巻き戻す前のマーシュ
「どうして…アニーがこんな目に…」
マリベルが呆然と肩を落としたそばで、ラキオスは冷静に声を上げた。
「アニーがハクランの蜜を手に入れる方法なんて、ないはずだけど…」
「俺の、せいなんだ、」
マーシュがボロボロと涙をこぼしながら答える。
「…俺のせいで、アニーが…。」
「どういうこと、マーシュ?」
「俺が、俺がパンなんか持ち込んだから、きっと、そのせいで…」
マーシュ。
孤児院の最年長14歳。ゴーメロッシュと同い年、割と大人しく、進んで下の子たちの面倒を見る、優しい少年だった。
孤児院にいれるのは15歳まで。誕生日を迎えるとともに、自立しなければならない。
近くのパン屋さんでの仕事は決まっていたが、本当にこのままでいいのかと深く悩んでいた。
ラキオスもメアリーも、ゴメロスも、これまで孤児院から出ていったものは、養子に入ったり親が見つかったりと、『孤児』を卒業していった。
それなのに、自分は『孤児』。何物にもなることができない。
そのことが、マーシュの心に暗い闇を落としていたのだ。
10日ほど前。
パン屋の手伝いから、孤児院へ帰る途中で、馬車に乗った貴族の女性に声をかけられた。
「ちょっと頼みごとがあるのだけれど。」
とても美しいその女性は、優しい口調でマーシュを馬車へと乗せて、レーズンパンをマーシュに渡した。
「これからね、15日ほど、毎日、ある家に、このパンを持っていってほしいの。もちろんお駄賃はあげるわ。」
女性は金貨を一枚、マーシュに渡した。
「え、こんなに?」
どう考えても破格。
パンを運ぶだけで、毎日金貨を1枚くれるのだという。
そのうえ、15日運び終わったら、金貨を追加で50枚くれる、と。
マーシュはけして馬鹿ではなかった。
その話がものすごく、胡散臭いことはわかっていた。
しかし、15日パンを運ぶだけで、金貨が65枚も手に入る、というのはかなり魅力的だった。
「…金貨65枚もあれば、国中、どこでも行ける…」
マーシュは、いつか自分の両親を探し出したいという夢があった。
ラキオスやゴメロスのように、自分の『家族』を見つけ出したい。
もしかしたら自分を捨てたのも、やむを得ない事情があったのかもしれないと、わずかばかりの希望も持っていたし、何よりも『家族』に対するあこがれが強かった。
「あら、旅に出るの。いいわね、それはとてもいいわ。」
貴族女性はにっこりと笑みを浮かべた。
馬車で連れていかれた先は、古びた小さな家だった。
貴族女性いわく、
「自分の親戚がそこに住んでいて、とても貧乏している。レーズンパンが好物だから、ぜひ分けてあげたい。しかし、相手も一応貴族なので、自分からの施しだと思われると、絶対に受け取ってくれないので、パン屋のふりをして、格安で売ってきてほしい。」
という事だった。
話の流れに、どうやら悪事ではなさそうだ、とマーシュは安心し、パンを受け取った。
その際に、貴族女性の手と、手がぶつかってしまい、貴族女性はひゅっと手を引っ込めた。
そしてまるで汚らしいものを触った、と言わんばかりに、急ぎその手をハンカチでふいた。
その行動に、マーシュは一気に貴族女性に対する不信感を抱いた。
(貧乏な親戚に施しをするような女性が、孤児の手を振り払うだろうか…?)
ほぼ確信的に、マーシュは気が付いた。
このパンには、何かあるのだ、と。
ここからは、前の時間軸での話である。
このパンには何かある、そう気が付いていながらも、マーシュはパンを持ち、古びた家を訪ねた。
(…何も知らない。なにも気が付かなかったことにしよう…)
やはり金貨は魅力的だったし、貴族同士がどうなろうとしったこっちゃない、とも思った。
トントン。
到底貴族が住んでいるとは思えない、古く傾いた家のドアをノックすると、ぼんやりとした中年の男性が出てきた。
「ん?誰かな?どうしたの?」
垂れた目を細めて、優しくこちらに笑みを浮かべる。
悪い人には見えなかった。しかし、そんなことは自分が気にすることではない。
「ぱ、パンを買ってほしいんです!レーズンがたくさん入ったパンです!5シベルです!」
「5シベル?ずいぶん安いね。うーん、でもどうかなぁ…」
男性が悩むようなそぶりを見せたので、さらに必死に言葉を上げる。
「あ、あの、とてもおいしいパンなんです!3シベルでもいいです!」
「…売らなきゃ、困るのかな?」
「はい、とても。」
「わかったよ。」
男性は財布から5シベルをマーシュに渡した。
「ありがとうございます、あ、でもおつりが、」
「いいよ、おつりは。元々5シベルの物でしょう?」
その優しさに、心が痛んだ。
「ありがとう、ございます。」
マーシュは逃げるように馬車へと戻った。
「ありがとう、では明日も頼むわ。この時間に、ここで待っているから。」
貴族女性は、マーシュが本当にパンを渡したのか、見張っていたようだった。
「…あの、さっきのパン、」
「明日からは一日金貨2枚出すわ。」
「…わかりました…。」
それから毎日、マーシュはレーズンパンを持ってその家を訪ねた。
男性は、いつも穏やかに笑みを浮かべ、毎回5シベルでパンを買ってくれた。
10日ほどたったある日。
いつもの場所に、馬車がなかった。
次の日も、また次の日も、馬車はなかった。
(…騙された…)
金貨50枚を手に入れることができなかった。
それでもマーシュは心のどこかで、もうパンを売りつけに行く必要がないのだ、とほっとした。
それからすぐに、自分がパンを運んでいたあの古びた家の、主人が病気にかかって寝込んでしまったという話を噂で聞いた。
(もしかして…俺のせい…?)
こっそりと家の様子を見に行くと、1人の女性と、医者が屋敷から出てきた。
その女性がつい数年前まで、よく孤児院にボランティアに来ていた『マリベル』という女性だという事は、一目でわかった。
「ロングピア先生、父の薬を東国の高麗?というものに変えたいのですが、」
「マリベル、あれは一つで金貨1枚もするんだ。到底ずっと続けて飲めるものではないし、それにそれを処方したところで…開花病の治療にはならないんだよ。」
「…それでも、痛みを和らげることができると、聞いたことがあります。お金なら出せますから、」
「そんなお金なんてないだろ、マリベル。」
「出せます!そりゃ財産は少ないですけど、家財を売り払えば…!」
いつも声を荒げながらも、元気に孤児院の家事をしてくれていたマリベル。
そのマリベルの憔悴しきった表情に、マーシュは衝撃を受けた。
(俺の、せいだ…)
貴族なんてどうでもいいと。
胡散臭いものだと分かっていたのに、パンを運び続けた。
マリベルは唯一、自分たちに優しくしてくれた貴族だったのに。
マリベルの父、あの男性は、いつも自分のためにパンを買ってくれていたのに。
これまでなんとなく使えずにいた、あの貴族女性からもらった金貨19枚を、そっとマリベルの家のポストに入れた。
(どうしよう、俺のせいだ…そうだ、あの女性を探そう…)
あの貴族女性を探して、パンに何を混ぜたのか白状させよう。
そう思い、王都中を駆け巡った。
しかし、貴族にコンタクトのないマーシュには、容易なことではなく。
そうこうしている間に、マリベルの父は死んだ。
マーシュは、自分の罪を、誰にも打ち明けることができないまま、孤児院を出て、王都のパン屋で働いた。
レーズンパンを見るたびに、不快感に胸が包まれて、パン屋の中で嘔吐してしまった。
それが続き、マーシュはパン屋をクビになった。
生活に困り、食べるものにも困って、知り合いの勧めで、お金持ちの女性専用のサロンで働く。…つまり売春夫になったのだ。
売春夫になって、1年ほどたったある日、先輩のお得意様の部屋へと呼ばれた。
先輩の『常連客』は、あの時の『貴族女性』だった。
お互いに一目で、そのことに気が付く。
「貴方、あの時の、」
「えぇ、久しぶりね、」
女性は美しく笑みを浮かべた。
「私、あなたと話したいことがあったのよ。」
女性がそう言い終わるや否や、マーシュの背中に激しい痛みが走った。
「もう、二度と私の事を嗅ぎまわらないで、ってね。」
「…ごめんな、マーシュ。」
後ろから先輩が何度も自分の背中を刺した。
「まぁ、もうしたくてもできないでしょうけど。」
そうつぶやく貴族女性の、妖艶なまでの真っ赤な唇を見ながら、マーシュは意識を失った。
彼の人生は、そこで終わったのだ。
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