siren
いつもと同じ、火星を目指す退屈な航路の只中。
古めかしいカントリーミュージックを聞き流しながら、男は地獄のように苦いコーヒーを啜った。
「……ハァ。さっさと帰りてぇなあ」
口に含んだ苦みを吐き捨てるかのように男は悪態をつく。
普段はどちらかと言えば勤務態度良好な彼がここまでやさぐれているのは、別にこの仕事に飽きたからではない。
今回のフライトは保険の掛かるような目ぼしい貨物も無く、ただ漫然と惑星間を往復して備蓄を移動するだけの使い走りだからである。
陽電子エンジンの膨大な出力を背景にしたDF[ディメンション•フリップ]航法が普及してからはや数十年。
中途半端に近いことがかえって災いしたためか、ニューヨーク──火星間は未だに片道二週間もの航行を必要とする。
その間中継基地の類は一切なく、コールドスリープも予算の都合で許されていない。一人乗りの小型貨物艦に娯楽施設などあるはずもなく、自動航行の障害となるような天体もない。彼でなくとも、退屈にあえぐのは必然であった。
底抜けに陽気なカントリーミュージックもだんだんと癪に障り、男はラジオのオートチューニングボタンをぞんざいに靴先で押す。
当たりどころが悪かったのかオーディオユニットは甲高い異音を上げ、周波数のメーターは自分探しの旅に出かけてしまった。
「クソッ、オンボロが! ……こんなクソったれの××××仕事、××××新人に××××やらせとけってんだチクショウめ!」
思いつく限りありったけの罵倒とともに拳を操作盤の縁に叩きつける。
異音が鳴り止んだ代わりに、今度はうんともすんとも言わなくなった。
大きく溜息を吐き、男が座席にどっかりと背をもたれる。
元はと言えば会社からの借金を滞納した自分が悪い。そう言い聞かせて心を鎮めようとしてみたものの、代わりにとこの案件を持ってきた上司の憎らしい笑みを思い出してまたはらわたが煮えくりかえりそうになる。
もう一度操作盤を虐待しようと拳を上げた次の瞬間。
突如としてけたたましいサイレンが鳴り響き、危うく座席から転げ落ちるところだった。
「な、なんだ!?」
問いに答えるものはない。
どこかの軍事施設にでも近づいてしまったかと思ったが、日常的に使われている輸送用航路にそんなものがあるはずはない。
半ばパニックになりながらノイズ混じりのサイレンの出所を探していると、あることに気づいた。
忙しなく動いていたラジオの周波数メーターが、いつの間にか見知らぬ数値を表示していたのだ。
試しにオーディオユニットの音量を調節してみると、サイレンの方も多少控えめになった。
男は気を取り直し、こんな悪趣味な放送をしているのはどこの局だと備え付けのリストを取り出して乱暴にめくる。
結論として、ラジオ局はおろか、各国の使用しているどの周波数にも符合するものはなかった。
「なんだってんだ……」
少しばかり心細くなった男だったが、道程はまだ一週間以上ある。謎のまま付き合い続けるわけにもいかないので、注意深く耳を傾けてみることにした。
砂嵐のようなノイズで甚だ荒れてはいるが、やはりサイレンに違いない。
であれば重要なのは、これが災害の発生を知らせる警報なのか、それともなんらかの警告なのかだ。
どちらにせよ、通常は何らかの無線放送を伴っているはずである。音質の悪さに顔をしかめつつ、耳を澄ませる。
「〜〜、〜〜」
やはり、微かだが人の声が聞こえる。
しかし火急を告げる放送にしてはやけに伸びやかではないか。
スピーカーに耳を押し付けるようにして聴いてみたが、それ以上の情報は得られそうになかった。
どこも使っていない周波数、サイレン、台本の用意された放送とは思えない人の声。
ふと我に返る。もしこれが「メーデー」だとしたら大ごとである。
慌てた男は追跡装置を起動し、発信源を導き出す。
場所は火星と木星の間に横たわる小惑星帯で、目印としては準惑星ケレスがほど近い。
目的地である火星を通り越してしまうが、異常事態であることは間違いなかった。
男は本部に《トラブル発生》のシグナルを送ると、目標への航路を検索する。
危険を伴うが、DF航法なら二時間もあれば付近に辿りつくことが出来そうだ。
燃料は火星で補給出来ることを思えば、ひとまず見に行くくらいは問題ないだろう。
そう結論付けた男は操縦桿を握り、タッチパネルに指示を打ち込んだ。
***
DFドライブを初めて使った時の感動は今も覚えているし、きっと生涯忘れることはないだろう。
それは星の降る夜を天高く舞い上がるような情景。
或いは眩い光の滝を滑り落ちて行くような。
文化芸術の類に一切興味を持ってこなかった彼が生まれて初めて"美しさ"を理解したのは、紛れもなくその瞬間だった。
そんな体験を独り占めしていると思うと、自分を苛む何もかもを許してしまえそうな心境になる。
ちなみに原理はよく知らない。知識や教養ともロクに縁のなかった彼にとってそれはつまるところ"綺麗なうえに便利なもの"でしかなかったし、それで充分だったのだ。
ささやかな幸福の時間はあっという間に過ぎ去り、視界はまたいつも通りの底抜けに陰気な暗闇を捉えていた。
男は現在の座標を確かめる。
計算通り、発信源付近の小惑星帯に出られたようだ。
追跡装置を使った時点からいくらか移動していることを加味してもやはりあと一時間少々で辿り着けるはずである。
男は今一度ラジオを起動する。
周波数は先ほどのまま。
艦内の設備が震えるほどの大音響が鳴り響いた。
転げ回るようにして音量を引き下げ、暴れる心臓を深呼吸で鎮める。
「……冗談、だろ……?」
ここに来るまで音量調節ノブには触れてもいない。出力側に何かあったとしか思えなかった。
鼓膜を突き破らない程度の音量にして再び耳を澄ます。
どうやら鳴っているのはあのサイレンで間違いないようだが、ノイズの混じり方は先ほどにも増して酷いように感じる。
微かに聞こえていたはずの人の声はもう埋もれてしまって判別がつかない。
一体、この先に何があるというのか。
助けを求めるためにこんなことをする必要があるのか。
やはり、これは"近づいてはならない"
と告げるためのサイレンだったのではないか。
来るんじゃなかった。
今や男の心中は後悔と恐怖で満たされている。
しかし今更後戻りは出来ない。
独断でDFドライブまで使っておいて現場も見ずに帰るなど。
良くて解雇、悪ければ訴訟だ。
震える手で操縦桿を握り直し、速度を上げる。
またサイレンの音量が上がった。
男は調節ノブがゼロの位置にあることを何度も確かめ、荒い呼吸と共に前を見た。
ナビゲーターに表示された目標に自動航行AIが相対速度を合わせ、徐々に距離が縮まって行く。
男は操縦桿から手を離し、耳を塞いだ。
もうそうする以外に出来ることはなかった。
際限なく大きくなり続けるサイレンに頭が割れそうな感覚を覚え、無意識に叫んでいた。
少しでも相殺出来ると考えたのだろうか。
喉が裂けんばかりに声を上げ、目を閉じる。
早く。早く終わってくれ。
殺すなら殺してくれ。
どうして俺がこんな目に。
艦内で飽和する音がピークに達したその瞬間。
ブツっ、と何かの切れる音が聞こえた。
スタングレネードのような耳鳴りが唐突な静寂の訪れを婉曲的に教えてくれる。
まだ辛うじて現実を認識している脳が次に知覚したのは。
──歌、だった。
その歌声は如何なる言葉をもってしても表現し切れないほど切なく、啓蒙的で、そして……美しかった。
いつまでも聴いていたいと思うほどに。
操舵室から見える外の世界は眼を灼くような光に満ちている。
天国とはこういう場所なのだろうかと思った。
やがて、光の中にぼんやりとその姿が浮かび上がる。
幾何学上のシルエットと複雑な模様をした、なにか。
男の意識はそこで途絶えた。
***
次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
医者の話では、例の座標付近で漂流しているところを会社が派遣した救助隊に拾われたらしい。
外傷もなくただ眠っているようにも見えたが、それから一週間ほど仮死状態となっていたのだそうだ。
独断でのDFドライブの使用に通信途絶、救助隊の出動と問答無用でクビになってもおかしくなかったのだが、不思議なことにどこからもお咎めはなく、一ヵ月後には元通りの生活に戻ることが出来た。
あれは、あの体験は夢か何かだったのだろうか。
──そんなはずはない。
パブの喧騒にあってもなお、あの歌声が頭から離れることはなかった。
宇宙で一番尊いものがこの世の終わりを謳ったかのような、あの歌は。
近隣の航路を担当する同僚たちに聞いてみても同じ経験をしたものはなく、働きすぎを心配されただけだった。
答えはもう二度と分からない。
あれ以来何度そこを通っても、サイレンが鳴ることはなかったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます