第5話「苦学生・幼児・祖父」
時男の愛車は生産終了して久しいが、本人同様、ロートルという言葉とは無縁である。大切に乗っているスポーツセダンは、心臓部に搭載された水平対向6気筒エンジン共々、現役だ。
その後部シートに
「むー」
思う通りに操作ができずに
――おーくん。
窓を叩かれた音に幼児が顔を上げると、そこには缶ジュースを持った大好きな祖父が。
「おかえりなさい!」
幼児の顔にパッと花が咲いたような笑みが浮かぶと、祖父・
「ただいま。さぁ、行こうかの」
栓を開けた缶ジュースを手渡す時男が、後からついてきた二人に乗るよう促せば、後部座席から見ている幼児は、その二人の内、孝代の顔に目を丸くさせられる。
「あ、この前のお姉ちゃん!」
迷子になっていた所を助けてもらい、先程まで遊んでいたゲーム機がある売り場を教えてくれただけに忘れがたい顔だ。
孝代も、もう一人の見習といわれても、幼児の顔は思い浮かばない。
「あら……、こんにちは」
予想外の幼児に目を丸くしている孝代を他所に、運転席に回った時男は、くいっと顎をしゃくる。
「あいさつせい」
まずはあいさつだと時男に告げられた幼児は、座ったままぺこりと頭を下げた。
「すぎもとあきらだぜぃ。よろしくお願いします」
身体が沈み込み、足が地面に着かないチャイルドシートでは立ち上がれず、座ったままではあるのだが、それで失礼という孝代ではない。
「
腰を屈めて顔を寄せる孝代に、
「こいつ、でんっていうんだぜぃ。こんにちは!」
子ネコ用のケージに入っていたのは、銀色の長毛と短足が目を引くミニェットの子ネコ。
そのネコに対して、孝代は頭を下げるのではなく、手を振った。
「こんにちは」
ケージに向かって手を振った孝代にネコが大あくびで答えると、旺はポンポンとケージを叩く。
「ほら、でんちゃん。こんにちは!」
あいさつしろというのだろうか。それは無茶だと孝代は苦笑い。
「ちょっと、ちょっと。ネコちゃんが可愛そうよ」
孝代が注意すると、その時だ。
――こんにちは!
不意に聞こえた声がある。
「え?」
どこから聞こえてきた声か分からず、宙に視線を
「すみません」
頭を下げた孝代に対し、旺は自分の隣を叩き、
「こっち! ここがいいぜぃ」
「はーい」
助手席じゃなく自分の隣に来い、と旺が叩く後部座席に孝代は長身を滑り込ませた。
***
依頼人は、孝代とそう変わらない年齢の女だった。孝代に渡した資料を
「大学の二回生だそうだネ」
一人暮らしの身に起きた事件とは……、
「最近、
ただし彩子の口ぶりでは有名な事件らしいのだが、孝代は聞いた覚えがない。
「すみません。ニュースを見る習慣がないんですよ」
返済不要であっても奨学金で大学に通おうというのだから、孝代のプライベートに余暇という時間は
しかし彩子は驚くような素振りはなく、
「だろうネ。そういう顔をしている」
彩子の返事には時男も孝代も吹き出してしまうが、吹き出させた方は構うものかと続けた。
「警察発表では死因は心臓麻痺。両目は錯乱した被害者が自分で傷付けた、となっているヨ。共通点は、同じ小学校に通っていた事」
ここまでは警察が調べた事である。皆生ホテルによる追加調査でいくつか付け加えたものが、孝代に渡された資料の中身だ。肩越しに孝代を振り向く彩子は、資料をめくれと顎でしゃくる。
「うちで調べて追加できるのは、その小学校時代、肝試しに参加していた事。参加者は三人。被害は既に二人だから、最後の一人が依頼者だネ」
これは孝代には異様としか映らない。
「……鏡だけでなく、洗面台の排水管や電気スタンドにまでビニールテープを貼っていたって、本当ならノイローゼでしょ」
資料の中に現場写真など、正にそう。
ただ、ルームミラー越しに目を向ける時男は、異様の一言では済まさない。
「鏡を
資料に同封されている現場写真に、異様以外の乾燥を懐き、考察する事が皆生ホテルのホテル探偵である。
「ブラッディー・メアリーは鏡に向かって唱えるというのもあるが、そもそも鏡は、あの世とこの世を繋ぐ通り道になるともいわれておるよ。合わせ鏡は有名な話じゃろう?」
これは孝代でも知っている有名な話だ。
「あー、それは聞いた事がありますね」
ならば、と彩子が締める。
「この被害者たちは何らかの霊に取り憑かれた。その霊は、ブラッディー・メアリーのパターンに
この事件の調査と排除が、時男と、その見習いである孝代と旺の仕事であるが、孝代にはどうしても気になる事がある。
「けど、旺君、大丈夫なんですか? 危険じゃないんですか?」
隣で、分かったのか分かっていないのか、余人が判断できない顔をしている旺だ。身長から考えるに、未就学児。そして事件の方も、死者が出ている以上、危険がつきまう事は間違いない。
常識的に考えて、死傷する可能性がある仕事はブラックといえる。
そこへ幼児がいるという状態は、この事件以上に異常ではないかと思わされるのが普通の感覚だが――、旺は孝代が思っている以上に理解していた。
「僕は、お祖父ちゃんと同じ学校に行って、同じ仕事をするから、今のうちに勉強なんだぜ」
旺は得意気に胸を反らせるし、時男も異常も異様も分かっての事。
「よっぽどの鉄火場には出さぬよ。ただ現場に慣れさせておきたくてな。それに、一人ではない」
抵抗が全くないといえば嘘になるが、時男も策のひとつやふたつは持っている。それに彩子も補足した。
「珍しい話じゃないヨ。親子二代、三代でホテルの仕事をしてる人は多いんだヨ」
彩子がいう通り、祖父だけでなく、旺の両親も皆生ホテルで、こういった仕事をしているのだ。
それだけを理由に旺の将来を決めるのは乱暴であるが、旺自身もいう。
「大人になって、自動車の免許を取れるようになったらすぐ取るし、小学校に上がったら練習もするんだぜぃ」
大好きな祖父の仕事に対する、
やる気がある
「年少組のカートがあるんだヨ。ホテルには送迎ドライバーもいるからネ」
孝代は彩子に対し、「はぁ」と生返事をしてしまうが。ただし孝代も、この辺りは文句をいう必要のない事だと感じ取れる。
何より話は一時中断だ。時男がブレーキを踏む。
「そろそろ到着じゃ」
時男が顎をしゃくる先に、アパートが見えてきていた。
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