第7話

 深夜、皇居千鳥ヶ淵の前にいくつもの警察庁のバンが止められていた。


 皇居と霞が関の狭間には巨大なバリケードが張られていた。


 だがその境界線は日を追うごとに皇居側へ追い落とされていった。


 戦力、物資、人員、戦況。


 何もかもが政府側の勝利を予見するに足るはずだった。


 そう、その時までは…


(何が問題だったか…だと…?)


 ヒロマルは口の端に苦い笑みを浮かべた。


 そんなものは、決まっている。二刀を構えたあの少女の存在だ。


 ヒロマルは先だって和田島イサキに呼び出された時のことが脳裏に浮かんだ。


 ・ ・ ・


「神裂家…?」


「ああ…ぼくも正直驚いているよ…おとぎ話か神話に近いものだとばかり思っていたからね」


 黒いエグゼクティブチェアの上で両足をぷらぷらとさせながら和田島イサキは言った。


 ”驚いている”といったその口の端に、不思議と愉悦が覗いているようにヒロマルは思った。


「あの少女が…ですか?」


「神崎家と神裂家…その昔ふたつの『カンザキ』がこの日本には存在した…中臣鎌足の手足として陰で暗躍していた日本最古の暗殺集団、神裂家…そしてそれは中臣鎌足が藤原の性を得ると同時に表向きには神崎家という天皇の護衛を生業とする活人剣へと分派していった…」


 和田島イサキは講義で語るように滔々と語った。ふと、その眼差しが獲物を見つけたようにぎらりと見開いた。


「だが、その源流となる神裂家が…その殺人剣がもしもこの現代においても残っているとしたら?」


「…」


「…これが神裂家にまつわる最古の一次文書のコピーだ。手に入れるためにパパから根回しをお願いしたりと大層骨が折れたよ」


 イサキから差し出された古めかしい茶色の文書。そこには着物姿の女性が立っていた。そしてそこにはある突出した特徴があった。


「…二刀…流…」


 ヒロマルの脳内には、あの夜、千鳥ヶ淵で襲撃を受けた際の敵影が鮮明にフラッシュバックしていた。


「そう、だからこそあの娘は興味深いんだ」


 ”興味深い”、イサキの口から漏れ出たその言葉は、まるでようやく本音を零したかのような感触を持っていた。


「可能な限り生きたまま確保しろ…最低でも無力化させてぼくの前に連れてくるんだ。神殺隊で唯一無二のサイボーグ機体を持つきみにこそできることだ…分かっているね?」


 ・ ・ ・


 ヒロマルは座したまま静かに目を閉じていた。その額当てには『不退転』の筆文字が刻まれている。


 後門には常軌を逸した純粋な悪の化身。


 そして…前門には未曽有の殺人剣の使い手。


 相手にとり、不足があろうはずもない。


 その精神統一の余りの苛烈さに、周囲の者は気温がいつもの2度も3度も低いように感じていた。


「モニターC5!ブラックアウトしました隊長!」


「来たか…」


 特別指令室、モニターの前に座していたヒロマルはゆっくりを腰を上げた。


 満を持してフルメイルで準備した甲斐があるというもの。ヒロマルは欄干を拳で殴りつけるとその身体の武者震いはぴたりと止んだ。


「行くぞ神崎」


 ・ ・ ・


 ヒロマルは反応があった新丸の内ビルディングの屋上に立体起動装置で素早く到着すると既に大半の部下が切り伏せられていた。


 ヒロマルは自身の怒りを振り払うように『憤ッ!』と自らを喝破した。


 敵影で何度なく対面した敵がそこに実在していることに胴震いがした。


 神崎流現当主…だが…その手には真剣ではなく木刀が握られている。


「…あんたが親玉?」


 虚無的な温度の声だった。


「己は神殺隊第五番隊隊長の木船田ヒロマルと申す!貴様が神崎か!」


 神崎ひなたは静かに首肯してみせた。


「…代々天皇家の護衛の任についてきたお前ら神崎家…世が世なら誉れに違いない…だが見ろ!この高度な都市文明圏から一歩踏み出せばそこには途方もない貧困と混沌が溢れ出している…そこかしこにスラムが生み出され…東京の半数超もの民が日々の辛苦に喘いでいる…こんな日本を一体誰が生み出したのか…!!!そんな単純な図式がどうしてお前らは未だに理解できない?!」


「そんな難しいこと考えたことないよ…道具は自分が為すべきこと以上のことを頭目には求めない」


 それは新しき日本ネオ・ジャポンという理想を抱いている木船田ヒロマルからすれば到底受け入れがたき、憎悪に値するほどの思考放棄的な返答だった。


 だがその返答はヒロマルがあの時初めて見た神崎のどこか虚ろで底知れない眼差しの印象とも合致していた。


「敢えて自らの欺瞞の存在意義に縛られるというのか…解せぬ…理解に苦しむぞ神崎ィ…」


「…真剣すら握れない…何一つ守れないこんな当主なんかに価値はないってことさ」


「今、貴様なんと申した…???」


 真剣が…握れない…???


 だがそれであるならば容易に矛盾が生ずる。かつての敵影で見た神崎。その両手にはまごうこと無き真剣が握られていたのだから。


「嘘を申すな神崎ィ!その脇に差した二振りの日本刀…飾りだなどと申すつもりかァ!!!」


 ヒロマルの言葉に対し、神崎はただ虚無的な笑みを微かに傾げるだけだった。


 まやかしか…それとも…いや…いずれにせよ…


「…いずれにせよ…なんという…なんという下らなさよ…!」


「どうでもいいけどさ…今の私って結構ギリギリなんだ」


 話が唐突に変わり、ヒロマルは眉をしかめた。


「なんていうか人生って他愛ないボディブローの連続みたいに感じる時があるよ。その一つ一つが意外と重たくて段々身動きがとれなくなるっつうかさ、分かってくれる?別に分かりたくもないか、ははは」


「…何が言いたい?」


「つまりさ…今の私に握らせない方がいいよ?」


 そう言うと神崎ひなたは木刀を自らの帯に差し込んだ。


「ふん…木刀をか?…余り俺の前でふざけるなよ」


「…戯れかどうか試してみなよ?」


 そう言うと神崎ひなたはだらりと手足を脱力させた。


(無構え…ですらない…この間合いで抜刀もしないだと…?)


 ヒロマルは訝しく思いながら懐の忍刀に手を掛けた。


 瞬息。刀が急に眼前に大きく現れた。


 そうとしか表現の仕様もない現象に、ヒロマルは驚きの余り呼吸が乱れる。


 が、ヒロマルはギリギリのところで身体を捻って刀を避け、ギリギリ踏み止まった。


(太刀筋が見えない…だと!?)


 急いで振り返るとそこには何事もなかったようにこちらに見据えて立つひなたがいた。


「神崎貴様ァ!…真剣を抜けないというのはまやかしか!?度し難き卑劣さよ!」


「まやかしなんかじゃない…真剣を抜いた私は…」


 顔を上げた神崎ひなたの両目には紅い涙が流れていた。


「もうひなた姉ちゃんとは別の人格…私は…神裂ひかげ…」


 先ほどとはまるで”別人”のような殺意の圧力にヒロマルの額から冷や汗がぶわっと噴き出した。


「神裂ひかげ…!神裂…だと!?」


 ヒロマルの悲鳴に近い言葉に応えるように、神崎、いや神裂ひかげは再度鋭く跳躍した。


 抜刀、斬撃。それらがまるで悪夢の様な速度で迫りくる。


 ヒロマルの額当てが真っ二つに割れ、額からは血が噴き出した。 


「ヌウッ!?」


 このままでは視界が血で塞がれる。拭っている時間はない。


 ヒロマルは咄嗟に懐から手裏剣を出すと自らの額に斜めに切り傷を入れた。


 あふれ出る血はその切り傷に沿うように両目から逸れた軌道を流れていく。


「…」


 神裂の表情には相変わらず何の色も浮かばない。目の前の人間を殺すための執念ともいえる仄暗い情念以外、何一つ人としての温度が通わない。


 ヒロマルは三度戦慄した。


 一度はその剣が至った極北とも言える腕前に、二度はその人間離れした縮地に、三度はその瞳の奥に除く闇の底知れなさに…


 眼前の神裂は何一つ話そうとはしない、語ろうとはしない。


 …今から死ぬ人間に一体何を話すことがあろうか?


 瞳の奥の闇は声無くもそう語っているようだった。


 再度跳躍。音もなく、濃厚な密度の”死”が迫ってくる。


 だが、その時ヒロマルは決死の蛮勇を見せた。


 覚悟と共に前進し横薙ぎに自らの忍刀を振った、だが…


「ッぐううう!!!?」


 バターをナイフで切断するが如く切り離された片腕からはオイルが溢れ出した。


 神裂は対照的に眉一つ動かしてはいなかった。


「…俊敏!豪速!それでこそ神崎流…いや神裂流の太刀!」


 片腕に致命傷を受けたにも関わらずヒロマルは口の端を歪ませ笑ってみせた。


「歴史の影に神裂ありとまで謳われた日本最古の殺人剣術…神裂流に生きて挑まんとする日が来ようとは…!望外の望みとはこのことよ!…ぬうううん!」


 ヒロマルは片腕の断面の鉄板を捻じ曲げるとオイルの流出を無理やり止めてみせた。


「隻腕だろうと不足なし…!貴様の太刀!己の魂で見事受け止めてみせようぞ!」


『戻ってくださいヒロマルさん』


 と、その時気力充分のはずのヒロマルのイヤホンに直々の指令通信が入り、ヒロマルは驚愕した。


「和田島殿!?し、しかし!!!」


『ぼくの言うことが聞けないんですか?今はその時じゃないとぼくが判断したんだ、戻ってください』


「ッッッッ……!!!御意に……!!!」


 ヒロマルはその場でスタングレネードを放ると空高く跳躍した。


「神崎ィィィ!おのれェ!覚えていろ神崎!!!貴様の首級!!!必ず己が討ち取ってみせようぞ!!!その時まで勝負は預けて置くぞ!!!神崎ィィィィィィィ!!!」


 神殺隊第五番隊隊長木船田ヒロマルの咆哮が皇居に猛々しく響いた。


 ・ ・ ・


 モニターがヒロマルの炸裂させたスタングレネードでブラックアウトした後、しばらく和田島イサキは何も喋ろうとはしなかった。その様子を案じた傍らの執事がイサキに声をかける。


「…イサキお嬢様、本日で天皇派とは雌雄を決するお積りだったのでは?」


「ねえ見た?!」


 イサキは執事に向けた目を爛爛と光らせていた。


「見た、とは?」


「決まってるじゃない!あの子の瞳だよ!昏く鈍く光る深い絶望…それをギリギリで彩る覚悟…あんなにグロテスクで美しい瞳を見たのはぼくは初めてだよ…ああッ…ゾクゾクしちゃうなあ…」


 イサキは自らの身体を両手で抱くと、ぶるぶると身体を震わせた。


「…お嬢様はあの娘が余程気に入ったご様子ですな」


「当たり前じゃないか…あんなに面白そうな玩具を見つけちゃったんだ…最後の最後まで遊び尽くさなきゃあ損に決まってる…!」


 イサキは傍らのぬいぐるみをぎゅうっと抱き締めると子供の様に両足をぱたぱたと宙で泳がせた。


「ふふふふふふふふ…ひなた!ひなた…ひなた!きみはぼくのものだ…!」

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