第6話 転移

 深い沼の底から引き上げられるように、ヒロの意識が少しずつ冴えてきた。


 ……体がだるい。

 まるで深い眠りから覚めたときのような倦怠感を感じ、頭もぼうっとする。

 一歩も動きたくないし、何も考えたくない。

 このままずっと横たわっていたい……。


 そう思いながら、背中に感じるチクチクとした感触から逃れるように身をよじった。多分草か何かの上に寝転がっているのだろう。


(……え? 草?)


 頭が一気に冴え渡り、慌てて上体を起こす。目を開けて周囲を見渡せば、そには木々や草が生い茂る森が広がっていた。


「なんだ? ここは一体……」


 状況が理解できない。夢か何かなのだろうか。


 だが、足や尻に伝わってくる草の感触も、木々の間から差す日光の温かさも、土や木の香りも、どれもリアルすぎて夢だとは思えない。全身に当たっているこの風の感触だって……


「待てよ、風? ……うおぉ!?」


 全身がやけにスースーすると思って視線を落とせば、そこには一糸まとわぬ自分の身体があった。手で秘部を隠しながら周囲を見渡すが、鬱蒼とした森が目に入るだけで人の気配は感じられない。安堵と不安感が同時に押し寄せた。


 深呼吸をすると、改めてこの不可解な状況を整理しようと頭を回転させる。


「どこなんだ、ここ? 俺は確か……」


 そう呟きながら記憶を手繰る。


 自分は学校から帰宅する途中だった。駅のホームで電車を待っていたが、子供が線路に落ちるのを見て、それを助けようと線路に飛び込んだのだ。

 そして……


「うっ!」


 迫る列車の迫力と轟音を思い出し、思わず自分の身体を抱きしめる。その後慌てて自分の身体を確かめたが、怪我や血の跡は一切無かった。


「怪我はないみたいだ。でも……」


 先程から体がざわつくような奇妙な感覚を覚えるのだ。上手く言葉に表せないが、体内に電流が走っているような感じというか、皮膚がひりつく感じというか……


「ん?」


 考え込んでいると、近くから水が流れるような音が聞こえてきた。川のせせらぎか何かだろうか。


 行く当てもないし、ひとまず音のする方へ進んでみよう。

 そう考えて藪や草木をかき分けながら歩いていく。枝や石を踏むたびに裸足の足に痛みが走るが、しばらく進むと森の中を流れる小川が目に入った。木々の間から柔らかな木漏れ日が降り注ぎ、川面がそれを反射して美しく輝いている。心が洗われるような光景だ。


しばしの間その景色を眺めていると、視界の端にあるものが映りこむ。


「あれは……服!?」


 川沿いの木と木の間にロープが張られており、そこに何枚もの布が掛けられていたのだ。風でそよいでいるそれらは、遠目からだと服のように見える。


「川で洗濯? 随分と古臭いな。おーい! 誰かいませんか!」


 大声で叫ぶが、その声は木々の間に虚しく響くだけで返事は返ってこない。


 誰か人がいれば服を借りたいと思ったのだが、これでは無理そうだ。しかし、いつまでも全裸でいる訳にもいかない。


「……一着くらい借りたって許してもらえるだろ。うん」


 そう言って自分を納得させると、ロープに近づいて掛かっている服を手に取る。若干の汚れがある白色のそれは、膝丈のゆったりとしたチュニックだった。


「何だこれ、麻布?」


 実際に着てみると生地がごわごわしているせいで肌が痛み、足の間から風が入って股がスースーする。材質といい見た目といい、とても現代の服とは思えない。まるで教科書の中で見た古代の人々の衣装のようだ。


 しかし、これで人に会っても変態扱いはされないだろう。そのままだと服がゆったりしすぎて動きにくいので、近くに落ちている紐をベルトのように使って腰の辺りを締めることにした。


「よし。ん?」


 ふと、近くに落ちている小さな布袋が目に入る。拾って中を見ると、そこには黒色をした果実が詰まっていた。そのうちの1つを取り出してみると、手のひらに楽々収まる程度のサイズであり、強く握ると潰れてしまいそうなほど柔らかい。

 

 食べられるのだろうか?

 好奇心から実を割って口に近づけるが、その瞬間凄まじい激臭が鼻に突き刺さった。


「おえぇぇ! 何だこれ!?」


 吐き気を催すレベルの強烈な悪臭だ。思わず割った実を遠くに投げ捨てる。

 だが、布袋の中に入っている果実からは臭いがしないことを考えると、割ったり潰したりしない限りは安全なのだろう。


 お世辞にも食べ物だとは思えない。一体この実は何なのだろうか。


「はぁ……」


 ため息をつきながら周囲を見渡すが、そこには相変わらず森と川があるだけだった。これから一体どうすればいいのだろう。

 途方に暮れて立ち尽くし、考えるのが嫌になって目を閉じる。小鳥のさえずりと川のせせらぎが耳に心地いい。


 ……だが耳を澄ますと、それらに混じって別の音が聞こえることに気が付いた。


「ん?」


 遠くから金属と金属がぶつかり合うような硬質な音が響いてくるのだ。正体は分からないが、これは明らかに自然の音ではない。人間が作り出す音だ。

 

 誰かに会えるかもしれない。

 その思いから、気が付いた時には音のする方向へと走り出していた。


「はぁ、はぁ、はぁっ!」


 草木をかき分けて必死に走る。無意識に黒い果実の詰まった袋まで一緒に持ってきてしまったが、今更捨てるよりはこのまま持っていた方が良いだろう。


 森を進むにつれて音は徐々に大きくなり、同時に人の声や獣の雄叫びのような奇妙な音が混ざり始める。どちらも単一の音ではなく、まるで大勢の人々や動物が同時に声を上げているような……そんな感じだ。


 そのまま進んでいくと、突如として森が開けて視界が広がる。

 そこに広がっていた光景は信じがたいものだった。


「……え?」


 まず視界に入ったのは、石畳が敷き詰められた街道のようなもの。幅は5mほどであり、遥か彼方まで続いていて終端が見えないほどだ。


 だが、問題は街道を隔てた向こう側に広がる平野。


 そこは……戦場だった。


「な、何なんだよ、これ……?」


 鎧を纏い、剣や槍を手にした兵士たちが蟻のようにうごめいている。

 大気を震わせるような怒号と叫び声が響き、距離が離れていてもなお圧倒されてしまった。思わず目が釘付けになるようだ。


 しかし、目を凝らしてよく見ると違和感に気が付いた。

 あれは人間同士で戦っているのではない。

 人間と、人間より一回り大きな豚頭の生物が戦っているのだ。

 そしてその生物の正体を自分は知っていた。


「あり得ない! あれは……オーク!?」


 間違いない。それは『YLS』においてオークと呼ばれる存在。


 鎧を纏ったオークが巨大なメイスを振り下ろし、人間の兵士を盾ごと叩き潰す。するとその兵士の後方から他の兵士が躍り出て、攻撃の隙を見計らったかのようにオークの腹に槍を突き刺す。

 そんな小さな戦闘が何百、何千と集まって1つの戦場を形成していた。

 

「訳が分からない……! 一体どうなってる!?」


 現実離れした光景だが、とても夢だとは思えない。呆気にとらわれて立ち尽くしていると、さほど遠くない場所からいくつもの悲鳴が聞こえてきた。


 声のする方を見れば、そこにいたのは街道上を走ってこちらに向かって来る大勢の人々だ。年齢や性別は様々だが、皆自分と同じような膝丈のチュニックを身に着けていた。


 彼らの顔は一様に恐怖で歪んでおり、まるで恐ろしい何かから逃げているかのようだ。


「あ、あの、すみません!」


 人々に向けて声をかけるが、皆走るのに必死であり、こちらには目もくれずに次々と自分の前を通り過ぎていった。彼らは口々に訳の分からない言葉を叫んでおり、顔立ちもまるで西洋人のようであった。


 ここは日本ではないのか?

 いや。それより彼らは一体何から逃げている?


 そう思って人々の後方に目をやると、そこに2つの大きな影が見えた。


「なっ!?」


 そこにいたのは二体のオークだったのだ。オーク達は薄汚れた鎧を纏い、血で濡れた槍を手にして雄叫びを上げながらこちらへ迫ってきている。


(う、嘘だろ? 一体何がどうなってるんだ……!?)


 混乱で上手く思考が回らない。目の前の光景にまるで現実味が感じられず、夢でも見ているかのようだ。いや、もしかしたらこれは夢なのだろうか。

 そんなことを考えていると、オークの一体がこちらに目を向けるのが分かった。


「ひっ!?」


 思わず悲鳴が漏れる。鼻息を荒くしながら迫り来るその姿は、距離があってもなお動けなくなるほどの迫力だ。


 いや、突っ立っている場合ではない。

 こうしている間にも人々は次々と目の前を通り過ぎていき、オークも迫ってくる。

 自分も逃げなければ。

 そう思ってオークに背を向けようとした瞬間だった。


 逃げる人々の最後尾近くに、1人の少女が見えたのだ。


 彼女はボロ布のような服に身を包み、右足を引きずりながら両手で杖をついて歩いている。ぼさぼさの長い金髪に隠れて顔は見えないが、服から覗く手足はガリガリに痩せており、身体の線も病的なまでに細かった。


「あっ!」


 少女が突然バランスを崩し、肩から地面に倒れ込んでしまう。街道に木の杖が転がって乾いた音をたてた。

 だが、人々はそれには目もくれず次々と少女を追い越していく。彼女は必死に転がった杖へと手を伸ばすが、オークはそのすぐ近くまで迫っていた。


 いや、俺は何をしている?

 他人のことなど気にしている場合ではない。

 馬鹿なことは考えるな、今すぐ逃げるんだ。


 そう考えて少女に背を向け……ようとした瞬間だった。

 

 彼女と目が合ったのだ。


 ぼさぼさの金髪の間から覗く、夜空のように美しい紫色の瞳。

 その瞳は、助けを乞うようにじっとこちらを見つめている。


 気が付けば、俺は少女の顔から目が離せなくなっていた。その間にもオークの血走った目がこちらへ近づいてくるというのに。


「……」

 

 たまらなく怖い。

 息ができないほど恐ろしい。

 今すぐにでも逃げ出したい。


 だが、逃げられない。


 何故だ? 何故俺は逃げない? 

 自分でも自分が分からなくなり、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 そのとき、脳裏にかつての自分の姿が浮かんだ。


 ……俺は自分が大嫌いだった。

 落ちこぼれで、誰の役にも立たず誰からも必要とされない。そんな自分が大嫌いだったのだ。自分という存在の意味が分からず、ただ無気力に毎日を生きているだけだった。


 しかし、今は違う。

 俺は今あの少女に必要とされている。


 そのとき、目の前の少女と線路に落ちた子供の顔が重なった。

 

(そうか。分かった、俺は……)


 ここが何処かは分からない。

 夢なのか現実なのかさえもはっきりとしない。

 だが、ここでも俺は誰かに求められている。

 それだけ分かれば十分だ。


 そう決意を決めると、街道の石畳を蹴って少女の元へと向かう。


 少女に近づくにつれてオークとの距離も縮まっていく。彼らの荒い鼻息が迫るにつれて恐怖が増し、思わず足を止めてしまいそうになった。


 しかし、誰かから必要とされているという事実が、目の前の少女の姿が、地面を蹴る俺の足に力を与えてくれる。

 

 それに、ただ無策に突っ込みに行くわけではない。


 走りながら手にしている黒い果実の入った袋に目を落とした。もしもあのオークが『YLS』の中と同じ存在なら、これが役に立つ可能性がある。


「フシュウウウゥ……!」


 オークの鼻息がすぐ近くに聞こえる。俺は恐怖を押し殺しながら彼らの前に躍り出ると、少女を守るように立ち塞がった。


(さぁ、一か八かだ……!)

 

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