第25話 朦朧
「――はぁ、はぁぁっ……」
なんとか男子トイレまで辿り着くと、俺は洗面所の蛇口を捻って水道水をがぶ飲みしつつ顔を洗った。とにかく熱がある感じで、喉も異様に渇くということもあって、泉たちにはちょっと腹が痛いからトイレへ行くと嘘をついて抜け出してきたんだ。
「……あ……ぁ……」
顔を上げた俺は鏡を見て愕然とする。血色が悪すぎて、まさにゾンビのようだったからだ。冗談なしに、そういうメイクでもしてあるんじゃないかと思うほどだ。これが今まで見逃されていたのは、おそらく会場がそれだけ薄暗かったからなんだろうな。
「ふう――ひっ!?」
個室から出てきた男が俺の顔を見た途端、ぎょっとした顔で走り去っていくのも普通に納得できた。
「――あ……」
そうだ、泉の出番までもうすぐだし急いで戻らなくては。あいつもできるだけ早く戻ってきてくださいとか言ってたような気がするし、それだけ不安なんだろう。
過保護はダメだが、可愛い弟子が初めてこういう晴れ舞台に立つのだから、そういう場面ではちゃんと師匠が送り出してやらないといけない……。
「……はぁ、はぁ……」
本当にゾンビになってしまったかのように俺は歩いていく。一歩一歩が滅茶苦茶重たくてしんどくて、一歩進むたびに自分が消えてしまうような、自分が自分じゃなくなるかのような感じがして、強い恐怖心に支配される。
「……お、俺は……前田……進……だ……確かに……存在、しているんだ……」
自分の存在を確かめるようにして歩いていく。もうすぐ泉たちの元に辿り着くはずなのに、一向に着かない。なんでだろう。なんでだろうなあ――
「――師匠っ!」
「あ……」
危なかった。無の世界へ引き摺り込まれようとしていたところで、俺は泉の声によって手繰り寄せられるように我に返った気がした。助かった……。
「もー、こんなところにいたんですか! もうすぐ私の出番なんですよ……!?」
「……わ……」
悪いな、そんな短い言葉ですら口から出てこなくなる。まずい、意識が揺らぐ感じで今にも倒れそうだ……。
「……師匠?」
「……」
ダメだ、今倒れるわけにはいかない。こんなところで倒れてしまったら、泉は演奏どころではなくなってしまう。耐えろ、もう少しだけ耐えるんだ……。
「泉……」
「は、はい……」
「が……頑張れ――」
し、しまった。俺はフラついてしまい、泉に抱き付く格好になってしまった。
「――し、師匠……?」
「……泉……俺がついてる……」
「……は、はいっ……って、あっ……! 師匠ったら、いけませんよぉ。こんなところで……」
「……え……?」
泉が俺を突き放したと思ったら、恥ずかしそうに自身の胸を押さえているのがわかった。あー、なんか柔らかい感触が右手にあると思ったら、知らずに触っちゃってたか……。抱き付くだけじゃなくて胸まで触るなんて、セクハラ師匠だな、俺。もちろんわざとじゃないんだが……。
「じゃあ、これは私からのお返しですっ」
「あっ……」
泉が顔を近付けてきたと思ったら、頬に唇が当たる感触がした。おいおい、相変わらず小悪魔なことをやってくれるなあ。
「では師匠、行ってまいります……!」
「あ、あぁ……」
泉のやつ、耳まで赤くしながら走り去っていった。なんか、今ので俺も元気が出たような気がする。よーし、あいつの演奏を……一番弟子の成長というものを、しかとこの目に焼き付けるとしようか……。
席に戻ると、項垂れてすっかり落ち込んだ様子の鮫島と、祈るように両手を合わせて前を見据える漆原さんの姿があった。一時はどうなるのかと思ったが、ここまで戻ることができてよかった……。
『――A組の方々の演奏が終了いたしました。これよりB組に入ります』
「……」
お、おおっ……アナウンス後に泉が舞台袖からギターを持って現れたかと思うと、スポットライトを浴びる中央の椅子を目指して歩いていく。
とうとうあいつの出番が回ってきたんだな。どんな顔で出て来るのかと思いきや、意外とすっきりとした表情だったので驚いた。
もちろん緊張はあるだろうが、笑顔まで覗かせてる。泣きそうな顔をするんじゃないかと心配してたが、やるなあ、あいつ。こりゃ期待できそうだ……。
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