誰もいない夜の焦燥【俺とお前】
平凡な外装のアパートの二階。203号室の扉の前。
俺は途方に暮れていた。
一時間前の事だ。仕事終わりのつまらない飲み会から帰った俺は、鍵を取り出す為にカバンを探った。
まず、定位置の内ポケットを探る。なかった。
ここで一度どきっとしたが、一つ舌打ちして順々に他の内ポケットを探っていった。しかし、なかった。
そこで不安が滲み増してきて、カバンの底を手荒にかき回した。しかし、やはり、なかったのだ。
しまいには、カバンをひっくり返して、その場にぶちまけた。酔いが覚めている今なら、大胆なことをしてしまったと反省もできるが、何せ酒で鈍って通常より倍に焦った頭に理性など働かなかった。
そうして、散々に自宅前を散らかした後、自分が悲惨な状況にある事を自覚した。
同棲している彼女は今、知人と三泊四日の旅行に行っている。昨晩、俺は彼女にこう言われた。絶対に出社するときに鍵を持って行くようにと。普段ならば俺より先に帰宅している彼女が内側から鍵を開けてくれるので、それに甘えて鍵を持つことが習慣づいていなかった。それがいけなかった。
彼女は今朝、俺より後に家を出た。俺がもう一つの鍵を持って出たと信じ切って。
しかし、鍵は閉じたドアの向こうだ。
カッコつけて回想してみたが、普通に恥ずかしい。忘れた。俺は部屋の番号の書かれたプレートの縁を意味もなく指でかく。鞄の中身をぶちまけたり、ドアの前を右往左往したお陰で酔いは覚めていたが、疲れ切っていた。ああ、横になりたい。
因みに大家に鍵を借りるという選択肢はない。何故なら、俺の彼女と旅行中だからだ。
鍵を忘れて入れないという事は前にも実はあった。その時は彼女がすぐに帰ってきたので事なきを得たのだが。
俺はドアの前に腕をついた。そこで、不意に、隣の202号室の扉が目に入った。
俺はその扉の前に移動して、住人の顔を思い浮かべた。思い浮かべたとはいっても、具体的な顔をイメージすることができなかった。その人は俺と同じくらいの歳に見えた。二十代後半から三十代前半で、猫背気味のラフな服装の人物という印象だ。冬であれば厚手のパーカーで、夏にはTシャツ一枚というような。あまり遭遇することも少ないので、やはりイメージはおぼろげだ。今は夏なのでTシャツで脳内に彼を描く。
顔を思い出せないのは、猫背な上に俯きがちな人と言う印象があるので、そのせいかも知れない。そもそも、出会したのはほんの数回だ。メガネをかけていた気もする。髭があった気もする。頻繁でないにしても、壁一つ向こうに住む人の顔がわからないと言うのは、なんとも恐ろしいことだと思う。
そんな、得体の知れない人物ではあるが、一つだけ彼について知っていることがあった。
廊下ですれ違った時、エレベーターで乗り合わせた時、彼は必ず会釈をする。こちらに顔を向けることはないが、律儀に。
俺は202号室のインターホンに目をやった。底知れぬ勇気がふと湧いた。
インターホンが鳴る。ドアが開いて、びっくりしたような顔をした彼と向き合う。そこで俺は、はっきりと彼の顔をお隣さんとして認識する。俺は状況を説明して、頭を下げる。彼は暫くしてから、低い声で上がってください。という。俺は大層感謝して、部屋に上がらせてもらう。他人の部屋に緊張しながらも、そこにあるテレビゲーム機を見つける。本体の横にあったソフトのパッケージはコアな人気のあるアクションゲーム。実は俺もファンで見つけた途端にテンションが上がる。これ知ってるんすか?! 俺も大好きなんですよ〜! なんて言って目を輝かせて意気投合する。二人でゲームをしながら、今までの人生と将来のことまで語り合ってしまったりして。そうして、四日目の朝。今度は俺の部屋に遊びに来てくださいだなんて言って、俺は自室に戻るのだ。
そこまで想像してから、俺はインターホンを鳴らした。
それはもう、意気揚々と。
電子音がして、数秒。返事はない。
そして、もう一度。
それを何度か繰り返して、やけくそになって連打後、廊下の手すりにつかまって、月に向かって吠えた。そして、酔ってもいないのに、なんだか身も世も関係ねぇわと、そのままそこにうなだれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます