第4話 一筋の透明な何か

 店内を出る頃にはあたりはオレンジに染まっていた。


 腕時計を確認すると時計の針は思った以上に進んでいて、短い針は長い間ショッピングモールにいたことを指していた。夏の夕暮れはとても遅くて、夜の時間とは思えないほどまだまだ明るかった。


 小さな頃は、店の入り口で「まだ明るい」と帰るのを拒否して、駄々こねていたもんだ。もちろん、祖母は待ってくれるほど甘くなくて、大体は無理矢理引きづられ、泣きながら帰っていた気がする。でも、今の状況で言えば、まったく逆で……


 オレンジの夕陽に昔のことを思い返していると、後ろから満足感に満ちた声が聞こえた。


「もうこんな時間が経っていたのね。本当に楽しかったわ」


 彼女は嬉しそうにビニール袋を揺らしながら、笑顔で俺に振り向く。その袋には景品のぬいぐるみと、お菓子が数個入っている。


 彼女は最後の最後まで疲れ一つ見せることなく、はしゃぎきった。だから、ミルシアさんの場合は、こちらから止めなければ永遠に居座っただろう。

 

 外に出た彼女は、それでもなお元気そうで、第二ラウンド行けますみたいな顔をしている。俺がもうすでにクタクタなことを考えれば、彼女の体力はすざましい。だからこそ、まだ明るいうちに外に出られたのは大きい。彼女から逃げられるチャンスが早めに到来したのだから。


 俺はこのチャンスのために徹底的に作戦を考えぬいた。そして弾き出した一つの答えは……


「ミルシアさん、もう遅いので、家の近くまで送りましょうか?」

 

 自ら『送りましょうか?』と提案する作戦だ。これまでのミルシアさんを見ても、あっさり解放してくれそうにないのは分かっていた。だから、こちらから帰りを促すことで、早期終結を図ったのだ。暗がりに連れ込まれる可能性はあったけど、都会なら人がたくさんいて、そうそうに悪いことはできないだろうとの算段だった。


 でも、彼女は不思議そうな顔でゆっくりと首を傾げる。


「家?」


「あっ、ミルシアさんは家じゃなくて宿ですよね」


 俺は丁寧に言い換えたつもりだったけど、彼女は未だに首を傾げたままだった。そして、首をまっすぐに戻すと別になんてことない顔で、


「あー、ユートと遊ぶのに夢中で完全に忘れてた……」


「えっ、宿ないんですか? お金もなくて?」


 ミルシアさんは焦る様子もなく「うん」と首を縦に振った。


 彼女は、一夜を過ごす場所がないのにすごく落ち着いていた。もしかして、『俺の家に泊めて』とねだってくるパターンか。そして、金目のものを盗るとか? でもその空想はあまりにも現実性に欠けていて、自分でもにわかに信じられなかった。明らかに考えすぎだ。


「あ、ユートは心配しなくていいからね。最悪野宿するから大丈夫!」


 俺が難しい顔をしていたのか、彼女はなだめるように言ってくれた。だけど、その一言は、俺の思考を破綻させるような恐ろしい一言だった。だって、ここで別れたらたぶん二度と会えなくなる。つまるところ、金ヅルを手放すことになる。まあ確かに、お金を返すつもりはないかもしれないけど、たった4000円ちょっとのためにあんな変な格好をして、人にナンパまでされたの? 意味がわからない!


 俺は思ったことが口をついてしまった。言わなくても良かった、余計な言葉を。


「ミルシアさんは俺をどうしたいんですか……」


「どうって……言われても?」


「さすがに、こんな美人が俺と一緒にデートするなんて怪しすぎます!! こんな俺だって、裏に何かあることくらい容易に想像できます!!」


「えっ……」


 彼女はその言葉が意外だったかのように、唖然としている。


「お金ですか? それなら、この財布が全財産です!! このことを警察とかに言わないので、もうそっとどっか行ってもらえませんか!!」


 俺は下を向いて、乱暴に財布を差し出した。今のセリフは決めつけが過ぎると、俺自身さえ思っていた。でも、頭の中はぐちゃぐちゃにこんがらがっていて、こんなセリフしか出てこない。


 差し出した手は宙に浮いたままで、少しの時間が経ったあと、代わりに小さな声が聞こえた。


「……じゃあユートは、ずっと私のことが怖かったから、優しくしてくれたってことだよね」


 彼女の声はすごく暗かった。まるで失望したかのような声で、細くて震えていたような気もした。でも俺はその質問には回答しなかった。さっさと答えれば早かったのに「はい」の一言がででてこない。


「全部、私の勘違いだったのよね……あれ、おかしいな……」


 何がおかしいのだろうと顔をあげると、彼女の頬には一筋の透明な雫がつたっていた。俺と目があったミルシアさんは必死に首を振る。


「べ、別にこんなことで泣く気はないの。この程度の悲しみなんて、生きてきた中でも大したことないから、本当に。だけど、自然と流れちゃって……」

 

 ミルシアさんはその綺麗な雫を手の甲で軽く拭うと笑顔を見せた。でも、それは不自然な笑顔だった。


「その……楽しかったから! ユートは怖かったかもしれないけど、私は楽しかったから! じゃあね……」


 そういうと俺に背を向けて、歩き始めた。


 後ろから「と、泊まるところは?」と聞いても、「勝手にするから……」と振り向くことなく言うだけだった。


 だんだんと距離が離れて、人混みに紛れていくミルシアさん。このまま待っていれば、もう二度と会わない他人となる。確かに4000円は失ったけれど、それだけで済んだならよかったじゃないか……


 でも、心は晴れることがなくて、心のもどかしさは高まっていくばかり。何かを失ったような感覚。もう二度と見ることの何かを失ったような、心がぎゅっと締め付けられるような感覚。

 



 俺はその背中を必死に追いかけて、弱々しく垂れている右手をぎゅっと掴んだ。



「!!」


 ミルシアさんは驚いたように振り返り、目を大きく見開いて俺を見た。


 そして俺もびっくりしていた。正確には、俺自身の行動に驚いていた。俺の目的は果たしていたはずなのに、それに逆行するような行動をしたことを……


 いや、本当は気づいていた。彼女の「楽しかった」の声を聞いたときにはハッキリと気付いていた。


「俺も本当は楽しかったんです!」


 彼女はとても純粋で、何事にも興味津々で、見ているだけでも楽しくなった。一人で同じショッピンモールを回ったときとは、まるで別世界に来たように楽しかったし、懐かしささえ感じてしまった。


 そして、いかに一緒にいる人が大切かを痛感してしまった。


 彼女は魅力的だった。一度近づけばもう逃げられないほどには。最初は、内に入り込んで搾取されることが怖いと思っていた。でも、本当は違った。俺にとって、彼女から離れられなくなってしまうことが一番怖かったんだと思う。でも、すでに手遅れだ。


「あのっ! 泊まるところがないなら…………ウチに来ませんか?」


「えっ?」


 彼女はその言葉に呆然とした。自然と足の向きを変え、俺と向かい合う。右手でミルシアさんの右手首を握っているから、その結び目は目の前で交差する。そのか細い手首は、小さく震えていた。


「確かに古い建物であまり居心地は良くないかもしれませんけど、野宿よりマシだと思い…………って、ミルシアさん??」


 彼女はいつのまにか、必死に雫を拭っていた。空いた左手で必死に片方ずつ拭うけど、全く追いついていなくて地面にはぽたぽたと何かが落ちる。


「おかしいわ。こんな単純なことで涙を流すことなんて、これまでなかったのに……私の涙腺はとっくの昔に壊死したと思っていたのに……私歳をとったのかもしれないわ……」


 彼女の涙はとまることなくダラダラと流れ続ける。見かねた俺は、彼女の手首を離して、ポッケのハンカチに手を伸ばそうとした。だけど、細い手首を離した五本の指は、即座に真っ白な手に強く握られる。それも痛いほどに。


「ミルシアさん、痛いです」


「私にもわからないのよ、何が起きているのか。でも、ありがとう……」


 彼女はただ独り言を呟いていた。彼女のことなんて出会ったばかりで、まだ何も知らない。だから、言ってることも全然わからない。でも、その涙はとにかく綺麗で悪いものには見えなかった。


 ただ……周囲の視線は集まっていた。


 確かに彼女は、もう異彩を放つ格好はしていない。でも、涙目の女性に手を掴まれているシーンもは異質なもので、奇異の視線ではないけど、なんだか生暖かい視線が集まっていた。だから、俺は話を進めるべく、選択を促した。


「それで、ミルシアさんはウチに来ますか?」


 

 その問いかけにミルシアさんは、目の前でぎゅっと握っていた手をそっと離す。そして、五本の長い指をキレイに揃え、体の前でていねいに両手を重ねる。俺の目をしっかりと見つめると、ゆっくりしなやかに頭を下げる。



「不束者ですが、よろしくお願いします」



 ていねいなお辞儀の後、彼女はとても真剣な表情をした。だから、言葉の選択が若干おかしいと思いつつも、こちらも姿勢を正し「よろしくお願いします」と頭を下げた。


 そして、俺が顔を上げると、彼女はやっと笑顔になった。


 その笑顔はまるで雨上がりのように、涙を反射して眩しかった。思わず見惚れてしまいそうになり、くるりと目を逸らすと「ついてきて」とつぶやき、駅の方向へと歩み始めた。


 その後ろを遠慮がちに、でもピッタリとミルシアさんがついてくる。そして、しばらく歩いたところで彼女がボソッとつぶやく。


「でも、こんな泣き落としで落ちていたら、すぐ悪い詐欺師に引っかかっちゃうわよ?」


「俺はそんな簡単に騙されません……えっ? 泣き落とし??」


「えへへ……泣き落とし!!」


 俺が慌てて振り返ると、彼女は顔を真っ赤にしながら、イタズラっぽい笑みを浮かべた。そこには不思議と、安心したような表情ものぞかせた。


「ミルシアさん! 今からでも、野宿してもらってもいいですか!?」


「でも、『ウチに来ませんか』ってユートが……」


 彼女は悲しそうなトーンで口にする。もちろんそんな彼女に対して『それでも野宿しろ』なんてはね除けられるわけがない。それがたとえ、目がいたずらっぽく笑っていて、『これは嘘泣きです』と顔にわかりやすく書いてあったとしても。

 

「わかりましたよ! ちゃんとウチに案内しますから!」


 言われてみれば確かに、ミルシアさんを家に連れて帰ってしまっている俺がいる。もしかしたら、この悪戯っぽい笑みも含めてまんまと彼女の詐欺にかかっているのかもしれない。でも、俺はミルシアさん騙されていたとしても、悪い気にはならなかった。 

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