師匠?」


「前田さん?」


「……あ、ちょっと興奮しすぎちゃったみたいだ。ただでさえ寝不足気味だったから、目眩がしちゃってね……」


「もー、気を付けてくださいよ、師匠! 出番が来るまで、ここでゆっくり座っててくださいなっ!」


「それがいいと思います。前田さんクラスでも初めてのコンクールということで緊張はするでしょうし……」


「……あ、あぁ……」


 まだだ、まだ倒れるわけにはいかない。俺の体よ、あともう少しだけ持ってくれ……。

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