正の字【俺とお前】
「ーーーであるかるからして、この“つ”は意志的動作を表す」
本日、七回目。
通算八二七回目の《であるからして》である。
金曜のお昼休み直後の三限目。
何よりも強大な敵、睡魔と戦いながらするコレが、俺の密やかな楽しみだ。
語学講読の教授、藤田先生の口癖である、《であるからして》を数える。これが楽しみ。
藤田先生の口癖に気がついたのは、一年の時。初回の授業でもう既に十回は言っていた。
てか一回目の授業から時間いっぱい講義するとか。他の授業は概説だけで三十分くらいで終わったのに。でも今思えばその日の《であるからして》は、統計から逆算して考えるとと、少なかった。そこは初回だからなのか、様子見で控えめにしてたのかも。知らないけど。
そんで、俺は、その時から《であるからして》を集計している。
就活に全く使えないし誰にも頼まれていないが、ちょっとした俺の使命である。
なので、そのためだけに先生の授業を取ってる。ゼミも取るつもりだ。
口癖を題材に卒論を書こうかと、こじつけようとも思った。けれど、サンプル本人の授業を取りながら、論文を発表するというのも気が引けるし、別のゼミを取ったら集計ができない。
でも結局俺は、ただ楽しいからやっているだけで、趣味なのだと気がついた。
俺は藤田先生が口癖を言うたびに、ノートの端に書いた正の字に一本書き加える。一講義大体五個くらいの正の字が刻まれる。
あれかもしれない。先生の《であるからして》は、もはや語尾にない語尾のようなもので、キャラ付けの一環なのかもしれない。言わないと死ぬのかも。
とか考えてるうちに、また一回。あ、また。俺は未完成の正の字に新しく二本を書き足した。
「はい、本日ここまで」
チャイムの音と同時に先生は流れる動作で教材を閉じ、室内から出ていく。その後を数人の生徒が慌ただしく追いかけていく。俺はそれを教室の一番後ろから見届けてから、ノートの最後のページを開いた。そこには数字がびっしりと書き込んであって、そこにまた23を足す。
本日は平均なり。
先日このノートを友人に見られたが、キモッと率直な意見をいただいた。でもこれが俺の楽しみ。
本日休講なり。
さっき学生課の人が来て、黒板にお知らせをデカデカと書いて出て行った。教室の所々で喜びの声が聞こえる。俺はため息を吐いて、ノートを閉じた。
風の噂に聞いたけど、どうやら藤田先生は緊急入院されたらしい。おじいちゃんと言うほどでもないけれど、そこそこに歳をめしているから、まあ無い話ではないよねと思った。
しばらく正の字が書けないと言うことが残念な気持ちの方が強かった。うん、結構凹む。
次の週から代わりの先生が来た。そしてその先生の口癖は《そのとおり》であることも発見した。
そんで、その三週後、藤田先生が亡くなった事を知らされた。
代わりに教壇に立っていた木元先生がそのままこの授業を受け持つそうだ。
そして一分間の黙祷を捧げる事になった。俺は皆んなが右に倣って目を閉じるのを待ってから、目を閉じた。
目を閉じると、八九四回という数字が浮かんだ。
中途半端だ。そう思う。
もうこの数は増えることはないのだ。今度は《そのとおり》を数えようと思った。というかもう数え始めている。四十二回は言っている。正確な数字じゃあないけれど。
しんと静まった教室で、俺は薄目を開けた。藤田先生の最後の授業中にノートをとったページには、一本足りない正の字が書かれている。もうこの字も完成することはない。俺は再び、ぎゅっと目を閉じる。
では、授業を始めます。と先生が言った。それを皮切りに、何とも形容し難いため息が放出された。
その空気の中で、俺は長く、目を瞑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます