君とこれから作る本は栞の要らないものに。
名野波良御
夜の苦味
薄紅色に染まった頬がワイングラスにうっすら映る。
目線を少し上に向けると、真っ白な綿雪が窓越しに降っているのがわかった。
「君の本が読みたい」
ワインを二人で一本空けた。どこのコンビニでも売っている安いワインだ。二人とも酒は好きだが、まだワインの違いを語れる程の肥えた舌は持っていないため、これで十分だ。
つい先ほど、毎週恒例のじゃんけんで、迫り来る月曜日のことを見て見ぬふりをしていたはずが、気付けば時計の時針は二十二時を指している。乾杯で記憶したビールのほろ苦さは舌からは消え、上品な果実で上書きされていた。
「そんなに面白いものじゃないわ。だって私この本大嫌いだもの」
彼女はそう言って僕からのお願いを優しく断ろうとしたが、はっきり嫌だと断らない返答が僕の好奇心を余計に昂らせた。
「嫌なことは誰かに話すと楽になるよ」
SNSで目にするような根拠もないもっともらしいことだが、身体を巡っているアルコールのせいで最善な判断できないためか、はたまた初めから多少は話す気があったのか、彼女は数秒の沈黙の後、小さな口を開いた。
「……わかった。それなら話すわ。だけどあなた人の本を読むの嫌いでしょう」
「大嫌いだよ。だけど僕たちは出会いこそ数年前だけど付き合ったのはほんの一ヶ月前だし。知らないことだらけだから読んでみたいなって」
「……そうね。わかった」
一ヶ月前に夜景の見える丘の上に止めた車の中で告白したことを思い出している僕の横で彼女は、一四六一ページにも及ぶ本を取り出し、最終ページに挟んである使わなくなった栞を外したものを僕に手渡した。
言葉では表せないような重みを僕は左右の腕で感じとった。と同時になんとも言えない締め付けが僕の真ん中を襲った。締め付けの原因を掴もうと胸を右の掌で覆うが、どうやっても自分の手では掴むことのできない。それはまるで海の底から海水を掴んでよじ登ろうとしているような。
こんなに重いものなのかと質素な感想だが素直に思った。恐る恐る、しかしどこかにはワクワクとした感情を併せ持ちながらページをめくり出す。
お化け屋敷にも入ったことのない僕がよくこんなことができるものだと、恋は盲目という言葉を頭の片隅にそっと置く。
目次が目に入ってきた。一四六一ページをたった幾つかに分ける仕切りだ。
中身はショートショート小説のようになっていて、楽しそうなタイトルから寂しそうなタイトルまで勢揃いしていた。パッと見た感じでは寂しそうなタイトルの方が多そうで僕は嬉しさと憐れみと、そして激しい怒りの感情を持った。
幾つかのタイトルを通り過ぎた結果、今から全部は読めないと思い、一話だけ選んだ。アルコールが巡っていなければもっと読んでいたと自分を言い聞かせながら。
思い出したくもない程の辛く寂しい話だということは、中身を読まなくても分かった。一ヶ月前まで他人だった僕がこう思うわけだから持ち主である彼女がこの本を大嫌いだと言うのがすぐに理解できた。
ページを捲るたびに僕の真ん中を突き刺し、愉快に抉る。
ページを捲るたびに僕の真ん中を千切れるほどの力で締め付ける。
僕がそうなっていることに彼女は気づいて止めたが、読み続けると言い張り僕は続けた。
抉られ、締め付けられ、形が変わっているんだろうなと思いつつも地獄のような時間の中をページを捲る指先と共に進んでいった。
気付けば彼女は僕を抱きしめていた。いや、抱きしめてくれていた。
「ごめんね」という言葉を口にし、瞳には涙を浮かべながら。
彼女に「ごめんね」と言わせたことへの後悔と自分の額から伝わってくる水平線のように果てしない優しさを感じながら僕は彼女の暖かい胸で涙を流していた。
「やっぱり人の本を読むのは大嫌いだな」と彼女にそっと伝えて。
愛を注ぎたいと思った人の本ほど読みたいと思うし、絶対に読みたくないとも思う。読んだ後、或いは読んでいる時に激しく後悔してしまうから。
だからこそなのか、彼女の本が、どれだけ分厚くても、内容が濃いものでも、読んで、聞いて、理解した上で、栞ごと、手につく微塵のインク痕すらも残さずに、自らの中に資源回収して、埋もれる程の真っ白な原稿と、煌びやかに輝くペンと、封も開けていないインクを渡す。
今回は、栞は渡さずに。
つけっぱなしのテレビから流れてくる有名司会者の声を他所目に二人はしばらく抱きしめ合っていた。
それからお互いがここに存在していることを確認するように瞳を見て、キスをした。
彼女からもまた、上品な果実の味がした。
君とこれから作る本は栞の要らないものに。 名野波良御 @nanoharao14
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