第3話 蛇
「……」
そういや、今日からクラシックギターの先生になるわけか。面倒そうだなあ。引き受けた以上やるしかないけど、まあ一カ月も持たないだろうし、そんなに心配する必要もないとは思うが……。
「前田」
「……」
「おい前田あああぁぁっ!」
「うわっ!?」
休憩時間ってこともあって、バイト先の飲食店の片隅にある椅子に座って考え事をしてたら、同僚に耳元で大声を出されて俺は我に返った。年下の癖にタメ口をきく
「おい鮫島、驚かすなよ……」
「へへ、わりーわりー。っていうか前田、最近ぼんやりしてること多いけどよ、どうしたんだ? まさか、ついに好きな子でもできたか?」
「いやいや、そんなんじゃないって。大体俺は恋人を作るつもりはまったくないし……」
「ま、まさか前田、お前……何か危ない性癖持ってるんじゃねえだろうな!?」
「鮫島、お前なあ、そんな人聞きの悪いことを、しかも後ずさりしながら言うなっ!」
まったく……こいつといると本当に心臓に悪い。同僚はほかにもいるんだからどんな噂が広まるかわかったもんじゃないしな……。
「ほーんと、変わってるよな、前田って。何か趣味とかあんの?」
「趣味かあ」
ふとクラシックギターのことが頭に浮かんだが、俺にとっては趣味っていうより人生そのものなので違う気がした。
「特にないかな」
「はあぁ。趣味くらい持てって! 人生変わるぞ? 前田みたいに冴えない男でもモテモテ……とはいわずとも、振り向いてくれる女性は、もしかしたらいるかもなぁ? ま、その年齢から始めても厳しいか! ははっ……って、睨むな、握りこぶしを作るなっ!」
「……」
別に鮫島の言うように人生変えたいわけでもないしなあ。俺はギターを弾ける日常がある以上不幸だとは全然思ってないし、モテたいとも思っていない……って、そろそろ休憩時間も終わるしもうひと頑張りするとしようか……。
頑張った成果か仕事が早く終わり、帰路に就く。まだ夕方でもないし昼間でもない中途半端な時間帯。季節もまだ肌寒いが冬ではなく春でもない、そんな不安定で何かが起きそうな空気をひしひしと感じながら、俺は少しだけ周りに注意しながら歩いた。こういう浮ついた雰囲気のときは事故に遭いやすいんだ。
よし、何事もなく無事に帰宅――
「――って……!」
俺がアパートの自室の前に帰ってきたとき、制服姿のあの子が扉の前で体育座りしていて、こっちを見た途端笑顔で立ち上がった。
「師匠ぉ! お待ちしてましたあっ!」
「お、おい泉、なんでこんな時間に? 学校はどうした……?」
「その、えっと……待ち切れなかったので、具合が悪いと言って早退してきちゃいました! てへっ」
「おいおい、てへっ、じゃないだろ……」
ただでさえ周囲の目が気になるっていうのに……。
「とにかく入れ」
「はーい!」
いつまでも立ち話なんかしてたら誰かに見られる可能性が高くなるし、早めに部屋に入れてしまったほうがいいと俺は判断した。
「わぉっ、今日も一段と散らかってますねえ」
「泉、俺はな、お前が来るまでに片付けようとしてたんだよ」
「はいはいっ、私が怠け者の師匠の部屋をお掃除します!」
「お、おい、勝手に片付けるなって――」
「――さささっ!」
「お、おおう……」
あんだけ散らかってたのに、嘘みたいにあっという間に部屋が綺麗になってしまった。なんたる早業……。
「泉は掃除の才能があるな」
「ギターの才能があると言ってほしいです……」
「それはこれから見極めさせてもらう。厳しくいくぞ!」
「はいっ!」
俺がまずやらせたのは、ギターのフレット移動だ。左手で1~12フレットを押しながら往復移動させるというもので、それを第一弦から六弦までやらせて、なおかつ右手は左手が押さえた音を弾くというもの。
クラシックギターはほかのギターと違って弦からフレットまで深い、すなわち弦高なため、非常に押さえにくく音も出辛い。なので最初はそこから練習させるほうがいいと判断したんだ。
「――う、うぅ、師匠、音が上手く出ないです……」
「……」
泉のやつ、左手の指はそこそこ速く動かせてるんだが、押さえる力が弱いのかミュート奏法みたいになっちゃってるな。まあ初心者だから仕方ない。初めから抜群に上手い人なんていないわけだから。
「俺がお手本としてやってやるから、泉は近くでよく見ていてくれ」
「わかりましたっ!」
早速俺は椅子に座って足置き台に左足を置き、その太腿にボディの凹みを乗せるようにしてギターを斜め上に持つと、第一弦から六弦まで1~12までのフレット移動(折り返しを含む)を始める。
人差し指から小指まで流れるようなイメージだ(12~1フレットまでの往復時は小指からやる)。この際、指を速く動かすだけじゃ当然ダメで、しっかり押さえてそれぞれの音を出しながら高速移動させなきゃいけないので慣れないと難しい。俺はもう飽きるのを通り越すくらいやってるから約10秒で終わることができた。
「すっ……凄いです……。師匠の指の動き、速すぎます。それに、くねくねしてて蛇みたい……」
「……蛇か。これはクラシックギターなんだけどな」
「えっ?」
「あ、いや、なんでもないんだ……」
ヘヴィメタルとかけたんだが、意味が伝わらないオヤジギャグほど寒いもんはないな……。
「クラシックギターは表現力の勝負だと思われがちだけど、それだけじゃなくて速く、そして強く正確に弾くことを要求される楽器でもあるんだ」
「へえぇ……なんだか凄いです……! もっとこう、優しい、緩やかなイメージばかり持ってました……」
「カヴァティーナとかのイメージが強いのかもな。あれも左手の人差し指で複数の弦を押させるセーハを多用するから決して簡単な曲じゃないんだが……」
「な、なんか痛そうですね、セーハって……」
「そりゃ最初は痛いよ。でも慣れれば大したことはない」
「なるほど……」
「とにかく、最初はゆっくりでいいからこの動きをずっとやること。わかったね?」
「は、はいっ!」
それでも泉は苦戦していた。そりゃそうだろう。俺もそうだったが、指はまともに動かないし音もぼやけてしまう。はっきりとした音を出しつつ指をスムーズに移動させ、慣れてきたら速度を上げていく。
脳というより指に覚え込ませるような感覚で、自然にそれができるようになるまで徹底的にやるしかない。野球や剣道の素振りみたいなもんで、基本的な動きを毎日続けることが大事なんだ。
「し、師匠、指先が痛いです……」
「指先? どこが痛いんだ? 神経に響く感じか?」
指先が硬くなっている俺でもたまに痛むときがあるんだが、そうなったときは休んだほうがいいんだ。回数をこなすだけでなく、休むこともギターを弾く上では重要なことだから。
「人差し指なんですけど、神経なのかどうかはよくわからないです、ヒリヒリというか……」
「ちょっと貸してみろ」
「あっ……」
彼女の左手を握り、人差し指の先端を軽く押してみる。
「痛むか?」
「大丈夫です……」
「そうか。じゃあ大丈夫そうだな……って、何赤くなって――あっ!」
俺は思わず彼女の手を離す。
「い、いや、今のはな、別に下心があったわけじゃ……」
「で、でも……師匠なら、手を握ったままでも全然平気ですよ?」
「あのなあ、泉……大人をからかっちゃダメだぞ? 罰として、指先のマラソン、あと十週な!」
「ひええーっ!?」
泉の悲鳴が室内に響き渡った。どうか隣人に聞こえてませんように……。
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