魚と人と波と【君と僕】

 まな板の上の人魚は、不気味な黒い髪から水を滴らせて、俺を見ていた。


 まるまると太った魚の身体に、成人ほどの大きさの人間の頭部がついている。海藻のような髪の間に、充血した黄色い結膜と白く濁って焦点の不明瞭な角膜が、まん丸とあった。時折苦しげに、口をはくはくと動かしている。


 家のすぐ近くにある浜辺に打ち上げられていたのを拾ってきた。

 尾鰭を掴んで運ぼうとしたら、「頭に血がのぼるからやめてくれ」と、言われたので丁重に両手で抱えてやった。すると今度は「手が触れて肌が火傷しそうだ」と、言ってきたので、持っていたビニールのエコバッグに海水を溜めて、そこに入れて運んだ。


 そうして家に帰ってきて、今、俺は人魚を目の前にして包丁を握っている。

「残念でした」

 ピチピチと胸鰭をまな板に打ち付けて、人魚は嘲った。

「ボクを食べたって不老不死になんてなれないよ」

「知ってるよ。この島の周辺にいる人魚の肉にそんな力はない」

「へぇ? よくご存知で。じゃあなぜボクを食べるんだい?」

「お腹がすいた。それだけだよ」

「悪食だ」

 自分で言うのか、と思いながら、俺はキッチンの丸椅子に座った。

「君はまだ幼体みたいだね」

「それでもお前よりはずっと長く生きてるさ」

 人魚はギザギザの歯を見せて、ニィと嗤った。

「お前変わり者だなぁ。それに、この土地の人間の血の匂いがない」

「…わかるんだね」

 本島から三〇〇キロほど離れたこの島よりも、更に離れた本土から、小学生の時に両親と移住してきた。

「皆んな、さぞや仲良くしてくれるだろう?」

 キキキっと独特な笑い声をあげて、人魚はバタバタと跳ねた。

 チリと、脳裏にあまり快いものでない記憶が巡る。

 ——島の人は、何年経っても未だに俺たち家族を異物扱いする。外から来た人、だと。

「……俺、昔人魚に会ったことがあるんだ」

「ほお? どんな奴だい? 知ってる奴かも」

「君より人間ぽくて、君よりずっと美しかった。それにずっと優しかった」

「…キキキ、意地悪な言い方をするねぇ」

「ふふ。君の真似だよ。その人魚のコが言ってだんだけど、人魚が浜に上がると——津波が起こるって」

 人魚は動きを止めて、俺を品定めするように目を見た。

「——そうだよ。キキ、これから津波がくるよ」

 瞼のない瞳は、真っ直ぐにこちらを見ている。

「今から沖に船を出せば、君だけは助かる。ほら、教えてやったんだからボクを逃がしてくれ」

「そうか。皆んなに教えないと」

 俺は立ち上がってドアの方に視線を向けた。

「…何故だい? 君はここいらの人間に爪弾きされているんだろう? 図星だろう? 復讐するチャンスじゃないか」

「教えてくれてありがとう。けど、いいんだ」

「そんなことを言うな。君がこの島の人間に受け入れられることなんて一生ないんだぞ? 傷つけられたままでいいのか?」

「ずいぶん口が回るようだけど…——命乞いかい?」

 俺が言った瞬間、人魚は身を大きく捩ってまな板から跳ね上がり、ギィッと恐ろしい鳴き声をあげて俺の顔に向けて飛んできた。

 俺は持っていた包丁を振り上げて、人魚の頭を割った。頭蓋のない柔らかい頭部には簡単に刃が刺さった。人魚は頭に包丁を生やしたまま床に落ちて、動かなくなった。

 俺は尻尾を掴んで、もう片手で人魚の頭から包丁を引き抜いた。ドバッと血が床に落ちて、海ができた。

 まな板に再び人魚をのせる。喋らなくなった人魚の髪をかきあげて、胴と首の境に刃を当てた。魚の目はぴくりとも動かない。

 

 力を入れると、ストン、と頭が落ちた。そこで魚は束の間痙攣した。しかしそれきり動かなくなった。

 

 *****

 

 食卓の上の肉を刺身で食べる。

 焼いた方が美味いんだろうな、と何度も口の中で咀嚼する。

 あの後、切断された人魚を持って村長のところへ行った。村の言い伝えを重んじる村長はすぐに電波放送を流して、避難を呼びかけ、村人たちはそれに従った。

 

 波の音がする。

 人魚を退治すれば津波が回避されるなんてこともなく。当てが外れてしまった。あのコの言った通りだ。どうすることだってできないのだ。それを嫌がって、「私と一緒に海に引き戻されたら、ヒトは無事では済まないから」と、彼女はいつも沖合から笑って、浜には近づこうとはしなかった。

 

 窓から海を見つめる。俺が愛したこの景色は、大波で俺の過ごした時間も含めた歴史を飲み込む。

 津波から皆んなを救ったヒーローになれたら、俺はこの先どんなことがあったって、ここで生きていけると思った。

 だけど、現実はすんなりとはいかず、村長は人魚を殺した事で津波を呼び寄せたのだと俺を非難した。皆んなもそれに同調した。

 

 まぁ、そんなことはどっちでも良くて。

 かつて出会ったあのコを思い出す。悪餓鬼共に悪戯されて、海に落ちたところを助けてもらった。

 彼女はひとりで逃げなかった僕を誇ってくれるだろうか。

 

 ただ、彼女に褒められたい。

 彼女のように形の違うもの愛せるようになりたかった。

 それが俺の全てだった。

 

 今はもう彼女がどこにいるのかわからない。かつてのあのコに、言われた事を思い出す。

「僕を食べて欲しいだなんて、私は人なんて食べないわ。私だってあなたに食べられたくなんか無い。食べたって心までは自分のものになんてならないわ。愛おしい日々をお腹に閉じ込めても、悲しいだけだわ」

 海水の波間に、あのコは俺の手を水掻きのある手で包んだ。火傷させるんじゃ無いかと思って、引っ込めた手を彼女は離しはしなかった。

 

「寂しくなったら、また海においで」


 

 

 皿はからになった。やはり不老不死になっているような感触もなく。

 

 もし俺が、この波を超えて君に会いにいけたのなら、君はただ、笑ってくれるだろうか。

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