第6話 小休止
「――はあぁ……」
泉のやつ、今にも溶けてしまいそうなぐったりとした表情でギターを置いてる。
「……」
この子がクラシックギターをやり始めて、俺は今までこんな姿を一度も見たことがなかっただけに、こりゃ相当疲れてるなと感じた。
彼女の場合、これでもかと練習に打ち込んでたから、そろそろ反動が来る頃だろうとは思っていたんだ。頑張るのはいいんだがやりすぎるのも問題だし、ここは師匠がストップをかけてあげなくては。
「泉……今日はもう充分頑張ったわけだし、少し休んだらどうだ?」
「いえっ、まだまだやります、師匠!」
「おいおい……」
泉のやつ、もうケロッとした顔になってる。彼女は本当によく練習するし、タフでリカバリーも速い。まだ若いとはいえ、それでも普通はこうはいかないんだが……。
というのも、俺がこの子にやらせているのは基礎の部分だからだ。いきなりバリオスやタレガじゃなくて、正確な運指を覚えさせるためにもカルカッシやソルをやらせたほうがいいと思って。そういうこともあって似たような譜面ばかりやらせてるのに、彼女は文句一つ言わずやってくれてる。
「疲れるし、何より飽きるだろ?」
「す、少しだけ……!」
泉はそう言うが、顔にはメッチャ疲れてますって書いてあるし、少しだけとは到底思えない。こういう基礎練習は続けていくうちにやるのが億劫になるレベルだからなあ。よーし、ここは俺がお説教をかますことで無理矢理休ませてやろう。
「泉、これから大事な話があるからよく聞くように」
「は、はい、師匠っ」
「反復作業っていうのはな、指に覚えさせるだけじゃなくて、飽きることへの耐性をつけるためでもあるんだ」
「飽きることへの……?」
「あぁ、俺はピアノもやってたことがあってな、そこで痛感したんだよ。楽器っていうのは上手くなるより、上達したあとのほうが遥かに重要で、当然飽きて来るしギターなんか放っておいてほかのことをやりたくなる。そうなる前に、こうして単調な練習を繰り返すことで飽きることへの耐性をつける必要があるんだ」
「なるほど……!」
「特に弦楽器ってやつは、やらなくなるとすぐに腕が衰えてしまう。だから、まずは基礎からしっかりやらないとな」
「はいっ……!」
泉の手は小さめではあるけど、その分とても強いバネがあるから、続けていけばきっと良いクラシックギタリストになれるだろう。俺みたいにひたすら独学でやってきたようなやつよりよっぽど。
「――あの、前田さん……じゃなくて、師匠!」
「……ん?」
「一つ、曲を弾いてもらってもいいですか? 気分転換になるかなあって」
「別にいいけど、自分も弾きたくなるぞ?」
「いえっ、それなら大丈夫です。私なんてまだまだですからっ!」
「んー、じゃあアレにするか」
「アレ……? もちろんマリオスさんですよね!?」
「バリオス!」
「あ、そうでした、てへへっ」
「……」
泉のやつ、突っ込まれるためにわざと間違えてそうだな……。彼女の要求にこたえて、俺が選んだのはバリオスの前奏曲ハ短調だ。ソルの月光も好きだが、この曲の物悲しさは断トツといっていいかもしれない。
これを選んだのはちゃんとした理由があって、物憂げな曲を奏でることでテンションを落として、オーバーワーク気味になってる泉を少しでもいいから休ませたかったんだ。弾き終わると、ほんのりと冷たい風が心の中にまで入り込んでくるかのような、肌寒くも清々しい、なんともいえない空気感が部屋中を包み込む。
「――ううっ……! 玉ねぎみたいに目にも心にも染みるような良い曲でした……!」
「た、玉ねぎか……」
悲しい色合いの曲であっても、この子の前だと少しだけ元気な色調になりそうだ。
「でも、私でもいつかは弾けそうな曲ですねっ!」
「あぁ、難易度はさほどじゃないからな」
「ただ、師匠みたいに上手くは弾けそうにないですけど……」
「それはそれでいいんだよ、泉」
「えぇ……?」
「泉が弾けば、同じ曲でも違う色や味が出せる。違う人が奏でると雰囲気がガラリと変わる。たとえ同じ曲を同じ人が弾いたとしても、そのときの気分や体調とか、季節感や雰囲気、ギターの調子とかでも微妙に変わってくるんだ。だからこそ俺は今でも弾き続けてられるんだろうな」
「なるほどぉ……。さすがは師匠、演奏だけじゃなく、言うことも背中も渋いですね……!」
「せ、背中が渋いって……おいおい、俺はまだそんな年齢じゃないぞ?」
白髪はほんのちょびっとだけあるが、まだまだ全然目立たない程度だ。
「でも……師匠っておじいちゃんみたいな空気が漂ってますよ?」
「泉……温厚な俺を怒らせてしまったようだな。スパルタ成分をもうちょっと増やすとしよう」
「あ、待ってください、師匠はまだ若々しいです!」
「もう遅い」
「ひー!」
そういや、この子と一緒にいられるのももうすぐ終わりなんだな。なんせ、一カ月だけの師弟関係だから。
割りと楽しかったからなのか、契約期間はあっという間に過ぎようとしていた。でも、これでいいんだと思う。本当は交わるはずもなかった二つの人生のほんのひとかけら――1小節――が、クラシックギターを通じて独特のハーモニーを奏でたんだ。たったそれだけのことでもいいじゃないか。
数十年後、ちょっとした弾みに、あー、ああいうこともあったなと思い出してくれるだけでいいんじゃないか。泣こうが喚こうが人生はこれからも続いていく。
「さあ、そろそろトレーニングだトレーニング! さぼるんじゃないぞ!」
「はあーい……っていうか師匠、少し休めって言いませんでしたか?」
「あっ……」
ついついいつものノリで言ってしまった。さあ、もう少しだけ続けるとしようか、性別とか年齢とかそういう枠組みを越えた、泉との師弟関係という共演を……。
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