第7話
前世で旅行が趣味だったルサルカにとって、水の都といえばヴェネチアを思い出させる。
異世界版ヴェネチアこと公都オルレアンは、運河で区画が仕切られながら家々は建てられており、そこかしらに橋や運河を渡るための小舟が用意されていた。
そこに精霊というファンタジーを交えたこの街は、ルサルカにとって興味深い街である。
この世界に転生してから様々な街をセリカたちと見てきた。
だがこれまで旅をしてきたアークライト王国や大陸北部の街々は、魔王との戦いでかなり疲弊しており、悲壮感も漂っていたものだ。
それに比べてこの街は人々も活気で満ちており、歩くだけで楽しい思い出になりそうだと思う。
「ねえクドー。後で合流するから、ちょっと街を見てきてもいいかな?」
「奴隷が勝手に街を見に行っていいわけ、ねぇよなぁ」
高い立地の上に建てられたオルレアン公爵邸に案内されたルサルカとクドーは、広い待合室で待たされることになる。
「うん、絶景だねぇ」
大きな窓の外には水の都オルレアンを一望できるようになっており、それを見たルサルカの気分は高揚していた。
特に圧巻なのが、やはり水の精霊が住むと言われている『精霊宮殿』。
精霊を祭るこの建物は、この街の他にもあと四つあるというのだから、いずれそれらも観光しなければと気合を入れる。
そうしてしばらく待っていると、扉から男性がやってきた。
すでに老齢といてもいい年齢の割には背筋はしっかり伸び、着ているタキシードも皺一つなく、その所作も完璧。
まさに執事と呼ぶに相応しい立ち振舞いだ。
「お待たせしました。エレンお嬢様のご準備が出来ましたので、こちらへ」
そう言って礼儀正しく頭を下げる白髪が目立つ老執事に付いて行くと、高級ホテルのスイートルームのごとき広い部屋に案内された。
中で待っていたのは、これまで旅の中で着ていた白いドレスではなく、薄い水色の柔らかいものに着替えたエレン。
彼女は赤いソファーに座り、微笑んでいた。
テーブルの上には契約書らしき紙がいくつか並んでおり、体面のソファーは空席だ。
「ルサルカ様、それにクドー様、そちらに座ってください」
そう言って老執事はエレンの背後に立つと目を閉じ、自分はいないものとして扱ってくれと態度が示していた。
「さあ、さっそくではありますが、こちらが契約書になります。ご確認ください」
「拝見いたします」
エレンが用意した書類をクドーに手渡すと、彼は真剣な表情で文字を追いかける。
この間、ルサルカに出来ることはないので、ただただ待つだけで暇だった。
「……公爵家の印までしっかり入ってる。大金貨の受け渡し方法も問題なし。公証人として、皇国のギルド長と、裁判長を用意……か。額が額だから当たり前とは、こんなの初めてですね」
「もちろん秘匿性と今後しばらくの安全に関しては十分注意をさせて頂きます。なにせ、この取引後に貴方が殺されてしまえば、公爵家が金を払うことを渋って殺した、なんて噂を流されかねませんから」
「敵対派閥の嫌がらせですか……そいつは助かりますが……」
アフターフォローまでしっかりしてくれる取引先というのは案外少ないものだ。
こういった取引に疎いルサルカから見ても、エレンの出した契約書というのはかなり親切なものに感じる。
ただ、その契約書を見たクドーはどうにも表情が曇っていた。
「どうしたの? いい契約に聞こえるけど」
「いい契約、過ぎるんだよ。こういう時はな、なんか裏がないか確かめねえと後でとんでもない目に合うもんだ」
「……ふーん」
相変わらず危機意識の高い男だ。
もともとは奴隷で売られたところから今の立場まで成り上がったと言っていたから、その当時の経験が今の彼を作っているのだろう。
ただルサルカからすれば、そんな面倒な生き方をしなくてもいいのに、と思う時もある。
だから気を利かせて、エレンに直接尋ねることにした。
「ねえエレン、なんでこんなに良くしてくれるの?」
「それはもちろん、ルサルカ様を気分よく我が公爵家に迎え入れられるようにです」
「だってさ」
「お前は……まあ、俺みたいな木っ端商人が公爵家に対してなにかを言えるわけねえし、これ以上はいいか」
クドーは契約書をテーブルに置くと、自分のサインを記入する。
「これで、今後このエルフはエレン様の物です。正式な調印は後日、公証人たちを交えたときになりますが、それまでこいつはどうしますか?」
「もちろん、今すぐ我が公爵家で引き取らせて頂きます」
その言葉にクドーは頷き、書類の控えを自分の懐に入れると、ソファーから立ち上がる。
「さて、それじゃあこれで商談成立ですね。おいエルフ、お前ちゃんとこのお嬢様の言うこと聞くんだぞ?」
「ふふふ、私ほど素直な奴隷はいないと思うよ」
「だからなんで売られたのに得意げなんだよお前はよ。ったく、相変わらず調子狂うぜ」
呆れたように頭をかくその仕草は、何度も見慣れた光景だ。
ここ一ヵ月は同じようなやり取りをして、クドーとはそこそこ一緒にいてだいぶ親交を深められた気がした。
「それじゃあエレン様、こんな面倒なやつですけど、多分使い方によっては役に立つので……こいつのこと、よろしくお願い致します」
「はい、もちろんです」
自分が売った奴隷のために頭を下げる奴隷商人がどれほどいるだろう。
やはりクドーは見た目に反していい男だと思う。
「クドーはこれからどうするの?」
「あん? とりあえずしばらくはこの街で滞在して、残りの奴隷たちを売りさばかねぇとな」
「そっか。ちゃんと良いところに買ってもらえるよう、頑張ってね」
「お前を売った金で一生分は稼いだからな。あとはちょっと伝手を使えば余裕だよ」
自信ありげにそう笑うものだから、ルサルカも軽く笑い返す。
「てめぇは絶対、公爵家に迷惑かけんなよ。俺の首が飛ぶから、物理的に」
「誰に言ってるのさ? この奴隷根性が染みついた私が迷惑なんてかけるわけないじゃないか」
まったく信じられない、という表情をするクドーを見るのは中々楽しい。
彼もそんな自分のからかいに気付いて、呆れたように溜め息を吐く。
「ハァ……まあいいや。とりあえず、お前に限って心配ねぇと思うが、その……元気でやれよ」
「ふふふ、そっちこそね。一ヵ月程度の旅だったけど、まあまあ楽しかったよ」
「人攫いに売られた奴隷がそれを買った奴隷商人に言うセリフじゃねえなマジで」
そうして、ルサルカをこの地まで導いた奴隷商人クドーは、オルレアン公爵家を後にする。
出会いと別れ、これも長い旅における醍醐味の一つだろう。
もしかしたらいずれ、彼とはまた道が交わることがあるかもしれない。
その時は、それまで起きた旅の一幕をまた語ってやろうではないか。
「さあ新しいご主人様? それで私はなにをしたらいいのかな?」
そうしてルサルカは不敵に笑いながら、この新しい出会いを楽しむのであった。
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