第19話「深夜。師弟二人」

「雨ですね……」


 孝代たかよ鬱陶うっとうしいというような顔を、真っ暗な夜空へ向けていた。片手がふさがるので傘は使えない。レインコートは、どうしても動きが制限されてしまう。


 しかし時男ときおは対照的で、いつものハンチング帽だけでレインコートも使わない。


「運がいい証拠じゃ」


 胸の前に手をかざし、てのひらに感じた雨の感触を確かめるように握る。


「陰陽道や風水の五行では、水は陰中の陰・・・・


 マイナスの意味を持っている。


「そういうものですか?」


「そうものじゃ」


 時男は笑いながら、孝代にはレインコートを着せた。


 時男が雨を好むのは、飽くまでもげんかつぎだ。


 ――ちょっと可笑おかしい。


 レインコートに袖を通しながら、孝代は自分についている二人の師匠を思い出す。



 時男ときお彩子あやこ――何もかもが対照的だ。



 時男は験を担ぎ、また身に着けているのは剣術や武術に根ざしており、どちらかといえばアナクロ。男性であり、定年前というのだから、中年というよりも老年だ。


 彩子は験を担ぐような雰囲気はなく、身に着けているものも信条も、数式と化学式で全て解明できると胸を張っているように思えるものばかり。そして女性であり、歳は時男の半分も生きていない。


 そこが可笑しいと笑う孝代だったが、時男の手がその口を塞いだ。


「しゃべるでない」


 時男らしくない乱暴な行動の裏には訳がある。


「……おる」


 そっと孝代の口元から手を放した時男は、この深夜に公営住宅の前に陣取っている一団を示した。



 霊だ。



 今、見えているのは、こちらに気付いていないからだろうか。


 ――どうしますか?


 声を出せなくなった孝代は、いったつもりでパクパクと口を動かした。


「……」


 時男は片手を突き出し、「待て」とジェスチャーする。孝代がいわんとする事くらいはわかる。


 時男は注意深く霊の動きを探り――、


「悪魔はおらぬな」


 そこにいるものが霊ばかりだと判断した。レンズを聖油で焼いたメガネは、こういう時にも役に立つ。実体に近い密度を持つ悪魔と、そこまでの密度を持たない霊では見え方が違う。


 悪魔――特にベクターフィールドがいない事は、時男にとって重要だ。


「この前の、剣を持った人がいないという事ですか?」


 孝代もベクターフィールドの姿を思い出していた。街ですれ違っても顔すら思い出せない相手だが、恐ろしい相手である事だけは分かる。


「おらぬな。潜んでいるやも知れぬが……見える範囲ではおらぬ」


 時男にとっては戦って敗れる相手ではないが、苦戦は必定。孝代の事を考えれば、いない方が格段に良い。


「……見限られた?」


 ふと孝代がそんな事をいった。


「ほら、車を取られて置き去りにされた訳でしょう? もう知らん、みたいな」


「いやいや、それは……」


 孝代の思い付きには、時男も笑わされてしまう。


「ないだろうなぁ。悪魔にとって、何が一番、怖いと思う?」


「え? えーっと……」


 時男の質問は意地が悪い。幾度となく経験してきた事であれば答えも思いつくのだろうが、孝代は霊はブラッディー・メアリー、悪魔はベクターフィールドしか知らない。


「すまぬすまぬ。悪魔が最も怖れるのは、孤独・・だといわれておる」


「孤独……ですか?」


 それは孝代でなくとも考えつかないと思わされた。


「あァ。悪魔がどれ程、生きるのかはハッキリせん。不老と見るのが良いかも知れぬな。つまり無限の時間がある。その無限の時間を、一人で生きていく事はできぬよ」


 1986年の大戦で時男に撃退されたリトルウッドは、魔王という称号に反し、配下が殆どいない。


 見限られたともいえる。


 ならばリトルウッドがベクターフィールドを手放さないし、ベクターフィールドも逃げ帰ったなどという噂が立てば、態々わざわざ、仲間に加えようという悪魔も、眷属けんぞくに迎え入れようとする魔王もいまい。


「共依存……?」


 孝代が思い浮かべた単語はそれだ。


「近いかも知れぬな。……行くぞ」


 これ以上は無駄話だ、と時男はマンションの影へと走った。


 ただ一つ確かなのは、皆生かいきホテルが魔王の元へ時男と孝代しか向かわせなかったのは、これが悪魔の大軍との大決戦にはならないと踏んでいるという事。


 ――悪魔一人、魔王一人。霊ならばわしが斬れる。


 皆生ホテルの信頼と、時男の自信だ。


「……」


 孝代は無言で続く。



***



 公営住宅の中に入った二人――特に孝代は、建物内の雰囲気にゾッとさせられてしまう。確かに他県から見れば有り得ないほどの住宅扶助があるのだから、公営住宅に空室が多い事は知っている。しかし人の気配がしない団地というのは有り得ない。


「人……いるんですか?」


 孝代の額には脂汗が浮かんでいた。


「一棟、丸ごと入れ替えられているのかも知れんか?」


 この周辺で異変が起こり始めた時期を考えれば、魔王リトルウッドならばやりかねない。


「私たちを探してるんでしょうか?」


 眼下の様子を見ながら、孝代が呟いた。人が霊に勝る理由の一つに、霊には知識の蓄積ができない事が挙げられる。霊が二人の痕跡を辿るような知識と技術があれば、公営住宅の中へ易々と入り込む事などできなかった。


「慌てぬ事じゃ」


 時男の声は常に冷静を保つ。


 孝代が振り向くと、屋上に設置された高架水槽に登っている時男の姿があった。地上に設置されている受水槽からポンプで水を汲み上げて貯め、それを各戸へ配水しているタンクだ。


 当然、そこは南京錠で施錠されていたのだが、南京錠は叩き壊した。


「冷静さを失うから、命までも失う事になるのじゃよ」


 時男はそういいながら、愛車から持ち出したポリタンクを持ち上げた。中身は赤茶色の液体。


「それは?」


 遠目の孝代でも色を判別できたのだから、薬品に違いない。そして薬品となれば、身体に良いものというイメージとはかけ離れている。


「まぁ……違法なものではないよ」


 時男が高架水槽から飛び降りるのはわざとだ。


 ダンッと床を鳴らしたのだから、深夜である事も手伝い、階下へ衝撃と音を伝える。


「行くぞ」


 霊を斬る時間だ。

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