ユーカリは森を焼く【君と僕】

「君はッ…間違ってる…!」


 テーブルを挟んで向こうにいた森田くんは、そう言って声を荒げた。叫んだ拍子に首に青い筋が上っていくのが見えた。鼻から出る息は荒くて、鼻水出ちゃうんじゃないかって思った。

「君は、何も感じないのか?」

 家主が不在の6畳ばかりの部屋で、耐え難い時間が流れる。

 退屈な時間だ。

 森田くんは一目瞭然、ご覧の通り、私に対して怒っている。私はふわと、穴に抜けそうになった欠伸を口の中で一応咬み殺した。

 こういう時の彼を無視したりすると、ネチネチと後から面倒なのだ。ならば今、話を終わらせてしまった方がいい。

「そうねぇ…ワクワクしてる」

 と、心からの言葉を言ってみたら、森田くんの顔は真っ赤になった。目をむいた顔を見て、まるでお猿のようだと思った。日本の温泉にいるような子たち。そっくり。なんだかずっと愛おしくなっちゃった。

 私は森田くんを見つめる。

「だって、砂夜が望んだことなのよ。彼女はまた一歩、彼女の理想に近づいた」

「そんなの…なんで、砂夜を止めないんだ? 君たちは……いや、君は…!」

 森田は剥き身の怒りと隠しきれていない苦悩を机に向かって打ち付ける。机の上の握り込まれた拳は白くなっている。森田くんは拳の上におでこをくっつけて机に伏せた。

「おかしいよ…」

 隙間から、そんな弱々しい呻めきのようなものが漏れ聞こえた。


 彼は、砂夜が間違ってるとは言わない。言えない。表面上は私のせいにしてみてはいるけれど、本心は砂夜のせいにしたくないだけなのだ。

 砂夜が本当は普通の女の子だと思っていたいのだ。いつかは自分がまともだと思っていた頃の彼女に戻って欲しいのだ。最初からそんな人は居ないのに。


 砂夜。私の可愛い砂夜。

 彼女が自分の手首を切るところを見てほしいと言ってきたので、昨晩も私はこの家を訪れた。

 そして、彼女は言葉通りに実行して、今は救急車で運ばれて入院している。ただ、彼女の望みに反して、命に別状はない。

 勿論、私が呼んだ救急車ではない。呼んだのは森田くんだ。

 彼は砂夜の事となると、野生的な感が働くようで、まるでヒーローのように現場にやってきて、私が扉を内から開く気がないのがわかると、ベランダから二階にある砂夜の部屋に侵入して、てきぱきと砂夜を救った。

 それで砂夜に恨まれているのに、彼はいつも砂夜と自分にとって間が悪い。


 砂夜のいない部屋で、私は机の上にあった合鍵に触る。彼は気になるのを必死で隠している風だった。これは、私のもので、彼が持っていないものだ。


 私と森田くんが第一発見者ということになっており、昨日私がこの家に来たのは彼と一緒ということになっている。

 砂夜はよく手を切るが、ここまでになったのは初めてだった。砂夜は自分で救急隊員に一人で切った事を証言しており、警察が取り立てて私を怪しんでいる事もなかった。防犯カメラの映像を調べれてしまえば簡単にバレてしまうことだけれど、そもそもこの事件が大きく取り上げられるような心配がない。

 普段は不干渉なくせに自分たちに火の粉がかかると対応の早い砂夜の実家の力で、砂夜が自分を切り刻んだことでさえ全て無かったことになることだろう。本当に燃やし尽くしたい相手にはしもやけ程度の痛みしか与えられないなんて、可哀想な砂夜。


「森田くん。あなたさ、本当に砂夜が好きなら、砂夜を救えるなんて思わない方がいいわよ」

 私の言葉を聞いて跳ね起きた森田くんは、叫ぶように言う。

「なにを言ってるんだ、昨日、彼女は死んでいたかもしれないんだぞ!?」

「あのね、森田くん。紗夜はね、この世に生きていたくなんかないの。でもあの子、寂しがりでしょう? 砂夜は私と二人きりの世界を望んでる。だけど、私を殺したくはないみたい。あの子はっきりしないからねぇ」

「…」

 森田くんの瞳が揺らぎ、心が嫉妬の業火に燃やされている。私はうっとりとそれを覗く。

「私たち以外、なにもいらないの。私たちしか居ない世界を作るにはこうするしかないの」

「言ってる事が理解できない。君と出会ってから砂夜はおかしくなったんだ…砂夜は本当は…。二人だけの世界なんて、自己陶酔して、馬鹿らしい」

「あら、私が羨ましいのねぇ?」

「そんなんじゃ…!」

 沈黙が落ちて、私は砂夜が気にっているラグの毛を子猫のように撫でる。森田くんは自分の前髪を乱暴に引っ掴んで、頭を抱えた。

「俺が、俺だったら、ずっと一緒に生きてやるのに…」

「貴方といると、本来の自分が歪むんですって」

「…」

 森田くんは苦しげにうろうろと視線を漂わせる。そうして、行き詰まり追い詰められたような、そしてそれを絶対に認めない意思の籠った瞳で私を睨んだ。

「砂夜はともかく、君には心がない」

「ふふ」

 八つ当たりじゃない。視線で言ってやると、森田くんは傷ついたような顔をした。


 どうして砂夜がそんな事をするのかなんて、砂夜にだってわからないのだと思う。彼女は生まれながらにして、死に惹かれる。

「あれが彼女の幸せなのよ。なんでわかってあげようとしないの? 彼女は俗世にいたって幸せになんてなれないわ」

「彼女が向かおうとしているのは、絶対に幸せじゃない」

 頭を掻きむしって、森田くんは言う。

「人は皆んな、幸せになる為に生まれてきたんだ。生きようとすることが正しい事なんだよ」

 真っ直ぐな瞳を見て、可笑しくなって笑ってしまった。私から見れば愚かとしか思えない。


 あの子の表面は人を惹く。それに加えて私と砂夜が一緒にいると、特に周囲の視線を集める。そして、彼女の内面に深く触れたものは彼女の熱に心を燃やされる。それは嫌悪、崇拝、憐れみ、憧れ、と様々だ。

 砂夜への熱は関わるもの自身を焼く。

 彼も私たちに巻き込まれた一人だ。粘り強く執着心を抱くただ一人でもあった。

 いつでも二言目には砂夜、砂夜、砂夜。私の名前の方は知らないか、忘れているのかもしれない。


「ねぇ、全員が幸せだなんて、本当にそんなことってあると思う? 誰かが幸せっていうことはね、その裏で何かが必ず不幸せになっているってことなの」

 それが本当のことなのよ。世界に犠牲は付き物。私はあなた方を犠牲にして、私と砂夜だけ、焼け野原に生き残る。

 だけど、私だって失ってしまったものがあるのよ。

「森田くん」

「…なんだよ…」

「私ね、あなたの事好きよ」

「そういうこと言うの、本当にやめた方がいい」

「…もう、楽しくないなぁ」

 アッハハっと顎を上げて笑って、目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭う。瞳を潤す程度のそれは、簡単に空気に消えていった。

 苦渋に満ちた彼の顔が見える。

 とても可愛いと思った。

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