ハンプティダンプティ【君と僕】

 カチャンと音がした。


 ごくごく一般的な擬音がよく似合う。石よりもずっと脆く、ガラスよりは強いものが床に当たって砕けた音だ。音のした方を見てみてわかった。


 彼女の好きな皿が割れたのだ。


 皿はいつもこの部屋の隅の棚の上に飾られていた。それが今や、見るも無惨に砕けて粉を床に撒き散らしている。彼女がわざと手を離したらしかった。


「昨日と今日の間に、自分を落としてきた気がする」


 少女は空になった手のひらを見つめながら、そんなことを言った。


 昨晩から先ほどまで同じベッドで寝ていた彼女は、窓の方にいた。芸術的な寝癖をつけたまんま。

 起き抜けに騒々しいと、頭で怒りを覚えたが、それとは別の言葉が妙に甘たるく口から出た。


「大丈夫。君は君だよ」


 僕は適当に彼女が言って欲しそうなことを言ってやった。彼女の気持ちなんてわからない。けれど、わかるような顔して、僕は彼女に言葉を投げかける。簡単だ。記憶の中の彼女の言葉をなぞればいい。そのはずだ。


「もう自分じゃない気がする」


 そういうなり、無言。聞く耳を持たない硬い表情で彼女は立っていた。僕の知っている彼女は居なくなっていたらしかった。


 僕は立ち上がった。そして、砕けた皿を拾い集めて、ハンカチの中に包んだ。そのかけらと、引き出しの中の接着剤を持って、僕は鏡の前に立った。鏡は壁にかけてあるとても小さなもので、顔くらいしか映らない。僕に自分が映り込まないように左側に立った。代わりに窓際に突っ立ったままの彼女が映り込んでいる。


 僕は皿のかけらを鏡の枠の淵に貼っていった。

 そして、割れた破片を組み合わせて、あっという間に鏡のフレームに作り替えてやった。

 笑って彼女の方にどうだと言って振り返る。


「そんな、酷い!」


 彼女は何が悲しいのか、しゃがみ込んで泣きじゃくった。貼り終わってからいうのも訳がわからなかった。

 困ったことだと思って、僕は彼女のそばへ寄った。


「君は君だよ。良いところも悪いところも君のままだ。でもそれは連続して変化しているから、一時的に見失っているように感じているだけ」


 泣いている彼女は身じろぎもしない。僕は彼女の肩を抱いた。


「よくみてよ、芸術的だろ?」


 彼女を鏡の前に立たせる。


「そんなの今の私にはわからない。時間が必要よ。それがわかるのは明日かもしれないし、十年後かもしれない。もしかしたら明日よくても明後日はダメかも」


 そう言って、彼女はまた顔を伏せて泣いた。


「割れた皿を抱いてたって血が噴き出すだけ。これを割ったのはあなただって一緒よ。私にだって血と肉がある。心もね。そのはずなのにどこへ行っちゃったっていうのよ、私は」


 責任転嫁じゃないかと思ったが、僕は落ち着いて言った。


「どんなに変わっても変わらないところをよく抱いていなよ」


  優しく諭すと、彼女はまた床に目を落として黙り込む。すん、と彼女は鼻を啜った。


「私、この色が好き」


 泣きながら、青いタイルになった皿を指さす。


 僕は彼女の手を引いて、ベッドの中に戻した。

 彼女の絹の髪を撫でる。


「もう一度寝よう。昨日の自分は取り戻せないけど、また起きたら、新しい君だ。僕も今日のうちの新しい朝を迎える」

「寝なさいって、ベティも同じことを言ったわ。でもそんなの信じられない。寝ている間に何されるか、わかったものじゃないわ。もしかしたら、あの人が私を取ったのかも」


 使用人のベティの顔を思い浮かべる。いかにも合理主義の彼女のいいそうなことだと思った。


「私、何も話さないほうがいいのかしら」

「それはだめだよ。居ないことにされるだけだしね」

「そう言うなら、寝ないほうがいいんじゃない」

「それはできないだろ、馬鹿を言うな」


 すんすんすんと、彼女は鼻を鳴らす。


「私以外のものになりたいんだ、私」


 彼女は僕の頭を撫でた。


「なのに君は自分を探しているの?」


「ええ、だからよ。きっと私は私の求める私になりたいのだわ。忌々しいこと」


 言葉とは裏腹に、少女の目つきは優しくて、卵が生まれるのをそっと待ち続ける雌鳥のようだった。


「でもまだ私は死んでいない。私はあのお皿のことを忘れたりなんかしないもの」


 生気に満ち満ちた顔をして、枕を涙で濡らした。シーツの波間から激しく眉を寄せ、恨めしそうに僕を睨んでいる。


「本当の望みはなんなのか。自分によくお聞きなさい。これじゃあ自分の尾を噛む蛇。それならまだ格好はつくけれど、尾を追い回す犬じゃ滑稽もいいところだわ」


 顔を深く枕に埋めた彼女の髪に触れる。


「やっぱり、君は君だ。他にどうしようもなれない」

「そう……。なら、私、私のままでいるわ。けれど、共に生きるための、私でいる」


 彼女は隠し持っていたらしい青いタイルを差し出した。


「でもね、このかけら、あのかけら、全て、一つ一つが私だわ。嫌いなところも好きなところも悲しみも喜びも。この一つ一つは私のものなの。あげることも、ましてや作り替えるなんて、あなたには許されていないの!」

「ごめんて」


 興奮してベッドで手足を暴れさせる彼女を寝かしつけようと肩を掴むが、彼女はするりと手を抜けた。


 少女は、鏡の前に立った。

そして、側にあった小さな椅子を投げつけた。壁に当たった椅子は鏡とタイルを破壊して、壁に小さな穴を開けた。その後で彼女は折れた椅子の足を持って四枚並んであった窓ガラスを全て叩き割った。


「割れた卵からでも雛は孵るのよ!」


 スキップしながら鼻歌なんて歌っている。

 すると、急にくるりとこちらに身を翻した。


 荒々しく痛々しく、彼女はベッドに戻ってくる。


「さあ、希望の朝に還りましょう」


 彼女ははしゃいだ様子でベッドに飛び乗ってきたので、僕はそれを受け止めて、背中からベッドへ沈んだ。

 彼女の重みを胸に感じながら、包み込む。


「あなたには、静寂をあげる」


 少女は僕の鎖骨に顔を埋めてそう言った。


「私は必ず私を見つける。あなたのことも必ず見つけるわ。あなたもそうしたら良いよ」


 まるで駄々の子をあやすように言われたので、僕は自分を保つために彼女の頭をポンポンと撫でた。

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