第34話

 ――まるで海の中を歩いているようだ。


 扉の先の通路を歩きながら、ルサルカとエレンは同じことを思った。


 精霊宮殿は地上にあるはずなのに、上下左右は水の空間が広がっていて、そこには魚が泳いでいる。


 現代日本にある水族館をファンタジー世界で作ればこんな風になるのかな、とルサルカは興味深そうに辺りを見渡す。


「これが精霊宮殿……」

「エレンも初めて入ったの?」

「はい。幼いころは母に止められていて、母が死んでからは……」

「まあ近づかないよね」


 とはいえ、勿体ないなと思う。


 エレンだけじゃない。クーリアも、アレスも、他の誰もがこの精霊宮殿に入ることは禁じられている。


「こんな綺麗なのにね」

「……はい」


 時々頭上を通る巨大な魚の腹部。寝ている海の生き物たち。中には交尾をしているのもいた。


 本来なら昏い海の底でしか見ることのできないそれも、今は陽の光があたりキラキラと輝いている。 


 きっとこんな光景を見られるのはここだけだ。


 それほどまでに幻想的な世界が広がっているというのに、誰も見ることが出来ないなんてなんて勿体ないのだろうと思う。


「よし。化物を追い出したらここを観光地にしよう」

「神聖な精霊宮殿ですよ?」

「だからだよ。美しい物は皆で共有するべきだ」


 そう真顔で答えると、エレンは少し笑った。


 今がどうなるかわからないと不安に思っている自分と違って、ルサルカはすでに未来を見ていたからだ。


「そうですね……ここに人が集まり、みんなが笑顔になる。それは素晴らしい光景だと思います」

「でしょ? こんなもの、独占するべきじゃない」


 そうして蒼の世界を楽しみつつ、ルサルカたちは精霊宮殿の奥にある扉まで辿り着いた。


 明らかに異常な魔力を放っているのは、その奥の存在。


「ここだね」

「……」


 明らかに強張るエレンの手を、ルサルカはそっと握る。


「緊張しなくていいよ。何度も言うけど、大丈夫」

「……はい」


 そうして二人は扉を開き、その奥にある存在の下へと向かうのであった。




 扉の奥、そこには高い階段の上で男性が玉座に座り、足を組んでこちらを見下ろしていた。


「何者だ?」


 長く伸びた髪は深い海のように蒼黒で、すらっとした全身は龍を思わせる。


 瞳には光が宿っておらず、今ルサルカたちを見る視線もどこか遠い。まるで存在の次元が違うのだと興味を示さない。


 美しすぎる絵画は人に恐怖を与えると言うが、この男は存在そのものが美しすぎて

ただ圧倒された。


 深く響き渡る声は魔力が籠っており、エレンはその声を聞いただけで跪いてしまいそうになってしまう。


「ただの旅人だよ」

「旅人?」

「うん。世界を見て回ってるんだけど、ここは綺麗だからね」


 そんなエレンの前に、ルサルカが立つ。


 彼女はこの恐ろしい存在を前にしてもいつもと変わらぬ態度で、ただ観光に来ただけだと告げた。


「たしかにここは美しい。だが中に入る許可を与えた覚えはないぞ?」

「許可なら貰ったよ」

「……なに?」

「ここはオルレアン公爵家の物。そしてこの子はエレン・オルレアン。お前みたいな不法侵入者とは違う、正式な『精霊宮殿の主』だよ」


 その言葉に、初めて怪物はエレンに反応を示した。


「そうか……お前はオルレアンの娘か」

「っ――!」


 その視線には光が灯っていない。それでも過去を思い出すような、ほんのわずかな怒りがあった。


「それで、オルレアンの娘が今更私になんの用だ?」

「……貴方を倒しに来ました」

「ほう……」

「倒して、母の無念を晴らし、この街を守ります!」


 エレンがそう言った瞬間、周囲の空間が歪み始める。


「人間ごときが、この神龍リヴァイアサンを倒すだと?」


 舐められているとでも思ったのか、リヴァイアサンを名乗る男は怒りを見せながら軽く腕を振るう。


 その瞬間に生まれた無数の小さな水玉。


 前後左右あらゆる方向から覆われたそれは、まるで雨の中で時が止まったような状態だ。


「へぇ……」

「我は神なり」


 ただその一言で、水玉が二人に襲い掛かる。


「『風を在れ』」


 ルサルカが一言呟くと、二人を守るように竜巻が発生して水の魔弾をすべて巻き込みながら消していく。


 竜巻が消えると二人は無傷で――。


「こんなもん?」

「……なるほど。少しはやるようだな」


 少し本気になったのか、リヴァイアサンの魔力が急激に高まる。

 

 そして生み出されるは水で出来た水龍。


 先ほどの水弾とは比べ物にならないほどの魔力で生み出されたそれは、エレンがこれまで見てきたあらゆる存在よりも圧倒的で、恐ろしいものだ。


「怖がらなくてもいいよ」

「ルサルカ様……」

「エレンのことは守ってあげるから、まっすぐ目を逸らさないで」

「……はい」

「神に逆らった貴様らは、圧死せよ」


 凄まじい圧力をもって迫ってくる水龍。


 それはきっと、ただの人間であれば簡単に潰されてしまうものだろう。


 だがしかし、ここにいるのは魔王すら殺してみせた最強の魔法使い。


「水の龍はロマンがあっていいけどさ。もう少し造形にはこだわった方がいいね」


 同じように水の龍を生み出したルサルカは、笑いながらそれをぶつける。


 お互いの存在を喰らい合うようにぶつかったそれらは、まるで互角の力をもって消滅した。


「互角だと? 神である我と矮小なる者の魔法が?」

「ようやく少し驚いてくれた」

「っ――調子に乗るな!」


 生み出されるのは無数の水の刃。


 先ほどの水玉と大差ないそれを見て芸がないと思っていると、レーザーのように圧縮された水が放出される。


「風よ」

「甘いぞ小さき者」


 ルサルカの作った風の刃を貫通してくる。間一髪で避けることに成功したが、水の刃がまだまだある。


 現代日本でもダイヤモンドをカットするのにウォータージェットと呼ばれる水加工が使われるが、このファンタジー世界でもあらゆるものを切り裂くのは伝説の聖剣ではなく水らしい。


「究極までに圧縮した魔力は、ただそれだけで最強の矛となる。貴様ごときの魔法で防御できると思わないことだ」

「る、ルサルカ様……」


 狙いを定められた状態。普通なら万事休すと諦めてしまうほどの力の差。


「正直ここまで出させられるとは思わなかったが、貴様らにこれを防ぐ術はあるまい」

「そう思う?」

「強がるな。魔力の差はもちろん、そもそもの魔術操作の腕が違うのだ。神である我と貴様らではな」


 そうして無慈悲にも放たれたそれはルサルカたちを斬り裂かれ、その姿が陽炎のように消えていく。


「まあそれも当たればの話だよね」

「なっ――⁉」


 リヴァイアサンが驚いた時にはすでに、ルサルカとエレンの二人は彼の頭上に迫っていた。


「エレン、お前がやるんだ」

「ルサルカ様……はい!」


 そうしてエレンは集中する。その魔力に惹かれるように、オルレアン中の精霊たちが彼女の呼び声に応えてきた。


 先の一撃でルサルカたちを殺せると思っていたリヴァイアサンは驚き硬直している。


「まったく、神を名乗る連中ってのはどうにも人を格下に置きたがる……」

「神は絶対だ!」

「違うね。神様も間違いは起こすもんだ」


 ルサルカを転生させた『本物の女神』でもそうなのだ。


 このように、ただ力が強いだけで神を名乗るようなまがい物たちが、間違いを起こさないわけがない。


「まあ、その油断でお前たちは簡単に足元をすくわれるわけだけど……いけるねエレン」

「はい!」


 今彼女のもとにはオルレアン中の精霊たちが力を貸して、強力な水の塊が空を浮かんでいた。


 それは一個人どころか、一つの街すら飲み込みかねないほど強力な『海』そのもの。


「ぬぅ……あり得ぬ! なんだその力は!」

「どうしたの神様? もしかして、たかが人間一人が生み出した力に怯えてるのかな?」

「そんなわけが――おい人間……なんだその目は!」


 エレンはまるで冷たい瞳でただ見下す。


 そこに激烈な感情は必要ない。ただずっと、ずっとイメージしてきたとおりに魔術を放つだけ。


「いいねエレン。そうだよ、相手を倒すのに復讐心なんて必要ない。必要なのは魔術を正確に放つための冷静さだけだ」

「……はい」


 正直、エレンはこのリヴァイアサンに会ったらもっと取り乱すと思っていた。


 怖いとは思ったが、しかし憎いとか殺したいとか、そういう想いはあまりない。


「おい、やめろ! 私を誰だと思っているのだ!」

「ただの魔物でしょ?」

「ふ、ふざけるな! 我は神だ! 力が封印さえされていなければ、貴様ら人間なんぞ何万いようと――」

「もう、いいです……潰れなさい!」


 その言葉を最後まで聞くことなく、エレンはその力を解き放つ。


 逃げ場のない圧倒的質量の水を前に、龍神リヴァイアサンは最期の言葉を放つことも出来ずに飲み込まれるのであった。

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