第10話
ルサルカが公爵家令嬢のエレン・オルレアンに買われてから三日が経った。
最初にエレンが言ったように、この屋敷での生活は普通の客人以上のもので、不自由なく過ごすことが出来ている。
水の都と呼ばれるだけあり、高台に建てられたこの屋敷から見下ろすオルレアンの景色は荘厳の一言。
この世界に転生してから多くの街を見て回ったが、ここほど美しい街はエルフの国シルフガーデン以来だった。
「さて、今日は街に出てみようかな」
ここ数日はエレンも忙しいらしく、魔法の師匠になるという話もあまり進んでいない。
ルサルカとしても家主が忙しい中で自由に動くのもどうだろうと悩んでいたので、この数日は屋敷の中を散策することだけにしていた。
とはいえ、いくら大きな屋敷であっても一日あればほぼすべてを回りきれる。
幸いここには大きな書庫があったため、一日は時間を潰せたがルサルカの目的は世界中を旅することだ。
鳥の宿り木のように、一時的に立ち止まることはあれど、そこにじっと留まり続ける意思は今のところなかった。
「ま、だからって急ぐような旅じゃないけどね。さすがに大金貨一万枚で買われた以上、多少は返さないと」
ここ数日の間、自分の世話をしてくれているメイドに声をかけると外出の許可があっさり出た。
先日エレンが言っていたように、自分の自由を束縛するつもりは一切ないらしい。
「返すどころか……お小遣いまで貰ってしまった」
屋敷を出て、ゆっくり歩きながら坂道を下っていると、水がまるで逆流するかのように高台の方へと流れていくのが見える。
明らかに自然現象ではありえないそれは、恐らく精霊の仕業だろう。
「そういえば、このオルレアン公爵家は代々、水の精霊と契約してるって話だっけ」
精霊と共存する国『セレスティア皇国』。
その四大貴族はそれぞれ皇国の守護精霊とともにあるという。
皇国の南西部を治めるオルレアン公爵家は、水の精霊と共に在ることで、この地域一帯を栄えさせているのだ。
「精霊はシルフガーデンにもいたけど、こんな風に人界に干渉出来る力を持つのはいなかったなぁ」
自由気ままな気質を持つ精霊と、森の規律を準ずるエルフは相性もあまりよくなかった。
ルサルカとしては精霊術というのにも興味があったのだが、なぜか魔力を食われるだけで、精霊たちは逃げていってしまうのだ。
ルサルカが高台から街まで降りると、白亜の街並みがずっと広がっている。
「うん、いいね」
周囲を伺えば、この街の住民たちが楽しそうに笑っていた。
子どもは母親と手を繋いで笑い、真昼間から酒を飲んでいる男たちは口を開けて大声で笑い、道の真ん中で井戸端会議をおこなってる女性たちは微笑んでいる。
それを見たルサルカは、少しだけ嬉しく思う。
これまで勇者セリカと共に歩んできた旅は、希望に繋がっている英雄譚とは裏腹に、実際は魔王によって苦しめられる街々を渡り歩く旅だった。
訪れる街の人々に笑顔は少なく、行く先々の街並みを見ても楽しい気分になれるはずがない。
それに比べて、このオルレアンの街の住民たちは笑顔で満ちており、見ているだけでこちらまで気分が高揚してくる。
こういう街並みや光景を見るために旅をしたいと思っていたルサルカは、改めてこの世界に転生した頃の気持ちを取り戻しながら気分良く街を歩く。
「お……?」
街を縦横に走る運河の上で揺れている、カヌーのような水上バスが目に入った。
見れば同じ乗り物があちこちで運河を渡っており、看板には乗り物の名前はゴンドラと書かれている。
興味深く思ったルサルカが階段を下りて船へと近づいていくと、スキンヘッドにした厳つい男が腕を組んで座り込んでいた。
どうやら彼が、この船の漕手らしい。
「ねえ、ちょっとそのゴンドラに乗せてよ」
「おう、銅貨三枚だ」
エレンから貰ったお小遣いを渡して、ルサルカはゴンドラに乗る。
漕手が慣れた手つきで船を発信させると、柔らかい風が自分の長い髪の毛を揺らし始めた。
水面を見ると、エルフとして生きてきた長い耳に美しい容姿の自分が映っており、この顔も見慣れたものだと感慨深く思ってしまう。
「この街の水は綺麗だね」
「水の精霊様がいつも綺麗にしてくださっているからな」
立ったまま器用に扱ぐ漕手は、そう言いながらこの街のことについて話してくれる。
ずっとこの街でこの仕事を生業にしているそうで、基本的なことから、ルサルカが疑問に思って尋ねたことも淀みなく答えてくれた。
「――ってわけだ」
「なるほどね。それじゃあ、水の精霊はここ数年は顔を見せてないんだ」
「ああ。それまでは毎年一回、アクアフェスティバルの時には出てきてくれたんだがな……つっても、これまで通り街の水は綺麗で、精霊様が見守ってくれてることに疑いはねえけどよ」
アクアフェスティバルというのはこの水の都オルレアンで行われる祭りの名称である。
その歴史はすでに二百年を超えており、今もなお語り継がれている歴史ある祭典だ。
年に一度、三日間行われるこの祭りは、元々水害の多いこの地域の住民たちが一年を安全に過ごせるように祈るものであった。
それがいつの間にか、大水害の前には貴族も平民も平等という意味が込められ、顔を隠して仮装しながら誰とでも一緒に騒げる祭りに変わっていったのである。
「アクアフェスティバルって、いつ頃?」
「二月の中頃だな。丁度その頃になるとこの近辺の水位が増してきて、しかも街を飲み込むくらいの高波も出てくる時期になるんだが……元々アクアフェスティバルはそんな水害が起きないよう祈る祭りだったんだよ」
今は騒ぎたい奴らが騒ぐだけの祭りになってるがな、とスキンヘッドの漕手は皮肉気に笑う。
それを聞きながら、前世のヴェネチアでもカーニバルという祭りがあったと思い出す。
一度だけ行ったことはあるが、住民も旅行者も仮装して行動する様は中々壮観だった。
それにヴェネチアもこの街同様、水害の多い街として有名だ。
大潮、低気圧のタイミングで『シロッコ』と呼ばれるアドリア海の東南から吹く風が加わると、異常な潮位の高潮が発生し、その際には街の一部が水没してしまうほどである。
科学が発展した現代地球ならともかく、この時代の人間にとってそれは神に祈りをして止めなければならない、原因不明の大災害となることだろう。
「水の精霊に感謝をする日じゃないんだ」
「感謝してるさ。水の精霊様がこの地域に住むようになってから、街を飲み込むほどの高波はそのお力で発生しないようになったんだからな」
「それはすごいね」
「ああ、だから信心深いやつらなんかは当然祈る。んで、若いガキどもは、美味しい肉をたらふく食べられるフェスティバルで騒ぐのさ」
かつてこの地域では肉を食べることは悪魔の証明だと言われ、禁止されていたという。
そして水の大精霊がこの地域に現れた頃から、肉を食べるのは生命として自然なことだと教えられ、フェスティバルのときにはたくさんの肉が用意されることになった。
別名、謝肉祭とも呼ばれ、肉の屋台が運河沿いに並んぶ様は壮観の一言。
アクアフェスティバルとそれを見るために、遠い異国からやってくる旅人もいるそうだ。
「そうか、二月か」
今が十一月に入ったばかりなので、あと三ヵ月後の話である。
それが長いか短いかは人によるが、ルサルカは急いで旅に出なければならない理由はないので、少なくともアクアフェスティバルまではこの街にいようと決めていた。
そんな話をしているうちに、水上バスは目的地だった駅まで着いてしまう。
「ありがとよ」
「こっちこそ、楽しい話を聞けたよ。ありがとう」
綺麗な景色に心地の良い街の風、そして見た目とは裏腹に知識豊富な漕手の話を肴に、ずいぶんと楽しめた。
アクアフェスティバルのことは知識として知っていたが、実際にこの街に長年住んでいる人物からの話はやはり貴重だ。
やはり、旅の醍醐味はその地域特有の話や住民とのコミュニケーションだとルサルカは思う。
「さてさて、次はどこに行こうかな」
運河が上下左右、あらゆる方向に伸びているこの街は、先ほどのようにゴンドラを使って移動するほか、徒歩で動く場合は専用の橋を渡り続ける必要がある。
先ほどまで水に揺られたゴンドラの上にいたせいか、少しふらつく歩き方でルサルカは橋の方まで向かっていくのであった。
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