第23話 ダンス

 その帰り道は、あまりにも静かだった。


 俺が先を歩き、その斜め後ろを彼女が距離を置きながら歩く。


 月明かりと街頭に照らされた住宅街の道は、足音だけがやけに重々しく響く。


 重たい首を必死に捻り何度か振り返ってみると、彼女は常に大粒の涙を流し、それを切らすことがなかった。


 永遠のような長い時間が過ぎて、ようやく家が見えると、彼女が口を開く。



「…………じゃ、じゃあ、明日には出て行くから。それまで待って」


 俺は返事を言葉にすることができずに、ゆっくりと首を縦に振った。


 家に入ると、彼女はすぐさま二階の自室へと向かった。


 俺は、汗びしゃびしゃのパジャマを着替える気になれなくて、そのままの格好で居間に仰向けに転がった。とにかく何にも考えられなくて、ひたすらに天井を見つめていた。


 十年近く見続けてきた、見慣れた木目の天井。

 

 この天井の下で、ある時までは生意気なおばあちゃんと楽しく過ごして、この1週間までは暖かくて優しいミルシアさんと過ごした。そして、これからはたった一人で過ごすことになる。


 でも、別れの恐怖、四年前の恐怖を考えれば、ここで関係性を断つのは間違っていない…………


 間違ってないはずなんだけど、俺の目には雫が溜まっていた。 


 俺は、その涙を拭うこともせず、取り止めのないことを考えていた。そして、そのうちに意識がなくなっていた。


* * *


 ガタゴトという二階からの物音で、俺は目を覚ます。


 床で寝たせいで体の至る所が痛くて、俺はゆっくりと起き上がる。


 なんでこんなところで寝たんだろうと、ぼやけながら周りを見ると、泥だらけのパジャマを見てハッとした。そして途端に悲しさが溢れてきて、胸が苦しくなる。


 そして、「明日出ていく」と言ったミルシアさんが気になって、思わず言葉は口をついた。


「ミルシアさんは??」


 もちろん「出ていけ」と言っているのは俺の方だし、彼女がいつ出ようが俺が気にすることではない、勝手な言葉だった。だけど、彼女にその言葉が聞こえたのか、そのとき居間のドアがガチャリと開き……

 

「あなたのお望みを叶えて私は出て行くんだからさ、もっと嬉しそうにしてよ!!」


 彼女は目を真っ赤にしながら、俺のことを睨んでいた。


 その声はこれまで聞いたことのないような、責め立てるような声をしていて、俺は思わず飛び起きた。でも、そう言われても、嬉しくなんてできるわけがなくて、俺は思わず顔を逸らした。


「私、もうそろそろ出ていくわ…………」


 声の端端には、微かな震えが混じっていて、彼女の顔はわずかに歪んでいた。俺はそんな顔を前に、言葉が出ずに、かろうじて首を縦に振る。


「でも、その前に一緒にダンスを踊ってくれないかしら……」


「だ、ダンス?」


「それくらいだめって言わないでね! この失恋は私の人生最大の失恋なんだから」


 彼女は語気は相変わらずきつくて、言い終わった後は、再び目に涙を浮かべた。


「あれ、ごめんね…… 一晩かけて涙は全部流し切ったはずなんだけど、まだ出てくるよ……不思議だね」


 彼女は涙声で笑った。 


「ダンスは向こうの世界でも盛んに行われていて、ふたりで手を取って行う共同作業だから二人の絆を深め合えるものなの……」


「今回はもうお別れなんだから、深める絆もないんだけど、それでも私の冥土の土産として、最後ダンスくらいさせてくれないかなって……」


「わ、わかった」


 もちろんダンスなんてしたことないし、踊れもしない。だけど、断ることなんてできなかった。


 俺は彼女に断りをいれ、体だけ拭いて着替えると彼女の部屋をノックする。


「入っていいよ」


 彼女を部屋に案内した日から、一度も足を踏み入れたことのない部屋のドアを開けると……


「物がない……」


 その時と全く変わらない姿で、部屋はあった。


「たった、数日住んだ部屋だったけどこれまでで一番素晴らしい場所だったわ。この部屋だけじゃなくて、この家も、この場所も周りの景色もそう。こんな平和でキラキラしていたことなんてなかった」


 彼女はどこか遠くを見るような目で、部屋を見渡した。


「私はこれからずっと遠くへ行くから。もう絶対ユートには会わないようなところに行くから。だって、それが望みなんでしょ?」


 俺はその問いに答えることができず、黙りこんでしまった。そして、目に溜まった何かを隠すように俯いて、彼女から目を逸らす。

 

「まあ、気を取り直して、ダンスをしましょう」


 少し重たくなった空気を切り替えるように、ミルシアさんは明るい声を出した。でもやっぱり、声によそよそしさが混じっていた。


 そして彼女は俺の手を取った。だけど、俺は彼女の顔を見て首を振る。


「俺踊れないよ?」


「いいのよ、私に合わせてくれれば」


 そういうと彼女は、手を引き、くるくると動き始めた。


 俺は部屋を見渡して、スピーカーとかスマホとか音楽がかけられそうな物がどこにもないことに気づく。だけど、耳には不思議な音が聞こえてきた。


 音源を辿っても、全ての方向から聞こえているように感じ、まるで音に包まれているみたいだった。耳に優しく響くメロディーも、これまで耳に触れたことのないような旋律で、テンポの良い音楽なのに、聞いているだけで胸のあたりがじわっと温かくなる。


 彼女は俺の手を取りながら、華麗に腕を振り滑らかに動いた。俺はそれに合わせて足をドタドタとさせながら、必死についていっていたが、彼女のエスコートがうまいのか、すぐにそのダンスは体に馴染み、自然と体が動くようになった。


 目にはいつの間にか優しい光が流れこみ、眩しい光の中彼女だけが華麗に舞っていた。耳から流れ込むその鼓動は優しく心に溶け込み意識を現実から解き放つ。彼女が綺麗に舞うたびに、長い髪は一本一本が美しく輝き、そこから舞い上がる甘い匂いが鼻腔をくすぐる。まるで、重力がなくなったのかと思うくらい軽やかに動く体は、もっと踊りたいと、テンポを先走る。そうするとミルシアさんが優しく元のテンポに連れ戻してくれる。


 全てが眩しくて、幻想的で、優しく温かい中、ミルシアさんの表情だけが悲しげだった。

 

 俺は彼女のことについてまだ何も知らない。


 残り僅かと言うことはもう一ヶ月も時間がないのかもしれない。

 

 そして、彼女はこれまでどのような人生を歩んできたのだろうか…………


 きっと、どんな世界でも平らな道はないのかもしれない。そう思わせるほどには、彼女の表情は大人で、でもだからこそ、俺に寄り添って欲しいという願いは本当に必死だった。 


 もし俺はここでもう別れを選べば、俺はしっかり忘れて傷つかないかもしれない。


 でもミルシアさんはどうか?


 もし逆だったら。俺の寿命があと一ヶ月と言われて、その時恋した女の子に、別れが嫌だから付き合えないって言われたら。俺の目には涙が伝った、多分目の前にいるミルシアさんと同じ涙かもしれない。


 でも、でも!


 やっぱ、四ヶ月前に泣きじゃくった感情も本物で、またあれを繰り返すなら俺は付き合わないべきだ。


 どうせ、消えてしまうものほど虚しいものもない。



「ユートありがとう! 最高の思い出になったよ」


 いつの間にかあたりから音楽も、光も消えていて、寂しい部屋を背に、ミルシアさんは目を腫らしていた。


「じゃあね、ユート、これが今生の別れってやつだよ」


 彼女は、一言一言噛み締めるように言葉にしていく。言葉の端には悲しみが混じっていて、それでも彼女は笑顔でいるよう努めている。


「ユートの人生はまだまだ長いんだから、楽しんでね、じゃあね」


 ミルシアさんは俺にニコッと笑うと、一歩踏み寄り、腫れた目が一センチにも見たない距離で目に映る。そして、ふんわりと唇が触れる。


 これだけベタベタしていたミルシアさんでも、唯一してこなかった。俺にとってのファーストキスだった。


 彼女が隠したかったのは、照れなのか、涙なのか、すぐにくるっと向きを変えると、部屋の外に歩き出してしまった。


 そして玄関が閉まる音が家中に響くと、この家はとても静かになった。




 そしてまた一人になった。

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