第11話 大切なお願い
「ユート。ほんっとうにごめんなさい!!」
机の上には二つのトーストとコーヒーカップが並び、いつもなら誰もいないはずの真向かいに、ミルシアさんが座っている。人数が増えたから、いつもよりも賑やかなハズの食卓は、いつも以上に静かだった。
真向かいにあるトーストには、一口も付いていなくて、彼女の口からやっと出てきた一言がそれだった。
「もう、許してますから。大丈夫ですよ?」
最初から許す気はあったし、それは向こうもわかっていたと思う。だけど、この静けさは彼女自身に問題があった。
「でも、あんなことしちゃうなんて……」
『あんなこと』なんて形容されると、まるでコトに及んだかのように聞こえるけど、実際には軽いイタズラの
「反省してくれているなら別に問題ないですけど。別にすごく嫌なことではないので」
「じゃあ! 今度は…………ごめんなさい」
俺はすかさず白い目で彼女をにらむ。とんでもないスピードで反省を覆してくる彼女。こういうところは、すごく
「なんだか私自身でも制御できてなくて……本来こんなのじゃないのよ」
俺はミルシアさんのことをよく知らない。そして教えてもくれない。どこで生まれて、どんな環境で育ったのか。手がかりもないままに、本来の私とか言われても、判断しかねる。俺は黙って続きを待った。
「もっと厳格で、冷酷で、人あたりよく見せて、でも情に溺れずに…………人の指揮をするってそういう事だから。それなのに、環境が変わって、私自身まで変わってしまったのかもしれないわ」
俺はまた無言を貫いた。その言葉に一定の理解を示すなら、何かしらの
彼女は、厳格そうには見えないし、冷酷にも見えない。そして、情に溺れているようにしか見えない。ちょっとした痴女っ気を持ったイタズラ好きな女性にしか思えなかった。
ミルシアさんはボソボソとつぶやいた後に、視線を落とし黙ってしまった。いつも静かな部屋に、いつもとは違った静寂が訪れる。
彼女は居心地悪そうに、手元のトーストを眺めていた。
* * *
しばらく無言が続いて、ミルシアさんがやっとトーストに口をつけたところで、俺は口を開く。
「それで、これからどうしますか?」
さすがにここで『これからって?』などと
「まず一つ、大切なお願いがあるのだけれど」
「はい、なんでしょう」
ミルシアさんの目は、まるで内なる夢を告白するかのように真剣で、思わず息をのむ。彼女はゆっくりと息を吐くと、ゆっくり口を開く。
「ユートに、敬語をやめて欲しいの!」
「は……はいっ?」
「あとついでに、“ミルシアサン”じゃなくて“ミルシア”と呼んで?」
「は、はぁ…………ってええっ?? 大切なお願いってそれですか?」
想像していたものに比べて、あまりにも軽率なお願いに、驚きのあまり大声が口をついた。後者の方なんて頼めるなら頼んじゃえという意図しか見えない。
「そうよ? 大問題じゃない?」
「その……もっと、あるじゃないですか? お金をどうしようとか、住むところをどうしようとか……」
そう、別に俺と彼女の関係なんてそんな長くない。バカンスに来た彼女は、きっと楽しいことを求めて、どこかに行くはず。だったら話し方なんて些細なことは、どうでもいいように思えた。でもミルシアさんの意見は相変わらず。
「それも、これも、ユートが敬語をやめてから始まることだから。それに、今の私にとって敬語を直してもらうことより大切なことなんて無いしね」
「いやいや、あると思いますよ! 敬語以上に大切なこと! これから生きていくためには、お金とか、住む場所が絶対に必要です!」
彼女はあまりにも楽観的すぎる!
今の彼女は、住む場所やお金のことを第一に考えるべきだ!
ましてや、俺の言葉遣いなんて気にしている場合じゃないし、俺と彼女の距離を縮める必要性はない。だけど、心の中で訴えて、目で睨むように訴えても、彼女は焦った様子もなく、さも当然のように口にする。
「私はお金なんかなくても生きていけるし、野宿だってできる。一向に信じてもらえないけど、これでも散々野宿してきたのよ。だから……」
「ミルシアさんは野宿について甘く見過ぎなんですっ!!!」
俺は大きな声で必死に訴えた。彼女は日本での野宿というもの分かっていない。彼女のいた場所では、皆、野宿していて、それが常識かもしれない。でも日本は違う。こんなに美人が無防備で寝てたら、襲ってくださいと言っているようなもの。
「日本は本当に野宿に向いてないんです!! だから、野宿するなんて危険なことやめて……」
俺が大きな声で訴えている途中、いきなりバンッ! と机を叩く音がした。
そして、彼女の金糸はふわりと舞って、美しい顔がグッと近づいた。机に乗り出した彼女は、顔と顔が触れてしまいそうな距離で俺を見つめる。碧い目はどこまでも深くて、広い。つい目が逸らせなくなってしまい、言葉を紡ぐことを忘れる。
細い人差し指が、俺の唇にツンっと軽く触れる。
「他のことがどれだけ大変でも……それでも私はユートと近づきたいの」
俺はその吐息混じりの声に、頬が焼けるように熱くなる。自分の体は単純すぎる。美人にちょっとやそっとされただけで、ほだされるだなんて。でも、いくら心の中で反発しところで、頬はどんどん熱くなっていく。
彼女は軽く微笑むと、椅子に着いて、コーヒーに口をつけた。
俺はしばらく、ぼーっと見惚れたままだった。そして、やっと恥ずかしさを感じた頃に、その感情を誤魔化すように慌てて言葉にした。
「け、敬語くらいで大袈裟じゃないですか?」
「だって、すごく思い詰めた真剣な顔してるんだもん。そりゃ、イタズラしなきゃね!」
彼女はニヤリと悪い笑顔を見せた。あれもイタズラだった。そう考えると身体中の力が抜けて、背もたれにすがった。でも、そんな顔でイタズラできるなんてずるいと思う。俺の見た限り、嘘偽りない純粋な目をしているんだから。
「…………でも、真剣に悩んでくれたのが嬉しかったのよ」
彼女のときおりのささやきは、相変わらずよく聞こえなかった。
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