第4話 夢中
「……」
とある商品が並ぶ陳列棚の前、手を伸ばす際に俺は思わず顔が綻んでしまう。仕事の帰りに必ずコンビニでカレーパンとコーンマヨパンを買うのが俺の日課でもあるんだ。
「じゅるり……」
「はっ……!?」
な、なんか聞き覚えのある声がすぐ近くからしたと思ったら、泉小夜が物欲しそうに俺の持ったパンを見つめていた。
「師匠っ、おはようございます……!」
「おはよう……って、泉、また早退か……?」
「はい……なんだか具合が悪くて……」
泉のやつ、弱り顔で中腰になって自分の額を触ってる。別に顔色も悪くないし仮病っぽいんだよなあ。
「頭痛なら薬飲んで寝とけ」
「……お、お腹空きすぎて動けないんです……」
「なんだ、頭じゃなくて腹のほうか……」
仮病確定だなこりゃ……。
そういう経緯もあって、俺は美味しそうに肉まんを齧る小夜と一緒にアパートまで帰ることに。
「泉、旨いか?」
「はひっ、おいひいです……!」
「……」
泉のやつ、やっぱり腹が減ってただけっぽいな。大方、さぼって早退する途中でコンビニにいる俺を見つけたっていうパターンか。それについて突っ込むのも野暮だろうし、まあいいや。どうせ長くて一カ月だけの関係なわけだしな。
「あっ……」
「師匠、どうしたんです?」
「パトカーが近所に止まってる」
「えぇっ……!? 事故か何かでしょうか……って、どうして師匠まで止まるんですか?」
「……」
そりゃ、こんな時間に女子高生と歩くおじさんなんて、見付かったらいの一番に職務質問されそうだしなあ。
「そうだ、気分転換に近くの公園行くか」
「はーい!」
俺の住むアパートの近くには自然豊かな公園があり、湖に囲まれた小高い丘ということもあって景観も良く、色んな野鳥だけでなく猫も集まってくることでも知られている。
「――猫ちゃん、おいでおいでっ! あー、逃げたー!」
「あはは……泉、そんなにがっついてたら来ないよ」
「んむー……」
俺たちは茂みに囲まれたベンチに座って会話することに。
「ちゃんと家で練習してるか?」
「はいっ、ちゃんとしてますよー。兄のギターで!」
「あぁ、あの怖……いや、茶髪の人か。って、まさかあの人もクラシックギターを……?」
「いえっ、エレキギターで、私が取り上げましたっ」
「……」
なんか気の毒だな。それって割りと俺のせいだし。
「いいのか? そんなことして」
「いいんです! 兄の演奏はうるさくてド下手なだけで、たまにパワーコードがどうの言って耳元で自慢してくるような輩なので、スカッとしました!」
「な、なるほど……」
本当はクラギのほうがいいんだが、エレキギターでも指を動かす練習にはなるはずだ。
「あのっ、前田さんって……あ、師匠って、どうしてクラシックギターを始めたんですか?」
「ああ、それはな、ハーレムを作るためさ」
「はい、師匠らしくないので却下! では本音をどうぞ!」
「おいおい……なんでバレた? そうだなー、単純に弾いてみたい曲があったからだな」
「弾いてみたい曲? あ、まさか最初に弾いてたやつですか!?」
「フリアフロリダ? それも弾きたかったやつだけど、俺が一番惹かれたのは森に夢見るって曲でね」
「へえっ、どんな曲なのか聴いてみたいですっ」
「本当にいい曲でなあ、これがあったから始めたようなものかな」
「へぇー!」
「イッ、イタタッ」
「ど、どうしましたっ!?」
「ニャオォン」
「こ、この白猫に手を噛みつかれちゃって……」
出血はしてないが歯形は残ってるし、滅茶苦茶痛かった……。
「あはっ、その子、ずっと師匠の膝の上に乗ってますし、甘噛みってやつですね!」
「その割りに凄く痛かったんだが……」
「んーむ、だとすると、師匠に何か恨みがあるとか……?」
「恨みか……。それなら俺がクラシックギタリストだからかもなあ」
「えぇ? それと猫ちゃんと一体なんの関係が……?」
「そもそもクラシックギターって、かつてはガットギターって言われてて、猫の
「えぇっ!? 師匠、物知りなんですね!」
「まあそれはキャットとガットをかけた駄洒落として、実際は羊の腸って説が濃厚みたいだけどな……」
「だ、騙されました……!」
「あはは……実は俺も以前までは信じてたんだよ、その説。響きも似てるし」
「そうなんですねえ」
それから俺たちはしばらく他愛もない会話を続けたわけなんだけど、まもなく泉から応答がないことに気付いた。
「泉……?」
「くー、くー……」
「……」
なんだ、項垂れてスマホでも弄ってるのかと思ったら、いつの間にか寝ちゃってたのか……。
俺は泉を背負ってアパートまで連れて帰ると、布団の上に彼女を寝かせてギターを弾くことにした。
もちろん、今回弾くのは話題にも出たバリオスの森に夢見るだ。この曲は六弦だけでなく、五弦もドロップチューニングでラからソに落とす。
それから前奏を普通に奏でたあと、まもなくトレモロ奏法に入る。
トレモロとは、基本的に右手の人差し指、中指、薬指の三本で同じ弦を入れ替わりに弾く奏法で、タレガのアルハンブラの思い出を始めとして、こうした曲を弾くには必ず習得しなければならない奏法だ。
この曲をミスすることなく最後まで完璧に弾き切ることはプロでも難しく、曲中の20フレットに達する部分では妥協して19フレットで奏でる人が多い。大体というかほとんどのギターが19フレットまでなのでこれは仕方がない。そもそも、20フレットを奏でる曲ってこれ以外にあるんだろうか。
それでも俺は妥協したくないタイプなので、19フレットの横に爪楊枝を折ったものを起き、セロハンテープで固定しているんだ。これでもちゃんと20フレットの音は出る。
この部分を弾くときは正直今でもかなりきつくて、指をこれでもかと立てて弾くのでヒヤヒヤさせられる。ここと、後半部分に入る前の速弾きさえこなせるのであればあとはそこまで苦労はしないだろう。
「――えへへ……師匠……弾けるようになりましたぁ……」
「……」
ちょうど弾き終わるタイミングで泉のだらしない声が聞こえてきた。折角師匠がギター弾いてるのに寝るなんて出来の悪い弟子だ。まあいい夢見てそうだし、しばらく寝かせておいてやるか……。
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